世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)18

シオンの議定書の出現

それは兎に角として、1920年6月25日のアメリカン・ヘブリウ(American Hebrew)と言う新聞に、ヘルマン・ベルンスタインは、次の様な記事を掲げて居る。

約一年前のことである、司法省の一代表が予にニルス(Nilus)教授の著述になる「猶太禍」と言う論文の草稿の写しを提示して、此れに関する予の意見を求めたことがある。此の代表者が予に言うには、この草稿は1905年に刊行された露書の翻訳である。尤もこの露書は後になって絶版となった。この草案は思うに「シオン賢者の議定書」を内容とするものらしく、且つ世人が想像して居る如く、バーゼルで開かれたシオニスト会議の秘密会の席上でテオドル・ヘルツル博士が朗読したものらしい。と尚此の代表者は自己の意見として次の様なことを述べた、『多分この書はヘルツル博士の著作だろう…と。尚此の代表者は次のことを言った、アメリカの上院議員は此の草案を見て斯の如く以前より猶太人達が密計を凝らし今や其の実行期に入って居り、且つ又ボリシェヴィズムも実は数年前より猶太人が計画した所であって、これによって世界を破壊しようと努めた所のものであることを知って驚愕し且つ頗る興味あることとした』

と茲に以上の記事を引用したのは単に次の事実を述べる為である。即ち合衆國司法省の一官吏が、この書物をベルンスタイン氏に示し、且つ此の書物の著者はテオドル・ヘルツルであろうと推定して居る、と言ったこと及び1905年の公表と1920年の現象との間に一つの連鎖があることをアメリカ上院議員が観て非常に注意を喚起した、ということの二つの事実を記さんが爲である。

扨て此の代表者が属している政府は、今日猶太人の掌中にありとも言い得る政府で、少なくとも猶太人の勢力下にあるものである。故に斯の如き政府の一官吏が、本事件に関係したということだけでも本事件は注目を要するものである。而も此の官吏の行為が予に知れ亘るや否や、その調査は直ぐに中止を命じられたことは顕著な事実である。併したとい如何なる命令が与えられたにせよ、この事件の調査は勿論中止されるべきものではなかった。

英國シオンの議定書

然れども本事件に関しては米國政府は比較的遅く、他の四強國は合衆國よりも数年早かった。議定書の写書は大英博物館に陳列され、目下「1906年8月1日」と言う此の博物館の印が捺されて居る。そして該書自身の有する日付は勿論1896年となって居るか、或いは上述のヘルツル博士の宣言の年となって居る筈で、シオニスト会議の第一回会議は1897年に行われたものである。

この書の原文は最近英政府の指定印刷者たるエイア・アンド・スポティスウッド(Eyre & Spottiswoode)に掲載され、その表題は、頗る貧弱なものであったにも拘らず多大の注目を引いた。従って此のことは宛も(あたかも)英國で政府印刷局がこの書を発行したかの如き観を呈した。茲に於て猶太系新聞の慣例的叫びは喧々轟々たるものであったが、之に対しロンドンタイムスは其の評論中に、猶太紙の攻撃を論じて「不満足なものであると」断乎として宣言した。

タイムス紙[1]は断言して曰く、猶太人の反駁者は議定書の原文を隠匿し、該書は匿名者の執筆なりと強辯するであろうと。又彼等猶太人が原書の内容に関して論じたことは例の猶太式一定型の論法で「此の書は犯罪者か又は気狂いの作物なり」と言うのであった。

議定書とその価値

此の議定書には著者の名前はない、そして大部分は草稿の形で断片的に此所彼処(ここかしこ)が現われて居り、此の議定書の背後に潜むと想像される権威者の保証もない。そして諸政府の秘密局で周密に研究され、高官の間を回覧されたものである。此の議定書は今日も生命を存して居る、そして此の内容が有する確信的力によって、此の書は影響と言う点に於ても、亦印象力と言う点に於ても、益々増大しつつあるのである。彼等は著者を犯罪人又は気狂いと言うが、それにしては驚くべき力のある著述と謂わねばならない。此の書が眞物であるという唯一の証拠は、原書の内容に含まれて居る所であって、而も此の内的証明力こそは、タイムス紙も論じて居る如く、一般の注意を引いた所以であり、尚又猶太人が全力を挙げてこの世人の注意を他に転向させようと努力する所以である。

猶太人は組織或る世界制度を持って居るであろうか、其の政綱とは如何なるもので、其の実行はどうであろう? 此の質問に対する答えは議定書には充分に記されて居る。たといこの著作が何人にせよ、兎に角著者は人間性と言うものに対する智識、歴史及び政治に関する学識を持って居り、而もその智識たるや頗る該博であって行くとして可ならざる所ないもの(何をしても十分効果が上がるもの)であるからして、頗る驚嘆に値するものである。従って此の智識が指向されるところの人にとっては実に恐ろしいものである。若し唯一人の人が此の書を著述したとしたならば此の著作者は決して気狂いでもなければ、又犯罪者でもない、否寧ろ民族と信仰とに対する愛情燃えるが如き人であると考えられるのだ。若し此の書が虚構であるとするならば余りに恐ろしき現実であり、単なる思想的作物であるというのには余りに其の基礎が鞏固であり又偽造としては余りに深刻に人生の秘密の源泉を穿ち過ぎて居る。

これに対する猶太人の辯解は、就中此の書が露國で出来たものであるということを根拠にして居る。併しこれは誤りで、唯此の書は露國を経由したというに過ぎない。即ち此の書はニルス教授が1905年に出版した或る露書中に含まれて居ったものであって、同教授は常時露國に於いて発生しつつあった事件に鑑みて、此の議定書を説明しようと試みたものである。この露國に於ける翻訳出版が遇々(たまたま)本書に露國的色彩を与えたものであって、この事実が又英國及び米國の猶太人論客等が宣伝の爲乗ずる所となり利用するに好都合となったのである。何となれば猶太人の宣伝は露國及び露國人と言うものに関して、アングロサクソン人種特有の考え方及び感情を利用して一定の観念を抱かしめることに成功したからである。凡そ世界に於て猶太宣伝者等に依ってアメリカ國民に対して押し付けられた最大の偽物は、真の露國民の性格及び精神に関して虚偽を伝えたことであろう、従って議定書が露國に於て作成されたものであるという捏造説其のものが、既に議定書をして信ずるに足らぬものであると一般に思わしめる次第である。

議定書は其の内的結構から見ても、議定書の著作が、一露人ではないこと及び最初発行されたのは、露語でもなく又ロシア情勢の影響下に著わされたものでもないことは明らかである。唯々議定書が露國に伝えられ、其所で初めて世に公にされたというに過ぎない。而も此の議定書は草稿の形式の儘で、世界の各所に於て外交官から発見されたものである。尤も猶太人の勢力が盛んな所では、彼等に依って議定書の公表は抑止され、時には至上の刑罰を以て之に臨んだこともあったのである。

抑々議定書が、何時迄も立ち消えにならないで存在することは注意に値する所である。猶太人の論客はこれを説明して、議定書は反セム思想を増大し且つ此の目的の為保存されているというが、併しながら合衆國にはそんな深刻な反セム思潮が存在したことはなかったのである。合衆國内に於て議定書が云々される所以は、即ち議定書なるものは先に観察した事実を一層鮮明にし且つ一層深き驚くべき意義を付与するからであって、其の結果は敢て世人の信用を博して居らなかった所の此の書に重大性を加味することとなったのである。凡そ単純な虚構は其の生命長きを得ないもので、その勢力は直に消滅するものである。然るに議定書の生存力は、従来其の比を見ざるほど長く且つ最高度を維持しつつ而も世人をして前例なきほど真剣の態度をとらしめて居る。

若し此の議定書が仮令ばテオドル・ヘルツル著とでもなって居たならば、斯程に興味深く且つ貴重なものとはならなかったろう。著者の名のないということは、決して著書其の物の価値を減少するものではない、ちょうど名画は画伯の署名がなくってもその価値を少しも低下しないと同様である。従って此の議定書が何處で著述されたか分からないことが結局好いのである。何となれば若し正確に1896年フランスに於て、又はスイスに於てインターナショナル猶太人の一団が相会合して、世界征服の政綱を立案したものであるという様なことが正確に分って居たとすれば、其の時は斯の如き計画は単に妄想に過ぎないことになるが、併し此の議定書は無署名であるが爲に、実際に於ても然るが如くこれを実行する努力によって意味あるものとなり又力強きものとなるのである。今日議定書が正しく世界政綱であることについては何等疑いの余地がない、これが何人の世界政綱であるかは議定書其のものの中に書き示されて居る。若し外面的確実の度に関して言うならば如何なる実証を以てもっとも有価値のものとなすべきであろうか、一人の書名か六人の署名か又は二十人の署名か -それとも亦二十五か年に亙る該計画実現の努力の連鎖を以て一つの有力なる実証となすべきであろうか?

議定書が非猶太人諸國家に対して尤も関係ある点は、猶太人が称する所謂「犯罪人又は気狂い」が著述したという其の著者の何人であるかという点ではない。此の政綱作製後に於て其の政綱の重要なる細部に亙って具体化されつつある方法手段を人々は目の当たり見るという点に存するのである。そして又議定書其のものは比較的重要ではなく、注意を惹いて居る凡ての条件凡ての状態が頗る重要なのである。

 

[1] 原文はタイロムス紙となって居る

 

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