ドイツ悪玉論の神話008

1871年の統一に至る迄、誰も独逸についてそんなに懸念はしていなかった。それまで、「独逸」と言うのは、欧州中央の独逸語圏の王國、公國、都市國家、そして主権領地を指す地理的概念に過ぎなかった。しかし統一後の独逸の大國としての急速な興りは、周辺隣接國に懸念を生じた。ナポレオン戦争終結後、1815年にウィーン会議メッテルニヒが築いた古い力の均衡は、独逸統一後の大國としての急激な好景気に至るまでの欧州國際関係の基盤として役割を果たした。

独逸は欧州大陸に於いてすぐにフランスに代わる支配的大國となり、それは、英國のエリートたちを恐れさせた。英國はそれまで、フランスを欧州大陸での伝統的な敵でありライバルと見做していた。しかし英國の力は既にはるか以前にフランスのそれを凌駕しており、フランスはもはや英國の支配的な地位を脅かす存在ではなかった。独逸の工業大國としての顕著な発展は、しかし、英國のそれに挑戦しつつあった。その結果、英國は対独逸の影響力として、フランスと友好的な関係を築こうと努力していた。英國にしてみれば、欧州大陸全体が大國独逸の下に一つの経済統合体となりつつあり、英國を弱小のわき役に追い落とすような脅威に見えた。独逸が大國になればなるほど、英國の指導者の心配は募るばかりで、とうとう、彼らは如何にして「成り上がり者」独逸を小さくするか、という事を思案し始めた。最後には独逸との戦いは避けられないと思い始めた。

1904年、英國はフランスと「英仏協商」、次いで、「英露協商」を結んだ。そして、フランスとロシアは、「露仏同盟」を結んだ。このようにして、拡張する独逸を制する目的の英仏露による「三國協商」が形作られた。

 

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1904年の独逸の風刺漫画: ジョン・ブル英國)が、三色旗ドレスを纏った娼婦アリアンヌ(フランス)を連れてカイザー(独逸皇帝)とすれ違い、離れ際にカイザーを振り返っている


この独逸に対する敵対を改善するため、第一次大戦前、独逸はロシア、フランス、特に英國と和解するために積極的に努力するが、無駄に終わった。何故なら、問題の本質が、超大國として発展する独逸の存在そのものだからだ。各國とも、それぞれに独逸と利害対立する理由があった。先ず、ロシアは、海軍も商船団も暖かい(凍らない)海の出口である黒海に至るボスポラス海峡の支配を望んでおり、その為には戦争も辞さないつもりだった。ボスポラス海峡は當時、同盟國オスマン帝國を通じて独逸が支配していた。次に、英國は独逸を英國の経済支配の脅威と見ており、独逸の國力を削ぎたかった。そして、フランスは、1871年普仏戦争の敗北の復讐をして、その上、失地のアルザスとロレーヌ地方を奪還したかった。このように三國とも独逸の経済力を削ぎたかったが、その唯一の方法が軍事力であると見ていた。独逸の外交努力は、これらの要因で悉く挫折した。独逸の統一國家としての存在自体が問題なのであり、その解体以外にライバル國家が納得する方法はなかった。フランスとロシアは、独逸に対して策動し、遂には戦争に至るように計画を巡らした。英國は、独逸に戦争を仕掛ける口実を探していた。しかし、独逸はその過大な成功以外、何も落ち度はなかった。

英國と独逸は、よく、欧州における、「一卵性双生児」に譬えられる。彼らは同じ民族であり、更に、同じような、高度に組織化された優秀な文化を持ち、どちらも(主に)プロテスタント、目的達成の為に攻撃的性格があり、立憲君主制の歴史を持つ國である。英國は独逸と喧嘩しなかったし、独逸も英國と喧嘩しなかったが、唯一例外は、英國が独逸の経済発展に取り憑かれたように悩んでいたことだ。英國は、独逸より國土も小さく、人口も少なかったが、世界最大の帝國、いや、史上最大の帝國を率いていた。しかし、独逸は、工業力で凌駕した。更に、独逸は英國の海軍の脅威となる海軍を増強していた。英國はまた、両國を比較した経済力の予測に痛いほど気づいていた。英國の経済力が、下降線であったのに対し、独逸は、上昇線であり、このままでは、英國の将来にとって良くなかった。英國は、未だ自分たちの力が充分なうちに独逸に対抗する必要がある、と信じた。

1912年から1914年の間、駐パリのロシア大使、アレキサンダー・イズヴォリスキーとフランスのレイモン・ポワンカレ大統領は、「英國を敵に回すような外交危機があれば」独逸に開戦する、と言う合意を結んだ。そのような危機は間を置かずに発生した。セルビア人がオーストリアフランツ・フェルディナンド大公を暗殺する事件が、1914年6月に起こったのだ。オーストリアハンガリー帝國は、独逸の無条件の支持(額面のない小切手)を取り付けて、セルビアに宣戦布告した。この「小切手」が手渡されたのは、独逸の高級官僚が、そうすれば、ロシアがセルビアに代わってオーストリアハンガリー帝國に敵対する干渉をしないだろうと踏んだからだった。独逸の判断では、オーストリアハンガリー帝國がセルビアとロシアに敗けると独逸は完全に敵國に取り囲まれることになるのであった。オーストリアハンガリー帝國を支える事は、独逸の安全保障上、非常に重要であった。しかしロシアは、セルビアの指導者であり、保護者であると考えており(セルビアは、ロシアの「スラブ人の兄弟分だった」)、とりあえず、独逸の「小切手」を無視してオーストリアハンガリーに戦争になると脅した。独逸は、ロシアとの間に入って調停し、戦争を回避しようとしたが、ロシアとその同盟國フランスは、これを待っていた好機と捉え、和解を拒否した。それどころか、ロシアは、急遽、総動員を命令した。そのような動員は、欧州では古くから宣戦布告と同等の行為と見做されていた。即刻、ロシアに総動員を取り下げるよう要求したが、その甲斐もなく、独逸は8月1日にロシアに宣戦布告し、即刻、國内総動員をした。フランスはその三日後に総動員したが、実際にはフランスは、独逸がロシアに宣戦布告する一日前、独逸の対仏宣戦布告より三日前に既にロシアに対して対独戦の意志を伝えていた。フランスの総動員は、つまり、独逸の対露宣戦布告の結果ではなかった。動員はすでに決まっていた。独逸は、この意味に於いて侵略者ではなく、ロシアとフランスの先制に対応したに過ぎなかった。

独逸は、欧州大陸の中央部、平たい、天然の要害が無い平野に位置しており、仮想敵に完全に囲まれている。であるから、二方面以上からの侵入に特徴的に脆弱である。だから、独逸は、その陸軍を動員するのに様子を見ているような立場ではなかった。独逸は、仏露間の戦争の口実づくりの策略・謀議を熟知しており、依って、継続的な注意を怠らなかった。独逸の軍部指導者にとっての悪夢は、二方面同時の戦い、一方でフランスと、もう一方でロシアとの戦いであった。これに反撃出来る様に独逸は、「シュリーフェンプラン」という戦略を編み出した。この作戦は、即効動員、戦力集中、そして、ベルギーを通って電撃攻撃でフランスをまず攻略してしまい、その後に踵(きびす)を返してロシアにかかる、こうして二方面戦闘を避けることを求めていた。シュリーフェンプランは、先制攻撃をまずフランス、次にロシアに求めたが、プランは、その根底において、防御の戦略であり、侵略の戦略ではなかった。二方面から攻撃されるのを待つことは、自殺行為であるから。1914年8月3日、戦争が避けられないと見た独逸は、ベルギーを難なく超えてフランス領内に侵攻した。しかし、シュリーフェンプランで計画したフランスに対する急襲・猛烈な一撃は出来ずじまいだった。

ここで英國が8月4日に独逸がベルギーの中立を侵した、と言う口実で独逸に宣戦布告した。しかし英國の本當の対独戦の理由は、経済的なライバルとしての独逸を破壊する事にあった。その理由だけの為に英國の指導者はフランスとロシアの対独戦に加担したのだ。実際問題として英國の内閣が対独戦参戦を決断した時、ベルギーのことなど議論されなかった。ベルギーは単に戦争の口実に利用されただけだった。更に、もし独逸がベルギーを占領しなかったら、逆に英國は迷うことなくそうしたことは間違いない。

ベルギー越しにフランスになだれ込んだ独逸は、攻撃目標のパリに達する一歩手前、マルヌの戦いで、進撃が止まってしまい、それは即座に「動的闘い」に終止符を打った。膠着状態と塹壕戦が取って代わり、どちら側も優勢になる事は出来なかった。この状態は、米軍が参戦して膠着状態を打破するまで続いた。

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