今日の共産主義 45の目標27

✔27. 教会に潜入し、啓示宗教を「社会」宗教に置き換えよ。聖書の信用を落とし、「宗教的支え」が不要な知的成熟の必要性を強調せよ。

今や個人の品行が「気持ち良いことを責任もってしなさい」に落ちぶれると共に至高の存在に対する崇拝と従順の受容と、個人生活を最高の道徳規範で生きる努力は脇に追いやられてしまった。最近の宗教的啓蒙の例は社会的教化に置き換えられ、炎上的修辞学の解説者のジレマイア・ライトや牧師から大統領になったバラク・オバマなどである。神の崇拝に専従している地域組織よりもこの様な疑似教会組織の方が、地域の活動家の組織やサービスセンターとして、多く奉仕している。伝統的な教会、元々自己再生や自己改善のために組織されたものは、社会クラブに希薄化されている。

一方で、聖書は神の言葉としてよりも寧ろ、歴史検証の対象や原始的な「出任せの作り話」の集合に成り下がってしまっている。そして、世界はそれゆえに苦しんでいる。

 

【ブログ主の感想】

 これは日本においても全く同様ですね。忠孝よりも自分の気分のままに行動する、と言う教育、更に功利を原理より優先する社会的風潮で、我々の道徳が著しく乱れています。

恥ずかしながら、私も最近の5年間で改めて認識し直したのですが、伝統的な日本人が道徳的である、と言う裏には神道と言う信仰が深く深く関係している、と言う紛れもない事実です。日本人にとって神社とは、社交の場であり、政治の場であり、そして福祉の場でありました。ところが、戦後のGHQ の共産化により、事実上それらの機能は解体され、社交は殆どなくなり、政治は共産党も含めた左一色の政治政党に牛耳られ、福祉は役所が管轄する様になりました。

神道と言う「宗教」は、あまりにも灰汁が無く、あまりにも寛大で、あまりにも普遍的であるために、日本人は「宗教」として認識していませんでした。いや、今でも私は所謂「宗教」と言う範疇に神道を入れることを躊躇します。何故なら、「宗教」のような堅苦しい教義は一切ないからです。にも拘らず、やはりその信仰を持っていると、他の宗教に違和感を覚える、と言う一点から、宗教と見做すこともできます。

最近になって強く感じるのは、神道は人間としての生き方を規定してくれるだけで宇宙の森羅万象を受け容れ、理性や人間のあらゆる考え方を包含しているので、他の宗教の様に排他的にならず、洗脳にならず、人間をやさしく本来の人間としての姿に導いてくれる、と言う事です。そして、どの様な神様でも各人各様に信じるがままに受け容れてくれます。(その証拠に仏教伝来の時に混乱があった意外、我が国には宗教戦争や騒乱が殆どありません。特に神道同士では八百万の神あれど全くありません。)

ところが、共産主義者NWO にとってはこれが非常に厄介な邪魔者なのです。何故なら、自分たちが人間として恥じるような考え方をしているこれらの「主義者」達にはただ理解できないのみならず、自分たちが支配しようとしている人民に自分たちの非が露わになってしまう事を恐れるからです。これは勿論彼らが他の宗教も毛嫌いする理由でもあります。しかしそのこと自体がもっと偏狭で排他的な「宗教」となっていることに彼ら自身、見て見ぬふりをしています。最近になって共産主義政権で起こった事や或いは「タルムード」が暴露されて、これらの考え方こそが當に人間性の敵たる宗教(掟)であることが分かって来ました。

我々は断固として我々の信仰を守り、祖先伝来の優しく寛大で何もかも包み込んでくれる神道の偉大さ、そして我が国の國體が神道と切っても切れないことをを再認識すべきです。古事記日本書紀の話を原始的・虚偽などと貶めず、学校で教えるべきです。

妙な新興宗教神道を騙る社会的奉仕団体、或いは利潤追求団体に騙されてはいけません。また、社会に奉仕していることを宣伝するキリスト教団体も同じ類です。これらは悉く、功利を優先するだけの団体で、決して人間の魂を救ってくれるものではあり得ないのです。そして共産主義者はそれを巧みに利用しています。

要するに共産主義者は宗教を社会宗教(社会奉仕団体)に成り下がらせることにより、人間の魂の拠り所で無くすことを画策し、彼らの宗教たる共産主義以外の宗教を根絶しようとしているのです。

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