ドイツ悪玉論の神話090

第二十一章 連合軍の最終目的? 独逸の滅亡!

「君たちが理解しなければならないのは、この戦争はヒトラーや國家社会主義に対するものではなく、独逸人民の強さに対するものだという事である。その強さは、この際、一気に叩き壊さねばならない。その強さがヒトラーの手にあるか、イエズス会の僧侶の手にあるかは関係ないのだ。」ウィンストン・チャーチル(1940)エムリーズ・ヒューズの本「ウィンストン・チャーチル戦争と平和に於ける彼の経歴」の引用より。

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フレデリックリンデマン(初代チャーウェル子爵)


最初のチャーウェル(Cherwell)子爵となったことで知られるフレデリックリンデマンは、独逸のバーデンバーデンで生まれた猶太人だが、英國で育った。彼は、独逸に戻ってベルリン大学で物理学の博士号を取得したが、その後、英國に帰った。リンデマン英國の航空技術発展の初期の草分けで、チャーチルが首相になった時、彼は、リンデマン英國政府の(そして彼の)先端科学顧問に指名した。猶太人としてリンデマンは病的な憎悪を國家社会主義者だけでなく、独逸と独逸人に対しても抱いており、その時、独逸に対して遂行していた國際猶太の「全面戦争」の熱心な推進者でもあった。独逸に対する復讐心が彼のあらゆる活動と意見を動機づけた。彼は、最初から、独逸の都市に対する「地域爆撃」の主導的な唱道者であり、それを実行するための「段取り」を工夫した。

リンデマン計画」は、英國は軍事標的については忘れ去るべきで、独逸人の士気を挫く為に独逸の民間人に集中的に空襲すべきだと提案した。彼らの士気が挫かれた後、独逸の民衆は連合國への無条件降伏を要求するだろうとリンデマンは信じ、また、チャーチルも信じた。彼の計画は、「爆撃は労働者階級の家に向けられるべきだ。中流階級の家は周りに空間があり過ぎて爆弾の無駄になる」と提言していた。

「強調しなければならないのは、家、公共企業、交通機関と人命の破壊が前例がない規模の難民問題を そして、家庭と戦場両方に於ける広範囲且つ強化爆撃の恐怖による士気の低下を引き起こす事、これらが我々の爆撃政策の承認された意図した目的である。これは、工場を爆撃する事の副産物ではない。」と言った。言葉を換えれば、大量の民間人を殺す事こそが、空襲爆撃の主要な目的である、という事だ。

リンデマンは、リンデマン計画を作った時にただ虚空に文字を書いていたのではなかった。ソリー・ズッカーマン教授とデスモンド・バナール教授、どちらも猶太人、も地域爆撃の構造物と人々に与える効果について研究しており、どちらも独逸の大量爆撃の強い提唱者となった。総力戦を戦う手段としての都市の爆撃は、既に英國の「戦争派」の構成員の間では承認された戦略となっていた。英國は、長距離重爆撃機の開発と製造を1933年には始めていた。米國も同じことをした。ランカスター、B17、B24などは、都市を破壊し、独逸の人々に大量の犠牲者を出すため以外の目的には製造されなかった。軍事作戦には小さくて高速で「戦術的」飛行機が必要だった。千機の(4つのエンジンを搭載した)四発「戦略」重爆撃機などに軍事的な目的は無かった。ロビン・オールズ大佐(後の准将)、非常に尊敬される将校で、第二次大戦にもヴェトナム戦争にも従軍した米空軍の戦闘機飛行士は、所謂戦略爆撃計画は、効果が少なく、無駄が多く、意味がない、と一度ならず話していた。今日では一般に認められているが、戦略爆撃計画は戦争を一日でも早く終結することは無く、最終的にそれは軍事的目的には役に立たない。結局、独逸は戦争向けの生産が戦争の最後の月に最も高い段階に達した、それは、爆撃が最も激しい時期であった。

オールズ大佐は、とりわけ、低空を高速飛行する、爆弾1個を抱えた戦闘爆撃機の方が、独逸の軍事と戦略目標に対してはるかに効率的であるという意見を持っていた。彼は、ムスタング一機で、500ポンド爆弾一発をどこの独逸の工場であれその窓にめがけて落とすことが出来ただろうと言った。巨大な編隊を組んだ2万5千フィート(7,500m)の高度を飛んでいる爆撃機が特定の工場に落とすのは、周りの何マイルかを破壊しない限り不可能だった。彼はまた、これは、劇的に民間人の犠牲を減らせただろうと強調する。大佐は、純真なのかもしれない。彼は、「戦略爆撃」の目的が當に、民間人犠牲者を最大化する事にあったことを理解していなかったのかも知れない。一言で言えば、「戦略爆撃」の目的は、大量虐殺なのである!

英米が町の破壊と大量の民間人の殺戮を目的とする何千機もの四発の長距離重爆撃機を製造している一方で、独逸は、地上支援のための軽い、移動しやすい低空飛行の爆撃機しか製造していなかった。これらの飛行機は、大量虐殺のテロ爆撃には不向きだった。英空軍が、独逸の都市のじゅうたん爆撃を始めた三か月後、ヒトラーは、英國の民間人標的の爆撃をいやいやながらしかしなかった。ヒトラーは、いつでも喜んで殺戮を止めただろう。

チャーチルの戦時内閣は、リンデマン計画を1942年3月に採用し、それは、英國の正式な政策となった。この戦時内閣の決定は、戦時中、そして戦後も長年に亙って英國一般公衆にはしっかりと護られ機密にされてきた。英國民は、軍事と産業標的だけが爆撃され、それ以上の損害は意図したものではない、と教えられてきた。英國による独逸都市・民間人爆撃の本質は、1961年に物理学者の小説家、チャールズ・スノーの「科学と政府」という題の本で明かされた。この本の次の件(くだり)は直ぐに数カ國語に翻訳されて出版された。
「1942年の早い時期にリンデマン教授、今ではチャーウェル卿と閣僚の一人が独逸の戦略爆撃についての案を内閣に出した。それは、次の18か月間(概ね1942年3月から1943年9月)の英國の空襲爆撃が独逸に及ぼす影響を定量的に記述したものだった。その論文は戦略的政策を載せていた。爆撃は、基本的に独逸の労働者階級の家に向けられなければならない。中産階級の家は、間に空間があり過ぎて爆弾の無駄になってしまうし、工場や軍事標的は、見つけるのも攻撃するのも難しい為、公式の広報以外では長く忘れ去られていた。その論文が主張するには、-航空機の製造とその運用を完全に集中する事が出来れば- 独逸の全ての大きな町(つまり、人口5万人以上の町)で全ての家屋の50%を破壊する事が可能だ。」

アンガス・カルダーは、その著書「人民の戦争」(1969)の中で次の様に書いている。「それは不都合な歴史かも知れないが、英國が、独逸ではなく英國が民間人への爆撃による殺人的殺戮を始め、それで報復をもたらした。(ネヴィル)チェンバレンは、それ{民間人と都市の爆撃}は、「完全に國際法違反だ」と認識していた。それは、1940年に始まり、チャーチルはそれが勝利の鍵(秘密)を握っていると信じた。彼は、充分な激しさの空襲は、独逸の士気を挫くと確信し、彼の戦時内閣は敵の軍備を攻撃する正當な慣習を捨て去り、そうではなく民間人を主な標的とした作戦を計画した。夜な夜な、英空軍の爆撃機は、益々その数を増やしつつ、通常労働者階級の家屋に対し、何故ならそこはより人口密度が高いからだが、斯様にして独逸全土を空襲した。」

英國は、その資源をその他の全ての軍の支部を合わせたよりもより多く、英空軍の爆撃機部隊に専ら費やした。戦争初期に工場や滑走路などの小さな標的を高空から叩くのは不可能だと発見し、爆撃部隊は、空軍全体をして独逸の都市に一度に何千機もの爆撃機による攻撃を集中する事を決心した。独逸の戦闘機や地上からの対空砲による航空機の損失を防ぐ為にこれら大量爆撃は、夜間に高高度から行われたのだ。英國は、戦争の早い時期に軍事標的の攻撃を諦め、標的を街の中心部にして完全に独逸の町への攻撃に集中することを決めたのだった。町の中心部とは、その町で一番古い部分であり、中世やそれ以前に遡るものだ。町の中心部では通りが細く、建物が立て込んでおり、殆どが燃えやすい木で建築されてそれを石膏板で覆ったもので、それは、発火しやすく、激しく燃えるものだ。これらの古い町の人々は、苦痛に苦しみながら、火事で焦がされ、焼かれ、そして、炙られ、或いは、爆発で粉々に飛ばされながら、死んでいったことであろう。

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