国際秘密力21

第21章  『シオン長老の議定書』下

 

自動車王で有名なヘンリー・フォードは、『ディアボーン・インディペンデント紙<4> 』と呼ばれる彼が所有していた新聞紙上で、マルスデンが準備したのと同様の解説と注釈で補完したプロトコルを発表した。これらは1920年から1922年まで連載された。またこれらは本の形にまとめられ、1920年代では常にベストセラーを維持し、聖書を除くと米国での発行部数過去最高の大ベストセラーとなった。

フォードは長い間無党派の個人として、世界を支配すべく画策していると彼が考えた国際ユダヤ人に対抗して戦った。彼がその独立した財産を、自動車組み立てラインと『T型モデル』を完成させることにより作ったのは誰もが知っていることである。しかし1920年の後半にT型モデルが旧式となり、新しいA型モデルを生産するための再設計と工場再編が必要になった時、フォードは資金を調達することができなかった。

いくつかの奇妙な理由によりフォードは公式に反ユダヤの立場を放棄し、彼が手を下せる範囲のすべての『プロトコル』本を回収した。その回収が行われた時、これまたいくつかの奇妙な符合により、新モデルの生産と工場再編のための資金が利用できるようになった。

この事件はすべてIJCが仕組んだと、私は強く思っている。この様な事件で常に興味深いのは、IJCのメンバーまたはその手先たちは、処置にあたって決して金を浪費しないということである。殆どすべての場合、彼らは逆にかなりの利益を手中にする。

米国国民の中に反ユダヤ的感情が強まるにつれて、米国の10年代後半から20年代初めの世代の中に、ク・クラックス・クラン(KU KLUX KLAN)と呼ばれる組織が台頭してきた。その組織は当時も今日も、KKKまたはクラン(KLAN)の名で良く知られている。この名前は、南北戦争後に南部で起こった『白つばき団(Knight Of The White Camelia)<5>』に似た組織の復活という意味から来ている。

このKKKは、黒人および『ならず者』、『流れ者』を駆逐することを目的に設立された。『ならず者』や『流れ者』は、南北戦争直後に古い貴族や『相当な身分の人々』を襲撃した海賊や盗賊に対する俗語である。

この結社は休眠状態にあったが、自分たちの生活様式が壊されるのを恨む南部の人々により10年代の間に復活し、そこから国中に広がって行った。ウォーレン・G・ハーディング大統領は、彼らの票が無ければ当選できなかった。そして彼らの覆面姿は小数派の人々を度々恐怖に陥れた。

これは全くの余談であるが、私の経験談をお話したい。1940年ごろ、ユダヤ人であった軍の医療関係者について良く覚えていることがある。彼はユダヤ人であったため、サン・アントニオのある地方で最も良いホテルでは入場することも予約することもできなかった。そのホテルはフランクリン・ルーズベルトの下っ端の手先としてはナンバーワンの男、私は後にこの男をその著書により信用するようになるのだが、その男が経営していた。私の母は経営者との間を仲介してやり、そのユダヤ人は母の客としてホテルに泊まることができた。

彼ら少数派の人々については同様のことが至るところで起きている。表面上人類平等を公言してはいるが、差別的なことは日常行われている。例えば私の知っている何人かは、黒人系の人がいない個人的な会話の中では、黒人のことを殆どいつも無礼で軽蔑的な調子で、『黒んぼ(Schwarzers)』と蔑んでいる。つい最近まで最も敬意を払われているあるカントリークラブではユダヤ人の入場を断っており、もし入場を認められたとしても、それは全く名ばかりのことであった。

今日ユダヤ人たちは米国で権力を獲得した。私の意見であるが、彼らは一上流階級として、この国でかって見た中で最も強烈で、最も狭量な人種差別主義者となり、しかもあらゆる美辞麗句を連ねて偽善的*に『平等』を公言している。私は彼らの偽善性については極めて気に掛かっており、それに比べれば彼らの権力についてはそれほど気になっていない。

*偽善(hypocricy)は英語では日本語のニュアンスとは違い、自分がしている良くないことを他人がすると非難する、そう言う人間を指す言葉である。例えば、自分は賄賂を貰っておきながら、人が賄賂を貰うことについては舌鋒鋭く非難する政治家は当に英語で言う「hypocrite」である。日本語のように善人を装う悪人、と言う意味とはかなり含意が異なる(燈照隅註)

さて先程の問題に戻ろう。再びギルバートから地図11を引用した。この地図を是非じっくりご覧頂きたい。私の本文とこの地図とは多少食い違っており、ギルバートは、プロトコルが最初に出版されたのはレニングラードだとしている。

しかしこの事は地図に示されている広い地域の事柄には実質的に影響せず、私はこの地図を全面的に信頼している。私はこの地図上に引用されている次の文節を特に評価している。これはロンドンのタイムズ紙が1920年に社説に掲載したものであり、当時のタイムズ紙はIJCとは無関係で独立に経営されており、世界でも卓越した新聞社であった。

 

地図 11 シオンの議定書の発行地とその時期

 

『我々はこれまでの悲惨な年月を通して、ドイツの世界支配のための秘密結社を破壊し根絶させるべく苦闘してきた。しかしそれは結局、より一層秘密のベールに包まれた、さらに危険な別の結社をその下に見つけ出しただけではないだろうか?
我々は国家のあらゆる組織を最大限に働かせて、ドイツの支配による平和 (PAX GERMANICA)は免れたものの、結局、ユダヤの支配による平和(PAX JUDAICA)に落ち込んだだけではないのか』

読者は極めて多数のプロトコルが発刊されていたのを想像できると思う。しかし今日の米国では、ただの一カ所の図書館もこの本を置くことを認めようとはしない。希書類を扱う商人たちもこの本は得られないと言う。

多くの日本人が知っているように、1937年ごろマルスデンの本の日本語訳の出版が試みられた時、すべての本はIJCの利益のために買い上げられ、そして破壊された。

今日『自由世界』と考えられている社会で、この本を購入または手に取れる一般的な読者は皆無である。そしてこの話を締めくくる事件として、ロンドンのタイムズ紙はIJCの手中に落ちたことを報告しておこう。タイムズ紙および一連の出版社、そして今日の世界中のラジオ・テレビ局は同じIJCの経営下にある。

私はまさに最近、マルスデンの仕事の復刻版を頂いた。しかしマルスデンの本の内容が本書の著述に影響を与えることを避けるため、私はその本にまだ目を通していない。本書のすべては私自身の思想であり、私の信念と考え方を表明したものだからである。本書の著述が終了するまでは、他の人々によって色付けされたり、変更させられたりすることを私は望んでいない。私は、本書が刊行された後にマルスデンの英語版を読み、その時に本書の主題に関してさらなる主張論点を持ちたいと思っている。

本章で私が言いたいことのすべては、『プロトコル』は的を得ていたに違いなく、そのため世界中のユダヤ人はその出版を止めさせるためにIJCに加担する必要があったということである。その結果この本は今日まで発禁となって来たのであり、証拠の地図に示されているのはこの『出版禁止以前』の普及状況である。

独立した出版社に対する陰湿な破産の脅しは、今日でも強力な武器である。私はただ、どうしたらIJCおよびそのメディアに対する攻撃を続けられるだろうかと思うばかりである。出版界にはまだ勇敢で信念のあるしっかりとした人々が残っているに違いないのだが。少なくとも、世界の中で唯一言論による真の戦いが行われている場所である日本のような国ではまだ残っていると思う。この様な活動はもはや米国では日の目を見ないであろう。

さて次に、印刷物、出版物およびあらゆる形態のメディア全般について論じてみよう。そこには人類を支配する鍵が横たわっている。

 

【訳注】

 <4>  ディアボーン・インディペンデント紙:ディアボーンデトロイト付近の都市名で、フォードの自動車工場がある。自動車工場でのストライキを通して国際ユダヤ人の活動に疑問を持ったフォードは、自ら一連の出版活動を始めた。1918年にこの新聞を買い取ったが、編集方針への妨害を防ぐため一切広告は載せなかった。慎重な準備期間の後、1920年5月22日よりユダヤ問題を取り上げた。
ユダヤ側からの様々な妨害や脅迫にも拘らずフォードは活動を進め、1920年代半ばには全米発行部数50万部にまで達した。
またユダヤ問題の記事は本として出版され、16カ国語に翻訳され世界にも広く配布された。当時ユダヤにより筆舌に尽くし難い疲弊に苦しんでいたドイツでは、この本を学校教育にも使用した。 (『国際ユダヤ人(徳間書店)1993』)

 <5>  白つばき団:南北戦争後、黒人に対する白人の優位を確保するために米国南部各地に起こった秘密結社。

国際秘密力20

第21章  『シオン長老の議定書』上

             『・・・彼はレビの子らを清め、・・・<1>

 

ロシアに対するIJCの攻撃について前で議論したことを、読者は覚えておられると思う。それはナポレオンとともに始まり、1835年のより陰険なロシア皇帝(ツアー)への爆弾事件となり、さらには1905年のロシア暴動(ロシア第一革命)へと継続拡大していった。西欧側書物の中ではその頭文字を取って『チェカ(Cheka)』 と呼ばれているロシア皇帝の秘密警察は、長年その業務に従事して皇帝制に反対していた殆どすべての組織を見抜いていた。

彼らは、私がIJCと呼んでいる集団、およびその集団とレーニンの兄の様な人々との関係に関する膨大な情報を蓄積していた。レーニンの兄<2> は20世紀初めに活動するずっと前から、マルクス主義ボルシェビキ思想に対する忠誠心によって知られており、彼はその信条のために死んだ。チェカの能力の高さと徹底ぶりは、今日の基準で考えても信じられないほどであった。その大量の物的遺産が永久に失われてしまったか、または秘密の中に封印されてしまったことは真に残念である。

秘密の組織であったチェカは、彼らの活動自身を知られることなしに取得情報を流布する方法に困っていた。そこで彼らは

『シオン長老の議定書

(THE PROTOCOLS OF THE ELDERS OF ZION :以下プロトコルと訳す)』

と名付けた文書を準備した、と私は信じている。その文書は、ロシアにあるユダヤの共同墓地に深夜集まった12人のラビたちの話を知られないように書き留め、それらの12の項目を小説の付録として20世紀初めにパリで出版したと言われている。しかし私は、この本はそうしたものではなく、その内容を世界に公表するために発刊されたものであったと確信している。

ここは注意して聞いて欲しいのだが、発刊された本はたった一冊しか残っておらず、それは大英博物館の中に施錠されてしまってある。私はそれを写したマイクロフィルムを入手するのにほぼ10年を要した。それが得られたのは、たまたま丁度良い日に私と気のあったアラブ人がそれら希書部門の担当であったからであった。このマイクロフィルムは適切な時に適切な研究者たちが調査できる安全な場所に送っており、今日に至るまで私はそのマイクロフィルムを見ていない。

本書は今までのところ、エジプトによる最初の奴隷化から始まる、アウシュビッツを含む、何世紀にも亘ってユダヤ人たちが忍んできた試練や苦難に関しては殆ど情報を提供してこなかった。アイルランド人が英国との問題を言い続けているように、ユダヤ人たちも彼らの『悶着』を一世紀以上持たないで過ごしたことは無かった。

コロンブスの時代にユダヤ人たちがスペインから追放されたことは、彼らが受けた大きな迫害の一つであり、またロシアにおいて彼らは『虐殺』、『皆殺し』、そして武力による再移住に遭遇していた。それらは確かにそうなのではあるが、それらは、対敵情報機関のピカード大佐が進み出て真相を提供し事態を収拾した『ドレフュース事件<3> 』において、彼らがフランス政府と軍によって迫害されたというような、悶着的事件に関してはごく表面的にしか表していない。

これらの『悶着』を実演したものとして最も大きいのは、前出のローマカトリック教会におけるものであった。私たちはその権力がローマとアビニョンの間を行きつ戻りつし、また少なくとも一度はイタリアのラベンナにも来たのを見てきた。

私たちは歴史を通して、他のすべての民衆、国々、人種と同様に、ユダヤ人たちにも上昇・下降の両時代があったのを見ることができる。ただ他のどの民衆、国々、人種もユダヤ人たちとは異なり、二千年以上の長きに亘って世界の征服と支配を絶えず狙い続け、そのための指導をし続けるということは無かった。彼らは今、彼らの近代史の中で最大の『下降』時期を迎えようとしていた。

小説の付録という形での出版の後、英国のビクター・E・マルスデンはプロトコルを翻訳し、それの正当性を実証する事実に関する解説を加えた。マルスデンはロンドンの新聞『モーニング・ポスト紙』のロシア特派員として生涯を過ごし、ロシア語に堪能で政治関係に極めて博識な人物であった。

本書に証拠D・証拠Eとして添付した手紙とそれに対する返事は、その出版を阻止しようとする試みとそれに対する応答を示している。結局その出版は禁止させられたが、IJCが、その出版が彼らにとっていかに危険であると感じていたかを良く示している。

 

 

証拠D

議定書発行阻止に関する書簡その一

 

1920年10月15日の時点で、パトナムが自分自身を独立した米国人と感じていたことは間違いなかった。そして、プロトコルの製本はいつも通りに進められていた。しかし10月29日、さらに一通の手紙が米国ユダヤ人協会会長から届いた。

 

ルイス・マーシャルからヘイブン・パトナムに宛てた手紙

1920年10月29日、ニューヨーク市

 

町から離れていたのと、専門的な仕事の先約があったため、今月15付けのあなたの手紙に早めにお答えすることができなかった。あなたはその手紙の中で、『世界不安の原因』の出版方針を明らかにし、また『プロトコル』の出版予定を述べている。

ある種の活動についてあなたが正当化しようとしている論理を、私は容認しかねる。全ての現代国家の中で行われているというその活動について、私は今月13日付けの手紙の中でその特徴付けをすべく努めた。しかしあなたは、私が批判の根拠としている主張を全く無視している。

報道と言論の自由について、私は他の誰よりもその支援を行ってきた。これらの基本的な自由の促進を図る中で、重要な先例を生み出せるよう援助することは私の特権であった。しかし米国法上では常に、文書および口頭による名誉毀損の条項があり、報道および言論の自由の乱用、そしてあなたが引き合いに出された憲法による保証を不完全にさせるような攻撃、はこれに該当するとされている。

私は、ある意見に関する主題について、いかなる出版社がいかなる『意見書』を出版しようと、それを出版する権利に疑問をはさむ者ではない。それらの出版社は論争好きかも知れないし、また科学的、政治的、神学的理論や教義の健全性を損なわせるように攻撃するかも知れない。そうであっても、まともな気持ちの持ち主であれば、お気に入りの情婦が酷評されたからといって、あえて彼女の欠点を探すようなことは一瞬たりともしないであろう。

しかしながら、『プロトコル』と『世界不安の原因』は意見書ではない。これらの本は、事実を扱っているように装っている。『プロトコル』は、いわゆる『シオンの長老』の宣言文であると称している。『世界不安の原因』は、文明を転覆させて横取りし、世界を支配するという陰謀に、ユダヤ人とフリーメーソンが一緒になって携わっていると、非難している。

これらの本が虚偽であり、名誉毀損の犯意と実行の罪に該当すると、私が非難しているのは、これらの共謀を事実だと称しているからである。『プロトコル』は『世界不安の原因』の主張の基礎となっており、貴社はこれらを正式に姉妹書と表現している。グウィン氏自身ですら、これらの真実性に重大な疑問を抱いていることを認めているように、これらの本は本質的に虚偽である。『プロトコル』は偽書であり、何時の時代でも現れるものの類である。

これが偽書であるというのは、この本の全ての行間から溢れ出ている。確かな所からの情報では、この本の原稿は異なる7つの出版社に提供されたが、それらの出版社は関わりあいになるのを拒否し、やっと小さなメイナード社が米国大衆向けの出版を引き受けたということである。

『世界不安の原因』の著者は、著者不明の名の下に隠れている。あなた自身、グウィン氏が著者であるような言い方をしている。明らかにあなたでさえ、この扇動的な本の由来を知らない。しかし、あなたが責任を否定したとしても、出版という行為によって、あなたはこの本に承認を与えたことになる。このことを私は繰り返し申しあげる。あなたの行っていることは、この本を流通させるという手形に承認を与えると同時に、著者への責務追求に対して隠しだてをしているのと同じことである。

否、パトナム兄よ。あなたが確立しようとしている主義は決して成就はしない。朱に交われば赤くなる。虚偽を小売りして広める者は誰でも、それが口伝であろうと印刷物であろうと、それらの虚偽に対して責任がある。

あなたがユダヤ人の中に尊敬する多くの友人を持ち、またこれらの本は全てのユダヤ人に言及するつもりのものではないなどと言っても、何の足しにもならない。世界は、そのような区別のできるものではない。激情を目覚めさせられた人々は、区別など認めはしない。『プロトコル』の偽造者、および『世界不安の原因』の謎めいた著書は、何の区別もつけてはいない。中世における彼らの先駆けたちもそのような細かな区別にふけることはなかったし、現代ロシアの黒い百人(black hundred*)もまたそうである。トロイやツロ<1>はこの本の著者らに似ていた。

*黒百人組(Чёрная сотня, черносотенцы)は、20世紀ロシアに存在したいくつかの極右集団・反セム主義団体の総称。

一瞬たりとも私を誤解しないで頂きたい。あなたによって非難されているような陰謀に携わっているユダヤ人は今日存在しないし、今までも存在しなかったと、私は主張しているのだ。これらの本の中に書かれ、あなたの印刷機から煙として現れたような陰謀にである。

ボルシェビキ思想に関して叫んでいるが、それは満足できるものではなかろう。ブルックリン地区の反ボルシェビキ主義者に対するあなたの言い回しは、あなたが何と哀れな熱情に浮かされているかを物語っている。これらの本は、「モリス・ヒルクィットやレオン・トロツキーなどのユダヤ人によるボルシェビキ思想に対抗して」、米国の制度を守る、などとほざいている。

あなたは、いやしむべき人種によって書かれたこれらの破廉恥な悪口本の陰に隠れ、そして、それはこれらの本が主張していることだからと逃げている。その結果、あなたは同じ深さにまで身を落としていることになるのだが、そのようなことは、私には実に思いがけないことである。このような悪意の創造に、真に正しい米国人が手助けするなどとは、私には信じられないことであった。

ロシア系ユダヤ人の大部分の外側に、ごく僅かなボルシェビキがいるという事実だけで、ユダヤの人々がボルシェビキだと決めつけるようなことは許されない。ボルシェビキ思想がユダヤ人の活動であると言うのは、ユダヤ人は資本主義に責任があると言うのと同じくらいばかげたことである。それはまた、ユダヤ人の音楽家、役者、詩人がいるからという理由で、音楽、演劇、詩作がユダヤ人の活動であると言うのと同じことである。

私はシオニストではないし、また、これらの本はシオニズムに対抗しようとしているというそしりは取るに足らないと思っている。この本が攻撃しているまさにそのシオニストたちは、ボルシェビキたちに悩まされてきた。また、大部分のロシアのユダヤ人たちがブルジョア階級であるとして追撃されてきたように、シオニストたちは反対側の革命主義者たちだと、公然と非難されてきた。

私はフリーメーソンのメンバーでもなく、また他のいかなる秘密組織のメンバーでもないが、本中で述べているような陰謀にフリーメーソンが加担しているとして非難しようとしているこれらの本は、精神異常をきたしている著者らの病理学的な状態を示しているに過ぎないと言える。

ジョ-ジ・ワシントンを含む15人の米国大統領がフリーメーソンであったことを思い出せば、あなたが喜んで『意見書』の名称を与えたこれらの本に対して、これ以上非難宣告をすることもあるまい。あなたの関連している取扱店を通して流布された非難に対し、米国における一人のユダヤ人が自分たちの人々を守るために屈辱的な立場に置かれようとは、私には信じられないことであった。

これらの本に答えるべき時がいつかくるとしたら、あなたの会社を出版業者として利用することは私にとってもはや必要ないであろうと、私は確信している。

 

                             ルイス・マーシャル

 

【訳注】

 <1>  ツロ(Tyre):古代フェニキアの海港。富裕と悪徳で聞こえ、紀元前10世紀ごろ最も繁栄したと言われている。現在はレベノン共和国南西部の小都市。

 

 

証拠E

議定書発行阻止に関する書簡その二

 

二日後、パトナムはユダヤ人の意思の前に、次のような言葉で頭を下げた。

 

ヘイブン・パトナムからルイス・マーシャルに宛てた手紙

            1920年11月1日

 

 

グウィン氏からの依頼で、私たちは『世界不安』に関する彼の本の米国版を発刊いたしましたが、彼は、『プロトコル』として知られる文書の発刊は、ボルシェビキたちの組織の上に光を投げかけるかもしれないという根拠を得ておりました。ボルシェビキたちの工作活動は、世界中に重大な関心を引き起こしており、彼らは正当なる公の場での議論課題となっております。

もしボルシェビキ思想により引き起こされた社会不安がなければ、この文書はおそらく、世に知られずに休んでいることを許されていたであろう、というのがグウィン氏の意見でした。

この様な背景の下で、『プロトコル』の一つの版が、法律関係の高級な出版社であるロンドンのエア・スポティスウッド社(Eyre Spottiswoode)から発刊されました。

この発刊により、『世界不安』の読者たちには完全なる文書(グウィン氏の本中には、その文書から頻繁な引用がなされています)を調べる機会を得る権利が与えられた、と私たちには思えました。そこで私たちは、自分たちで注意深く翻訳した版の発刊に着手し、現在ほぼ準備を完了いたしました。この作業にはかなりの出費が伴いました。

しかしながら私たちは今日、ボストンで印刷された版は通常の出版物として配布されたことに気付きました。実質的に同じ内容の、もう一つの本を新たに出版する必要がないのです。従いまして私たちは、あなた様ご自身、および私の大切な友人であるオスカー・ストラウスからの反対意見に敬意を表して、この発刊作業を進めないことに決定いたしました。

                                      G・ヘイブン・パトナム

 

 

【訳注】

 <1>  旧約聖書 マラキ書3.3より。

 <2>  レーニンの兄:革命運動を推進した秘密結社「ナロードニキ」に参加して皇帝暗殺計画を立てたかどで刑死した。

 <3>  ドレフュース事件:フランスにおける反ユダヤ主義者の陰謀とされている事件。1894年、ユダヤ系のアルフレッド・ドレフュース砲兵大尉が、ドイツ軍への軍機密漏洩のかどにより軍法裁判所で有罪判決を受けた。これはフランスの世論を二分する疑獄事件に発展し、文豪ゾラらの擁護運動により、1906年復職し叙勲された。フランス軍はその後も公式には無罪を認めていなかったが、約90年後の1995年9月7日、フランス陸軍史料部長のムリュ准將がフランスのユダヤ教長老会議において、事件は軍の陰謀によるものであったと謝罪し、無罪を初めて認めた。      (『産経新聞 1995.9.13』)

 

国際秘密力19

第20章  英国汽船『ルシタニア』

          『わたしの道が確かになることを願います。

                    あなたの掟を守るために。<28>

 

第一次世界大戦の危険性は予見され、実際に1914年の8月の初めに戦争が勃発した。当時ウィンストン・スペンサー・チャーチルは英国海軍本部最高委員(First Lord Of The Admiralty: 海軍大臣)であった。この職位は他の国々の海軍大臣(First Minister of the Navy)および米国の海軍長官(Secretary of the Navy) と同等である。彼はこの職位を1915年11月まで勤めた。彼がどれだけ長くこの職位を勤めたかは重要であり、覚えておいて欲しい。

奇妙に符合することに、1913年の3月、ウィルソン大統領の政権下でフランクリン・デラノ・ルーズベルト海軍次官になったすぐ後に、チャーチルはこの職位に昇格した。事実を記録しておくと、フランクリン・ルーズベルトはセオドル・ルーズベルトの甥であり、従ってルーズベルト家の同じユダヤの血統を引いている。

そしてフランクリン・ルーズベルトは、約7年間、言い替えれば1918年11月の第一次世界大戦終了後まで同じ海軍次官の地位にいた。この時代の局面は、同じ時期に同様の地位を占めていたこの二人によって完璧に代表される。この時代特に興味深いのは、時代がこの二人に『米国を戦争に引きずり込むこと』を実行する機会を与えたことである。1915年に彼らはこの使命を成し遂げたことをここで強調しておく。

私たちは後章で、彼らが1941年に同様のことを繰り返す様子を見ることになる。まずその最初の段階での証拠について見てみよう。

IJCの学習とは関係のない軽い読み物として、私は3年ほど前に公立図書館で一冊の本を見つけた。それはボストンとトロントのリトル・ブラウン社出版で1972年版権取得の、コーリン・シンプソン著『ルシタニア号(THE LUSITANIA)』 であった。私の使用しているのはその第三版である。

この本から3枚の図を『証拠書類A,B,C』として本書に引用した。それらは、英国海軍本部が嘘をつき、また米国海軍省が嘘をついていたことを決定的に証明している。それらは、チャーチルが嘘をつき、またフランクリン・ルーズベルトが嘘をついていたことを決定的に証明している。そして、もしこれらの政府が嘘をつき、またこれらの海軍当局者が嘘をついていたとしたら、英国キュナード汽船会社が嘘をついていたことは言うまでもない。

今日それは、合理的な疑問点というような言葉ではなく、米国または英語圏で殺人者に有罪判決を言い渡す時に使われる言葉を使用すべきなのは疑う余地のないところである。

当時、『ルシタニア号』撃沈に関して真実を述べていたのはドイツ人、またの名を『フン族野郎(HUN)』だけであった。フン族は4~5世紀にヨーロッパを侵略したアジアの遊牧民であり、破壊者として知られているが、英国およびIJCは賢くもプロパガンダ(悪意の宣伝)のためにドイツ人をその名前で呼び、恐ろしいイメージを呼び起こしたのであった。

ルシタニア号は英国キュナード汽船会社の汽船として、1906年6月7日に進水した。この会社は当時北大西洋航路上の浮かぶ宮殿、すなわち豪華客船で知られていた。ルシタニア号は戦時には『巡洋艦』、または商船隊襲撃艦、またあからさまに言えば軍艦に転換できるよう、英国政府より建造費を援助されていた。例えば大砲類を登載して甲板上から砲撃できるよう、構造上特別に強く建造されており、砲架も装備していたのである。この時代の用語で言えば、ルシタニア号は同様の船に反撃するための『商船隊襲撃艦』であった。

同じ航路にはドイツ船が航行していたが、その航海においてルシタニア号が砲を装備していたかどうかは、同船の擁護者であるIJCのために論争中ということになっている。しかし当時施行されていた国際法ではルシタニア号は商業輸送船を偽装した軍艦であった。

戦争の初めのころ英国に向かっていたルシタニア号を潜水艦が脅かした時、ルシタニア号は何のためらいもなく即座に米国国旗を掲げたのであるが、これは策略的戦術の主要な例の一つであった。その時船には、ウィルソン大統領の最も親密なる顧問であり、戦争勢力間での平和会談を試みに行く途中のハウス大佐<29> が乗船していた。ウィルソン大統領、そして米国政府も公式には絶対中立を表明していた時に、ハウス大佐がたいへんなイギリスびいきであったことは興味深い。彼は星条旗が掲げられつつある時に旗から目をそらした。だからこそ、後日新聞社に対して『私は米国国旗なぞ見ていない』と言うことができた。

シンプソンによれば、ルシタニア号は戦争が勃発すると直ちに、少なくとも8基の4.7インチ砲で武装した。そして1962年に行われた潜水調査では、結論こそ出なかったがそれらの砲は目撃されたと信じられた。1994年の4月に、決定的とされる別の潜水調査が行われ、ナショナル・ジオグラフィック・マガジン誌上で報告された<30>。 この報告書については、前章で述べたバーバラ・タッチマンとともに、適当な処で議論することにしよう。

この報告書は面白いが、どうしても反論できない事実に直面して、全く観念的なものになってしまっている。それらの事実は最もIJC寄りの情報源でさえ証明していることであり、それらの多くは当時のことを多弁に物語っている。私たちは、事件をかき混ぜて混乱させようとするこの報告書のようながらくたは無視して、話をきちんと進めて行こう。

 

               通   告   !

 

  大西洋の航海に船出しようとする旅行者は、ドイツ及び同盟国、と大英帝国

  及びその同盟国の間で国家間戦争が行われていることに留意されたい。戦争

  領域には英国諸島に隣接する海域が含まれる。ドイツ帝国政府の公式通告に

  より、これら域にいる大英帝国またはその同盟国の国旗を掲げる船舶は破壊

  を免れない。従って、この戦争領域を大英帝国またはその同盟国の船舶に乗

  船して航海中の旅行者は各自の責任において行動されたい。

 

  ドイツ帝国大使館

  ワシントン.D.C.1915年4月22日
 

 

 

キュナード汽船会社は、1915年3月1日より開始していたその航海に乗客を勧誘していた。しかしその宣伝とは裏腹に、ルシタニア号の出航計画の一週間前にワシントンのドイツ大使館は警告を流していた。是非証拠Aをご覧頂き、自ら読んで頂きたい。それは明確で、曖昧さのない、そして簡潔で平易な言葉で書かれている。その文章の意味やドイツ側意図に関しては何の疑いもない。もしドイツが生き残った家族によって人命損傷で訴えられていたとしたら、ドイツはその訴えを、この通告書の写しを含む宣誓供述書による簡易裁判で退けることができたであろう。

各航海には二種類の積荷目録が準備された。その一つは一般公開用で、すべての軍需品および戦時禁制品が除外されていた。もう一つは完全な目録で、これらの軍需品および戦時禁制品が詳細に完全な形で記載されていた。

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証拠 A ドイツ大使館の警告書(1915年)

 

この航海の場合も慣習は守られ、読者は『証拠B』でライフル銃、砲弾、信管が『雑品』とともに記載されているのを見ることができる。その『雑品』は、大砲の破裂弾に充填するためのデュ・ポン社製綿火薬であることを、シンプソンが証明した。その爆発性威力の対象として船舶の撃沈を考えると、それは巨大な量になる。

 

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証拠 B ルシタニア号の積み荷リストその一(1915年)

 

  真の積荷目録のこれらの部分は、1950年代まで秘密にされていた。これらは、弾薬筒や榴霰(りゅうさん)弾が船に積まれていたことを示している。   

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証拠 C ルシタニア号の積み荷リストその二(1915年)

 

公式報告用としては『非軍需品』の積荷目録が流布され、すべての人が閲覧できるようにされた。一方で、秘密の『軍需品』の積荷目録は海軍省に届けられた。私はシンプソンおよび他の著作物により、それは海軍次官であったルーズベルトに直接届けられ保管されたと確信している。報道活動の自由のお陰でシンプソンがそれを探し出せたものの、その書類が再び日の目を見ることはないと思われる。英国海軍本部は今だにそれと同様の書類の上に座り続けており、それを公表することはないであろう。

これら前3節に含まれる証拠だけによって私たちは模擬的裁判を行い、無意味な議論をする必要のないようにしよう。すなわち、爆発を起こしたのはどこか、大量の石炭が海上に飛散しつつある時に空の石炭庫内で炭塵爆発が起きたのは何故か、等々延々と続く不毛の議論は避けよう。

英国の、他の何物をも圧倒する最大の要望は、米国を自分たちの陣営として戦争に引きずり込むことであった、というのが歴史の真相である。それは戦争勃発時にチャーチルに与えられた最重要目標であった。後日第二次世界大戦の時にも行われた様に、一人の代理人がニューヨークに送られ、米国内の『英国の友人』とこの代理人との間に連絡網が確立された。

(後の歴史のための参考であるが、CIAの前身である戦略事務局を占拠した『ウィリアム・ワイルド・ビル・ドノバン』は、ニューヨークにおける英国代理人との連絡のための連絡要員であった) 

この経路を通して、フランクリン・デラノ・ルーズベルトチャーチルは相互に連絡を取り合ったと私は信じている。

すべての規則に反していたこの航海において、ルシタニア号は潜水艦に対する防衛のためのジグザグ走行は行わなかった。そして極めて驚くべきことに、通常はアイルランド沖を巡回していた直衛駆逐艦隊は、ルシタニア号が近付いてくるこの期間、撤収させられていたのである。

ルシタニア号は待ち受けていた潜水艦を通り越し、船自体を完全な目標として曝しながらまっすぐに進んだ。一発の魚雷が発射された。それはその潜水艦が登載していた只一発の魚雷であった。その魚雷はルシタニア号に命中し、比較的こもった音の爆発が船の前方で起こった。そして、その衝突のすぐ後に発生した巨大で猛烈な爆発が船底を引き裂き、ルシタニア号は沈没した。この間すべてで18分であった。

失われた人命は恐ろしい数に上り、たった3年前のタイタニック号沈没による死亡者数記録に迫り、明らかにそれに匹敵する死亡者数となった。

(私自身としては次の様に信じ続けるであろう。タイタニック号の沈没は1915年までには米国の民間伝承とフォーク音楽の一部にまでなっていたが、米国国民は氷山に消えた米国人の生命に対し、誰にも責を咎められないでいた。その様な米国国民に対し、このむごたらしいルシタニア号の沈没は憤りを煽り、そのかなりの部分は米国国民の中に憎悪として閉じ込められた) 

最終的な集計では、生存者764人に対して、死亡者は1095人であった。死亡者の中には、94人の幼児と子供が含まれていた。米国市民の死者は123人で、これらの人々は、私が陰謀だと主張した企ての最終段階に奉仕する形で死んでいった。『非人道的犯罪』に対する裁判は当時まだ発案されていなかったが、この世界でかってこれに該当する悪事があるとしたら、この事件はまさしくそうであり、ニュールンベルク、東京、そしてマニラなどではその教義が誤って適用されたのである。

私がいかに強くこの事を感じているかを、私は読者にうまくお伝えすることができない。私は、私の中に閉じ込められた怒りを解放させるために、責任ある彼らに対する現代版起訴状を作成したい気持ちである。その起訴状は、失われた各々の人毎に優に200を超える訴因を有するであろう。

IJCのための弁解者たちが何と言おうが、ルシタニア号沈没は米国参戦に対して他の何よりも大きな影響を与えた。メディアは明らかな味付けを伴って米国世論を作り続けており、細身の長鋸で挽くようなその作業を終えた時、米国大衆はすっかり参戦する気分にさせられていた。

伝えられるところによれば、ジンマーマンの電報が、米国と英国の両者で解読されていた暗号を使用して、ドイツからワシントン、ワシントンからメキシコ市へと電送された。タッチマン女史によれば、この電報が米国参戦のもう一つの理由となったという。ここでは詳細には立ち入らないことにするが、米国南西部からメキシコに対して申し出がなされたことが想像される。その米国南西部は、1845年のアメリカ・メキシコ戦争においてメキシコが失った地域であるが、この様に米国は地球の半球で戦争に従事し続けていた。

私に明白であったのは、すべては英国海軍本部のスコットランドにあった海外電信機から、使用を中断中の、偽である可能性のある暗号によって電送されて来たということであった。タッチマン女史が、米国の暗号解読者たちは彼らの業務を遂行するために英国海軍本部に頼る必要があった、と述べているのを知った時、私はそれはいかがわしいという意見を強く抱いた。もしそうならば、電信の件はチャーチルが海軍本部を出た後に起こったのであるが、チャーチルは1915年の11月に海軍の職位と事務所を去る前に、暗号操作、海外電信の接続操作、およびルーズベルトとの連絡網は確立させていたはずだからである。

ウィルソン大統領は、金切り声で『平和』を叫びながら戦争に入って行き、『新秩序』とわめきながら戦争から出て来た。ウィルソンは、戦況が落ち着いてきてベルサイユでの和平会議に向かう前に、あたかもヨーロッパを統治する君主の如くヨーロッパを旅行した。その旅行において、ウィルソンは共和党員を誰一人として同行させることが出来なかったが、結局それはウィルソンへの圧迫要因となった。彼は国際連盟を提案しそれを押し付けたのだが、上院での投票時に共和党を賛成させることはできなかったのである。まさに正しくも、その提案は打破された。

その数年前にウィルソンは上院議員ヘンリー・キャボット・ロッジを政敵としていたが、米国の国際連盟加盟を阻止したのは上院におけるロッジの指導力によるものであって、それが国際連盟挫折の原因となった。そして、世界の人々にIJCの存在を気づかせ、IJCの指令を拒否するという事態が生じてきたのであった。

このIJCの主たるプロジェクトを私がさっさと通り過ごしてしまったので、読者の方は不思議に思われるかもしれない。しかし理由は簡単で、このプロジェクトが挫折したからである。それは後日再びフランクリン・ルーズベルトによって提案され、その時には喉が渇いた人に水を売るが如くに受け入れられた。この件については、その再度の提案の処で確かめることにしよう。それはまた日本征服と切り離せない関係で結ばれている。ここからは、まずIJCに何が起きたかを見てみよう。

 

【訳注】

 

 <28>  旧約聖書  詩編119.5より。

 <29>  ハウス大佐:エドワード・マンデル・ハウス大佐。IJCの傀儡であるウッドロー・ウィルソン米国大統領を見張るためにIJCにより派遣された番犬的人物。ウィルソンの任期中、大統領の主席顧問として極めて親密な関係にあり、大統領の指導・洗脳にあたった。特に連邦準備法成立への陰の影響力は大きかったと言われている。なおハウス大佐は軍務に服したことはなく、大佐の称号は全く名誉的なものであった。

 <30>  ナショナル・ジオグラフィック・マガジン誌:米国地理学協会の月刊機関誌。質の高いカラー写真や海外の情報も掲載。発行部数1039万部(1984)。

 

 

国際秘密力18

第19章  再起した運命顕示説  米国の帝国主義思想

               『その鋭い鎌を地に突き入れて・・・<24>

 

世紀の変わり目の1898年、殆どの解説書によれば、スペインはキューバハバナ港で米国の戦艦『メイン号』を爆沈した。それは今日、知見のある歴史家には疑問視されている。

(事実は米国戦艦のボイラーが事故で爆発したのであって、スペインの水雷や魚雷によるものではなかった様である) 

この事故を理由に米国はスペインに戦争を仕掛けた。スペインに領有されていたプエルトリコキューバ、グアム、フィリピンその他諸々の島々への派兵という形で、この戦争は終了した。それらの島々は、米国が19世紀後半に無垢で幸せな土着の人々から取り上げたサンドウィッチ諸島(ハワイ諸島の旧称)に加えらた。

このハワイ諸島の事件について米国国民は、島の原住民を『キリスト教化』する必要があったからだと説明された。そして海軍には、ハワイ諸島は日本に対する塁壁として計画され米国領土に加えられた、と説明したと私は判断している。本当の理由は、ハワイ諸島が日本に向かって太平洋を直線的に貫く米国の槍を形成するからであって、それは今まで見てきたようにIJCの長年の目標であった。

とにかく、今や米国はこの様な植民勢力であり、あらゆる方向と分野に進出しようと待ち構えていた。そして足場となる島々の中に完全所有の領土を設けて前線基地とし、『槍』の側面固めを行った。

日本の巡洋艦が、何らの脅迫的活動でも、軍事的活動でも、好戦的活動でも無く(!)、単なる調査と測深のためにカリフォルニア南方の海上に現れた時、米国国民がいかに金切り声で叫んだかを、読者は知るべきである。この行為はスペイン・アメリカ戦争の何十年か後に、自己防衛の意味で行われたものであったが、日本に対して行われた他の行為について、この章で関係づけることにする。

スペインとの戦争においてキューバのサンフアンの丘<25> を、新聞は一般的に邪悪の丘(Wrong Hill)と呼んでいた。これらの新聞によれば、セオドア*・ルーズベルトは乱暴にもこの丘への突撃を指導したと言われているが、とにかくこの宣伝のお陰でルーズベルトはマッキンレー政権下で米国副大統領に選出された。宣伝・評判(publicity) という言葉はこの本では始めて現れたが、読者はこの言葉を今後何度も聞くようになる。

*原文:セオドル(Theodoreのカナ表記の違い)

そして都合良くマッキンレーが射殺されると、ルーズベルトはまんまと権力者の地位を登り詰めた。私たちはすでに彼が、独占禁止法およびそれによる『トラスト解消』により、彼の賢明なる顧問たちをいかに補佐したかを見ている。また前に述べた様に、彼は『ポーツマス条約』において日本の出鼻をくじき、『黄禍』を封じ込めることを望んでいた米国社会内部のある人種をなだめた。つぎに彼が彼らのために行った他の行為を見てみよう。

南北戦争前からの古い言葉遣い**である『運命顕示説(MANIFEST DESTINY:領土拡張政策)』がまず使われ始めた。そして米国は、パナマがコロンビアから離脱し、太平洋と大西洋を結ぶ運河を建設するために米国に領土を割譲する原因となった革命を工作した。その巨大な建設費は、万人単位での黄熱病による労働者の死亡や、公衆衛生のための勝利という言葉で呼ばれたすべての災害と同様に正当化された。

**原文:言葉使い

すべては米国国民が言われていたように、戦争時または戦争の危険性がある時に、戦艦オレゴンカリブ海に到着するのにホーン岬を再度回らなくて済むようにということであった。黄熱病は結果的には根絶されたが、その運河によって米国または世界の艦船が、日本の都市を砲撃するために日本の海岸沖によりすばやく集結できるということについては何も明かにされなかった。それは約50年前に鹿児島で不成功に終わったことであった。これはまさしくそうなのであって何の誤解もないことである。

セオドア*・ルーズベルトは米国がかって作ったこともないほどの艦船を建造し、白ペンキで the US Navy(米国海軍)と塗り付け、『平和使節』として世界中に送り出した。それは『偉大なる白色艦隊』と呼ばれ、その最初の寄港地は日本であった。これは全くの事実であり、このことは日本人の記憶から忘れ去られてはいないと思う。そして米国海軍は日本と戦争をする計画を始めた。私は強く信じているが、この戦争計画の情報は意図的に日本に漏らされた。

大統領の第一期の任期が1908年に満了した後、セオドア*・ルーズベルトは大統領の職を降り、猛獣たちを虐殺(猟)するためにアフリカに旅立った。蛇足ながら、そこでは猛獣から撃ち返される危険はない。

彼は大統領の職を同じ共和党のウィリアム・ハワード・タフトに譲った。タフトはフィリピンの統治者としての経歴を持っており、ダグラス・マッカーサーの父であるアーサー・マッカーサーの助けを借りてフィリピンのモロ族を鎮圧していた。

奇妙に符合するのであるが、アーサーは日露戦争を観戦していて偶然にも乃木将軍に教えられたことがあり、戦争後は東京の乃木将軍宅に同居していた。そこでアーサーは、いやでも日本流の政治を学ぶことになった。これらすべては約50年後に殆ど確実な日本の破壊という形で戻ってくるのであるが、幸いなことに、また大和魂を断じて守ろうとする人々が僅かでも残っていたお陰で、その結果は今でもまだ曖昧であり、また施された邪悪な所行はその殆どがまだ逆転可能な状態にある。

1912年にIJCはウッドロー・ウィルソンを選び、米国大統領選挙に民主党員として彼らの旗を持ち込ませた。彼の当選を確実にするために、セオドア*・ルーズベルトはタフトと『仲たがい』した。別の言い方をすれば、タフトの統治に関する信念と方法から分裂し、タフトが共和党から再指名されるのに反対したのであった。

タフトが再指名された時、ルーズベルト共和党から分離し、米国中に広がる支持票を狙って新党を結成した。『ブルムース党<26> 』と呼ばれたその党は共和党員の票を分裂させることによって、実に有効的にウィルソンを支援し、1912年の選挙においてウィルソンを当選させた。すべては計画通りであった。

 大統領に当選したウィルソンは、民主的議会でこれ以上は不可能という早さである法律を通過させ、それに署名した。それはIJCが長年希求していた米国中央銀行に関する法律で、外観上は連邦準備法を装っていた。そして彼の指導の元で米国憲法が修正され、所得税が認められた。

(以前、リンカーン政権の下でこの試みがなされたが、米国最高裁憲法違反が宣言されていた) 

これにより、新しい税金ゲームのやり方を知らなかった巨大浪費家や反IJCの企業家たちは止めを刺された。読者が博愛主義の公開慈善事業を起こし、自分および家族を最低年限21年の終身指導員に選ぶとしよう。当然その間の生活費をすべて払ってである。実はそれが、新しい法律下でうまくやる唯一の方法なのである。

IJCが行った基本的な例は、ジョン・D・ロックフェラーの財産を一人の死にそうな老人から剥ぎ取ったことである。それは、実質的には彼の死のベット上で作られた遺言の中に記載された信任に基づいていた。その鍵となる点は、その老人が支配権を握っていた銀行が、その巨額の資金と資産に関して受託人を設定されたことであった。

その鍵に近づくための鍵は、ウォーバーグ家<27> が、合併後の名前で世界的に有名となったチェース・マンハッタン銀行の支配権を結果的に握ったことである。言い替えれば、ウォーバーグ家は単純にロックフェラー銀行を購入することによって他の全銀行を出し抜いたのであった。

この様にまんまと受託者になり、それによってすべての資金と資産および売り上げ高に関して法的な所有者および支配者になった。それは詮索されることもない個人的な約束またはその他の処置によってであり、それらはすべてウォーバーグ家に有益な取り決めであった。ウォーバーグ家は現在でもそのロックフェラーの古い資金を支配している。比較的若い婦人がその資金を管理しており、彼女は世界中に分散している彼らのビジネスを率いている。

それに比べると、ロックフェラー家には僅かな額しか残されなかったが、彼らは税金避難所である『博愛主義財団』に安全に避難した。それは世界中にロックフェラー財団として、また公開慈善事業で知られている。しかし、その財団の設立目的が、IJCのために書かれた遺言書による異議のない継承権を保持するためであったという事実は全く言及されていない。

しかしこれは世界中に出現した財団の一例に過ぎず、それらはごく一部の例外を除いてIJCに支配または鼓舞されている。世間をほぼ完璧に愚弄している財団の一つは、ノーベル賞を授与しているノーベル財団である。

今やノーベル平和賞は、その授賞者の政治的または人生的な名誉ある引退を世界に表明するようなものになっている。ゴルバチョフの場合が本当に良い例であった。ゴルバチョフソ連崩壊においてIJCのために働き、エリツィン***を頭とするカザール人をほぼ生き返らせた。そのエリツィンユダヤ人軍隊を指導して公然とした武装反乱を起こし、合法的に選定された国民の代表者たちに敵対したのである。世界を支配しているIJCはそれに対し見て見ぬふりをした。
***原文:エルツィン

ここでアルフレッド・ノーベルの名前を紹介するのは意味のあることである。彼はダイナマイトの発明者であり、強力な爆薬であるトリニトロトルエン****の溶液をおがくずに染み込ませ、紙で包んで輸送と取扱いを容易にした。ダイナマイトの出現により、爆発に関してあらゆる形態の改善が為され、工業化時代におけるトンネル、橋、高層建築の建設が可能になると同時に、人類を遥かに迅速に、効率的に全滅することが可能になった。
****当初はニトログリセリンであったと思われる

豊かさと、魅力と、美しさと、作法と、そして気品を持った世界は、1914年のサラエボの夏で終わりを告げた。オーストリアの皇太子が暗殺され、第一次世界大戦が始まったのである。今まで誰も確かには言えなかったが、IJCがその暗殺によってヨーロッパを戦争に巻き込んだと私は信じている。

バーバラ・タッチマン*は彼女の『8月の銃声(Guns Of August)』の中で戦争開始に関する彼女の見解を述べている。また彼女は、米国が後に参戦させられた経緯について、前作である『ツィンメルマン**の電報(Zimmerman Telegram)』の中でも見解を述べている。これらについては後に適当な箇所で取り扱うことにしたい。
*バーバラ・ワートハイム・タックマン(Barbara Wertheim Tuchman, 1912年~1989) はアメリカ合衆国出身の作家、歴史家。東欧系ユダヤ人出身。タックマンの父は、アメリカ・ユダヤ人委員会(American Jewish Committee)議長も務めたことのある銀行家モーリス・ワートハイム(Maurice Wertheim)、母はヘンリー・モーゲンソーの娘であるアルマ・モーゲンソー・ワートハイム (Alma Morgenthau Wertheim)で、恵まれた知的環境で育った。
**原文:ジンマーマン

この戦争は実に恐ろしいものであった。南北戦争の時に脆いものが初めて作られたばかりの塹壕と防御拠点は、本大戦で強靭なものとなりその極に達したが、これらによって逆に死者の割合は今まで想像もできなかったほどに高いものになった。

アルフレッド・ノーベルの『ダイナマイト』に由来する火薬は大砲の破裂弾に使用され、西部戦線でドイツ軍を消耗させて供給不足を生じるほどになった。そこで1915年、大量の弾薬が秘密裏に大西洋を輸送された。その輸送には定期船が使用され、大西洋を渡る最初の乗客が乗船していた。この行為は、客船の武装化および綿花薬の輸出を禁止した米国の法律に違反していた。

またイギリスは、イギリス国籍の船はその様な行為には従事していないと嘘をついていた。ドイツはこの事実をさらに良く知っており、このことが二つの国民の遭遇をもたらしたのであるが、それは私の最も興味深いものの一つになった。それは後日のもう一つの遭遇のためのリハーサルであり、それはこの時と同じ二つの国民を含んでいた。

私はこの関係を平成6年6月、靖国神社で思いついた。その時天皇陛下は日本を留守にしており、米国の戦死者に敬意を払ってワシントンD.C.近くのアーリントン共同墓地を訪問されていた。これは昭和天皇天皇陛下として靖国神社を初訪問し、日本の勇敢なる戦死者に同様の敬意を払うための準備とリハーサルに違いなかった。

 

【訳注】

 

 <24>  新約聖書 ヨハネの黙示録 14.18より。

 <25>  サンフアンの丘:キューバ東部のサンティアゴ付近の丘で、アメリカ・スペイン戦争の戦跡。1898、セオドア*・ルーズベルトはこの丘への突撃で荒馬騎兵隊を指揮して勝利を得たとされている。ルーズベルトはこの勝利で一躍有名になり、後に米国大統領となった。

 <26>  ブルムース党:Bull Moose(雄のおおしか) Party。 セオドア*・ルーズベルトが1912年の選挙で率いた進歩党(progressive Party)の異名。

 <27>  ウォーバーグ家:ロスチャイルド家の下で一身同体となって暗躍したユダヤの有力家族。
 当時の長兄、マックス・ウォーバーグはヒトラーナチスを初期のころから資金援助し、また1917年封印列車でロシアに帰還したレーニンを資金援助したと言われている。
 また弟のヤコブ・シッフは米国支配総指令官としてクーン・ロエブ商会を率い、また1917年にニューヨーク港からロシアに向かったトロツキーを資金援助したと言われている。そのお返しとして、ロシア革命スターリンは、1918~1922年にかけて6億ルーブルをクーン・ロエブ商会に振り込んだという。
 もう一人の弟、パウル・ウォーバーグは、魔法の杖である米国の連邦準備委員会(FRB)を設立した。

 

国際秘密力17

第18章  シオニズム出現

         『そのとき、ユダとエレサレムの献げ物は主にとって

                    好ましいものとなる・・・<19>

 

この本の中で常に覚えておくべき重要な人名があるとすれば、それはテオドール・ヘルツルである。1970年代の始めごろに一冊の本を見つけた時から私はこの名前に馴染みとなった。その本は、ニューヨークのダイアル・プレス社から1956年に発行された、『マービン・ローエンソール監訳紹介による、テオドール・ヘルツルの日記』である。

ローエンソールはその『序文』で次の様に述べている。

『テオドール・ヘルツルの日記は、1895年の五旬節<20> (2月2日)のころから始まり、1904年5月16日で終わっている。手書きの原稿は、四つ折りおよび八つ折り版の習字帳で16冊あり、エルサレムシオニズム中央公文書保管所に完全な形で保管されている。

1904年のヘルツルの死後すぐに、生原稿のタイプ原稿が作成された。それはヘルツルの後継者で、シオニスト組織の議長であるダビデ・ウォルフソーンに提出され保管された。そしてこのタイプ原稿も現在、エルサレムの公文書保管所に置かれている』

また紹介文は次の様に述べている。

『テオドール・ヘルツルは1860年5月2日にブタペストで生まれ、ハンガリーユダヤ人たちが穏やかに過ごしていた時代に育った。ユダヤの最も家柄の良い家族たちはドイツ語を話し、ヘブライ語ユダヤ系ドイツ語(著者註:イーディッシュ語)などには精通していなかったが、それでも自分たちをマジャール人<21>血族に属する者だと言及し始めているころでもあった』。

ローエンソールは後にこうも述べている。

『彼は1884年にウィーンで法律の学位を得ているが、このこと自体がすでに腰を据えているということである。そして10年後、彼は「ユダヤ国家」を創造的情熱の中で書いた』

パンフレット形式で発行されたこの文書は、ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人たちの集合と、おおよそキリストの時代から離れていたパレスチナの地への帰還を唱導した。ローエンソールを含むユダヤの作家たちは、彼らのエルサレムへの帰還とイスラエル建国は聖書で約束されていると言っているが、私の弁護士としての感覚から言えば、1900年間というのは長期不在であり、それほどの長期の後にその土地を取り返すことは征服でしか有り得ない。私たちはこれを征服と認める。

私たちはこの本の最初で訴訟の上訴期限について論じており、その主義によって文明化社会のすべての人々は生活している。読者はこの主義の公平さに理解を示して頂けると信じている。別の言い方をすれば、アイヌの神々が返還を要求しているという理由で、日本のすべてをアイヌに返さなければならないであろうということと同じである。これは時間的にはおよそ同程度の話だ。*

*これは今では否定されている。この本が書かれた頃はアイヌが日本の先住民族と信じられていた。しかしアイヌは13世紀以降にモンゴルに追われて大陸から蝦夷地にやって来たツングース系の民族であることが判明しており、それまで蝦夷地に居た擦文文化の大和民族と同一祖先の和人たちは殆ど絶滅させられた。この件に関してwiki故意に最近のDNA分析の結果を無視し、真実を書いていないと思われる。(燈照隅註)

熱心に英雄を創り出そうとする中で、IJCの手下たちは、19世紀の中ごろモーゼス・ヘスと名乗るベルリンのユダヤ人が同じ考え方を強く唱導していたという事実を見落としていた。19世紀の中ごろでは、部分的であってもテーブルの下から出てくるには、IJCは財政的な、また特に政治的な影響力をまだ持っていなかったと私は思う。19世紀の終わりに、彼らはその影響力を持つに至った。

彼らの視野でものを見るために、スエズ運河の建設を思い出して欲しい。フェルディナンド・ド・レセップスは19世紀の中ごろ、フランスのルイ・ナポレオン皇帝の財政援助の下でスエズ運河計画を始めた。しかしエジプト政府に財政的困難が訪れた時、ユダヤ人である英国首相ディズレーリと英国女王ヴィクトリアはエジプトのキディヴ(Khedive)<22> の株を買い取る原因を作り、それによって大英帝国のプロジェクトとした。私の記憶が正しければ、それらはロスチャイルドのロンドン銀行からの借り入れ金で賄われた。

さて、ヘルツルがその運動を唱導し、ヨーロッパの首都を訪ねて回った時、ロスチャイルド家パレスチナには帰らないという『意見を翻し』、『温和な植民者たち』が、当時支配力のあったトルコ人たちから土地を買うことができるように、目立たないように経済的援助の手を差しのべている。

もし私が人間性の歴史の観察者であるなら、支配者であるトルコ人たちは、手に金を持って近づいた者たちにうまく篭絡されて土地を手放したとするだろう。中央アフリカユダヤ人国家を建設する計画を公表していたセシル・ローズ<23> でさえヘルツルの案に屈した。それは駆け引きと見せかけであったかも知れないが、それより実際にはパレスチナ回帰がユダヤの基本的政略であったためと私は思うし、そう信じている。

『1897年8月29日から31日にかけて、第一回シオニスト会議がスイス・バーゼルにおいて開催された』

とローエンソールは述べている。私の持っている彼の本によれば、ヘルツルはそれに先立つ5月に次の様に書いている。

『この活動は米国において始まりつつある。新しい週刊紙「トレレンツ」の編集者であるミッシェル・シンガーが、ニューヨーク市他で開かれた会合に関する報告書を送ってくれた。グスタヴ・ゴットハィル博士主催のラビたちの会議は私の活動に賛成となった。ニューヨーク・サン紙は、5月4日にシオニズム活動に関する記事を載せている。私がニューヨーク・サン紙の記事をベネディクトに見せたところ、彼はおどけて、『君はすべての人を熱狂させてしまう。まさにハーメルンのネズミ捕獲人だ』

(著者註:
この言葉に馴染みのない人のために説明しておきたい。この話を『ハーメルンの笛吹き』で覚えておられる方が多いかも知れない。これはヨーロッパの子供たちに語られた物語で、フルートを吹き、チンドン屋のような服を着た人物が、1500年ごろのドイツの町ハーメルンを荒らしていたネズミたちすべてを、いかに誘惑して彼の後に従わせたかというものである。
それは町全体が黒死病に冒されていた時で、その病気はネズミに付いた蚤によって運ばれていた。ヘルツルの友人の比喩は、ペストを運んだネズミの大群のようにヘルツルに従ったユダヤ人たちに言及したものである。
ただ、ヘルツルに騙されている非ユダヤ人たちに関しても注釈が加えられて良いのであろうが。ともかく、ヘルツルが日記に自分を登場させて誉め讃えているそれは、強く非難されるべきものであった。友人ベネディクトによって表現されたヘルツルの不誠実性を、彼は誇りにしていたに違いなかった)

私の持っている本の216頁で、ローエンソールはバーゼルでの第一回シオニスト会議の様子を記述しているが、その中でこう述べている。

『出席者の誰も今まで見ることのできなかった一つのさらなる仕上げが、その姿を現した。その会場であった娯楽場の主たる入り口の左右に白地に二本の青い線の入った旗が掲げてあったのである。そして入り口の上部にはダビデ六芒星があった。その旗は古代のユダヤの旗の複製であろうと多くの人は思った。

  (古代のユダヤ人たちがその様な旗を持っていたとしたらの話である) 

 しかしそれはデヴィド・ウォルフソンが発案したものであった。彼は、ユダヤの伝統的な祈祷用肩掛の色と線を旗の中に使用するという巧妙なアイディアを思いついた。50年後、その旗は線の間にダビデ六芒星を入れてイスラエル国旗となった』

このことは私に少なくとも三つのことを示した。一つ目は、この催し物はすべて、群衆のためのジェスチャーゲームであったということである。二つ目は、ヘルツルではなくウォルフソンまたはその他の人物が事を運んでいたということである。三番目は、イスラエル国家を建設するという計画の結末は50年後と決められ、彼らはその目標通り正確に成し遂げたということである。人間の一生と比較すると、何と短い期間で国家建設を成し遂げたことかと改めて思い起こされる。ちなみに昭和天皇の在位は62年間であった。

私にとってもう一つ大事であったことを加えよう。それはIJCの陰謀に関する状況証拠から推定すると、ヘルツルはシオニストの仕事に乗り出すまでは日記をつけていなかったということである。それはあたかも、彼が上位者から記録を残すように指令を受けていたようであった。そしてその記録というのは、首尾良く行くであろうと予見されたことの記録であって、その『物語』が子孫、特にユダヤの子孫にとって、証拠として有用となるようにするためであったと考えられる**。私が本章の始めで、ローエンソールの紹介文から注意深く引用したのは、このためである。私が何故この様な些細な事でヘルツルを突いていたのか、読者はお分かり頂けたと思う。それは多分、すべてにつながる核の中心であるのだ。

**このような仕組みが、聖書の「預言」の真実であろうと思われる。(燈照隅註)

その日記は、彼の企みを売り込むべく骨を折った旅行について延々と記述している。しかし、政治家、統治者、そして特に当時の権力者たちに近づくために利用した裏口の名前を読むにつれ、会うべき人物に関する彼の知識に私はたいへん驚かされた。しかし、権力者たちに会うことを可能にした関係先には、さらに強く驚かされた。というのは、その多くは強い反ユダヤ派なのである。

これはIJCおよびその力の存在を証明し、私の主張を有利にする一つの事柄である。IJCはその富と財力を介して、権力の地位にある者たちがIJCのために活動せざるを得ないように仕向けているのである。

1897年にバーゼルシオニスト会議が開催されていた時でさえそうであったが、ロシアにおいては分裂させられた反IJC勢力が猛反撃を開始すべく準備していたのであるが、この話に移る前に私たちは歴史の話に再び戻ろう。

 

【訳注】

 <19>  旧約聖書 マラキ書3.4より。

 <20>  五旬節(Pentecost):過ぎ越しの祝(Passover :エホバの神の使がエジプト人の長子をことごとく殺した時、小羊の血を塗ったユダヤ人の家は通り越したことを記念するユダヤ人の祭。ユダヤ歴1月14日の夜およびその翌日から1週間)の後50日目

に行うユダヤの刈り入れ祭。聖霊降臨節

 <21>  マジャール人:現在ハンガリー人の主流をなす蒙古族の一種族。原住地はボルガ川ウラル山脈との間。

 <22>  キディヴ(Khedive):エジプト副王。オスマン帝国政府が、1867年~1914年の間のエジプト統治者に与えた称号。 

 <23>  セシル・ローズ南アフリカにおけるロスチャイルド家の表看板。三百人委員会のメンバーであり、悪名高いボーア戦争を仕掛けた中心的人物。世界的政変に大きな影響を与えた円卓会議を設立した。なお、円卓会議は、三百人委員会によって設立された英国情報部MI6の一作戦部局であると言われている。
                        (『三百人委員会徳間書店)1994』)

 

国際秘密力16

第17章  南北戦争と再構築

          『同胞の間に立って言い分をよく聞きなさい・・・<14>

 

1850年代の始め、ルイ・ナポレオンがフランスの帝位に就き、1853年に美しいユージェニーと結婚した。彼はナポレオン・ボナパルトの子孫であり、国民にボナパルトの名前の不思議さを感じさせた。この王と后はパリの街に美しさと文化と光を回復させ、パリを世界一とは言わないまでもヨーロッパの首都に真にふさわしい都市にした。その美しさはほぼ20年に亘って続いた。

ビクトリアは1837年に英国女王に就任して大英帝国の帝王となり、1901年までの長きに亘って統治を続けた。IJCにとって遥かに重要だったことは、彼女がヨーロッパのある国々の将来の君主の母となったことであり、また婚姻を通してロシアのロマノフ朝とさえ結合したことあった。彼女の息子エドワード七世の姪はロシア皇帝(ツァー)・ニコライと結婚し、ロシア皇后アレクサンドラとなった。彼女からすればこの皇后は孫娘になるのであろう。

ビクトリア女王のすべての子供たちの父親である皇族アルバートは、『女王の夫君(Prince Consort)』の称号を持っていた。彼もまた前に言及した小さなドイツの公国、ザックス・コーブルグ・ゴータの出身であった。

読者のために各国での出来事を結び付けてみると、フランスは文化を構築し、英国は支配家族を確立し、米国は海外の冒険を行っていた。米国は1845年にメキシコ戦争を開始し、1850年代に西部領土を完成させた。IJCは処理すべき一つの課題を抱えていた。それは密かに支配している米国において分裂を引き起こすことであった。現代の殆どの著述家は、この分裂を奴隷制に起因するとしている。しかし当時この問題に関係していた人々はその様には見ていなかった。

南北分裂の要因は数限りなくあり、それらは相互に絡み合っていた。奴隷制に対する賛否は確かに要因の一つではあったが、もっと大きな要因は南部の田園的性格と北部の工業的性格の違いであった。ジェームズ・ワットは世紀の変わり目のころに蒸気エンジンを発明し、それは北部の工場群、南部の綿織り機械、そして両者の鉄道機関車に動力を供給した。電信機も発明された。通信手段が迅速化されたため、距離の魅力は失せていった。

南部と北部の社会の違いについて私が最も重要だと思うのは、南部における農園主階級の存在である。それは1939年の映画『風と共に去りぬ』の中で描かれていたような空想的なものでこそなかったが、彼らは富裕であり、特に重要なことに、彼らの子孫は伝統的な方法で教育されていた。伝統的な教育方法は保たれ、現代フランス語とともに古典的なギリシャ語、ラテン語が付随的言語として学ばれ、各人の書斎にはそれらの言語で書かれた良識ある図書が置かれていた。さらに殆どの場合、各農園の家族毎に一人の個人教師が雇われ、一対一での教育がなされていた。当時は長子相続権制であったため、それらの教師は最も多くの教育時間を最年長の息子に費やした。

この教育システムのお陰で、南部の指導者たちは北部の指導者たちよりも良く教育されていた。そしてユダヤ人たちは、最下級を除くいかなる地位に就くことも全く認められなかった。この事実ゆえに、そして私はこの事実のみが原因と信じているが、南北戦争は勃発すべく企てられていた。

奴隷制は1789年の憲法制定時に撤廃されていたにも拘らず、戦争が起こされたのである。その憲法の中ではその撤廃が明記されており、妥協案として黒人一人が5分の3人分として扱われていた。

このことに関して興味深いのは、南北戦争勃発以来約150年を経ても、米国南部では伝統ある私立学校がまだ存在し、良家の子女が利用していることである。これら南部の富裕家族は今日でも残っており、黒人・白人、ユダヤ人・非ユダヤ人を比較的差別している。彼らは人種差別は名目のみだと称し、またIJCは個人的および政府・国家・州・地方行政を通しての両面で彼らをより一層支配すべく常に努めているにも拘らずである。

ともかく奴隷制は存続しており、リンカーン大統領の選出により、南部連盟諸州を形成していた諸州は連邦から離脱を始めた。そして南部の人々が戦争を選択したこともあって、南部諸州離脱のための戦争、南北戦争が始まった。

戦争は、古典的なナポレオン時代のやり方で、幾つかの断片的な戦いから始められた。劣勢な軍勢を率いたロバート・E・リー将軍は、多数並んでいた北軍の将軍たちを策略によって圧倒し、名声を挙げた。連邦軍北軍)の前進が為されたのは、かっての飲んだくれU.S.グラント将軍がリンカーン大統領に全北軍の指揮を取るよう指示された時が始めであった。それは彼が当時としては『新しい』戦法を採用したからである。その『新しい』戦法とは、敵に白兵戦を挑んで、ブルドックのように敵にしがみつき、リー将軍の得意とする機動戦法を防ぐ方法であった。

1865年までに南北戦争は終息し、IJCは古い秩序を破壊することによって南部を征服することを始めた。その征服は、『再建』と呼ばれる合法的な詐欺行為を内包する政策を通して行われた。

1863年の宣言および戦後の憲法修正により奴隷たちは解放された。黒人の投票権を造り出すために自由民のための事務局<15> が設置された。そして共和党の雇われ人たちは、政府のあらゆる階層で南部中に事務所を開いた。旧土地所有者の財産および農園には税金が課され、彼らは滞納した税金のためにそれらを二足三文で売り飛ばした。これらの人々および彼らの文化が徹底して破壊されることを、リンカーン大統領なら防げたであろうと私は信じている。しかしIJCと銀行業務について述べた時に見たように、彼は1865年の4月に暗殺されてしまった。

米国西部を防衛していた軍隊はこの戦争のために引き戻され、5年間の戦争の殆どの期間、アメリカインディアンたちは放置された。しかし戦争が終わって、今度は彼らの番であった。大陸に橋を架けるために横断鉄道敷設が開始され、軍隊が大量に投入され、そしてインディアンたちを飢えさせる意図を持って野牛たち*が屠殺された。これらは軍および米国政府の方針であった。ウォール街を通して米国の力を支配していた強欲なIJCは、再び大量虐殺の指令を発した。
*Bisonsの邦訳と思われる。アメリバッファロー激減の原因の真実はインディアン飢餓作戦だったのだ。(燈照隅註)

彼ら自身の銀行と仲買業者は殆ど存在せず、ごく目立たないようにしていたが、彼らの手下たちはひそかに彼らの命令を実行していた。無邪気な役者たちが自分たち自身の貪欲さゆえに再び利用され、利用されているとも知らずに、与えられた役割を演じたのであった。特にジャック・モルガンは伝説的と言えるほどにすべてのユダヤ人を憎み、ハーバードやチョート**のような東部の強力な学校の管理組織からユダヤ人たちを遠ざけようと絶え間無く努力していたにも拘らず、彼とモルガン家はIJCの罠に落ちて行った。

**チョート・ローズマリー・ホール(Choate Rosemary Hall)は、1890年代創立のアメリカ合衆国コネチカット州ウォリングフォードにある共学の中高一貫校(全寮制校)。寄宿制私立高等学校(いわゆる「プレップ・スクール」)の中で「テン・スクール(The 10 Schools)」に属する名門校。(wikiより)

南北戦争前の北部の工業力は小さかったが、戦争が終了するころまでには工業化国家群の中で高位にランクされるまでに急成長し、新しい富裕層が誕生した。それは米国の企業経営者たちであった。彼らは世紀の変わり目の前にトーマス・ナストの時事漫画を通して、強盗男爵として知られることになった。この漫画の男爵は、昔の強盗男爵と同様、無頓着で、利己的で、『忌まわしい大衆』の態度で、金持ちを越える生活を送り、社会的地位を誇示するために惜しげもなく浪費をした。この男爵の類は1930年代に入るまで存在していた。彼らがいかにIJCに操作されていたかを確かめてみよう。

ある政府の下で商売を行っている人々は、もし彼らについて何らかの規制が行われるとしたら、彼らの内輪の人物を調整者に指名することが自分たちにとって非常に好ましいことを学んでいた。このことはIJCの活動や圧力に関連していようといまいと、何世紀も前から、そして千年前でさえ、世界のどの国でもおそらく当てはまることであった。その様にして政府が直接に規制するのではなく、商人らは統制されてきたのである。

IJCの後援は無かったと信じているが、リンカーン大統領の行政下で一つの法案が議会を通過し、農務省が設立された。1956年ごろ、この農務省の『精肉業者・家畜養育収容所部(PSD)』がテキサス州の家畜競売市場を統制しようとした時、私は個人的に農務省と関わりを持つようになった。その時、私の上級パートナーと私はテキサス家畜競売市場組合の代表者となり、テキサス州ワコのカイルホテルで開催された農務省および小売委託業者主催の会議に出席した。

小売委託業者はテキサス家畜置場で仕事をしており、1870年代よりPSDの管轄下にあった。問題点は、競売市場との絶望的な競争闘争を強いられていたこれらの小売委託業者が、厄介で、誤適用された法律や規則によって競売市場を止めさせたいと望んでいたことであった。

法律や規則は意図的に誤適用されていると私は感じていた。これらの法律や規則、および農務省の競売市場に対する『恩典』を『説明』しようとする主要演説者が、小売委託業者組合の人によって紹介された。その演説者は次の様な言葉で紹介されたが、私はこの紹介の言葉を忘れられないだろう

『この方をご紹介できることを大変喜びに感じております。農務省の精肉業者・家畜養育収容所部(PSD)長でおられる名誉あるリー・D.シンクレア氏です。氏の父上は同じ部長を勤められました。また氏の父上の父上は、この部長職位が創設された時に局長を勤められました。』

私は我々の立場を知っていたし、その時何をすべきであったかも知っていた。我々は仲介者を介してリンドン・ジョンソンに連絡を取った。彼は上院における一票差の多数党の党首であり、また我々の隣の下院議員選挙区のサム・レイバーンが米国下院議長であったため、いくつかの不可解な方法を経て、テキサス市場を彼らの統制下に置くために、その年およびその後多年に亘る歳出予算をすべて削除した。

私がこの件から学んだことの一つは、十分長く待つことによって、支配権は結局私が対立したグループに握られたということであった。この様に、忍耐と固執によって、IJCは簡単に支配権を握ることができた。

人々の要求によって競売市場は統制が大幅に緩和されて継続され、小売取扱業者が競売者に変わるか、忘却の中に消えた時にこの話は結局終わったようである。この結末を知って読者は興味を覚えるかも知れない。もし人々が問題に気づけば、その問題は修正されるものだということが、最終的学習として明らかになった。それが私がこの本を書いた理由である。情報を与えられた人々は、用心深くなり、すべての誤った点を修正していくであろう。(強調表示は燈照隅による)

1870年代、人々は適切に情報を与えられておらず、強欲男爵たちはセオドル(テディ)・ルーズベルトが公職に就任するまで彼らのやり方を続けた。彼は米国で反トラスト法および独占禁止法を通過させ、そして一連の指摘を行い、複数の政府機関を創設した。それらの機関は今日でも驚くほど急激に成長している。この点に関しては後程、新しく創設された役職ポスト、特に意思決定に拘るポストを占める、不釣り合いで驚くほどの数のユダヤ姓の人々の議論をしたい。

南北戦争の間、企業経営者たちの強い圧力にも拘らず英国とフランスは中立を守った。彼らは北部の封鎖によって綿花に窮乏しており、綿花は平均して1ポンド当たり1米ドルにもなった。これは当時としては途方もない価格であった。1933年にはその価格は1ポント当たり3セントであった!

財務長官に抜け目のないユダヤ人、ユダ・P・ベンジャミンを配していた南部連合は、南北間での『平和協定締結』の6ヶ月後に綿花の売り上げから支払う約束で、戦争期間全般に亘る資金を融通していた。これらの言葉は実際に紙幣に印刷されていた。そして正貨、金、銀は極端に不足しており、実際手には入らなかった。太平洋戦争当時日本の婦人たちがしたのと同様に、南部連合の婦人たちは戦争遂行のために結婚指輪や宝石類を寄付した。

南北戦争の当初、メキシコはフランス軍によって『保護』された。フランス軍は、ハプスブルグ公爵がメキシコの帝王であると『認めた』マキシミリアンが帝位を維持すること、および負債取り立てが実行されていることを監視するために駐留していた。アメリカ軍がテキサスとメキシコの国境であるリオ・グランデ川に到着するや、フランス軍は直ちに帰国し、マキシミリアンは処刑された。そしてインディアンであるベニト・フアレスがメキシコの大統領となった。

しかし、これらのフランス軍は殆どフランスには到着しなかった。当時はプロシャとなっていたドイツと、彼らの祖国フランスの両者とも好戦的になっていたのである。1870年に普仏戦争が起こり、数日にうちにフランス軍は包囲され、セダンで敗北した。パリは取り囲まれ、有名なパリ包囲が始まった。そして、飢えた市民たちがネズミを食べようとした時フランスは降伏した。

IJCによる旧秩序破壊の次の段階はパリコミューン<16> であった。それは無政府状態下における政府の一形態で、パリには赤旗が翻っていた。これは約50年後にロシアにおいて成功を成し遂げた運動を予示していた。ロシアでは1830年代半ばから、『革命党員』によるロシア皇帝爆破事件が発生しており、それはしばしば成功していた。この運動はカール・マルクス以後は共産主義革命に向かっていき、その後ボルシェビキ(分離派)とメンシェビキ(主流派)<17> に分かれた。19世紀後半、世界は彼らをまだ『無政府主義者』の名で呼んでいた。体制が自由主義化された後には、彼らすべてはロシアから強制退去させられた。

IJCに躾られた今日の作者たちは、1905年に発生した反乱と殺人は日露戦争が原因していると考えている。しかし実際にはこの事件はもっと大きい計略の一部であって、その計略は地下で潜行しており、ロシアがIJCにより羊の檻の中に連れて来られるまでロシアを少しずつ削り続けていた。

望遠鏡で見るような後知恵的なことではあるが、今にして驚きなのは当時の人々がこれらの動きが何であるのかを理解していなかったことである。また19世紀遅く、シカゴでの『ヘイマーケット広場爆破事件<18> 』に始まった、米国でのIJCの共産主義者たちの活動が、非ユダヤ系新聞社では労働不安のせいに、IJC系新聞社では『無政府主義者』のせいにされてしまったことに驚かされる。

さらに驚くことには、当時の米国の司法長官ルイス・B・パーマーまでが1920年代の共産党の全活動を、『無政府主義者』の名で呼んでいた。彼は米国の刑事訴追機関の長官であると同時に、法律執行機関の長官であり、無意識的な反IJCであった。彼はたいへん無知ではあったが、1920年代の言葉で言えば、断固とした反ユダヤであったと私は思う。

これらのすべてを通しての真実は、共産主義誕生期の創設者たちや指導者たちが最後の一人に至るまでユダヤ人であったということである。彼らは、おそらくそれまでは知られていなかった外装の中に隠れたIJCの道具であった。

その外装は実際にはキリストおよびそれ以前の時代にまで遡るのである。共同生活体(Communes)および共産主義(Communism)は遥か古代の人々にはすでに知られ使われていた。キリスト自身、生涯の一時期を共同生活体で過ごしていたことがあり、IJCの指導者たちには良く知られていた。

そして今日IJCはこれらの知識を最も効率良く利用した。私たちがすぐ見ることになるように、この生活共同体は、道具として使われていたユダヤ人たちが考え、または夢見ていたよりも遥かに早く、彼らに背いて急旋回させられていく。

 

【訳注】

 <14>  旧約聖書 申命記1.16より。

 <15>  自由民のための事務局(Freedman's Bureaus) :ここでの自由民は、特に南北戦争後に解放された米国の黒人を指す。

 <16>  パリコミューン(The Commune) :パリ市に暴動を起こして市政を支配した、世界初の社会主義政権(1871年3月~1871年5月)

 <17>  ボルシェビキ:多数派、過激派。ロシア社会民主労働党の急進派で1917年の革命を経て、第三インターナショナルを組織し、1918年以来共産党(Communist Party) と称した。
      メンシェビキ:少数派。ロシア社会民主労働党の穏健派。1917年、レーニン
一派のボルシェビキに圧倒された。

 <18>  ヘイマーケット広場爆破事件:1886年5月4日、8時間制確立のため労働者が集会を行ったが、暴動となり、爆弾により11名が死亡した事件。

 

国際秘密力15

第16章  日本に入る

         『・・・主が御目にかなうとおりに行われるように。<10>

 

私たちは日本を離れ、フィリピンに入りこんだスペイン人とともにマゼランの帆船に乗って西の方向に進み、東洋を離れることにする。私たちとほぼ同じころ、ヴァスコ・ダ・ガマはバーソロミュー・ディアスの後を追ってアフリカ最南端の岬を回り、本当のインドに向かって航海をしていた。今やヨーロッパの主要権力の正体を顕にして、植民開拓者たちがやって来た。彼らは航路における有利な立場と支配権を獲得するために張り合い、騙し合った。

アフリカ回りの航路が始まったため、IJCは運用管理のために『支局』の準備を始めた。私はこの本の準備のために、ニューヨークのE.P.ダットン社から1968年に発行されたスタンリー・ジャクソン著の『サッスーン家』を読んだ。このユダヤ一家はバクダットの小形絨毯商人の外見を装っていたが、ダビデ王の血統であると主張していることを除いて、一家のそれ以前の歴史を私は知らない。一家は、ヨーロッパ人による東洋征服の各段階に応じて移動していった。最初はカルカッタへ、次にインドを回ってシンガポールへ、次に北上して香港へ、そして遅くとも1830年代の始めには上海にいた。彼らは買収した諜報員を、京都御所江戸幕府の両方に忍び込ませていた。

その間、英国は英国東インド会社を通して征服を押し進めており、中国は屈服させられた。中国は、大量の安価な阿片を供給されることによって麻痺させられ、服従するに至ったのである。その阿片はインドから運ばれ、中国で取引された。IJCが新世界で大量虐殺を実行したとしても、それはそれで十分過ぎるほどの悪であった。しかし、この国民全体を麻薬漬けにしたことは、誰に責任があったかは関係なく、さらに遥かに憎むべきことであったと私は思う!

日本では、16世紀および17世紀の鎖国の初期にキリスト教と小ぜりあいがあった。その結果日本人は、IJCとまでは分からなかったとしても、ヨーロッパ人の意図を正確に見抜き、キリスト教を禁止した。そして、年に一隻のオランダ船のみが交易上許可されたが、その戸棚の中にはIJCの蛇がいた。今や、日本の防壁を破るために一致協力することが求められていた。

1840年代、太平洋の日本近海での捕鯨船の多くは米国のニューベッドフォードから来ていたが、捕鯨漁が盛んになるにつれてごく小数の船が日本の海岸に座礁した。そして、孤立させられた船乗りたちは米国では手ひどい扱いを受けたと見なされていた。さらに重要なことには、捕鯨船隊はその長く厳しい航海の途中で、補給のため日本に上陸したがっていた。そして最も重要なことは、そして彼らがどんな下手な言い訳をしようとも、これがすべてを解く本当の鍵なのであるが、IJCは日本を欲しがっていたということである。そしてそれは後の時代の話ではなく、すでに当時からそうであった。

彼らはスパイ活動によって日本国内での金と銀の換算比率を知っており、日本では『相対的に価値が低かった』金と取引するために、彼らの銀貨ペソを準備していた。メキシコドルと呼ばれるようになっていたペソは、メキシコ市で鋳造され、当時は50セントと等価であった。

1850年代の始め、ロシアの船隊は日本に入ろうとして追い返された。また英国船隊は鹿児島に上陸を試みたが、旧式の大砲からの派手で激しい砲火に出会っただけであった。しばらく続いた襲撃で多くの日本人死者を出した後に、彼らも追い返された。

今度は、ブキャナン大統領の親類の提督ペリ-の出番であった。日本および世界中の人々は黒船とタウンゼンド・ハリス<11> の話を知っている。しかし、明治天皇がどのように帝位に就いたかは知られていない。

私は最近発行されている公平なある小冊子<12> の記事を信用している。それは良く知られている日本人著者・太田龍氏によるものである。1994年に私は日本で、太田氏と長時間の会話を交わした。彼は医者である父の日記を見たという人の説明をしてくれた。その人の父は孝明天皇の下に出頭するように呼び付けられ、そして天皇が白衣を血で染めているのを見たという。天皇の浴室から寝室までの廊下は血で溢れており、天皇の鼠蹊(股の付け根)には刃物傷があった。この事件は確かに発生し、その場所で天皇の体にそのような状況が起こっていたと、私自身は信じている。

天皇一家と廷臣たちはこの事件を恥入り、すべてを黙秘し、今日までこの事件は闇の中にあった。その父の日記は謎めいて消失してしまったが、そうであったとしても、この話は発生した事件を正確に伝えている。これは単に推論した結果であるが、暗殺者はサッスーン家の諜報員で、上海から操作されていたのではないだろうか。私はそう信じている。孝明天皇が亡くなられた結果、たいへん若い明治天皇が帝位に就任せざるを得なくなった。彼には后太后が摂政として教育の監督役に就いているだけで、即位前に孝明天皇から何らの引継も受けてはいなかった。

私はさらに次のことを信じている。彼らIJCは、マッカーサーが日本に来て、現天皇の教育を米国市民に引き継がせた時に試みたことを、この孝明天皇の時には見事にやり遂げた。昭和天皇の時の大きな違いは、昭和天皇が十分に勇敢で、彼の帝位を自分の意志で守り続け、マッカーサーを当時の皇太子の摂政にするというIJCの計画を妨げたことであった。さらに重要なことは、昭和天皇は存命しており、準備と教育目的のために彼の皇太子の周囲にできるだけいたということである。若い天皇に確かな情報が引き継がれるべき時期に、孝明天皇明治天皇間の継承の断絶を考慮しての行動であったはずである。

明治維新または明治における西洋社会への復帰として知られていることに深く立ち入る前に、この時代の、そして現在の日本にもまだ存在している軍事力の背景について少し探求してみよう。

薩摩の英国に対する英雄的行為を見る時、私はいつも長州の薩摩に対する優先意識を感じる。私がある情報を得たのは、平成6年の東京訪問を終えた後であった。その情報は信頼のおける情報源からのもので、薩摩は、キリスト生誕前の極めて早い時期のIJCの浸透にも拘らず、日本のどの集団よりも純粋性を保持していたというものである。

一方長州は早くからIJCの影響を受けて堕落していた。そして海軍を設立する時期が到来し、英国から訓練のために顧問を招いた時から長州はIJCの影響下に入った。しかし薩摩は大和精神に対し純粋であり続けた。これは、陸軍と海軍は何故常に分裂するのか、ということの理由であった。この分裂は今日でも存在しており、日本の防衛庁、いわゆる自衛隊の中にも存在している。  

日本の人々はこのことをこれほど詳細には気付いていない。そして軍隊にいる人々の多くはこの分裂を本当には理解していないか、または分裂が存在することすら知らない。今日その分裂は、IJCを支持する者たちの『現代的価値観』に従うか、大和の精神を持つ人々の『古典的価値観』に従うか、の違いにより起因することに私は気付いた。

ここで先程展開していた歴史の所に戻ろう。幕府との一連の戦いが行われ、そして明治維新が実現した。大和の民たちも、思わしくない事態を活かすべく手を尽くすことを決意し、国家を前面に押し出すことに心より参画した。すべての事に関して、彼らは西洋流のルールでゲームを戦わねばならなかった。そう、IJCは主たる目標である変革を成し遂げたのであった。

IJCの手下たちは大和の民を引き連れて世界中を旅行し、日本に激しい変化をもたらすものを各々持ち帰った。明治憲法教育勅語およびその他の重要な勅令が発布された1890年ごろまでに、明治天皇自身は、彼および日本に対する危険性を十分に認識していたと私は堅く信じている。危険性に対する明治天皇の知識は、彼の帝位就任の早い時期にまで遡るのかも知れない。

白人たちから日本人は同等であると言われ続け、日本人たちは同等であるかの様に行動し始め、ヨーロッパ人たちがしてきた様に振る舞い始めた。そして日本は、早期に中国から取り上げた土地を掌握し、さらに朝鮮に植民地を求めて行った。白人たちはこの厚かましさに憤激し、ロシアは戦争に入って行った。

すべての人々は対馬海峡、東郷大将および敵艦隊前での『Tの字』横断を教えた彼の教科書、そして旅順でのセルゲイ・ウィッテ<13> を知っている。しかし、IJCのために働いていたセオドル・ルーズベルト米国大統領が、平和のために『しぶしぶ』仲裁を申し入れ、これを日本に受け入れさせた時、彼は日本をロシアに売り飛ばしたことを殆どの人は理解していない。

当時のロシアは、まだ完全にはIJCに取り込まれてはいなかった。ロシアがまた取り込まれていなかった証拠の一つとして、ロシア内の銀行では、利子取り立ては『暴利』だとしてまだ認められていなかったという事実がある。私たちが前に見たように、ユダヤ人たちの利子取り立ては大憲章によりすでに許可されていたのである。私の見解では、日本に対する取引は、ロシアがIJCに対して求愛したものであった。もう一つの理由は白人の優位性を示すためであった。

しかしこの時、ロシアの翼の中にはさらに何物かが潜んでいた。1850年ごろ、別の一人のユダヤ人が多忙であった。私たちはすぐ後の章で、彼の仕事の結末に出会うことになる。彼の名はカール・マルクス。そして彼は『資本論(DAS KAPITAL)』を著述した。

 

【訳注】

 <10>  旧約聖書 サムエル記 上3.18より。 

 <11>  タウンゼンド・ハリス:初代アメリカ駐日総領事。1856年8月、下田に着任。

 <12>  小冊子:月刊誌「マントラ(宇宙の真理)」。

 <13>  セルゲイ・ウィッテ:日清戦争後の三国干渉ではロシア蔵相として、また日露戦争ポーツマス日露講和条約会議ではロシア全権として交渉にあたる。この人物は、日清戦争後に李鴻章を買収して露清密約を締結したと言われている。この密約は、満州里からウラジオストックに抜ける鉄道敷設権および付随権益をロシアに渡すというもので、また日露講和条約に於いても日本側に大きな不利益を与えた。