ドイツ悪玉論の神話055

第十四章 ヒトラーは、独逸領土の返還要求を始める

独逸の首相としてのヒトラーの目標の一つは、独逸をもう一度一つにする事であった。それは、断固としてヴェルサイユ条約で独逸から奪われた領土の支配を取り戻す事であったが、同時に、ライヒの外に住んでいる民族的独逸人を独逸に戻す事でもあった。彼のこの計画が成功の見込みがあるとすれば、しかしながら、それには独逸の再軍備がまず必要であった。ヴェルサイユ条約は独逸に10万人限りの武装兵と言う制限を課した。それは、ヒトラーの野望を援護するにはかわいそうなくらい不充分であった。熟考の末、ヒトラーは1935年3月15日に陸軍の将官と内閣の閣僚とによる会議を開き、独逸は公然とヴェルサイユ条約で設定された軍事制限を無視して再軍備する、と発表した。それは、熱烈に承認された。その場にいた誰一人異を唱えなかった。

ゲッベルス宣伝相は、その翌日、記者会見を開き、世界に向けて、独逸は徴兵を再導入し、36の部隊からなる総勢55万人の新しい軍隊を構築することを総統が決断した、と発表した。これは、あからさまなヴェルサイユ条約違反であり、そして、英仏による報復の的となる行動であった。

独逸の指導者は、その後、英仏がどの様に反応するか、不安の中で待った。中でも注意深い将軍の中には、フランスがすぐにでも独逸を攻撃するかもしれない、と心配する者もいた。詰まる所、フランスは、欧州で最大の陸軍を擁しており、軍備が整っていた。そして、独逸は自身を防衛する力がなかった。しかし、何も起きなかった。全く以って何も起きなかった。ヒトラーは賭けをし、勝ったのであった!

 

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1935年6月、ヒトラーは独逸を再軍備した。 これは、徴集新兵の健康診断の様子


ヒトラーは、フランスが内政問題で苦心していたこと、英國は、大恐慌の真っただ中にいる事を知っていた。どちらの國も彼に対して軍事行動を起こす気はないと賭けた、そしてその通りになった。ヒトラーは更に自分側に道義に訴える説得を持っていた。独逸を含めて、あらゆる主権國家は、自衛と主権の手段を持つ根源的な権利を有している。独逸が10万人に制限された軍隊でそうする事が出来ないことは、明白であった。肯定的に見ると、ヒトラーの独逸再軍備の決定は、國民の指導者として「責任感のある」事と観ることが出来た。

しかしヒトラーは、充分賢明で、自分の宣言に続けて懐柔の手を打っておく必要があることを理解していた。徴兵復活の発表の数か月後、彼は議会で演説し、「独逸は平和を求めている(中略)我々の誰も他國を脅かすつもりはない」と宣言した。そして、彼は勿論そういうつもりだった。彼は、失った独逸領土を復帰したかったが戦争は望んでいなかった。

彼は、議会に於いて13箇条の平和計画を発表した。独逸はラインラントの非武装化も含めてヴェルサイユ条約の他の全ての条項を尊重する、と言った。独逸が欧州の平和を保証するための集団的組織の中で協力すると言った。更に彼は、独逸が近隣諸國との間で不可侵条約を結ぶ用意があると語った。

これは、銃声に怯える近隣諸國の神経を和らげると思われた。この手法はこの時以来、ヒトラーが踏む外交の典型となった。つまり、土曜日に強硬な発表(ヒトラーの土曜日の不意打ち)、そして懐柔の演説で次の手を打った。この様な主導の後、彼は、少し時間をおいて全てが落ち着くように待ち、そして次の行動に出た。彼は、何を欲しているか、何をしているか解っており、非常に慎重に策を練った。

彼は次の賭けに出るまで、一年間待った。ラインラントの再占領だった。1936年3月7日の早朝、独逸陸軍の三大隊がライン川の橋を渡って、独逸の産業の中心地として知られるラインラントに進駐した。この非武装地帯、ラインラントはライン川の西岸を含み、フランス國境まで広がり、同時に川の東岸部分も含んでいた。ラインラントには、ケルン、ジュッセルドルフ、ボンなどの都市が含まれていた。

ヒトラー外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラートは、フランス、英國とイタリアの大使を午前10時に外務省に呼び出し、独逸政府が「ラインラントの非武装地帯に於いて、完全で、無制限のライヒの主権を回復した」と記した覚書を手渡した。これも勿論、ヴェルサイユ条約違反の行為であった。

同じ日の正午、ヒトラーは、急遽招集された議会に現れ、何が起こったかを発表した。不意を突かれた議員たちは、歓喜のあまり、一斉に立ち上がり、総統に「ハイル(万歳)」を叫びながら大声で歓喜の声を上げだした。

やがて、みんなが落ち着いて席に着いたとき、ヒトラーは演説を続けた。彼は、次の様に言った。「まず、我々は、誓って、我が人民の名誉の回復に於いて、どんな力にも屈することは無い。名誉を以って最も厳しい艱難辛苦に耐える方が、降伏するよりも好ましいと考える。次に、我々は、これまでにも況して、特に我々の西側の近隣諸國の為に宣言する、我々には欧州で領土要求をすることは無い!独逸は、決して平和を毀損することは無い。」

ヒトラーと彼の将軍たちは、仏英がどの様に反応するか、再び、神経質に待った。独逸軍には、フランスが攻撃した場合、即座にラインラントを放棄して橋を渡って帰還する命令まで出ていた。しかし、前回と同様、何も起こらなかった。仏英は、何もしなかった。第一次大戦の恐怖は、まだ記憶に新鮮過ぎた。そして、フランスは特に独逸ともう一戦交える気などなかった。英國が行動を起こさなかったのは、殆どの英國の指導者がこの時点で既に、ヴェルサイユ条約は多くの点で理不尽であったことを信じ、また、彼らの多くはヒトラーの立場に同情的であった為だった。

これはヒトラーにとって、非常に大きな賭けであった。何故なら、フランスは100を超える陸軍部隊を以って、ラインライトに居る独逸の三万人程度の軽武装の陸軍を容易に駆逐する事も出来たからだ。その場合には、ヒトラーは何もかも失った可能性があった。ヒトラーは後年、「ラインラント進駐の後の48時間は我が人生に於いて最も神経が磨り減るものであった。もしフランス軍がラインラントに進駐して来たら、我々は尻尾を巻いて退散するほかはなかっただろう...」と述懐している。

ヒトラーの将軍のうち何人かは、この勇気ある行動に極端な恐れを抱いていたが、外相のフォン・ノイラートは、冷静に彼に請け合った。「危険を冒す価値はあります。きっと何も起きません」と。ヒトラーは、将軍たちの慄きを無視する事、そして、この様な問題に対して自分自身の判断を使う事をを覚えた。

ラインラントの独逸人は兵隊を歓喜で迎えた。兵隊たちは、祝福を贈る独逸人司祭に会った。女性たちは道に花を投げこんだ。ケルンでは人々は、歓喜のあまり大騒ぎした。ケルンの大聖堂の中では、カルディナル・シュルテ(Cardinal Schulte)が、ヒトラーをその行動に関して褒めまくった。

 

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1935年3月7日土曜日、独逸軍は ライン川を渡ってラインラントに進駐した


それから数週間後の3月29日、二度目のプレビサイトが実施された。99%の登録有権者が投票し、98.8%がヒトラーのラインラント再占領を承認した。ヒトラーは独逸で最も人気のある人物となった。

この成果を手土産に、ヒトラーは、彼のバイエルン山中の静養先、ベルヒテスガーデンに戻った。世間が落ち着くまでの間、ゆっくり休む為に。しかし、さらに次の行動をじっくり考える為に。何故なら、ヒトラーには独逸の民族統一主義の計画を実施するためのさらに多くの行動があったからだ。

その間、ベルリンと独逸中で夏のオリンピックを主催するための用意が進められていた。ベルリンオリンピックは、國家社会主義者にとって、彼らが創った新しい独逸を世界中の人々に見せびらかす大きな機会であった。

(次回よりベルリンオリンピックとそのフェイクニュースについてです)

 

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