1903年8月、マックス・ノルダウ[1]は、スイスのバーゼル[2]で開催された第6回シオニスト会議の演説で、さらに大規模な大火、これから起こる世界大戦(第一次世界大戦:1914-1918)とその結果(ヴェルサイユ条約)の計画を明らかにした。
「次の言葉を授けよう、あたかも上下に続くはしごの横木を見せているかのように...
(1919年パリ講和会議は)シオニスト会議・英領ウガンダ提案(当時ウガンダは英国の保護国だった)・将来の世界大戦・イングランドの助けを借りて、自由ユダヤ人のパレスチナが創設される平和会議である。」
連綿と続く、更なる5千万人のキリスト教徒の死体に関し、これはマックス・ノルダウの来たるべき世界戦争の恍惚としたビジョンであり、それが実現したのだ。 本職の歴史家は未だにヨーロッパ諸国が第一次世界大戦にどのように巻き込まれていったかについて満足のいく説明が出来ないでいる。
写真右のユダヤ人革命家Gavrilo Principがフェルディナンド大公とその妻に致命傷を負わせた後、
警察に取り押さえられた瞬間
皇太子フランツ・フェルディナンド大公 -オーストリアの王位継承者-
このカトリック君主の暗殺は1914年6月28日にユダヤ人暗殺者Gavrilo Principによりブラウニングピストル使用で実行された。 1919年1月13日付シオニストの新聞 PEIEWISCHE VORDLE」には次の様に書かれている
「国際ユダヤは(中略)新しいユダヤ人の時代が世界中で始まるためには、欧州を戦争に追い込む必要があると信じていた」
オーストリア皇太子フェルディナンド大公はサラエボでガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。 オーストリアはセルビアに謝罪を要求し、セルビアは謝罪したが、兎も角も、オーストリアは不可解に宣戦布告したのである。
その後、皇帝ヴィルヘルム二世[3]の3人のユダヤ人顧問、ベートマン・ホルヴェーク宰相[4]、マックス・ヴァールブルク(ウォーバーグ)[5]、アルベルト・バリーン[6]が皇帝に宣戦布告をさせ、他の国々が巻き込まれたのである。
何故か? ユダヤ人の計画を実行する為である。 1920年2月8日、ウィンストン・チャーチルは、ロンドンのサンデー・イラストレイテッド・ヘラルド(Sunday Illustrated Herald)で発表されたインタビューで(ユダヤの)世界展開について警鐘を鳴らした。
「アダム(スパルタクス)・ヴァイシュハウプト[7]の時代から、カール・マルクスの時代、トロツキー、クン・ベーラ[8]、ローザ・ルクセンブルク[9]、エマ・ゴールドマン[10]の時代まで。この世界に広がる発展の遅延を土台にした、妬みの悪意と不可能な平等を謳う文明の転覆と社会の再構成の陰謀は、着実に成長している。
ボルシェヴィズムの創設やロシア革命が実際にもたらしたことに於いて、これらの国際的、そして大部分が無神論的ユダヤ人に負う所の役割の大きさは誇張するまでもない。それは確かに非常に大きなもので、恐らく他の要素を凌駕する。明らかなレーニンの例外を除いて主な立役者の大半はユダヤ人である。更に主要な発想とその推進力はユダヤ人の指導者から来ているのだ。」
チャーチルは、勿論、ロシア正教会の転覆とそれに替わる殺人狂の憎しみに充ちたギャング、その想像を絶する成功がヤコブ・シフによる抜け目ないユダヤ人革命家への財政支援によることと、ロシア革命の重大な局面でボルシェヴィキを勝利に導くためにレーニンらを秘密列車でドイツ経由ロシアに送る手筈をしたドイツのマックス・ヴァールブルクによること、に言及した。
[海軍卿チャーチルは、英国の将兵を使ってガリポリ[11]で大規模な血の犠牲を実行する事に唯あまりの幸せのみを感じ、結果として自身で抱えきれないほどの心配事を抱える顛末となった。(中略)英国があの戦争を仕掛けさえして居なければ、ドイツ最高司令部が(ロシア)革命を起こし、レーニンと資金をロシアに送る理由もなかったのだ。]
[1] マックス・ジーモン・ノルダウはハンガリー出身のシオニズム指導者、医師、小説家、哲学者、社会評論家。 本名ジーモン・マクシミリアン・ズュートフェルト、ハンガリー名シュドフェルド・シモン・ミクシャ。 テオドール・ヘルツルたちと共に、世界シオニスト機構を創設。この他、複数のシオニスト会議で議長や副議長を務めた。
[2] 原文Balse。Basle(バーゼル)の間違いと思われる。
[3] Wilhelm IIドイツ帝国皇帝。第一次大戦当時のウィルヘルム二世の内閣閣僚は全員ユダヤ人であったことが知られている。また、折悪しく、これらのドイツに居たユダヤ人は英仏のユダヤ人と商売の競争関係にあった。
[4] テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク(Theobald Theodor Friedrich Alfred von Bethmann Hollweg)はドイツ帝国第五代宰相。
[5] マックス・ヴァーブルクは、ヴェネツィアからドイツに移住した銀行家の家系で、渡米したポール・ウォーバーグとフェリックス・ウォーバーグの兄に当たり、またフェリックスの配偶者はヤコブ・シフの娘である。
[6] アルベルト・バリーンは、ドイツの海運王で一時は世界最大の海運会社の社主であった。
[7] アダム・ヴァイシュハウプトはドイツの哲学者・神学者でイルミナティ結社の創設者であり、フリーメーソンに潜入し、フランス革命やアメリカ独立運動に陰から大きく関与した。1785年7月10日、彼のイルミナティ結社の目的に関する手紙が偶然に明るみになり、バイエルン選帝侯領を追放された。その手紙はフランスのフリーメーソン、ロベスピエールに宛てたものでその内容は、明らかにフランス革命を起こすための準備に関してフランスのフリーメーソンに如何にしてルイ王朝を倒すか、であった。
[8] クン・ベーラ。ハンガリーの共産主義者、政治家。誕生時の名前はアーベル・コーン(Ábel Kohn)。クン・ベラと表記されることもある。第一次世界大戦においてロシア軍の捕虜となり、そこで共産主義者となった。1918年秋、オーストリア・ハンガリー帝国が敗北しハンガリー民主共和国が独立すると、クンは帰国してハンガリー共産党の指導者となった。翌1919年3月、ハンガリー共産党はハンガリー革命を起こしてカーロイ・ミハーイの政権を倒した。クンはハンガリー・ソビエト共和国の成立を宣言し、事実上の首班となった。しかし、元来保守的なハンガリー人の多くはこの政権を歓迎しなかった。地主や農民・カトリック教会は急進的な改革に反発し、クンは激しい弾圧でこれに応じた。6月にはホルティ・ミクローシュ率いるハンガリー国民軍が全土で蜂起し、オーストリアに亡命後、捕虜との交換によりソ連に亡命。
[9] ローザ・ルクセンブルクは、ポーランドに生まれドイツで活動したマルクス主義の政治理論家。1919年1月にはベルリンでスパルタクス団を率いてドイツ革命に続いて1月蜂起を指導するが、国防軍の残党やフライコープ(義勇軍、Freicorps)との衝突の中で数百人の仲間とともに逮捕、殺害される。
[10] エマ・ゴールドマン(1869年6月27日 - 1940年5月14日)とは、リトアニア生まれで、アメリカで活動したアナキストでありフェミニスト。ラディカルな解放思想やフェミニズムによる著作、発言などで知られる。15歳で姉とともにアメリカに渡った。後にロシア革命期の見聞を語ることになる。またイギリス滞在歴も長く、後年にはイギリスで自伝を執筆している。日本のフェミニスト、とりわけ伊藤野枝に大きな影響を与えた。
またエマは1910年にニューヨークで幸徳事件(大逆事件)に対する抗議集会を開いて日本政府や外交関係者を狼狽させた。
[11] 第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブール占領を目指し、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたるダーダネルス海峡の西側のガリポリ半島(現・トルコ領ゲリボル半島)に対して上陸作戦を行った、その半島。
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