世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)12

二 反猶太主義(アンティセミティズム)の程度

反猶太主義(アンティセミティズム)が、各種の時代に於て人類の大部のものを不安に陥らせ、冷静なる理性を失わしめ純真なる性格を傷つけたということは疑いのない所である。斯の如くアンチセミティズムが相当に人心を動揺させて居ったに拘らず、不思議なことにはアンチセミティズムの主張者が、その目的を達成し得たということは遂になく、又アンチセミティズムの当の目標たる猶太人が、大いに警戒し又は覚醒したということも遂になかったのである。

アンチセミティズムの程度は可成り沢山ある、今次に之を述べて見よう。

(1)無暗に猶太人を毛嫌いするもの

猶太人とは何者であろう、又猶太人とは如何なる者であろう、ということは一向無頓着で、唯々猶太人とさえ言えば、無暗に好かないというアンチセミティズムがある。斯ういうアンチセミティズムは、各階級の人々に屡々見受けられる所であるが、殊に猶太人と親しく接触したことのない人々に多いのである。斯の如きアンチセミティズムは「猶太人」という言葉に対して感情的に嫌だと感ずる少年時代に於て既に萌(きざ)して居ることが往々ある、そして罵詈の言葉として用いられた猶太人と言う言葉或いは一般に不要なる奸策に対する一つの形容詞として用いられた猶太人という言葉によって、斯様なアンチセミティズムは一層その程度を進めるのであって、時としては実際悪いことを企んでいる非猶太人に対しても罵詈の言葉として「猶太人」と罵る場合もある。斯の如くして猶太人なる言葉に対する嫌悪の情感は、日ごろ目に見る猶太人個人の上にのみに限られずして、自分が実際知らない人に対しても、要するに猶太人でさえあればアンチセミティズムを感ずるという風で、遂に猶太人全体に亘る反感となって居るのである。

感情は意志とは無関係である。従って事を正統に考える為好かないという感情も、これを理智の下に考究して見る必要がある。即ち自分が好かないという人は、実際に善くない人であろうか、それとも自分同様に良い人であろうか、或いは更に自分よりも善良な人だろうか、と時々考えてみる必要があると思う。単に吾々が好かないという感情は吸い付きたい程好きだという感情と、突き退けたい程嫌だという感情との中間を表して居るものに過ぎないのだ。斯様な両極端の感情は、吾々自身と他人との間には始終存在するものである。従って好かないという感情は斯の如く中間のものである故に好かないからといって、それが他人を侮蔑して居る証拠にはならない。所が実地に猶太人の嫌なことを経験して居り、又猶太人と社會上接触することを好まないと本能的に思って居る感情とが一致する場合、即ち経験と本能的嫌忌とが合致する場合には、猶太人に対するこの嫌忌を勿論偏見と言うことは出来ない。然しながら世の中には、猶太人中に尊敬する人物は概して居ないと主張する人々がある、これ等の人々は経験と本能的反感の一致したものとは言えない。斯の如き極端な排斥的態度の中には、単なる自然の感情以外何らかの分子が含まれて居るのである。以上のような訳で、たとい猶太人を嫌うも反猶太主義者と言うを得ないのである。彼の教養ある猶太人達が、自分が猶太人であるに拘らず一般猶太人と交際するのを好んで居ないと言うことは屡々見受けられる所であるが、此の現象は一般猶太人の性質、習慣及び彼等の行為の卑しい様を明らかに物語って居るものであって、これについては猶太人自身もしばしば完膚なきまでに批評をして居る程である。併し斯の如き猶太人の特性に関しては、後に章を改めて説くことにしよう。

(2)憎悪及び敵意を有するもの

第二段のアンチセミティズムと言うのは、右のアンチセミティズムよりも少しく程度の進んだもので、猶太人に対して敵意と憎悪とを持って居るのである。即ち曩(さき)に述べた方は「好かない嫌だ」という程度のアンチセミティズムで、今述べる方は憎悪である。好かないという感情と憎悪とを同一視してはいけない、単に好かないという感情は憎悪でもなければ又敵意でもないのである。物に譬えれば茶に砂糖を入れて飲むのを好かない人もあろう、其れだからと言ってこれ等の人々が砂糖そのものを嫌忌しているとは言えないと同様である。然し好かないという感情が深刻なる先入主となって牢乎(ろうこ)として抜くべからざる程、頭の中に浸み込んでしまった結果、それと言うのも猶太民族との交際に於て不快な経験を味わった結果ではあるが、兎に角少なくとも初歩のアンチセミティストであると言わねばならない様な人がある(実際の礼を挙げれば約百万のアメリカ人は去年の冬猶太商人および猶太人旅館主人と交際した結果猶太人憎悪者となってしまった)。此の憎悪とは敵意とかいう感情はその人にとって一つの不幸である、それは此の感情に妨げられて、猶太問題を明瞭に理解することが出来ないからである。故に吾人は熱情によって理智と言うコンパスの針を狂わしめる様なことがあってはならない、憎悪と言う舵を手にして居れば航海は危険である。併し敵意の分量は何れの民族よりも、猶太人の方が多分に持って居るのである、これは各時代を通じて大きな謎であり不可解のことである。昔の歴史又は近代の歴史に於て、吾人の眼に映ずる猶太人の性格なるものは、此の敵意に負う所少なくない。猶太人とアリアン民族との接触する所、猶太人は敵意を喚起し、若しくはアリアン民族も亦これに挑戦している。されば古来より猶太研究家は、常に斯かる猶太人の運命の研究に没頭したものである。或る者は之を説明して「エホバの神は猶太人を人類に対する預言者たらしめようと思って居った、然るに猶太人は此の神意に叛いた為に、エホバの神は自分の選んだ此の民族に対する罰として斯様な運命を与えた」と言って居る。若し右のような訳で、此の神の怒りが猶太人の遺伝性の一部を説明するものとすれば、キリストの聖書に「神の怒りは必ず来るべし、されど神の怒りを招きたる者が罰せられるなり」という言葉の説明に有力なものとなるのである。

(3)迫害暴行となれるもの

世界のある部分に於て又いろいろの時代に於て、此の憎悪と言う感情が遂には殺人暴行を敢てしたことがある。勿論此の暴行は人類の驚愕と憤慨とを惹起した人道上の遺憾である。これ実にアンチセミティズムが極端に現れたものであって、これが爲猶太問題を公開論議しようとしても直ぐに此の暴行と類似のことを計画して居るのであると非難されることとなった。斯様な暴行の勃発は固より許すべきではない、併し此の暴行勃発についての説明は十分にすることが出来る。猶太人は通常これを宗教的憎悪の表現であると説明し非猶太人は「猶太人が其の國の國民に課した経済的奴隷の桎梏(しっこく)に対する國民の反抗だ」と説明している。これについて茲に不思議な現象がある、それは露國のことであるが、露國のある地方では、アンチセミティズムの暴挙が最も頻繁に行われた、そしてその地方が露國中最も殷賑(いんしん、繁栄)を極めた地方なのである、その殷賑は猶太人の企業心の結果であることは争われない所であって、猶太人は常に、自分たちが此の地方から退散することに依って、これ等の地方を経済的に商業的に不振の状態に蹴落とすことが出来る、と揚言(ようげん、公言)して居ったのである。この事実を否定し様とするのは尤も愚かなことであって、事実は色々の人に依って実証されている、即ち猶太人に対するロシア人の態度に頗る憤慨して、自ら事実を調査する為その地方に往った人は沢山あるが、これ等の人々が再び帰来して発表する所に依れば暴行に賛成し難きも止むを得ぬことであると是認的説明をして居る始末である。又最も公平なる観察者さえ、斯の如く猶太人の排斥されるのはこれ自ら招いたものであると断定して居るほどである。排斥されている露國猶太人の爲に熱心に盡力するため世界に有名となったある通信員すら、アンチセミティズムの暴行の原因を研究しようとする時には、常に猶太人の方から攻撃されるという有様である。彼は猶太人に対して「予自身が露人側の不法であることを承認して居らなければ、たとい猶太人の冤罪を雪(すす)ごうとしても、世人は予の言うことを信用するものではない、従って茲に調査の必要がある、そして後猶太人達の受けている迫害の不法なことを世界に闡明(せんめい)しよう」と説明しても、やはり猶太人側から常に調査を妨害され攻撃を受けたということである。今日まで各國に於ける猶太人は、自己の欠点自己の非難される行為を自ら認めたことは殆どない、たとい非難を受けても彼等は辯解をこととするのが常である。若し今後彼等猶太人自身が、他國民の反感を惹起する様な諸性質を排除しようとするならば、先ずこの非難を意とせず直ぐに辯疏[1](べんそ)するという性質を消滅しなければならない。尚世人は猶太人に対する敵意を、経済上の理由に帰するであろう。然しこれは、猶太人が他國民の愛好を贏(か)ち得る為には、猶太人の精神内にある猶太人の特質及び猶太人の成功に対する特種の天才を抛棄(放棄)しなければならないかどうかということに到達する問題であるが、此の問題については後に説明することとする。

(4)キリスト教の偏見を云々するは当たらず

宗教上の偏見ということは、猶太人が常に口にする所ではあるが、此の宗教的偏見は合衆國には確に存在して居ない。然るに猶太人の著述家は、露人に対すると同様に、アメリカ人に対しても宗教的偏見を持って居ると非難して居る。非猶太人の読者諸君よ、諸君は嘗て猶太人の宗教の爲に彼等に対して憎悪を感じたことが従来あったか、これについて自問自答して見れば、読者は自ら斯様な非難が当を得て居ないということを理解し得るであろう。最近或る猶太集会の席上で、猶太人辯士は次の様な演説をした。「若し街上で誰でも良い通りすがりの人を呼び止めて、猶太人とは何か、と問うて見よ、殆ど全部の者は、猶太人とはキリストを殺したものなりと答えるであろう」と。此の演説は猶太紙上にも掲載された。又合衆國に於て最も著名にして衆望ある猶太教牧師もある説教の時「キリスト教の日曜学校では、子供達に対して猶太人の先祖がキリストを殺したのであると教えて居る」と述べて居る。斯の如き猶太人の言分に対してキリスト教徒は一様に「斯の如き言葉は初めて猶太人の口よりきいた所であって、未だ嘗て使用したことがない」というであろう。実際猶太人の此の主張は馬鹿げ切ったもので、試しに合衆國及びカナダのキリスト教の日曜学校の児童二千万に聞いて見れば、直ぐに証明し得られる所であるばかりでなく、キリスト教会には却って猶太宗教に負う所ありという感謝が存在して居るのである。全世界のキリスト教会日曜学校は本年の六か月間、國際的課程を講義している、即ちルース紀(Ruth)、サミュエル書(Samuelis)の前書及び後書と列王紀略(Koenig)を専ら講授して居る、尚又毎年旧約全書から講授して居るのである。

偏見は猶太側にあり

茲に於てや猶太人宗教家は「猶太人側に於てこそキリスト教に対する宗教上の偏見及び公然の敵意が多分に存在して居る、そしてキリスト教会の方には何處にも偏見や敵意は存在して居ない」ということを考慮して見るべきである。この点についてはアメリカの教会新聞と猶太教の新聞とを比較考察すれば直ぐに納得がいくことである。キリスト教の記者にして猶太宗教を攻撃することを賢明にして正しいなどと考えて居る者は一人も居ない筈である。然るに猶太教新聞は常にキリスト教攻撃及び宗教的偏見を連載して居る。殊にキリスト教に改宗した猶太人に対する筆誅毒舌(ひっちゅうどくぜつ)は実に猛烈を極め、一種の宗教上の殺人復讐とも謂うべき程のものである。これに反し若しキリスト教徒が猶太教に改宗した場合には、その動機に対し大いに尊敬をするが、猶太人がキリスト教徒となるや決して其の儘黙認する様な事はないのである。斯の如き行為は、実に猶太教の信仰の偏狭と放縦との両極端を能く現わして居るものと言うべきである。之を要するに猶太人は信仰の爲に憤慨するのではなくして、他の原因より憤慨するのであると言うことが出来る。然るに猶太人は千篇一律に(同じ調子で)斯の如き感情は曩(さき)に述べた三つの原因殊に宗教的原因に由ると主張するのである。併し苟も見識を有する猶太人ならば此の理由が虚偽なることを知って居るはずである、そして尚彼等は、キリスト教会に於ては昔の預言を承認し之を研究して居ること、及びイスラエル民族の将来に対して大いに興味を持って居ることをも承知する必要がある。吾人は世界に於けるイスラエル民族の将来の地位に関し、神が猶太人に預言したことを決して忘れては居ない、吾人は猶太人等が此の預言を実現するであろうと信じて居るものである。預言者達が、猶太人に告げた様な猶太人の将来と言うものは、地球と言う惑星の将来と密接なる関係を持つものである、そしてキリスト教会は - 少なくとも猶太人が最も呪詛する新教を奉ずるキリスト教会 - 斯の選ばれたる民族の復活を信じて居る。若し大多数の猶太人が、キリスト教会が十分の理解と同情とを以て彼の昔の預言を研究して居ること、世人が預言の実現を信じて居ること及び猶太人に依って人類が更に大きな幸福を得られるべしと信じて居ることを知る時には、猶太人達は確かにキリスト教会を現今と違った眼で見る様になるであろう。そして少なくとも猶太人は、キリスト教会が猶太人を改宗させるための道具として活動して居るものでないということを知るであろう - 此の点については猶太の有力者が大いに誤解して居る所で、而も昔より幾分尚悪化して居る - 否斯かる改宗と言うものは教会以外の他の道具と他の状態の下に於て実現すべきものである。即ち猶太人自身が「救世主」となることによって実現するものであることを知るであろう。

宗教と関連したものではあるが、右に述べた形式と異なるアンチセミティズムが他に多くある、例えば無神論者の運動の如きも其の一つであるが、此の主張の人が多くないのと意見が余り極端過ぎるから本問題に対しては無意義な意見である。

  

[1] 原文:辯疎

 

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