ドイツ悪玉論の神話071

独波の対話の継続

1939年1月5日、ポーランド外務大臣、ユゼフ・ベックがベルヒテスガーデンでヒトラーと会談した。ヒトラーは、ベックに対して、独逸がポーランド回廊の返還要求をしない、と言う明白で確実な保証を繰り返し、鉄道と國道の通過を望んでいるだけであることを再確認した。次の日、1月6日、フォン・リッベントロップは、ミュンヘンでのポーランド高官との会談で回廊だけでなく、ポーランド全土を保証する意志を確認した。この友好的で寛容な提案は、1939年1月23日にワルシャワを訪れたフォン・リッベントロップにより、再び繰り返し提案された。この訪問中、フォン・リッベントロップは、独波間の領土紛争の全てを含む最終的合意を訴えた。

この章の初めに概要を示した「四箇条」による合意は、ポーランドから何一つ取り上げるものではなかった。ダンツィヒは、ポーランドの町ではなかったが、國際聯盟の監督下の「自由市」であった。独逸の四箇条の提案は、ポーランドが引き続きダンツィヒの港湾設備を使う事を以前と同じく許可していた。独逸はこの時、ポーランド回廊として知られる失った領土の返還を要求しなかったが、東プロシャまで通過する國道と鉄道を建設する権利だけを要求した。独逸の要求に無理難題は一切なかった。

しかしながら、1939年3月21日、フランス大統領ルブランと英國首相チェンバレンはロンドンで会談し、独逸を「取り囲む」仏英波同盟を提案した。この提案はその後ポーランドの高官に送られ、それはヒトラーの要求に対するポーランドの抵抗力を更に強める効用があった。独逸の最善の外交努力にも拘わらず、ポーランドは、これで何につけ、承諾することを拒むようになった。

今日の一般的な見方では、圧倒的に強い独逸が何もできない弱いポーランドを威嚇し、脅迫していたことになっているが、実際には全くそうではなかった。ポーランドには長い軍隊の伝統があり、強力でよく訓練された陸軍を維持しており、それは実際独逸陸軍より大きかった。ポーランドの陸軍は最近では1920年にロシアの赤軍を打ち負かしていた。ポーランドの軍の指導者は独逸の軍事力にはこれっぽちも脅迫されていなかった。思い出してほしいのだが、独逸の軍隊は、ヴェルサイユ条約により10万人に制限されており、そのポーランド危機の頃の独逸は未だ軍備を整えている最中であった。ポーランドは独逸に脅迫されていたどころか、むしろ好戦的であった。

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これらポーランドの戦車は独逸陸軍と対等であった


1930年10月、影響力のあるポーランドの新聞、Die Liga Der Grossmacht は、次のような宣言文を載せた。

ポーランドと独逸の争いは、不可避である。我々はそれに組織的に備えねばならない。我々の目標は、新しいグルンヴァルト(タンネンベルクの戦い、1410年7月15日、独逸騎士団がポーランドリトアニア連合軍に敗れた)だ。しかし、今回は、ベルリン郊外のグルンヴァルトである。

「つまり、独逸をその中心で討つために、独逸の敗退はポーランド軍により、その領土の中心で為されなければならない。我々の理想は、西の國境がオーデル川とナイセ川である。プロシャは、ポーランドの為に再び征服されなければならない。そして、本當にシュプレー川に至るまで。

「独逸との戦争に於いては捕虜は居ない。そして人間の感情も文化的感傷もその余地はない。世界は独波の戦争を前にして震撼するだろう。我々は、兵士に人間性を超える犠牲の心持ちと無慈悲な復讐と残酷の精神を呼び起さなければならない。」

1939年8月6日にデイリー・メール紙が報告している様に、シミグウィ元帥は、「ポーランドは独逸との戦争を望んでおり、独逸はそれを避けることを望んでもそうは出来ないのだ。」と言っている。

 

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エドヴァルト・リッツ=シミグウィ元帥

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