ドイツ悪玉論の神話070

ポーランド問題

ヴェルサイユ条約は、新しい主権國家ポーランドを創るために独逸の領土の大きな帯状の塊をその住民と共に取り上げた。これは独逸を横切ってポーランドバルト海に至る道を与える、ポーランド回廊と呼ばれる細長い陸地を含んでいた。回廊の主な問題は、この土地が独逸の領土を東プロシャと残りの独逸領土の二つに分割している事だった。独逸人が東プロシャと行き来するには、回廊を避けて船で回り道しなければならなかった。彼らは、回廊を横切ることを許されていなかった。独逸の町ダンツィヒ(現グダニスク)もポーランド港湾施設を提供する目的の為、独逸から取り上げられ、「自由都市」として國際聯盟の監督下に置かれていた。約150万人の独逸人が今は二級市民としてポーランド支配下の領土に住んでいた。

この領土とその住民は何世紀にも亙って独逸であり、そこの人々は、當初から無数の大規模デモで自分たちが独逸から別れたくないことを明らかにして来た。ダンツィヒは、古いハンザ同盟の一つであり、独逸の町の中でも最も独逸的な町であった。その住民は96%が独逸人で、プレビサイト(住民投票)に於いても圧倒的に独逸への復帰に投票した。この地域に住む民族的独逸人は、今や敵対心の強いポーランドが統治するポーランドの一州の少数民族となり、ズデーテンラントで独逸人が苦しんだのと同じように差別と抑圧に苦しんでいた。独逸は、ヴェルサイユ条約によって強要され、取り上げられた領土全てを返還要求する正當な理由があり、多くの世界の指導者がそれを公然と認識していた。英國の著名な独逸と独逸問題の権威、ウィリアム・ハーバット・ドーソンは、「条約下の独逸」(1933年)で次の様に述べている。

「今日欧州の暮らしの中で、回廊(問題)ほど重大な危険を孕んだそして平和の脅威の確かな要素はない。回廊は独逸を二つの部分に切ってしまい、ダンツィヒと言う最も独逸的な町を祖國から断絶してしまったからだ。欧州は、この脅威を無視し、問題が漂流する事を許しても大丈夫なのだろうか?そうする事は、災難を招き入れ、急き立てている事と同じである。何故なら、12年に亙るポーランドの統治の後、回廊の状況は、良くなるどころか、着実に悪化しているからだ。

今となっては、ポーランドの貿易に必要なすべての物は、現在も将来も、回廊無しで賄えるという事が充分過ぎるくらい明らかとなり、また、独逸とポーランドの友好関係は欧州に於ける平和の固定化にあまりにも重要であるので、政治的な奇形が続く限り、(平和は)不可能であろう。その領土の大部分は、その文明がよって立つところの國に戻されるべきである。」

ハリファックスと開戦派は、しかしながら、独逸の要求の正當性を認めることを拒否し、ヒトラー失地回復の行動をむき出しの侵略で、世界制覇の意図の証明だと見做した。彼らは、ヒトラー英國自身に対する下心さえ持っていると主張した。これら二つの主張には何れも事実に基づいた根拠は全くない。猶太人補佐官に影響されたルーズベルト大統領は、同時にアメリカ國民に南米を介した独逸による合衆國占領の可能性と言う馬鹿げた警告をしていた。

 

ヒトラーポーランドへの提案

ポーランドは伝統的に独逸と独逸人に対して敵対心を抱いており、ヒトラーは、この最後の領土問題の解決を試みるのに細心の注意を払って対応した。彼は、穏やかに持ち出し、ポーランドの利害を認識して思慮深い寛大さを示した。在ベルリン英國大使のネヴィル・ヘンダーソンは、ヒトラーの理に叶った接近を認識していた。「信じられないかもしれないが、すべての独逸人の中で、ダンツィヒと回廊に関する限り、ヒトラーが最も温和だった。」と言っている。

1938年10月24日、ヒトラーは、フォン・リッベントロップ外相にポーランド大使リプスキーに対して次の四箇条の計画提案をするよう指示した。これは、ヴェルサイユ条約の不正を正し、独波(ポーランド)間の摩擦の根を全て除去するものであった。

  1. ダンツィヒライヒへの返還、但しポーランド國家との経済の繋がりを遮断する事はしない。この提案は、ポーランドダンツィヒに於ける自由港湾の特権を保証すると同時に越境しての港への通過を保証するものである。
  2. 独逸は、今ポーランド回廊と呼ばれている、舊独逸領の返還は要求しないが、独逸が東プロシャと再統合するための、ポーランド回廊を通過する國道と鉄道を建設する事を許されるべきである。
  3. 独波間の國境の相互の認識は、永久に固定するものとする。言葉を変えると、独逸はヴェルサイユ条約により、ポーランドに割譲された残りの舊独逸領の返還は要求しない。
  4. 1934年の独波協定は、10年から25年延長されるべきである。(1934年の独波協定では、両國は、諸問題を二國間交渉により解決し、武力による紛争を10年間控える事を誓約している。この協定は、独波関係(ヴェルサイユ条約によってもたらされた國境紛争による以前の緊張関係)を効果的に正常化した。)

ポーランドとの交渉に於いてヒトラーはこれ以上望めないくらい理性的であった。

 

水晶の夜(Kristalnacht)

これらの交渉が進んでいる最中に「水晶の夜」(壊れたガラスの夜)と言う不運な事件が独逸で起こり、これが、國際世論を更に反独逸に変えてしまった。この事件は最悪の時期に起こった。「水晶の夜」事件のきっかけは、独逸外交官、エルンスト・フォム・ラートが1938年11月9日、パリで猶太人青年、ヘルシェル・グリュンシュパンに殺害されたことであった。グリュンシュパンの家族は1914年以降、総勢1万5千人の猶太人と共にポーランドから独逸に入國したが、独逸市民でなかったため、1938年10月27日に独逸からポーランドに追放された。當時、パリで叔父と暮らしていた17歳のヘルシェル・グリュンシュパンは、独逸の大使館に行き、國外退去の復讐にフォム・ラートを銃殺した。フォム・ラートは個人的には國外退去処分と何ら関係なかったのだが。この殺人事件はすべての独逸の新聞に載った。

反猶太感情は、猶太人の反独逸「聖戦」の結果、既に高まっており、独逸の人々はフォム・ラートの殺害に怒りの反応を示した。11月9日と10日の夜、若者連中が猶太人の居住地域をうろつき、猶太人商店や住まいの窓ガラスを割り、シナゴーグに放火した。制服に身を包んだ突撃隊員も政府の許可なしに加わった。これらの出来事に対する独逸の公式の立場は、猶太人による独逸外交官の殺害に端を発した怒れる独逸の市民による自発的暴動である、としたが、國際猶太新聞はナチの幹部、特にゲッベルスが画策した出来事だと非難した。しかし、これは疑わしい。何故なら、水晶の夜の次の日の朝、ゲッベルス博士は、ラジオ放送で、猶太人に対するいかなる行為も厳しく禁止するとともにこの命令に従わない場合は、厳しく処罰する、と発表し、また、猶太人に対する暴力で多数が逮捕されたからだ。政府と國家社会主義党幹部は、起こったことに対して激怒した。独逸に対する否定的な宣伝工作が次になされるであろうことが明白であったからである。ヒトラーはこれを最初に耳にしたとき、同じ理由により同様に激怒し、全ての地方長官にテレックスで命令した。それによると、「最高権威からの命令として、猶太人商店や他の財産への放火は、いかなる状況に於いても事情に於いても起こしてはならない。」とあった。

好ましくない國際的反応は避けようがなかった。そして、この「水晶の夜」の結果、國家社会主義独逸の一般の意見は、劇的に低下してしまった。自身が猶太人の英國の歴史家、マーティン・ギルバートは次の様に書いた。「1933年から1945年までの独逸の猶太人の歴史で、これほど広く、それが起きている最中に報告されたものはない。そして、独逸で仕事している外國人ジャーナリストの報告は、世界に衝撃波を送ったのだった。」

ロンドンのタイムス紙はこの時に次の様に書いている。「世界で独逸の名誉を汚すことに傾注する外國の宣伝工作員も、昨日独逸を恥辱にまみれさせた、放火と殴打、そして無防備で罪なき人々に対するゴロツキの暴力の話に勝ることは無かった。」

この出来事は、何も誇張する事も必要ではなかった。独逸の猶太人に対する暴力の嵐は、本當に恥辱であった。しかし、いつも通りに國際猶太の新聞は、これを実際に起きたことに比べ、大げさに誇張し、彼らの常套の「目撃者」の報告を提供した。独逸中で無辜の猶太人を大量に殴打、強姦、殺人のやり放題、と同時に猶太人の財産への広範な被害が申し立てられた。これらの誇張された報告は、その意図通りに、独逸に対する國際世論を毒する効果があった。しかし、独逸政府あるいはナチ党がこの「ポグロム」を画策した、と言うのは、その否定的な報道により猶太人よりもはるかに独逸と國家社会主義者を害することであるので、全く意味をなさなかった。既に自分たちに対する大げさでヒステリックな反「ナチ」宣伝工作戦が展開していることに神経質になっていた独逸の幹部は「水晶の夜」のような、自分たちが更に批判される様な事件を起こさない事に細心の注意を払っていた。「水晶の夜」は、國際猶太の独逸との「聖戦」に対する敵意が積もり積もった結果、フォム・ラートの殺人が引き金になった、猶太人に対する自発的なポグロムであった可能性の方が高い。

水晶の夜の余波は、世界の新聞が圧倒的に猶太人に同情的になり、そして辛辣に独逸に敵意を抱いたことであった。英仏米では、水晶の夜の結果、対独戦の要求が益々強く好戦的となった。

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