ドイツ悪玉論の神話003

ブライスと仲間の6人の調査委員(全員、弁護士・歴史学者・法学者)は、1,200件に及ぶ、独逸の残虐行為の直接の目撃証言を「分析」(それを分析と呼べるならば、)した。殆どすべてが難民として英國に逃れたベルギー人からのものであったが、中にはフランスに居る英國兵士からのものもあった。調査委員会は、目撃者への直接の審問は一切せず、代わりに文書に書かれた陳述に依存した(次の大戦後のニュルンベルク裁判への伏線)。戦時中の事だったので、残虐行為の「現地」調査も行われなかった。目撃者は、陳述した兵士も含めて、唯の一人も身元を(名前で)特定されなかった。にもかかわらず、調査委員会は、どんなにあり得ないものも含めて、すべて残虐行為が真実であると追認した。このインチキの調査も英國による反独逸宣伝工作の一つでしかなかったのだ。

ブライス報告書」は、1915年の5月13日に発表され、英國政府は、それが、すべてのアメリカの新聞に必ず配信される様に画策した。その衝撃は、特に時期的に英國商船「ルシタニア号」撃沈で135名のアメリカ人が犠牲になった直後であったこともあり、驚くべきものであった。独逸への憎悪の波が全米を駆け巡った。独逸への憎悪は、熱狂的になった。アメリカの世論は、急激に参戦に熱狂的(賛成)になった。(実際、ルシタニア号の撃沈についてもアメリカを戦争に巻き込む為に独逸の潜水艦に故意に曝け出すように、時の海軍大臣ウィンストン・チャーチルによる「おとり」として仕組まれたのではないか、と言う、充分に根拠のある疑いがある。)

しかし、當初からブライス報告書に対する疑念はあった。英國國内では、ロジャー・ケースメント卿が、報告書が虚偽だと言い、反論する独自の報告書を書いたが、誰もあまり注目しなかった。アメリカの弁護士、クラレンス・ダロウは、疑念のあまり、1915年にフランスを訪れ、ブライス報告書を裏付ける目撃者を探し求めたが、無駄に終わった。ダロウは、なおも疑いが晴れず、ベルギーで独逸兵に手を切断された少年を見つけてくれた者、あるいは、ベルギーかフランスで独逸軍に手足を切断された被害者に當時の金額で千ドル(現在価値で二万五千ドル)の懸賞金を賭けたが、誰も現れなかった。

ブライス委員会が調査の根拠とした「証拠」は、それを集めるための手段も同様に証拠として基本的な規則基準に違反するものばかりであった。注意深い学者がずっと以前に論証している通り、報告書の全てが事実の歪曲と明白な虚偽によって創作されたものだった。しかし、英國は、はなから合衆國を参戦させることを決心しており、ブライスと委員たちは、その積極的な共犯者に過ぎなかった。彼らの言い分(正當化)は、その虚偽と誇張は母國の為という、より高い目的のために役立った、という事だ。第一次大戦後、殆どの歴史学者は、ブライス報告書の残虐話の99%が捏造であったとして却下した。その報告書「自体が戦争における最悪の暴虐の類だ」とも呼ばれている。トーマス・フレミングは、著書「勝利の幻影」の中で次のように述べている。
「戦争の後で、ブライス報告書を検証しようとした歴史学者が、(報告書の)ファイルが不思議にも消えてなくなった、と告げられた。」

戦争が継続する中で、もう一つ、捏造話が広く流布した。その報告は、独逸が「死体処理工場」を稼働し、そこで独逸や連合軍将兵の戦死体を溶かして、脂肪とその他の製品として軍需物資の調達に利用している、と言うものだった。独逸人は、人間の脂肪で石鹸を作った、と非難された。人間の皮膚は高級なランプシェード、ドライブ用の手袋、乗馬用のズボンに加工され、骨は、挽いて農場で肥料にされた、と。

この「死体処理工場」について、詳細な説明が、高く評価されている英國の「タイムズ紙 The Times」に1917年4月17日付で掲載されている。その記事によると、大きな工場に死体を満載した貨車(列車)が到着する。死体は、何処が終点かわからないチェーンに装着したフックに吊るされる。記事は、以下の様に入念に死体工場内の処理を記述する。
「死体はこの長大なチェーンで輸送され、まず、細長い空間に入り、そこで消毒槽を通される。次に乾燥室に入り、最後に自動的に大釜・消化釜に運ばれ、そこでチェーンから外す器具によって、釜に落とされる。消化釜の中で6~8時間とどまり、解体のため、蒸気処理される。中で機械にゆっくりかき回されるうちに死体は解体される。この処理により、数種類の製品が出来上がる。脂肪は、ステアリンと蝋分と油に分解され、使用前に更に蒸留される。蒸留処理は炭酸ソーダ重曹)と一緒に沸騰する事で行い、その副産物は、独逸の石鹸メーカーで使用する。油分の蒸留・精製は、工場の南東の隅っこで行なう。生成された油は、原油の輸送に使われるような樽に詰められて送り出される。色は黄色っぽい茶色である。」この緻密な描写に注目!

この話は、全てが完全な捏造であるが、特にその詳しい内容により、「もっともらしい」話であり、戦争が続行する間、独逸は完全に反論することが出来なかった。勿論、戦後になって、虚偽の話として暴露された。そのような死体処理工場は存在しなかった。ここで興味深いのは、人体から石鹸を作ったという話が、第二次大戦中に猶太人の死体から石鹸を作ったという話となって、再登場する事だ。この大嘘は未だに広く信じられており、猶太人のホロコースト宣伝工作の要素の一つとなっている。「人の皮で作られたランプシェード」の話も第一次大戦にその大元があって、それもまた第二次大戦中に独逸人が猶太人の皮でランプシェードを作ったとして再登場している。これもとてつもない話だが、ホロコースト宣伝工作の要素となっている。

歴史家のトーマス・フレミングは、その著書「勝利の幻影」の中で、次のように見ている。
英米の両エリートにまき散らされた戦時宣伝工作の目的は、広く一般的に独逸のイメージを『恐怖のサディズムが潜在する怪物』の創作で – それは集団的殺人的憎悪の訴えを信心家ぶったうわべで塗り固めたものだった。」フレミングは続ける。「その策略は、狙った聴衆を人間以下の堕落の惨状に対する身震いするような恐怖に即座に引きずり込み、心底、復讐の欲求の熱望と、その純粋に人道的な動機の熱狂的な独善の状態に置くことであった。それに屈服した人々は容易に、公式に認知された憎悪の群集心理に陥り、自分たちが信じている典型化された敵よりももっと極悪非道な犯罪を犯す覚悟が出来るのである。」

ブライス報告書は、他の全ての反独逸宣伝工作同様、疑いなく、英國の勝利に貢献した。数百万のアメリカ市民や他の中立國國民に独逸が人間の姿をした獣であるという事を確証させたが、就中、何を於いても米國を参戦させるのに貢献したのであった。しかしこの毒々しい残虐話の宣伝工作は、(思わぬ)逆の結果をももたらした。つまり、民衆の独逸に対する意見を回復不可能なまでに害してしまったのだ。例えば、それは、停戦後に、英國がなおも独逸に対して7か月の長きに亙って海上封鎖した決定の明らかな原因の一つでもあった。ついでながら、この行為は國際法違反であった。この海上封鎖により、百万人に上る独逸の一般市民が餓死し、更に数百万人が塗炭の苦しみを味わった。この海上封鎖は、第一次大戦の戦い自体よりもはるかに大きな、最大の残虐行為であったが、そのことは、一般にはほとんど知られていないばかりか、それは、邪悪な独逸ではなく、聖人の(ぶった)英國の所業だったのである。

この妄信的な独逸への憎悪に加え、この反独逸宣伝工作は、大戦後の独逸に対する極めて苛酷な平和条約にも貢献し、そのことが、第二次大戦の種を蒔くことになった。歴史学者や他の学者がこれらの独逸の残虐話は、馬鹿げていて、全くナンセンスだと暴露したにもかかわらず、独逸悪玉、のイメージは固定されてしまった。1914年までの世界の独逸に対する善良な意見は、この様にして、一夜にして他に例を見ない独逸の野蛮の神話に取って代わったのである。そしてそれは、恒常的に西側の意識に深く独逸恐怖症として残ることになった。これが、何故「我々の若者」が第二次大戦中、空襲によって、喜んで独逸の都市と言う都市を壊滅させ、何十万と言う独逸人を殺したか、説明してくれるだろう。この憎悪を煽る宣伝工作は、大嘘であったのと同時に、独逸の人々をして、完全にその士気を挫く効果があった。

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