ドイツ悪玉論の神話092

ドレスデン

ドレスデンは、連合國の爆弾で破壊される前は、欧州でも最も美しい街の一つで、洗練された宮殿、教会堂、彫像に満ちた文化の中心であった。それは、曲がった石畳の街路、教会の尖塔、装飾に満ちた家屋がある、おとぎ話の様な町であった。そこには軍事的重要性は一切なかった。戦争の最後の年、そこは、何千と言う傷ついた独逸の兵を癒す病院の町であった。そこには独逸軍の分隊の一つすら駐屯していなかった。1945年の初め、数週間、20世紀最悪の極寒の冬、何十万と言う難民がロシア軍の侵攻から逃れてドレスデンになだれ込んで来た。ドレスデンの住民は、出来る限り、これらの可哀そうな人々を受け容れたが、全員を受け容れるのは不可能だった。何十万と言う怯えた、空腹の、死に物狂いの難民がこの古い街に集中し、歩道に、庭に、そして町の公園に野営した。彼らは地べたに寝て、凍死を防ぐ為に群れ集まった。子供がすすり泣き、食べ物をねだった。町の社会福祉役務は、食料を与え、手當をするなど、出来る事は全てしたが、圧倒されてしまっていた。そこに、爆撃機が来た。

最初の一波は英國で、1945年2月13日の夜10時に町の上空に飛来し、何千と言う大きな、高爆発性の爆弾を難民がひしめく舊市街に投下した。これは、屋根を吹き飛ばして、すぐ後に来る後続の焼夷弾の為の用意であった。高性能爆弾は空襲警報の仕組みを無用にし、消防署を破壊し、給水本管を壊し、莫大な破壊と死をもたらした。難民の群集は、逃げ場もなく隠れる場所もなかった。そこに、焼夷弾を満載した爆撃機が来て、それは、舊市街をうなる火の海と化した。空気の温度は、摂氏600度にも達した。秒速40mを超す風が酸素を全てつむじ風の中心に吸い込んだ。数万人が生きたまま焼かれた。この戦争の後期、爆撃の科学は、よく発達していた。英國によって投下された爆撃の形態は、「火旋風」を起こすように考えられたもので、ドレスデンの「火旋風」は、戦争の最も壮大なものの一つであった。

炎によって酸素が外に吸い出されたため、何千人と言う人々が、地下室で窒息した。そして更に何千人がぬいぐるみの人形の様に宙に投げ飛ばされ、凶暴な風によって即刻烈火の中に吸い込まれた。火旋風の空気の吸い込みはあまりに激しいので、木は根こそぎ飛ばされ、家の屋根は何キロも離れたところまでも飛ばされた。全くの恐怖状態が人々を襲った。馬が後ろ足で立ち、群衆に向かって走った。ライオンや虎等の野生動物が動物園の壊れた柵から逃げて来て怖がる群衆に向かって走った。巨大な蛇が逃げ惑う人の足の間をズルズルと進んだ。病院列車は未だ戦場からの負傷兵を満載しているが、燃えていて駅から出ようとして、その動きの中で爆弾から身を隠す為に列車の下に居た小さい子供の肢体を切断した。

次の爆撃機の波は、3時間後、高性能爆弾と対人爆弾と共に来た。爆撃機の飛来間隔は、落とす爆弾の種類と共に最大の殺傷率を得るために慎重に計算されたものであった。この第三波の爆撃機は、計画通り、火事を逃れて逃げ出す群衆と緊急事態の職員と消防の職員を捉えた。結果は、殺戮だった。

次の日、米國第8空軍部隊が町の破壊を完了した。この爆撃中、英米合わせて1,300機の重爆撃機が4,000トン近い高性能爆弾と焼夷弾ドレスデンに投下した。ドレスデンの空襲で最も恥ずべき出来事の話は、B-17爆撃機に続いた米軍のムスタング戦闘機の部隊の事だ。爆弾から逃れてエルベ川の堤防に避難する人々の集団がムスタング戦闘機に機銃掃射されたのである。機銃掃射の結果、堤防に沿ってあらゆる場所に死体が横たわっていた。次が、ある目撃者の描写である。「...数十機のムスタング戦闘機が人々を撃つために、エルベ川の堤防にぎっしり集まった人々の上をグローサーガルテンの大きな芝生の上と同様に低空飛行した。

街は完全に破壊された。あまりの死人の多さに独逸陸軍は、死体を集めて、長い鉄道の軌道から(その枕木で?)作った弔いの積み薪にそれをくべ、火葬にするために部隊を差し向けた。町に収容されていた米兵の戦時捕虜が手伝いに駆り出された。米國の「Slaughterhouse Five」を書いたカート・ヴォネガットは、彼らの一人であった。彼らは、地下壕を回って、全ての窒息死体、焼死体を引き取り、火葬にした。死体が余りにも多く、作業を終えるのに何週間もかかった。彼らは、兵士、若い、そして年老いた女性、短パンの少年、長い毛を編んだ少女、赤十字の看護婦、赤ん坊の死体を積んだ。これらの火葬薪は夜昼なく燃やされた。町に避難してきた無数の難民が居るので、ドレスデンの爆撃の結果による民間人犠牲者数は誰にも分らないが、推定数は、最大で60万人とされる。ドレスデンの空襲について最初に権威ある本を書いた英國の歴史家、デイヴィッド・アーヴィングは、13万5千人が殺されたと推定する。しかし、知る術はなく、真相は誰にも分らない。

ドレスデンを爆撃する軍事的な必要性は全くなかった。それは単純に、猶太人の反独宣伝工作の結果として我々が憎むようになった人々の、大量殺人であった。しかし、ライヒが崩壊する中でさえ、都市と町への爆撃は続けられた。これらの爆撃攻撃を計画し、実行した者は、誰の定義によっても、戦争犯罪者であったし、今もそうである。サイモン・ウィゼンタールと他の猶太人の「ナチ」狩人が未だに、ただ単に戦時に國に尽くしただけかもしれない、独逸の「戦争犯罪人」を探して世界中で老人病棟を徹底的に調べ上げている一方で、悪意以外の理由はなく、粉々に吹き飛ばされ、焼き尽くされたドレスデンと他の何百と言う都市や町に対する犯罪のことを考えるべきであろう。「ドレスデンで命を落とした無辜の人々は、殺されたのだ -何かしたことの報いとして、ではなく、生まれたことの事故として。1945年2月13~14日にドレスデンホロコーストで死んだ人々は、ただ独逸人であっただけなのだ。」-イングリッド・リムランド

2月16日、ドレスデンの空襲からたった二日後、英國爆撃機は、瀬戸物と食器の生産で知られる小さな町、プフォルツハイムを攻撃し、住民6万3千人の半分を殺した。この様な攻撃は、独逸が降伏するその日までずっと続いたのであった。

戦争の武器としての爆撃機の発展の初期段階で、ウィンストン・チャーチルは言っている。「空は、実際の敵の前線よりもずっと後方にいる、女性、子供、老人、そして病人などの、以前の戦いではやむを得ず触れないで置かれた者へ死と恐怖が達する道を開いてしまった。」チャーチルの冷ややかで超然とした空からの戦争の可能性の見方は、英國の独逸に対する空の戦いにその結実を見たのであった。

独逸の爆撃により殺された民間人の推定数は、百万人は優に超え、200万人に達する可能性がある。それに、さらに数百万人が恐ろしいけがに苦しんだはずだ。戦争の終わりに近い頃、独逸は基本的に無防備状態で、爆撃が最も激しかった時、独逸の都市や町、特に東側では、ロシア軍の侵攻から逃げて来た数知れない難民がうようよいた。どれだけの難民が居たのか百万の単位でもわからない。これらの数万人の可哀そうな人々は、爆撃の結果、火の中で焼けて灰になってしまい、後には何の痕跡も残さなかった。それ故に、数える事は出来ない。ここ最近、「政治的妥當性(ポリティカルコレクトネス)」への従属により、犠牲者の推定数が低く抑えられる傾向にある。戦争中の連合國の独逸人に対する残虐行為の本質について真実を語ることは、今日に至ってもあまり人気のある事ではない。結局のところ、我々は「いい者」だったのだ。

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侵攻して来るロシア軍から非難してきた難民 英米の爆撃と機銃掃射の標的となった

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独逸の都市を爆撃する米空軍のB-17

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連合軍の空襲後の独逸民間人の死体 これは無差別殺戮と同じだ

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ドレスデン空襲の後の死体の山、多くは子供

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街路は奇麗にしても。。。

 

 

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