世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)11

5. 反猶太主義は合衆國に実現するや否や

猶太問題に対する猶太人の宣伝

米國及びその他何處の國に於ても、猶太問題を論じ之を公表するものは、反猶太主義者として非難され、猶太人虐待者として蔑視されることを十分覚悟しなければならない。そして國民の援助も望む訳には行かないし又新聞の後援も到底期待することは出来ない。従って欧米一般に該問題に触れるを避け、事件の成り行きに委せて姑息の態度を持する傾向がある。今日斯様な問題が存在して居ることを、真摯なる態度で事実を説明するだけの大胆な新聞なり雑誌なりが果たしてあるだろうか、恐らく一つもあるまい。否反対に新聞という新聞は猶太人のこととさえ言えば、大いに之を称賛誇称すると言うのが一般の有様である。(これが実例は到る処に求めることが出来る)然らば猶太新聞はどうかと言うに、猶太新聞は甲も憚る所なく傍若無人を極めて居る、殊に米國には斯様な猶太新聞が頗る多い。

若し猶太問題について公然と宣言し得るものがあるとすれば、それは著述家、出版家或いは趣味的研究家たるを問わず、単に猶太人憎悪者であると目せられるだけであって、此れは固定的思想であると見て差し支えなく、猶太人は伝統的に非猶太人即ち反猶太人と信じている。そして彼等は非猶太人論客の著述は、悉く偏見と憎悪とに基づいて居るものであって、斯くの如き著述は虚構、誹謗に充ち、ポグロム(猶太虐殺)を行わせるための煽動であるから信じるべきものでないと、非猶太人一般の頭に先入主的に注入する為、不断の努力を以て宣伝に努めている。斯様な宣伝は猶太人の何れの論文にも見る所である。

猶太人の種類

米國の猶太人等は、猶太問題の存在を承認して居るが、然し反猶太主義でない所の非猶太人の一部を、自己の圏内に抱擁するの必要を感じたらしく大いに之に努力したのである。

今猶太人を観察して見ると其の間に判然区別し得る四つの種類が存在して居る。その第一は猶太人の信念及び生活を不変に維持することを熱情的に願望している人々で、たとい人気を害そうが、成功を犠牲にしようが一切無頓着で、兎に角猶太人の誓約及び生命を溌剌たらしめんことを望む人々である。第二には猶太宗教を維持するため必要な犠牲は之を辞せないが、併し猶太人生活の伝統的習慣には大して重きを置いて居ないと言う人々、第三には概して確乎たる信念を持って居らないご都合主義の人々で、斯の如き人物は常に成功者側に多く見受けられるところである。第四には猶太人と自余の人種間に存する反対性を解決する唯一の方法は、猶太人が完全に多人種に同化融合するにありということを信じ、且つ唱道している人達であるが、此の第四の部類の属する人々の数は極めて少なく、そして猶太人間に於て最も排斥され蔑視されて居るものである。

猶太問題に関する非猶太人の方も二種に分けることが出来る。其の一は別にこれと言う理由はないが、兎に角猶太人は好かないというもの、今一つは同情すべき事件たると否たるとに拘らず、自身を公平に暴露するもので、少なくとも猶太人問題は研究すべき問題で、有耶無耶に葬るべき問題ではないと認めている人々である。この両者とも自己の意見を明らかに発表する時は、直に「あいつはアンチセミティズムだ」と定まって非難される人々である。

目下アンチセミティズムなる語は甚だ軽率に取り扱われている、この言葉は専ら感情にのみは知って居る所の排猶太的偏見の感情を表すときに用い、猥(みだ)りに使用すべきではない。若しこの言葉を猶太人の特性及び世界支配を論明する総ての人々に使用する時は、これと反対の意味に解せられる様なことを生ずる。

 

一 斯の如きは反猶太主義(アンティセミティズム)にあらず

(1)問題の認識

斯の如きものはアンチセミティズムではない、と定義することは事態の説明上当然必要な事であると思う、以下これを述べよう。

アンチセミティズムと言うのは、猶太問題が存在して居ることを認識するということではない、若し猶太問題の存在を認識することが、即ちアンチセミティズムであるとすればアメリカ國民の大多数は確かにアンチセミティストであると、断定し得る事になる。何故なれば今や猶太問題は、実際生活の各方面に於て國民との交渉を激甚ならしめ、アメリカ國民の大多数派、該問題の存在を認識し始めたからである。これらの人々が皆アンチセミテストであるということは到底あり得ない。従って問題を認識することをアンチセミティズムと考えるのは間違いである。問題は現存している。世人は実際この問題に対して盲目なのかも知れない。或いは臆病から沈黙し、又は不正直にもこれに対し否定さえしているのかも知れない。併しやはり問題は存在して居る、何時かは何人もこれを認識しなければならなくなるだろう。そして猶太人に説伏されている人達のあの「黙れ黙れ」の声も、この問題を圧止することが出来なくなるであろう。けれども猶太問題を認識するということは、猶太人に対する敵意及び憎悪の戰を開始することを意味するものではない、単にある一定の流れが、我が文明社會に瀰漫(びまん)[1]し、遂には此の流れが広大となり強力となり、これによって始めて人の決意を喚起して何を為すべきかを考えさせるに至るということを意味するだけである。斯くてこの問題に関する解決策を講ずると共に又処置をも要求することとなる。即ち過去の欠点を繰り返さないばかりでなく、将来起こり得る社會の脅威を始めから排除する様な処置を要求する様に成るのである。

(2)問題の公開

猶太人も居大を公開論議することも亦決してアンチセミティズムではない、公開は大いに有効な方法である。アメリカで従来行われた猶太人問題の公開論述或いは個々の現象の著述等はいずれも甚だしく人心を迷わしめるものばかりであった。アメリカほど猶太人分で斯様な問題が論ぜられた國は他にないが、しかしそれらの論説たるや、皆虚構捏造でなければお座なりのものばかりで、事実を正直に論じ、又は将来に遠く着眼して述べた者は一つもないのである。猶太新聞内に終始定期的に表れている二つの論調は「非猶太人の思想の低級」及び「キリスト教的偏見」のこの二つである。猶太人の利益を目的として執筆している猶太人記者は、頗る内容豊富なる材料を提供して、民族意識と言うものは即ち他民族を蔑視するに至る所以であることを説き、以て猶太人の爲に所謂人種平等を叫んで居る。斯かる点に於てはアメリカは常に称賛を博して居る所であるが、併しこれはアメリカ國民のアメリカとしてではない、猶太人の蔓延するアメリカとして賞められて居るのである。

従来日刊新聞で真面目に猶太問題が論ぜられたことは未だない、これは決して驚くべきことでもなければ、又非難すべきことでもない。日刊新聞は唯々その場其の時限りの日常問題を論じているばかりである。若し日刊新聞が猶太人のことを述べるとすれば、その時は幾多の金言名句を沢山準備してかかるのであって、通常は歴史上有名になった猶太人の名をずらりと陳列して、猶太人の偉大を説き、次にその地に定住する猶太人を賛美して筆を措き、これが往々に免に跨って記載されることも決して珍しくないのである。これを要するに米國に於ける猶太問題の論説発表は、猶太紙を通じては非猶太人の悪評を、非猶太紙を通じては猶太人の虚構の批評を載せて居るということになるのであって、いずれにしろ眞實を去ることが遠いのである。

随って事実に立脚してこの問題を公衆の前で論議するという公平無私なる試みは、決してアンチセミティズムと見做すべきではないのである。

(3)世界支配計画の真相発表

世界を支配しようとする計画が此の世の中に活動して居る、その方法たるや領土の攻略でもない、戦争行為でもない政府の権力でもない、学術的の意味に於ける経済的手段でもない、否商業と取引所の機械的作用(メカニズム)によって世界を支配しようとするものである」と斯の如き疑惑が今日欧米の大都市に存在して居り又主要な人士が斯く主張して居る。この事実を発表し又これが真相を証明したからと言って、これをアンチセミティズムであると言うことは出来ないのである。インターナショナルの猶太人自身が最も容易にこれを否定し得る筈であるが、彼等は之を否定し様とはしない。又全人類の文化文明を悉く吸集抱擁することを理想として居る猶太人達も亦これを否定し様とはしないのである。恐らく他日一人の預言者が出て、次の様な事を告げるであろう。

古代イスラエル人に神が賦与した約束は、ロスチャイルド式の方法を以てしては果たされぬであろう、そしてまた全民族はイスラエル人に依りて幸福となるべきものなりとの聖約も、全民族を経済的にイスラエル人の奴隷と為すような方法に依っては果たされぬであろう」と、若し斯かる時代が来たならば、その時は多分猶太人の生活力は河と流れ出で、爲に猶太問題を惹き起こしつつある現今の源泉は悉く枯渇するに至るであろう。とにかくも右の如きことは決してアンチセミティズムではない。否此れに依って猶太人の上層階級の計画が鮮明にされ、猶太人全体は更に幸福となるのであるから、斯の如きことを述べるのは決してアンチセミティズムどころではないのである。

 

[1](ある気分・風潮などが)広がりはびこること。 

 

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