ドイツ悪玉論の神話002

一夜にして崩れた独逸の肯定的なイメージ

独逸に対するこのような見方は、第一次大戦勃発と共に、殆ど一夜にして変化する。1914年の開戦後から、強欲で血に飢えた、そして特徴的に侵略的な独逸のグロテスクなイメージが降って湧いた様に形作られ、欧州と米國で典型的な独逸像となった。この独逸の新しいイメージは、英國による、そしてのちには合衆國政府にもよる、敵意に満ちた反独逸宣伝工作戦が直接の原因で、故意で組織的な嘘、歪曲と虚偽の残虐話が英米の大衆にまき散らされた。英米の大衆の感情は作為的に、俄かに「フン*」への憎悪の狂乱となった。あらゆる独逸のこと・ものに対する病的な敵意が(それは、後日、通常で不可欠な西洋の独逸に関する考え方となるのであるが)、この様に巧みな宣伝工作戦によって生み出されたのだ。

第二次大戦が終わってから、歴史学者ハリー・パクストン・ハワードは、この第一次大戦の開戦後に急に起きた独逸の評判の変遷について検証した。ハワードが記したところによると、独逸は大戦において悪であっただけでなく、それ以前からずっとそうであったようにされてしまい、その線で、史実とは逆に、歴史上常に欧州・米國の敵であったようにされてしまった。彼は次のように記述している。
「実際のところ、言葉をそのままの意味で理解すると、最大の歴史改訂(改ざん)の作業は、第一次大戦中に、我々の「歴史」では独逸が常に我々の敵であり、1914年の戦争は独逸が始めた、1870年の普仏戦争も独逸が始めたものだ、と指摘した時に行われたのだ。しかも独立(革命の)戦争に於いても英國ではなく、ヘッセン人(独逸人)が相手だった – ベルギー人がコンゴ住民の手を切断したのではなく**、独逸人がベルギーの赤ん坊の手を切断した、と言う話は言うに及ばず、である。これこそが、アメリカ人の意識を40年以上に亙って歪めてきた、真の「歴史の改訂(改ざん)」である。」

独逸も含め、戦争の當事國は、歴史において全ての戦争で為されてきたと同様に、敵國に対抗する宣伝工作を使ったが、独逸と中央同盟國は、この点において素人臭く、英國に比べ、効果的ではなかった。独逸の戦時宣伝工作は、感情に訴えるよりも理性に訴える傾向が強かった。独逸は敵が血に飢えた、非人間的な野獣である、とは表現しなかった。連合國側、殊に英國は、対照的に世界の世論を操作し、独逸の残忍さの作り話をまき散らす名人であることを証明した。大戦初期より、独逸の残忍話は英米の新聞に溢れていた。(その頃の米國の新聞は殆どの欧州の記事に関して、英國に管理された海底ケーブルを通じての英國の情報サービスに依存していた。独逸は米國の報道に立ち入れなかった。大英帝國は、独逸の6本の大西洋横断海底ケーブルを切断する事により、それを確実にしたのである。)

最初の残虐行為の話は大戦初期にベルギーを通過進軍した独逸から出た。独逸の目的はベルギーを攻撃する事自体ではなかったが、フランスの防衛線を出し抜いて、更にパリへの進撃の為にベルギーを通過する事であった。この戦略は、「シュリーフェン・プラン」として知られていたもので、これが独逸にとってフランスに短期勝利する為の唯一の方法と信じられていた。独逸によるベルキー中立の「侵害」は、英國にとって、独逸に対して開戦する口実となったが、実際には他の理由(主に経済的理由)により、開戦はすでに決定されていた。ベルギーの件は表面的な理由に過ぎなかった。開戦するには民衆の支援が必要だ。独逸のベルギー占領の結果としての宣伝工作の機会と捏造したベルギーに於ける独逸の残虐行為が、その目的を果たしてくれた。行軍中の毛深い手の甲をしたピッケルハウベのヘルメットを冠ったフンが、軍歌を歌いながらベルギーの赤ん坊を放り投げ、それを銃剣で突き刺して受けているのを見た、という「目撃者」が探し出された。独逸の兵隊が、ベルギーの少年の手を切断した、(ライフルを撃てない様にするために)と言う話が広く報告された。乳房を抉り取られた女性の話は、もっと早く拡がった。連合軍兵士を十字架で磔した、という話もあった。當時の欧米人は今よりも宗教的で、十字架で磔の話は、憤激を起こした。(ここで一つ注意していただきたいのは、近代訴訟法に於いて、あらゆる形態の証拠の内で、目撃証言は最も信頼性が低いと考えられていることだ。)

就中、強姦の話は、残虐行為の話の中で一番一般受けする。ある「目撃者」は、独逸兵がベルギーの占領都市でいかにして20人の若い女性を家から引きずり出し、町の広場のテーブルの上で体を伸ばしたか、そして周りで兵隊が歓声を上げて観ている中、それらの女性がそれぞれ、少なくとも12人のフンに強姦されたか、について述べた。このような宣伝工作を毎日のように見せられて、英國の民衆は、憎いフンに対する復讐を断固要求した。ベルギー人のグループが米國人にこれらの話を聞かせるために(英國の費用で)アメリカを旅行した。(英國は、アメリカを大戦に巻き込みたかった。)ウッドロウ・ウィルソン大統領は、ホワイトハウスで一行を厳粛に遇した。

この宣伝工作で、英國は、侵された中立國ベルギーを守る「白馬の騎士」として描かれた。これは何とも皮肉な世論の操作である。何故なら、もし独逸がベルギーの中立を侵していなかったとしたら、勿論、英國は躊躇なくそうしたであろうから。

独逸は怒りを以ってこれらの話をすべて否定した。米國の独逸軍従軍記者も嘘であることを知っており、やはり否定した。しかし、これらの否定記事は、米國の新聞に載る術がなかった。米國の新聞に何を流すかは、英國の統制の下にあり、残虐話を作成しているのは、まさにその英國であった。この虚構の残虐話の信用を更に高めるために、英國は1915年の早い時期に、ブライスを王立(高等)委員会の委員長として調査を指揮するように依頼した。英國政府は、當然、ブライス子爵がこの虚偽の宣伝工作を支持すると踏んでおり、子爵も忠実にそうした。ブライス子爵は、米國では著名な世評高い歴史学者であった。彼は以前に駐米大使を務めた人であり、アメリカ政府を称える本を何冊か書いている。英國は、彼が米國で高く評価され、尊敬されており、しかも、公正で正直だという評判がある事も知っていた。米國は、彼の言う事なら何でも信頼するだろう。ブライスはまた、非常に自國に忠節であったので、この作業にはうってつけだった。

 

訳者註:

*「フン(Hun)」は、ローマ時代に西匈奴が欧州に至り、ゲルマン民族の大移動をもたらした時の西匈奴の事であり、厳密にはドイツ人を指す言葉ではありません。しかし、ローマ人にとっては「東から来た狂暴な未開人」のこととして、この「フン」と言う言葉が残ったのでしょうね。(この「フン」は、ハンガリー人の祖先の事でしょう)

 

**「ベルギー人がコンゴ住民の手を切断」

ベルギーは1884年ベルリン会議でベルギー国王レオポルド二世の私的財産としてアフリカのコンゴを植民地(コンゴ自由國)としてポルトガルから接収した。だがそこでは私的財産であることからベルギー政府の目が届かず、数々の残虐行為が行われていたという事実が発覚し、欧米列強から批判された。例えばゴム栽培の生産ノルマが果たせないと手足を切断されることもあったという。ここではそのことを喩えている。しかし、この残虐行為は、アフリカ植民地でライバルであった英国、特にセシル・ローズの一派によって誇張・捏造された宣伝工作という説もある。

次回 ドイツ悪玉論の神話003   前回 ドイツ悪玉論の神話001