ドイツ悪玉論の神話091

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米國では1942年にB-24、B-17の集団が英國に向けて飛び立ち、欧州の航空戦に参戦した。米國は當初は民間人の直接攻撃はせず、独逸の工場や軍事施設の精密爆撃を試みた。英國は、全ての空襲を夜間に飛ばしたが、米國は、爆撃の正確さを増すべく、爆撃を昼間に実施した。しかし昼間しようと夜間しようと標的に命中する爆弾より、その周りに落ちる爆弾の方が常に多く、高高度からの「精密爆撃」など、幻想であった。しばらく後、米軍は「精密爆撃」を諦めて英國の「地域爆撃」、つまり町全体を標的とする爆撃に加わった。

戦争が終わるまでに独逸の1,000に上る都市と町が爆撃され、そのうち160の大きな都市が灰燼に帰した。これらの都市や町は、欧州でも最も古く、きれいな町で、その芸術性と文化的価値においてフィレンツェ・パリ・ローマに匹敵するものであった。これらの破壊された都市には美術品、美術館、彫像、建築、図書館、博物館、宮殿、橋、ギルド会館、教会、カテドラルなど、何世紀にも亙って培われた文化の粋が含まれていた。これら、築き上げるのに千年もかかったであろう非常に発達した文化の装飾品が爆撃により、一時間とかからずに跡形もなく消えたのであった。

勿論、その頃にも何が起こっていたかについて多数の反対意見があったであろうが、輿論は全面的にそれを支持した。(輿論は宣伝工作で容易く操作できるものだ。)進歩的カトリック「Commonweal(共和國)」(決して平和主義者ではない)の週刊誌が1944年の早い時期に戦略爆撃を「無辜の市民の殺人と文明の自殺」と非難している。

ロンドンタイムズレビューは、戦略的空軍攻撃の英國の公式歴史について論評している。「これらの本は、動揺した気持ちの中で閉じることになる。それは、この彼らが語る物語での本當の英雄は、戦う空軍の隊長でもなく、況して58,888人の将校でもなく、作戦中に殺された爆撃隊の隊員でもない。英雄は、攻撃されている独逸の都市の住民である。燃え上がる自身の家屋や工場の廃墟の中、連合軍が侵略するまで、厳粛に耐えて働き続けた男性、女性、子供たちなのである。」

この種の野蛮が、戦争の続行する間、あらゆる伝統的「文明的戦闘の規則」遵守の見せかけの偽りが遂に放棄されるまで、居座ることになった。それは、どちら側も、万が一の可能性であろうと、敗北の悍ましい結果を避け得るなら、どんな行為も正當化されるという原理を暗黙に採用したからだ。

しかし、この全く意味のない独逸の都市と町に対する、勝利が確実になった後でさえも行われた絨毯爆撃の続行には他にも作用している要素があった。それは単なる「惰性」だった。大量爆撃空襲が続いたのは、それが爆撃隊と米國空軍が計画したことだったからであった。どの様な複合体、機能的組織にも言えるが、しばらくすると、軍産複合体の全体がそれ自体の生存の為にそれ自体を動かし始めるのである。英米両國の飛行機の組み立ての流れ作業は、続けて新しい爆撃機を連続的に生産した。爆弾の製造業者は、爆弾の組み立て流れ作業を夜昼なく行った。航空燃料の供給系は、自動的に機能し、必要な拠点に航空燃料を配達した。訓練部隊は、何千人と言う新しい飛行士と乗組員を訓練し続けた。標的を選び、爆撃乗員に離陸前の説明をする担當将校は、その仕事を続けた。何千トンにも及ぶ爆弾を毎日独逸の都市に送るように考えられ、組織されたこの軍産複合体は、一つの巨大な自動運転の機械のように動いた。誰も仕事をするように命令する必要もない。むしろ逆だ。誰か、高い立場の人間が止める様に命令しなければならなかった。仮に、誰かが止めるように言っても、それは、恐ろしい官僚的な抵抗に遭ったであろう。更に、その巨大爆撃設備の一番の司令塔であるチャーチルルーズベルト、ハリス空軍元帥、ハップ・アーノルド将軍は、正當かどうかは別に、爆撃を続行する傾向にあった。

独逸と日本は両國とも、その機会が与えられたなら、早ければ1943年の春の時点で、停戦でいつでも戦争を止める積もりだった。もしそれが起こることが許されたならば、一番多大な死と破壊は避けられたことであろう。しかし、チャーチルが支持したルーズベルトの無条件降伏政策は、そのような終結を不可能にした。無条件降伏の要求は、数百万の死と共に西欧州の大部分を廃墟にしてしまった、長く、じりじりと痛めつけられる戦いが辛い結末まで続くことを保証した。ヒトラーではなく、チャーチルルーズベルトに、これに対する責任がある。1943年の夏、チャーチルがロンドンを発ってケベックでの会議にルーズベルトに会いに行くとき、タイム誌の記者がチャーチルに尋ねた。「独逸に和平条件を提示しますか?」チャーチルは、陽気な声で答えた、「まさかしないさ!彼らは即時受け容れるだろう。」みんな笑った。

終戦近くになって、独逸の殆どの大都市と町が既に破壊され、今や小さな町や村が、未だ爆撃されていないという理由だけで、標的となっていた。多かれ少なかれ、任意である町をその日の標的に選んだ将校の気まぐれ、だけの理由で、何千と言う罪なき独逸の民間人が夜となく昼となく、その町で残酷な死に苦しんだ。巨大な爆撃の道具と化した中に雇われたあらゆる人間が、その割り當てられた仕事を続け、誰も高い立場の人間は止めるように言わなかったので、爆撃は、来る日も来る日も、毎夜のように続けられた。

オクスフォード大学の近代史の教授ノーマン・ストーンは、デイリーメールに次の様に書いている。
「1944年までに既に(中略)我々が勝利することが、しかもスターリン潜在的な敵であることが明白になった後も、我々は独逸の都市爆撃を何か月にも亙って続けた。爆撃の中には全く意味のないものもあった。戦争の終わるころ、我々は、一切何も軍事標的もない、ヴュルツブルクの南の古い飾り立てた町を攻撃した。(中略)難民の女子供だけであった。これらの不必要な加虐趣味の行動の中でも最悪のものがドレスデンの爆撃であった。」

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