ドイツ悪玉論の神話029

第八章 ヴァイマル独逸の猶太人

欧州に吹き荒れた1848年の革命[1]以後、猶太人に科せられた伝統的な制限の殆どが解除された。独逸は特に猶太人に対して寛容で、彼らに対して他の市民と全く同じ権利を与えた。制限がすべて解除されて、猶太人は独逸で急激な速度で繁栄し始めた。繁栄してゆく中で1871年に独逸が単一國家に統合し、猶太人は他の独逸人よりも遥かに高い繁栄の域に達した。全ての猶太人の成果の為に非猶太人多数派住民を犠牲にして協力する、彼ら特有の能力により、強力な競争力の極致に立った。皇帝ウィルヘルムは、引き続き彼らを政府の大部分から外していたので、皇帝の下では彼らは重要な政治的権力を得られないでいた。それが、第一次大戦後の皇帝の退位後にヴァイマル共和國の出現で、公機関の仕事に就くことを禁止する制限が取り払われたときから、変わろうとしていた。

この頃、東欧の猶太人が、戦争による混乱とそれに続くロシア革命、更にそれに続くロシアの内戦の結果、独逸に大挙して押し寄せ始めた。大量の人々がこれら、東欧の危険な地域から國境を越えて、ロシアと國境を接する東プロシャを通して独逸に移動したがった。ヴァイマル共和國初期の独逸の移民局長官は、猶太人(Herr Badt)で、独逸への移民希望者のうち猶太人を優遇した。同じころ、他の欧州諸國では、未だ猶太人の移民に厳しい制限を維持していた。これらの東プロシャに大量に流れてきた新参者は、独逸國内に拡がり、独逸の大都市によくあった他の猶太人共同体に合流した。皇帝が去り、制限がすべて解除されて、猶太人はヴァイマル共和國の政府機関事務所に押し寄せた。更に彼らは、組織的に独逸の公共機関や専門職に就職した。猶太人は民族としてかたまり、常に自分たちの間で公機関や組織での昇進を行い、また、主要な大学の入学枠の中で猶太人が一番優遇されることが保証されるように裏で操るなどした。西洋キリスト教徒は一般的に雇用や昇進に際して、「能力」テストを用い、人種や宗教は、能力の次に、あるいはまったく考慮されないが、猶太人は自分たちの関係者・手下を「猶太人」であることを優先に基本に据え、同時に「能力」もあれば當然OK、と言う選び方をする。ヴァイマル共和國で猶太人に支配された組織では、非猶太人は、雇用や昇進で競争に勝てることは無かった。猶太人は常に他の猶太人を撰ぶ。この強力な仲間内の協力と猶太人同士の互助により、猶太人は、独逸のあらゆる公機関への急速な浸透を促した。行動形態はいつも同じであり、まず、名前を非猶太人的な名前に変えて自身の出自を隠し、更に猶太人であることを否定したり、或いはそこに注意を向けさせないようにして、猶太人が組織内で役職を手に入れる。一度、猶太人が職に就けば、他の猶太人を招き入れ、そしてその手順の内に徐々に非猶太人を追い出しにかかる。ヴァイマル独逸を猶太人が占拠するのに時間はかからなかった。(今日、全く同じことが合衆國で行なわれているのだ。)

英國で敬愛される歴史家であるアーサー・ブライアント卿は、その著書「未完の勝利」(1940)で猶太人は独逸人口の1%未満しか構成していないにもかかわらず、金属貿易の57%、穀物の22%、繊維の39%を支配していた、と説明している。50%以上のベルリン商工会議所のメンバーは、猶太人で、驚くべきことに独逸株式市場の1474人のメンバーのうち1200人が猶太人であった。独逸の銀行・金融は、完全に猶太人の支配下であった。ヴァイマル共和國の間、猶太人の平均収入は、非猶太人の三倍であったと見積もられている。1928年、たった15人の猶太人が718の役員職を牛耳っていたことが分かった。業界の指導的な立場には、非猶太人一人に猶太人二人の割合であった。

下に挙げるのは、ヴァイマル時代に、独逸の様々な町で猶太人が所有する商工業者の幹部職における猶太人の割合で、猶太人の「労働者(ブルーカラー)」の低い割合が示されている。

都  市

猶太人の幹部職の割合

猶太人労働者の割合

ベルリン

49.4%

2.4%

フランクフルト

48.9%

1.9%

ケルン

49.6%

2.9%

ブレスラウ(現ヴロツワフ

57.1%

1.8%

 

ヴァイマル共和國に於ける猶太人の政治的影響力は彼らの占める人口割合からして途方もなく大きかった。39人の社会民主党代議員の内、38人が猶太人であった。労働者教育機関の会員の81%が猶太人だった。

ベルリンの合法的な劇場は29あったが、そのうち23が猶太人の監督であった。1931年當時、144の映画脚本が映画化されたが、そのうち、119本が猶太人作家によるもので、77本が猶太人に制作された。舞台劇の内、少なくとも75%以上のものが猶太人によって書かれた。

ジョセフ・エバリーは、1929年2月3日の雑誌「美しい未来」で、
「猶太人の映画業界における占有率は余りにも決定的で、非猶太人の起業の余地はほとんど残されていない。」
と書いている。

そして更に悪化する。ベルリンの大学の薬学部の指導教官の内、45%が猶太人であった。ゲッチンゲンでは、数学の教授の34%、医学部の教授の34%が猶太人で、芸術部の40%、法学部の47%が猶太人であった。ブレスラウでは、薬学部で45%、法学部で48%、芸術学部で25%が猶太人、ケーニヒスブルクでは、芸術学部で7%、法学部が14%、薬学部が25%猶太人であった。

1928年、弁護士の猶太人割合は、ドルトムント29%、ハンブルク26%、シュツットガルト26%、ジュッセルドルフ33%、カールスルーエ36%、ボイテン(現ビトム)60%、フランクフルト64%、シュテティーン(現シュチェチン)36%、ベルリン66%であった。

個人開業医の猶太人の割合(1928)は、ヴィースバーデン20%、カールスルーエ26%、ケルン27%、マインツ30%、ゴータ31%、ボイテン36%、ベルリン52%であった。

ベルリンにある病院の医師の猶太人割合は、モアビット病院56%、フリードリッヒスハイン病院63%、ノイケルン病院が52%に及んだ。

著書「Mein Leben als deutscher Jude(独逸の猶太人としての私の人生)1980、でナホム・ゴールドマン医師は、「独逸の猶太人の驚異的興隆」として次の様に記述している。
「独逸の猶太人は、ナチス時代に一時的に終焉を迎えたのだが、それは、最も興味をそそられる、そして、猶太の近代史に於いて最も影響力のある欧州猶太人の中心地であった。その解放の時代(19世紀後半から20世紀初期)に於いて、流星のような興隆を見せたのだった。猶太人は、帝國時代の独逸における急速な工業の発達に全面的に参加し、重要な貢献をし、独逸の経済活性に名声の高い地位を得た。経済的観点から見ると、独逸の猶太人には、他のどの國の猶太人も、米國の猶太人でさえも敵ではなかったであろう。彼らは他では比べ物にならないくらい大規模な銀行に関わり、更に、多額の融資・金融取引により独逸産業界にも浸透していった。かなりの部分の卸売取引は猶太人の手になるものであった。海運業や電機産業が良い例であり、バーリンやラーテナウ[2]などの名前によりこの主張は確認できる。私は、欧州や米國で解放された猶太人の中で、独逸の猶太人程、斯くも経済全体に深く根差した猶太人の事は殆ど知らない。米國の猶太人は今日、絶対的にも相対的にも當時の独逸の猶太人よりも裕福である、という事は事実であろうが、しかし、その、無限の可能性があると言われる米國においてさえ、猶太人は、當時の独逸の猶太人ほど産業の中心部(鉄鋼、製鉄、重工業、大規模金融、海運業)に浸透し得ていないのだ。

彼らの独逸での知的生活も同様に比類なきものであった。文学に於いても傑出した名前で代表された。劇場は大方彼らの手にあった。日刊の新聞、特に國際的に影響力の大きな部分は本質的に猶太人所有か、その支配下にあった。今日、ヒトラー時代の後には非常に逆説的に聞こえるかもしれないが、19世紀に提供された解放(制限解除)を独逸の猶太人ほど広範に利用した猶太人は世界の他にその例を見ない! 一言で言えば、1870年から1933年までの独逸における猶太人の歴史は、恐らく他のどの地域の猶太人が達成したよりも栄光に満ちた興隆であった、という事だ。」

更に、同じくゴールドマン医師によると、「独逸の猶太人の大半は、全く同化されなかったし、他の西欧諸國の猶太人よりもずっと「猶太的」であり続けた。

ここでゴールドマン医師が明かし、漏らしたことは、恐らく期せずして、當にナチスが言っていたこと、つまり、猶太人が独逸の國家組織の殆どを支配してしまった、という事である。しかしながら、彼らは、人口に於いては、独逸人の1%に満たなかったし、同様にゴールドマン医師が指摘したように彼らは、全く同化されなかったのである。この一握りの少数エリートたちは、独逸人にとっては、独逸人とはかけ離れた外國人であったにも関わらず、実際に独逸の國を動かしていたのだ。この視点から見ると、ヒトラーナチスの運動とその反猶太的感情は、ずっと理解しやすいものとなるだろう。今日の猶太人の宣伝工作員は、當時の独逸に於いて猶太人が大きな力を持っていたことを否定する所以だ。

ナホム・ゴールドマン医師は、ビアホール一揆ミュンヘン一揆)の後、ナチスにより共産主義者の秘密代理人として非難された熱狂的シオニストであった。彼は、1935年に独逸の市民権を剥奪され、後に米國に移民している。ゴールドマン医師は、ラビ・スティーブン・ワイズの世界猶太人会議設立を手助けし、ナチスの猶太人に対する煽情的(でもでっち上げ)な残虐話の積極的な提供者となった。

 

[1] 1848年からヨーロッパ各地で起こり、ウィーン体制の崩壊を招いた革命。1848年から1849年にかけて起こった革命を総称して「諸国民の春」とも言う。

[2] アルベルト・バーリンは、19世紀から第一次大戦後まで独逸海運会社ハパックの猶太人経営者。ヴァルター・ラーテナウは、独逸電機業界を立て直した猶太人実業家、政治家。

(次回はヴァイマルドイツの頽廃文化についてです。)

 

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