ドイツ悪玉論の神話053

英國のジャーナリストで脚本家、小説家、欧州の戦争と第二次大戦後について多数の本の著述家であるダグラス・リードは、ヒトラー政権下の独逸経済の変転について次のような所見を提供している。
「独逸人が独逸で保護されている程度は、英國人が英國で保護されている程度と同等ではなく、より手厚い。我々は強大な軍事力と強大な本當の富を併せ持つ國と対峙している- その本當の富とは。國立銀行の地下室の金の延べ棒ではなく、産業、農業、人々の倹約と活力、そして彼らが享受している暮らしの質のことである。

独逸では今、強大な組織があり、それが強大な力を備え、工場や作業場に於ける労働者を進歩させている。技術者も福祉職員も芸術家もその工場に行って何を為すべきかを理解している。彼らはシャワー室が、娯楽室が、食堂が、医務室が、歯科医室が必要だと言い、そしてそれらは提供されるのである。彼らには市民感覚、社会意識、独逸の人類共同体の感覚がある-そちらにはない悍ましい強制収容所があるにも拘らず。

ロンドンの日曜版新聞「The Observer」の編集者、ジョン・L・ガルヴィン(John L. Garvin)は、次の様に書いている。
「昨年五月、私は、欧州の他の國で二年間過ごした後、家族を伴って、再び滞在するために(独逸に)戻った。独逸は、1933年の時点から、奇跡的に進歩した独逸に変わっていた。私は、都市住民の生活にも田園の住民にも同じような、政治的連帯と健全な気風を見た。

生活費は実質的に減じ、紛れもない楽天主義が、四方八方に拡がっている。どの地域でも私の質問に対する答えは同じだった。指導者の天才に対する揺るぎない信仰、彼への個人としての愛と尊敬であった。私の観測は、広範な社会的階層に及んだ。

私は、最下層の労働者、商人、専門職の人間と話した。私はしかし、指導者に対する忠誠心への疑問に反感の声を見出した。私の二人の娘は独逸の公立学校に通っていたが、他の國ではあり得ない徹底した教育を受けていた。」

そして、時の駐米英國大使ロージアン公爵による1937年6月29日の記述である。
「國家社会主義は独逸の為に偉業を成し遂げたことは認めざるを得ないと思う。それは疑う余地もなく言葉の上で普通の独逸の道徳感覚を奇麗にした(清めた)。敗戦根性と堕落が余りにもあからさまだった戦後の日々の特徴は公衆の面前からは完全に消え去った。戦後の早い時期にはどこに行けばよいのか、何のために生きているのかわからなかった大多数の若い人々に規律と秩序、それに目的意識が根付いた。」

ニューヨークタイムスの1935年7月12日に載った記事で、コミュニティ教会の牧師だったジョン・H・ホームズ(John H Holms)は次の様に書いている。
「今日の独逸の壮観は、非常に素晴らしい経験だ。戦後15年にして連合國軍が破壊したと思ったが、独逸は、再び自力で蘇った。1922年と1931年、私が前に見た独逸と比べると、その変化は、奇跡的だ。人々は、自信に満ちて、熱狂的で勇気がある。彼らの士気は回復した。1931年には、独逸の人々はバラバラであった。今では、彼らは再び元に戻った。これは疑いない事実だ。殆どの人々がますますヒトラーと共にある。私は、そうではないだろうと、高を括っていたのだが、実際そうであることが分かった。」

英國の学者G.E.O. Knight は、その本「独逸の防衛」の中で次の様に書いている。
「昨年7月、この國(英國)の新聞が意図を以って嘘を吐き、政治的争いを独逸への対抗に誘導しようとしていると感じ、ベルリンに行って自由で独立した調査をしようと決心した。現地に到着してから、私は断固として自分の好きなように振舞ったが、誰にも自分の動きを咎めだてられるようなことは無かった。

私は、独逸が、他と比較した場合、自由な國、その近隣の國よりもずっと自由であると解った。私自身のこの様な見方は私の友達、猶太人と非猶太人、ナチ党員と共産主義者、民主主義者と社会主義者などが居るが、彼らに常に受け入れられるわけではない。間もなく私は、ナチス党員であることは、我が國の労働者の中で労働党の「同志」に思い切って表明することが殆どないような意見を持っている人を排除するようなものではない、と言うことが分かった。」

ヒトラー政権下の独逸人民の一般的な生活水準の向上は、独逸をその頃のアメリカを含む他の全ての國家より進んだ國にした。國家社会主義政権は、現実的な定年後の社会保障システムを構築した。労働条件は劇的に改善され、独逸の人々は、仕事の後、旅行や娯楽の機会を提供された。全國民向けの同じレベルの繁栄と社会福祉は、古今東西、現在に至るまでも希にしか実現していない。

國家社会主義の統治下の独逸の社会は、一定期間ごとの立法府の代議員の選挙があって、また、非常に民主的だった。それは、今日合衆國にあるのと同じ意味で民主的という訳ではなかった。人民の意志の表現として、独逸形式の民主主義が人民の要望を表明するプレビサイト(國民投票)を実施する権利により保証されていた。

「独逸では(國家社会主義)革命の結果、民主主義をそのもっともよい意味に於いて確立した。我々は、政治的指導の領域で、自然で理に叶った選択手続きを保証することで、秩序に向かって進んでいる。そのおかげで指導者が出自や名声や財産に関係なく、最も有能であることを担保できるであろう。かの偉大なコルシカ人(ナポレオン)の記憶すべき言葉、『兵士はみんな元帥杖を鞄の中に携えている(誰でも元帥に成れる)、は、その政治の補完を独逸で見いだすだろう。(つまり、誰でも総統になれる、ということ。)」
アドルフ・ヒトラー

英國に於いては、民主主義の下で、物事の専門家をその責任者にせず、その受ける地位の為の特別な資格なしに小さな階層の人々の間のお気に入りを配置する。これは利害階層の民主主義の誤用であり、民主主義に対する裏切りであり、そして我々の過去の、現在のそして将来の苦悩の原因である。」
-ダグラス・リード著「Disgrace Abouding」

「独逸國民が何世紀にも亙って熱烈に欲したことが、ここに現実となった。一つの友愛で結ばれた人民、過去の互いの偏見と妨害から解放されて。」
アドルフ・ヒトラー

「人民の意思が即ち政府の意思、そして逆もまた同様。独逸で始まった新しい政治構造は、一種の高尚化した民主主義であろう。例えば、政府はその権威を人民から引き出し、しかし、人民の意思を誤って解釈する可能性、亦は議会的な方法の干渉による無能化の可能性は、全て消し去られている。」
-ヨーゼフ・ゲッベルス博士

「運動は一つのライヒ、一つの人民に統合され、これから先、その人民は様々な部門-宗教、階級、専門職、政治、そして領土、様々な自主的な連邦州に分けられた。この統合は、今や歴史的事実である。國家主義は、本物の人々の共同体を設立したのである。

以前は人々の投票はいくつかの政治政党に配分された。最終的にこれらの政党の数は36に上った。これらはいずれも生活するために必死で頑張っている人々に大きな共通の土台が提供でき無かった。彼らの政治的戦いはお互いに党利党略の言い争いに終始した。

今日、独逸の人民は一人の指導者に投票し、以前は夢にも思わなかった、統合された一つの党に投票する。党利党略の為だけに戦って國を分裂のままにしていた政治政党が消え去った後、大きくて共通の重要問題が人々に提起され、それによって人々はどの理想が努力の価値があるか、或いは、どういう犠牲を払わねばならないか、理解できるようになった。独逸中が、國家の存続に死活問題であるこれらの大きな問いに取り組むように提起された。」
ルドルフ・ヘス

「議会制の多数決の原理は、歴史の極めて短い期間に於いて現れる。そしてそれは、常に國民國家にとって頽廃期に當たるのである。」
アドルフ・ヒトラー

「...ヒトラーは何度も國民に相談する機会を作り、そのすべてで彼の政府の政策とその方法に心からの承認を得たのであった。」
-セザール・サントロ(Cesare Santoro)「ヒトラーの独逸・解剖」(Hitler Germany, Vivisection)

「私自身、人民の子供であったし未だにそうである。私がこの努力をしたのは、資本家の為ではなく、私がよって立つところの独逸の働く人々の為であった。」
アドルフ・ヒトラー

 

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