ドイツ悪玉論の神話001

第一章 独逸が邪悪な民族であるという神話01

世界終末的な二度の世界大戦に敗北した結果として、独逸は、欧州における邪悪な國家と言う評判を得るに至った。「独逸人」と述べるだけで、未だに肩の張ったプロシャの将校が率いるロボットの様な、膝を伸ばして行進する突撃隊員が行軍し、近隣の平和を愛する諸國に無用の殺害と破壊をもたらす、と言う印象をもつのである。我々は、独逸人を内在的に軍國的で、侵略的で、暴力的で、人種差別的で、反猶太的でしかも、権威に盲従する偏った性格であるとする、苛酷な宣伝工作に洗脳されてしまっているのだ。何百ものハリウッド映画、執拗なホロコースト宣伝工作、それに数えきれない本や雑誌の記事など、常にこの独逸に対する否定的な印象を民衆の心に焼き付けてきた。独逸人が行ったとして非難されることの、説明のつかない恐怖に理性的な動機など必要ない。彼らの邪悪な天性がそれを全て説明してくれる自明の理なのである。

f:id:caritaspes:20190311055724p:plain

プロシャ風軍隊の行進風景

例えば、猶太人の映画監督、スティーブン・スピルバーグの映画「シンドラーのリスト」を取り上げてみよう。ナチの強制収容所の所長(想定ではプラショフ収容所で、クラコフの郊外にあった。アウシュビッツからそう遠くはないところだ)は、シャツも纏わずに露出した肩にライフルを構えて自宅のバルコニーに立っている。ライフルは照準器付きだ。映画では、所長の自宅は収容所を望む丘の上にあり、収容者の一群が動き回っているのを見下ろすことが出来る。所長は、ライフルを構えて、照準器で無作為に次から次へと収容者に狙いをつける。照準器の画像がアップで映画のスクリーンに映し出される。照準器の十文字が何気なく選ばれた収容者の一人に止まる。所長は引き金を引き、収容者は、地面に倒れ、死ぬ。映像は、所長に戻り、そのライフルの銃底を作動させて再び何気なく肩に戻す動作を退屈したような呑気な様子として映し出す。再び撃ち、収容者は、再び地面に倒れ、死ぬ。「狙い撃ち」に飽きた所長は、バルコニーから部屋の中のベッドに横たわっている、美しい裸のセクシーな女性に注意を向ける。この女性は、所長の猶太人の女中の一人で、彼の性奴隷としても奉仕している設定だろう。所長の表情はさえないが、軽蔑的な皮肉を映している。

この場面の要点は、裸の女中(當然猶太人だろう!)を持ち出すことと相俟って、ナチスの将校が、完全に堕落した、良心も道徳も他の人間への思いやりもない、つまり、精神異常者であることを示している。勿論、撃たれた収容者も全て猶太人を想定している。ここでは二つの猶太人のテーマが結びついている、ナチスの邪悪さと猶太人の迫害である。

このエピソードは、オーストラリア人、トマス・キニーリー(Thomas Keneally)の小説を基にした完全な創作であり、キニーリーは、1980年に一度強制収容所を訪れただけで、何が起こったかについて実際の知識が無い人間である。上記の様な出来事は実際には記録にも残っていないが、殆どの映画の視聴者は、これをそのまま鵜呑みにし、実際の歴史として受け入れてしまうのである。

実際のプラショフ収容所は、所長の自宅から、丘を隔てた反対側であり、そのバルコニーからは完全に視界の外である。もし、彼が上記の様な狙撃をしたがったとしても(それも大いに疑わしいが)、それは決して可能ではなかった。映画の登場人物の元になったプラショフの実際の所長のアーモン・ゲートは、ルース・カルダーという婚約者とその間に生まれた子供と一緒に暮らしていた。ルースによると、結婚するつもりだったけれど戦争末期の混乱でできなかったらしい。後に彼女は、自身と子供の苗字をアーモン・ゲートの父の助けを借りてゲートに変更している。アーモン・ゲートは戦後ポーランド政府(戦後のポーランド政府は全て猶太人だった)により、収容者を射殺したかどではなく、ナチ党員で、親衛隊隊員であったことにより、絞首刑に処せられた。アーモン・ゲートは、美声の持ち主で文化的な人だった、とルースは述懐する。ゲートは実際、所長の間、収容所から選んだ二人の猶太人女中を使っていた。しかし、彼らは映画で描かれているような美貌でも魅力的でもなく、また、女中たちと不適切な間柄であったという情報もない。この(嘘)話は、映画にちょっとした刺激を与えるために加えられたに過ぎない。

もう一つの例として、もう一人の猶太人監督、アラン・J・パクラの「ソフィーの選択」という映画がある。映画の中で、ソフィーと幼い二人の子供がアウシュビッツ収容所(アウシュビッツは、ホロコースト伝説における聖地である)に送られる。収容所に着いて間もなく、「間引き」(間引きはホロコーストの宗教において「キリスト受難の聖なる物語」の一つである)の段階で、典型的なナチスの邪悪な将校(アウシュビッツで名を馳せたジョセフ・メンゲレ博士を想定している将校)に子供は一人しか残せないので一人はガス室送りになる、と告げられ、彼女は、どちらを生かし、どちらをガス室に送るか、という究極の残酷な選択を迫られる。故に「ソフィーの選択」なのだ。映画の中では、邪悪なナチス将校は、一人の子供が死ななければならないという心を引き裂く選択を彼女に迫る、理由も説明も一切しない。邪悪なナチの将校、と言うだけで充分な説明になっているのだ。この馬鹿げた映画は、アメリカ南部のウィリアム・スタイロンという、収容所に関する直接の知識もない小説家の小説が基になっている。アウシュビッツは単に彼の想像力により作り出された物語の為の舞台として使われているだけなのだ。現実にそのような類の事は決して起きなかった。しかし、この様な邪悪なナチスの話は、永い間、ハリウッドの定番であり続けた。映画を見に行く大衆は、この戯言に依って作り話が心の中で現実の事になるように操られているのだ。我々はこの様な大嘘を疑うことなく、受け入れる様に洗脳されてきたのだ。独逸は邪悪だ、だから邪悪な事をする。それ以上説明は要らない。

しかしながら、独逸がずっとそのように見られてきたわけではない。独逸の、悪意のある、略奪する、戦争好きな國家としての印象は、20世紀になってから植え付けられたものだ。19世紀の独逸は、対照的に、平和と啓蒙の國として見られていた。英國の歴史家、フレデリック・ウィリアム・メイトランドは、英國人の見る19世紀の独逸人像として次の様に記述している。
「…独逸人を、青い目で音楽や形而上学の雲の中をタバコをくゆらせながら探求する、現実的でなく、夢見る、感傷的な人種、とするのは、普通の事であり、賞賛すべきことなのだ。」

フランスで影響力が大きかった小説家で、サロンの後援者でもあったスタール夫人(ジェルメーヌ・ド・スタール)は、ナポレオン戦争時代の独逸人を
「詩人で哲学者、親切で、非現実的で、別世界の夢想家、人種偏見が無く、戦争したがらない人種」
と描いている。

アメリカ人も20世紀以前は独逸人に対して善良な意見を持っていた。アメリカの歴史学者、ヘンリー・コード・マイヤーは次のように書いている。
「…新しく統合された國土(独逸は、1871年に一つの國家に統一された)においても、また、我が國においても、独逸人(アメリカの独逸人移民)は、総じて、音楽・教育・科学・工業技術など、アメリカ人の賞賛と競争心を巻き起こす貢献の一方で進歩のモデルとなる几帳面でエネルギッシュな人々である。」

1905年に著名なアメリカの歴史学者であり、教育者であり、また、合衆國の駐独逸大使であった、アンドリュー・ディクソン・ホワイトは、第一次大戦開戦の僅か9年前に、次のように書いている。
「独逸は、騎士・哲学者・労働者の、思惑が交錯する軍閥の、無駄な闘争で消耗し悪意と憎しみに満ちた近隣の國に狙われる、大きな混乱した塊から(整理統合の末)軍事・科学・文学に秀でた-高邁な思想の要塞、文明の守護者、人類のより良き発展を希求する全ての國家にとっての自然な同盟、の強國になった。」

独逸人は、文化、知性、そして科学の成果により、すべての分野で歴史に大いに貢献した人々だ。音楽の分野で、少し数えただけで、18世紀以来のバッハ、ハイドンモーツァルトベートーヴェンシューベルトシューマンのような天才がいる。これらの天才音楽家は、19世紀にシュトラウス一家、マーラー、リヒャルト・ワグナーなどに引き継がれた。文学の貢献としては、ゲーテやシラー、歴史学では、ランケやニーブール、哲学ではカントやヘーゲル、科学の分野では、アレキサンダー・フォン・フンボルトやウィリアム・コンラッド・レントゲンなどの貢献がある。これらは、膨大な一覧のほんの一部である。プロシャの高等教育とナポレオン戦争後に花開いた文化は、何れも欧州と米國に多大な影響を与えた。アメリカの公立学校制度は、大学制度と同じく、プロシャの公立学校と大学を意識してそれらをモデルに作られた。独逸は、世界中から、その高い文化とあらゆる分野での成果ばかりでなく、社会の底辺にまで存在したその実直で勤勉で、秩序だった、倹約精神により、学問の中心として、尊敬されていた。

英國の学者やジャーナリストも19世紀を通じて、彼らの歴史、文化、組織などを含めて独逸のあらゆることに好意的傾向があった。高く評価されているケンブリッジ歴史学者であるヘルベルト・バターフィールドは、英國の独逸に対する高い評価を広範に次のように述べている。
「嘗て英國に於いて独逸の歴史は特徴的に自由の歴史だ、という見方が大勢だった。その理由は、連邦制、議会、自治都市、プロテスタンティズム、それに東方のスラブ植民地においても自由の法律で構成されていたからだ。その頃は、イタリアの教皇への追従、スペインの宗教審問、それにフランスのナポレオンの軍國独裁などから、ラテン諸國が寧ろ権威独裁主義に走りやすいと見做されていた。20世紀になって、独逸が歴史上一貫して侵略者で自由の敵であるという、この見方の逆転と置き換わりは、それ自体がいつか、歴史研究の主題になるであろうことは疑うべくもない。特に、それが英國外交政策の変化と呼応していると考えられるからである。(中略)1900年代の早い時期までアクトンやメイトランドのような英國歴史学会が頂点を究めた頃、独逸への賞賛など述べるべくもなかった – そして明白に弟子(半人前)に成り下がった期間 – が英國歴史学者の間に存在した。」

そして、英國の作家、トーマス・アーノルド(1795年6月13日~1842年6月12日)は、独逸を特殊な権威主義的、統制的傾向を持つ國家としてではなく、寧ろ、「法、それに美徳と自由のゆりかご」として、そして、英國人も同じゲルマン民族の一種族であるところの「一等國としての卓越」と考えた。

次に掲載する写真や絵は、18~19世紀にかけて、そして第一次大戦前夜まで、世界が独逸をどのように見ていたか、を示すものだ。第一次大戦以前、独逸はおとぎ話や夢のようなお城がある平和なところで、勤勉で、法規範が厳しく、規律正しい人々の國と思われていたのだ。

f:id:caritaspes:20190311062048p:plain

f:id:caritaspes:20190311062211p:plain

f:id:caritaspes:20190311062419p:plain

f:id:caritaspes:20190311062443p:plain

19世紀のドイツのお祭の様子



f:id:caritaspes:20190311062505p:plain

ドイツのメーデー



 

f:id:caritaspes:20190311062528p:plain

野良仕事に向かう独逸農民の少女達

 次回 ドイツ悪玉論の神話002