今日の共産主義 45の目標45

✔45. コナリー留保(コナリー修正)を無効にせよ。そうして合衆国が国際裁判所の管轄権を自国の国内問題において回避できなくせよ。国家や個人を越えて国際裁判所の管轄権を認めさせよ。

コナリー留保(コナリー修正と呼ばれることもある)は合衆国の国連憲章批准の文章表現を変更した。この変更は、国際裁判所が合衆国の国内問題に口を差し挟むことを避ける為であった。修正は次の句に(英語で)8語を足して(下線部分)行われた。

「この宣言は、(中略)本質的にアメリカ合衆国が決定したアメリカ合衆国の国内の管轄権内に関わる紛争には適用されない(以下略)。」

言い換えると、何が国際法廷に行くか、そして何が行かないかを決めるのはアメリカ人、と言う事である。

コナリー留保の廃止は複数回試されたが、毎回敗北した。この廃止を提唱する者はいつも本当の危険を回避している。もしも国連憲章が修正され、或いは変更されて管轄権が国内の内政・州間問題に及ぶことを容認したら何がアメリカ人の利益を守ってくれるのか?

コナリー留保は、ただ一つ離陸に失敗した大きな共産主義者の目標である。コナリー留保が廃止されるようなことがあれば、多くの異なった種類の国内問題において、基本的な憲法上の主権、自治権利の章典、自由の原則に違犯して、國際裁判所が直接アメリカの個人に対してその法令を執行することが出来る様になってしまう。

 

【ブログ主の感想】

 この目標45を以って、この章が終わるのですが、今一度、この章の初めの言葉を引用させていただきます。

「45の目標が出版されて知られるようになった頃、懐疑心を以って受け取る者も2~3割方居り、酷い嫌悪を以って受け取る者も居た。大方のところ、アメリカ人はそのような「アメリカ流」に対するそのような露骨に宣言された攻撃など、達成することはほぼ不可能だろうと信じていた。人々は、合衆国として知られる、偉大で侵入出来ない美徳と自由の聖域に於いて、アメリカ人は決してそのような目的の何れも容認しないだろうと信じていた。

ところが、羨望の的であった米國の自己永続的自由、美徳、教育と知力は二世代の内に、危険なまでに弱体化され、或いは忘れ去られた。そうではなく、正しいことを間違ったこと、良いことを悪いこと、光明を暗黒とする欺瞞の命名と共に所謂「啓蒙」の話、新しい時代の話があった。最終的な結果は、50年の内にそれらの内一つを除いてすべての目的の「成功」が達成されるのであった。」

初めてこの本を読んだとき、実は、達成されていない目標とはどれなんだろう、と明かされるのを楽しみに読んでいたのですが、半分を過ぎたあたりで、それは明かされないか、或いは自分で考えなさい、となるのだろうと、半ばあきらめていました。

ところが、見事に、最後の目標で意表を突くようにこの目標だけが達成されていない、と来ました。意図的であろうとなかろうと、しかし、この目標だけはアメリカの信念と威信にかけて守り通した、と言うのは少しだけ、希望を与えてくれるものです。

歴史を繙くと解りますが、人類は何千年の歴史の中で地縁・血縁による地域社会から始まり、文化・経済によるより広い地域の結合から國の起こりまで、一貫して最も大切な事は、「自分の仲間を守る」と言うことでした。それは、家族であり、親戚であり、地元の人々であり、同じ文化圏の文化を共有する人々であり、あるいは国家であり、民族でありました。

そして、人類がその様々な理想を追求する上で、或いは人間らしい生活をする上で常にその自由と生活を守ってきたのが国家であり民族でありました。当然のことですが、民族が國の単位として最も理に適ったものです。しかし同じ民族でも異なる制度・慣習を持っていれば別の國になりますし、異なる民族でもある一定の理想なり国是なり君主の下に一つの國を作ることも出来ます。

ここで一つ、我々日本人が特によく誤解する問題を挙げておきます。それは、「宗教の自由」の問題です。元々、宗教の自由と言うのは欧州でカトリックプロテスタントの戦争が余りにも長く続いたために、「宗教ネタの戦争止めよう!」と言う事で、同じキリスト教徒が戦うのを止める目的で出来た原則でした。決して「世界のどの様な宗教を信じようと自由だ」と言う意味ではなかったのです。

それが、フランス革命辺りから、ユダヤ教も差別しない、と言う原則に拡大解釈され、それは大いにキリスト教国を堕落させてしまいました。そして、それは、近代になると欧州以外の地域で欧州人の治外法権を守るという意味を持ちました。つまり、キリスト教国でも白人のキリスト教礼拝を認めろ、と言う意味に取られるようになりました。当然、そんな中でも欧州のキリスト教国でイスラム教の礼拝をすることなど、社会的に一切認められていませんでした。(要するに白人の植民地主義ですよね)

そして最近になると、特に第二次大戦以降、それは全ての宗教に拡大解釈されるに及びます。

ここで、疑問が生じます。そもそも、ユダヤ教イスラム教の様に、いや、キリスト教も実はそうなのですが、排他的な宗教を実践している國で宗教の自由など成立するのか、と言う事です。宗教の自由が実現するためには、宗教自体が他宗教に対して寛容でなければなりません。それは、同じキリスト教で、プロテスタントカトリックの間でなら何とか可能かもしれません。或いは同じイスラム教でスンニ派シーア派の間では可能かもしれません。それ以外では不可能です。唯一、神道は古来、八百万の神々一切の信仰が自由でしたが、しかし、それも他の神々を信仰する人々への寛容があったからで、そういう意味で日本では日蓮の排他的な教えは例外ですね。まあ、そう言うことですから、神道は宗教には入らない、とも言えます。

大航海時代、新大陸の原住民をどう扱うべきか、で、法皇自ら、「キリスト教に改宗する機会を与え、応じなければ殺しても良い」と言っていることに象徴されます。

これは屡々、カトリックを批判するために使われるようですが、プロテスタントカトリックの数倍も原住民を殺害していますから、カトリック批判のネタとしては少々都合のよくない眞實です。

逆に言うと、新大陸にあった国家は、かわいそうに、西洋の國から自国民を守ることが出来なかったためにその自由を奪われ、殺されまくり滅んだのです。
同じ事が、北米でも、豪州でも起こりました。

長々と書いてしまいましたが、要するに、國家主權とは、そういう物なのです。
そして、その主權の一つ、司法権がこの目標45の標的です。

国連は、「新世界秩序」の道具として、共産主義者が作った團體です。決して国連に日本の國の将来を託すようなことをしてはなりません。(中共などもってのほかです)

これが、共産主義者に対抗する為の最後の砦だと思います。

そして、行く行くは国連に委譲した國の権限を全て取り戻さねば日本國が日本國民を守ることが出来なくなってしまいます。国連だけではありません。TPP などもそうです。

念のため、國家主權とは、
統治權最高權(対外主權)自己決定權外交權・自衛權・司法權・通貨発行權・関税自主權(対外主權には戦争する権利も含まれます。さあ、今日本はどれだけ持ってます?)

長くなりましたが、これを以って、スクーセンの共産主義の目標45 の連載を終わります。長らくおつきあいくださいましてありがとうございました。

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