ドイツ悪玉論の神話034

第十章 國家社会主義共産主義

独逸の國家社会主義は、通常、共産主義が体制の極左を占める一方で、右翼の思想として特徴づけられてきた。これは伝統的な視点である。しかし、今日、ヒトラーの執拗なまでの共産主義への憎悪は偽りであると言う者が沢山いる。何故なら、独逸國家社会主義は、本質に於いて共産主義と変わりないからだ、と。どちらも全体主義社会主義が信条だ。しかし、これは、浅薄で表面的な観察で、「左翼」や「右翼」と言う用語も二つの体制を記述するには不充分である。確かに、國家社会主義にはその名が暗示するように社会主義の面があるが、國家社会主義共産主義の違いは余りにも大きい。最も明白な違いは、共産主義私有財産制を廃止して、中央による計画経済を通じた國家統制経済であったのに対して、國家社会主義は、私有財産制と市場経済を支持したことだ。國家社会主義の下では、生産の手段は、大部分が、國家による指導はあったが、私企業であった。共産主義体制では、私有財産は、農場、工場からいかなる生産手段、それに個人の家に至るまですべてが國家に接収された。この二つの体制のただ一つの類似点は、どちらも元が全体主義であったということだが、國家社会主義は、かなり良性であった、という事だ。國家社会主義の下、個人の公民権は尊重され、保護されたが、共産主義体制では個人の権利は全否定された。

ヒトラーは独逸に於ける「社会主義」の意味について、英國の「ガーディアン・サンデー・エクスプレス」紙で1938年12月28日に載っているように、次の様に言いたかった。「「社会主義者」とは、私は、「社会」と言う言葉から、「社会的平等」を意味すると定義する。社会主義者とは、個人、個性や個性による特性の産物を犠牲にすることなく、公に奉仕するものの事である。我々が適用した「社会主義」と言う用語は、マルクス主義者の社会主義とは何の関係もない。マルクス主義者は、反所有であるが、真の社会主義はそうではない。マルクス主義では個人、個人の努力、効率には何の価値も置かないが、真の社会主義は個人に価値を置き、個人の能率を鼓舞し、同時に個人の利害を共同体(社会)の利害と共鳴するように支持するものだ。全ての偉大な発明、発見、功績は、まずもって個人の脳の結実である。私を私有財産に反対する者として、無神論者として告発する者が居るが、どちらも無実である。」アドルフ・ヒトラー

二つの体制は同時にその目的に於いて異なっていた。ヒトラーの下で國家社会主義は、西欧キリスト教文明を「守る」革命運動であったのに対して、共産主義は、その「破壊」に専心する革命運動であった。英國の當時の國会議員で古典的な自由主義学者であった、ハロルド・コックスは次の様に記述している。
社会主義者共産主義者)が欲しているのは、我々が知っているところの世界の進歩ではなく、彼らが想像している新しい世界の創造の準備としての世界の破壊である。彼らの倫理見解は、世界の全ての偉大な宗教を起こしたものとは、全く逆のものである。(中略)そして、彼らは、故意に妬みの激情や憎悪や悪意に訴えかけるのだ。」

ロシアを支配した猶太人共産主義者は、細大漏らさず、ロシアの伝統的キリスト教文化を破壊し尽くし、4千万人とも言われるロシア上流階級の人々を殺害した。このロシアの「知識階級」、あらゆる成功者と功績ある人々の殺害により、ロシアの平均知能指数は、何ポイントも落ちた、と言われている。彼らは、その「共産主義インターナショナル」(コミンテルン)を通じて欧州全土で同じことをしようとしていた。猶太人國際共産主義者の長期目標は、その基礎をロシアで確立したが、現存する政治体制を欧州全土で破壊し、一つずつ、ロシアがモデルのソヴィエト共和國に取って替える事であった。一度支配すれば彼らは、ロシアでしたのと同様に「有産階級」を抹殺するつもりであった。欧州が共産主義者の権力掌握の予感に対する恐怖に脅えることは、當然の成り行きであった。

1918年以降、國家社会主義は、ボルシェヴィキ革命への反対運動として、また、それよりは限定的だが、ヴァイマルの堕落した民主主義的議会制度への反対運動として、独逸で発展したものだ。1933年5月11日付の國家社会主義党新聞、「フェルキッシャー・ベオバハター」(民族的観測者)に首相に就任して間もないヒトラーは次の様に書いている。
「かれこれ14~5年、独逸國家に宣誓しているが、私は、マルクス主義を打破する事が子孫に対する私の仕事と考えている。しかも、それは空虚な言葉ではなく、私が生きている限り従うべき、厳粛なる宣誓なのだ。私はこれを信仰告白とした。一人の人間の信仰告白、そして強力な組織(國家社会主義)の信仰告白だ。私は、譬え自分が排除される運命にあろうと、この戦いは最後まで戦わねばならないと知っている。この運動は、その保証である。この戦いは我々にとって妥協によって終結する戦いではない。我々は、マルクス主義に、我々が容赦なく根絶し破壊すべき我が人民の敵を見る。我々はこれら過去17年間に独逸國家の魂に巣食い、数えきれない損害をもたらした、そしてもし征服できなければ、独逸を破壊したであろうその傾向と最後まで戦わなければならない。ビスマルクは、自由主義社会民主主義のペースメーカーであると語った。私はここで社会民主主義共産主義のペースメーカーであるという事を語る必要なないであろう。そして、共産主義は、死、國家の崩壊、絶滅の前兆である。我々は、その戦いに既に参加しており、そして、その死に至るまで、戦い続けるであろう。

 

國家社会主義

國家社会主義は、アドルフ・ヒトラーの頭だけで完成したものではない。勿論、ヒトラーはその形成に多大なる貢献をしたのだが。その中傷者(猶太人宣伝工作員)は、「ナチ」イデオロギー(「ナチ」と言うのは、猶太人による國家社会主義を軽蔑した用語である)を偏狭な気違いによる浅薄な幻想と特徴づけているが、しかし実際には、國家社会主義とは首尾一貫し、根拠がしっかりした、高名な思想家と学者によって編み出された社会哲学である。猶太人の宣伝工作で描かれた人物像とは裏腹に、ヒトラーは彼自身、第一級の思想家であり哲学者であった。正式に教育されたわけではないが、彼は強い知性的好奇心を持った、精力的な読書家であり、研究家であった。

インディアナ州のボール州立大学で歴史学の教授であったローレンス・バーケン博士は、アドルフ・ヒトラーは、歴史上の指導者の中で最も哲学的であったと断言する。「ヒトラーは、自分のメッセージを魅力的で解りやすい形式で人前に提示する天賦の才を持っていた。ヒトラーの主義主張で最も惹きつけられる特徴は、その楽天主義にあった。聴衆に伝わる興奮を誘ったもの、それは、単に彼の雰囲気ではなく、彼のメッセージそのものなのだった。彼は、独逸版の「良き知らせ」を示す世俗的な救世主であった。階級の和解の可能性、國家再生の計画、世界の敵(その排除が次の千年の時代を拓く)の認識など、全てが聴衆を煽ってその深みに導いた。ヒトラーは、もう、華やかな知識階級の洗練された弁舌の中では殆ど存在しなくなっていた(啓蒙)哲学者の言語で語った。」

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