国際秘密力14

第15章  西方に進む

           『諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。

            あなたたちが喜びの国となるからだと <1>

 

1789年という年はIJCにとって実り多い年であった。フランスでは革命と第一共和制が始まり、北米ではアメリカ合衆国が始動を始めた。権利章典として知られる十箇条の修正条項を付加することにより、合衆国憲法がやっと批准されたのである。それは西部居留地の要求に応じたものであった。彼らは数々の試練や苦しみ、および血によって得た権利を容易に受け渡そうとはしなかった。

十箇条の修正条項は、『大きな兄貴(Big Brother)』(ジョージ・オーウェル<2> が小説『1984年』の中で、圧制的政府に付けた名前)から小さな人を守るのを助けた。『大きな兄貴』は『1984年』の目標日には少し遅れたが、まさに今日優勢になってきた。

私は1995年5月5日にこの本の出版社への準備を終えたが、今日私たちはこれと同じ米国西部の考え方を『市民軍*』の中に見る。この『市民軍』に対し、米国内のメディアはたいそう恐ろしがって報道し批判している。これら『市民軍』の人々の殆どは米国西部出身者であるが、米国憲法に対する権利章典、または十箇条の修正条項の時代に存在したのと同じ考え方を持っている。

*恐らくMilitia 民間軍事組織のことと思われる(燈照隅註)

連邦政府ビルを爆破したオクラホマ市の暴力事件は、専門家たちには驚くには値しない、当然起こるべくして起こった事件である。米国初期の時代にウィスキーに対する課税が初めて導入された時、武装した『ウィスキー暴動』事件に専門家たちが驚かなかったのと同様である。

(おおよそ一世代前に発生したこの事件は、米国史では『ボストン茶会』として知られており、殆どの人はアメリカ独立戦争の始まりと考えている。新たに課税された紅茶を運んでいた英国船がボストン港に停泊していたところ、インディアンを装った居留民たちが船によじ登り、護衛を打ち倒して紅茶を船外に投げ捨てたのであった)

米国の殆どの人はオクラホマでの爆破事件を、1993年の同じ日にテキサス州ワコで起こったブランチ・デビディアン・コンパウンド焼き討ち事件<3> の報復と考えている。私自身はすべての平和的な人々と同様にこの爆破事件を嘆き、法定制度を通してできるだけの法改正を試みている。しかし私はワコでのBDCへの襲撃事件によって引き起こされた激しい憎悪は理解できる。

これは司法省の指示下で、ATF(財務省のアルコール・税金・火器グループ所属の連邦職員)とFBIが実行した一群の家屋に対する包囲攻撃であり、それは約51日間に亘って続いた。この事件は、ATFの攻撃が撃退される中で数人の職員が殺されたことから始まり、FBI主導の強襲において装甲車が発砲することで頂点に達した。意図的か事故かどうかは議論されるにしろ、強風の吹きつのる日のまる一日の攻撃で、およそ75人の人々が全滅させられた。その中の殆どは罪のない婦人や子供たちであった。

先程の『市民軍』の人々にとって、この事件はまさに現実的なものであった。そして私には恐ろしい出来事であった。この強襲行為における本当の犯罪人たちは決して逮捕されることはなく、その中の何人かは昇進したのである。

これらの『市民軍』の人々にとって、この昇進は多数の罪もない婦女子を虐殺した報償と見える。ワコでの死亡者数は、オクラホマ市での死亡者数の約半数で、十分対比し得る多さであり、明らかに報復を狙ったものであった。両事件とも悲惨なものであり、私は、スペクター上院議員主催の委員会が聴聞会において明かりを放つであろうことを願う。そしてさらに重要なことであるが、これらの事件に特有で、エスカレートしつつある暴力によって引き起こされるであろう悲劇と緊張状態が、少しでも減少することを願うばかりである。

クリントン大統領と彼の顧問団は、この問題の深さを直視する選択枝を選ばなかった。これらは単に氷山の一角に過ぎない。それらの氷山は、内国歳入庁(所得税および固定資産税)や住宅都市開発省<4> に対する不満から流れ出て来る。それらについては、『市民軍』よりも『不満分子』の言葉が使われるべきであろう。

4月19日は両悲劇の記念日であるが、1980年代に北西部のモンタナ州のある集団に対するATFの攻撃から始まった、敵対する両者に対する攻撃の日付は意図的に選択されたと私は信じている。私はテレビ報道を録画していなかったので断言はできないが、1980年代に殺人を犯したATF職員は、1995年4月19日に処刑されたと信じている。 

私は日本人の考え方を理解していると自負するつもりはないし、日本の地下トンネルで毒ガスをばらまいた集団についても何も知らない。しかしこの事件に拘り合いのある人々または集団は、米国西部諸州の一人としての私に、ある権力者たちを思い出させる。その権力者たちは、自らを表に出すべき時が来たと感じた時に、自らをそれに適した状態にすることができる力を持っている。

『市民軍』と呼ばれているような米国西部居留地の住民たち、およびトンネル内で毒ガスを散布した連中は、今日の紛争に拘っている連中と同様、高度に訓練された集団ではなかった。西部居留地の住民の大半は読み書きができなかったが、彼らは抜け目がなく、そう簡単には騙されなかった。今日の米国では、彼らは『抜け目のない都会人(Street Smart<5>)』と呼ばれる方が良いのであろう。今日、教育を受けていない米国都市部のゲットーの住民たちもそう呼ばれている。そこには、社会不安や反社会のもう一つの勢力が潜んでいる。

居留民たちの多くがそうであったが、英国に忠実な居留民たちはより高い教育を受けており、より裕福な傾向が強かった。彼らは『トーリー党員(Tories)』と呼ばれていた。それは風変わりな言葉『トーリー党<6> 』から来ており、それは今日、英国政府の一つの党の名前である。彼らの多くは去り、カナダに移住した。また一部は西インド諸島に移り、小数はイギリス諸島の故郷に帰った。

ジョージ・ワシントンは彼の国を導いてきたが、彼自身の奉仕に対しては一ドルの支払いも要求しなかった。彼は『大統領としての必要経費だけを自由に使えること』という条件で承諾していたのである。大陸会議が彼の出費に関する勘定書または請求書を受け取った時、議会はその総額の大きさに衝撃を受け、度を失った。そのため、彼が今度は大統領として『しぶしぶ』勤めることに承諾した時、議会は『出費』規模に関しては拒否し、厳格に切り詰めた給与を彼に与えることにした。それも『出費』に関しては支払わないという条件付きで。

ワシントンは上院の承認を受けて、アレクサンダー・ハミルトンなる人物を彼の財務長官に指名した。

(何人かの人はハミルトンが、ワシントンが英国領西インド諸島に仕事で滞在していた時に、その地で生まれたワシントンの私生児であると主張している。しかし私はこれは疑わしいと思っている。というのは、生誕と旅行の日付が一致するという証拠がなく、またワシントンの崇拝者たちが約3年の差があると主張しているからである。私が知っている限り、これらを論破し私生児説を立証する何ものも提出されていない。ハミルトンは私生児として生まれたというのは、受け入れられた事実である。しかし当時、それは現在よりもありふれたことであった) 

ハミルトンの一般に知られている人生の目的は国立中央銀行を設立することであった。そして、それはIJCが国家経済を支配する時に最初に手掛けてきた方法であった。西部の植民者たちはこれを直感的に悟り、米国創立当初においてその設立を防止した。この試みは1830年代のアドリュー・ジャクソン政権の時に、立法化という形で再び行われたが、ジャクソン大統領はこれを否認*した。

*恐らく原文は「VETO」と思われる。つまり、大統領拒否権を行使して立法化を阻止した。

話を先取りすると、リンカーン大統領の暗殺は多くの観点からIJCによると考えられる。IJCは国家負債のために利子付き債権の発行を望んでいた。

リンカーン大統領はこれの立法化を否認し、その数週間後に暗殺された) 

リンカーンの後継者、アンドリュー・ジョンソンは就任するや直ちにこの法案に署名した。1913年の『改善*』政策までは、IJCは国立中央銀行を所有していなかった。その『改善』政策下で、ニューヨーク市連邦準備銀行(Federal Reserve Bank)を実質的な米国の中央銀行とする、米国全土にまたがる幾つかの中央銀行が生み出された。そしてこの後に、ウォール街およびIJCから発せられた一連の財政的『パニック』が続くのである。

*恐らく原文はprogressive policy 或いはProgressivism、進歩主義政策と思われる。(燈照隅註)

話を元に戻そう。ワシントン大統領より二代後の第三代米国大統領、トーマス・ジェファーソンは西部植民者たちの味方をして彼らの票を集めたが、彼もまたIJCの道具であった。ワシントンとハミルトンは例外として、道具である彼らはすべて自分がIJCの道具であることすら知らなかった。ジェファーソンも似たようなものであった。これらの自らを道具とも知らない人々はIJCにより冷酷に酷使された。そしてこのやり方はエジプトにおいて始まったに違いないが、それは読者がこの本を読んでいるまさに今日まで延々と途切れることなく継続している。そしてそれは少なくとも私たちが生きている間は続くであろう。

ジェファーソンの生涯における計画立案と業績を見ると、彼は疑いなく天才であった。彼は歴史の中でより賞賛されるに値する。彼が成し遂げた最大の業績は、ナポレオンのフランスから米国西部を含む地域を購入したことと、メリウェザ・ルイスとジョージ・ロジャース・クラークの両陸軍将校を太平洋までの西部遠征に派遣したこと*であった。彼らは現シアトル付近の海岸を発見し、彼らが横断した豊かな大地の報を持ち帰った。そしてこの壮大な大地に向かって植民者たちの幌馬車隊が進んで行った。読者が映画館やテレビで見た、ハリウッドの西部劇やマカロニウェスタンの中とおおかた同様である。風雨にも休むことなく、また見知らぬ野道の自然の危険に晒されながら彼らは進んだ。

*ルイス・クラーク探検隊(英語名:Lewis and Clark Expedition)は、アメリカ陸軍大尉メリウェザー・ルイスと少尉ウィリアム・クラークによって率いられ、太平洋へ陸路での探検をして帰還した白人アメリカ人で最初の探検隊である。探検隊は発見隊(英語名:Corps of Discovery)としても知られる。(wikiより)

ここで特筆すべきは、コロンブスの直後からスペイン人たちにより続けられてきたのと同様の住民の置換、がまた一つなされたことである。それもより多くの大量虐殺を伴って。

この大量虐殺はマサチューセッツバージニア居留地から始まり、北米において約200年間進行していた。そして今、アメリカインディアンたちは、これら北米地域において殆ど絶滅してしまった。大草原のインディアンたちにとって今度は、避けようとしていた『文明』と真っ向から衝突する時が訪れた。

1812年の英国の上陸とワシントン市の焼き討ち*は時代の流れに殆ど小波も立てなかった。そして1814年に平和条約が結ばれた後のニューオーリンズでの戦闘は、アンドリュー・ジャクソンを政治的に急速に盛り立てただけであった。彼は大統領に押し立てられ、前に記述したように国立銀行の設立を阻んだ。

*日本人は殆ど知らないと思われるが、米国は独立戦争に続いて英米戦争(1812~1815)を戦い、その中で首都ワシントンを英海軍に急襲され、焼討に遭っている。

300年ばかり逆戻りしてみよう。スペイン人たちが黄金と伝説に聞く都市シボロ、クイベラを捜し求めてメキシコから北部への探検を行ったことを、私たちは知っている。この様な伝説的な都市は、インディアンたちが自分たちの土地から異邦人を追い出していたころには、アメリカの至る所に同じようにあるいは異なった形で存在していた。スペイン人たちがアメリカ西南部を通過する中で、道を失ったり、盗まれたりした馬の群れは、果てしなく続く大草原をさまよい迷っていた。その草原は、小さな三本指の足を持った馬の祖先であるエオヒップス<7> がかって繁殖し、またそれ以前にも長い年月生命を維持していた所であった。

以前にスペイン人たちからはぐれたこれらの馬たちは繁殖し、インディアンたちは彼らの運搬用犬とこれらの馬とをすぐに取り替えた。しかしもっと重要なことは、インディアンたちが軽快な騎兵隊となったことである。フン族、モンゴル人、日本人を含めて、彼らは世界で最も軽快な騎兵隊になったのである。それは将来ともそう言えるであろう。彼らは弓矢および槍で武装し、遠距離間での合図に煙や鏡を使用した。そしてしばらくの間、彼らは自らの領域を統治した。

その後、今日彼らの手先は愛国心を極めて声高に叫んでいるが、彼ら一族は愛国心など完全に無視している。私たちが話をしている人物にも確かにそれは言える。コンスタンス・バターシィ夫人によれば、後の英国のロスチャイルド家の一人は『小さなメシア(ユダヤの救世主)』のあだ名で呼ばれていたことを思い出す。が、そして物質欲に固まった心ない連中がそれに続いてやって来た。またそれに続く踏みにじる連中の群れがやって来た。特に1848年、カリフォルニアで金鉱が発見され、その知らせが東海岸に届くや、1849年のゴールドラッシュが引き起こされた。

ここで、米国のその他の地域や世界の動向に目を向けてみよう。特に、1861年に南部連盟を結成するに至る米国南部諸州を見てみる。ここでは1600年以来、土地を枯渇させるタバコの栽培のために、土地耕作用の労働者を必要としてきた。またより多くのタバコ栽培のために、新たな土地を耕作する労働者を必要としていた。奴隷たち、すなわち黒人の男女や子供たちはニューイングランドの船で連れてこられ、砂糖きびや糖蜜製造に従事した。

そこではラム酒が作られ、奴隷との交換のためにアフリカに運ばれた。南部諸州では黒人の人口が急に膨れ上がり、殆どの地域で白人の人口を大きく上回った。そしてハイチでの奴隷反乱の例に見られるように、南部の奴隷たちは恐怖の中で日々を過ごしていた。独立戦争において北軍を結成した諸州には黒人は殆どおらず、殆どが自由人であった。

当時の宗教的扇動者たちは、今日でも堕胎問題に関してはそうであるが、狂信者たちであった。それとは異なった事柄、例えば『不自然な性行為の取り締まり』に思いわずらうような事、において同じようなことを言っている、現米国下院議長ニュート・ギングリッチ<8> も同様の狂信者である。彼らはすべての自由を欲している。私から見れば、これはカザール王国の場合と同様、IJCがまた鍋の中をかき回していたのであった。1850年までに、米国は半分は奴隷、半分は自由人の二層に分離した。

19世紀の始め、スペインがナポレオンに屈服した時、スペイン領アメリカでは、地域から次の地域へと連続して革命に突入していき、それはほぼ今日の地図で見るような国々が誕生するまで継続した。米国はフロリダを購入した。テキサスは、IJCの別の計略の中である集団に取り込まれた。その集団の指導者たちの中には、ワシントンと同様の階級にいた複数のフリーメーソン員がいた。南西地方は10年後に、誰も望まなかった戦争の中で取り込まれた。

こうして地球の半分の国境線は小規模の変更を除きほぼ落ち着いた。小規模の変更は何年にもわたる武力または購入により行われた。いくつか整頓すべき事項は残っているが、米国は運命顕示説*<9> の準備を終えたのであった。それは1850年ごろ上院で演説され、その教義は北米に適用され米国の西海岸への拡張を正当化した。しかしそれは実は、米国は世界を支配すべく『選ばれた』、または後の米国大統領たちによって何度となく言われてきたような、『世界中の民主的な人々を助けるべき時が来た』ということを実質的に宣言したものであった。

*運命顕示説:Manifest Destiny (マニフェスト・デスティニー)の邦訳。

 

【訳注】

 

 <1>  旧約聖書・マラキ書3.12より。

 <2>  ジョージ・オーウェル:(1903~1950)作家。代表作は「1984年」と「動物農場」。「1984年」の中では、私たちが追い込まれるかも知れない、憎しみと恐れと残虐欲とがあるばかりの、慈悲も喜びもない世界を描いている。

 その中では「身元情報確認システム」や「サイコテクノロジー(人間を武器化する洗脳技術)」等々その後現実化する組織・システムを的確に描いている。これは統一世界政府実現のための大衆宣伝であるとする見方も強い。 

 <3>  ワコ事件:デーヴィッド・コレシュを教祖とする小教団が、米国法務省FBI,軍により皆殺しにされた事件(1993年4月19日)。コレシュの小教団は、「アイデンティテイー派」の一種で、本来のユダヤ人はアングロサクソンであって、現在ユダヤ人と自称している人々は本物のユダヤ人ではないと主張していると言われている。

 <4>  住宅都市開発省:1965年に、大きな政府による社会福祉向上を目指したジョンソン政権(民主党)により設置された。小さな政府を目指す共和党系の保守派には、住宅都市開発は本来民間の事業であるとして、政府機関による大規模な介入に反発する考え方が強い。

 <5>  ストリート・スマート:大都市で外を歩くときに身を守るための知識を持っていることをいう。

 <6>  トーリー党:1688年にジェームス二世を擁護し革命に反対した王権派。その後はスチュアート王家に味方し、アン王女死後ジョージ一世の即位に反対。1832年の選挙法改正法案反対後は保守党になる。

 <7>  エオヒップス:暁馬。馬の進化の初期を示すものと考えられる狐大の動物。米国西部の第三紀始新世の地層からその化石が発掘された。

 <8>  ニュート・ギングリッチ:現米国下院議長。自称保守主義者。十箇条の修正条項を無効にする法案を通すべく尽力している人物と言われている。罪悪との戦いの美名の元に、健全な市民が凶暴な政府から身を守るための権利を放棄させようとしてしており、背後に支配的な勢力がいると指摘されている。

 <9>  運命顕示説:米国が北米全体にわたって政治的・社会的・経済的支配を行うのは明白な運命だという帝国主義的思想。19世紀の中ごろから後半にかけて受け入れられた。

 

国際秘密力13

第14章  銀行と混乱    『・・・敵のただ中で支配せよ <9>

コンスタンス・バターシィ夫人は、ロンドンのマクミラン社から1922年に一冊の本を出した。本のタイトルは『追想録』で、それは彼女の日記であるが、歴史上重要なものである。何故なら、彼女は英国ロスチャイルド家のある人の妻であったからだ。しかしそれ以上に重要な理由がある。彼女は鼻高々の自慢話の中で喋り過ぎたのだ。私が持っている470頁の本は彼女の自慢話で埋め尽くされている。

彼女は極めて危険な人物であったに違いない。というのは、彼女は、自分が知っている卓越した地位の人物や名士たちについて、際限なく記述しているからである。読者はそれを見て、いかに彼らが裕福であったかを知ることができる。彼女は嘘をつくこと、策謀的なこと、そして言葉を省くことができなかった。そのためこの本は粘り気のある甘い密をかなり良く滴らせており、それはすべての頁から滲み出ている。それはこの本全体を満たしている辛辣な皮肉を少しは和らげるかも知れない。

自惚れの激しいこの本は、当時のモンテフィオーレ家やロスチャイルド家出身のIJCのメンバーについて、多くのことを暴露している。それはまた当時の歴史の裏面について明かにしているところが多い。ある事象について一つのことしか書いてなくても、その中には他の事象と結び付ける何かしらのヒントが含まれている。

例えば、ある夕食会の描写の中には客として閣僚たちが含まれており、後の閣僚会議ではこれらの客たちが財政問題や植民政策問題を議論している。それらの議論は後に一連の法律になったり、国の誕生になったり、平和条約になったり、世界に影響を与える協定になったりするのである。

この本は真に貴重であるため、この問題について真面目な研究をする学生には、この本を読むことを推薦する。この本はIJC、ロスチャイルド家、そしてモンテフィオーレ家の歴史の重要な部分を伝えている。もし一冊取り上げるとしたら、この本を研究して欲しい

1760年ごろ、マイヤー・ロスチャイルドという人物が家族的な個人的銀行を、現ドイツのフランクフルトに設立した。そこは、当時ドイツ中に数多く存在していた小さな、取るに足らない王侯の領地の一つであった。その銀行は繁盛して成長し、1805年、この一族はロンドンに支店を開設した。

ここで、私はギルバートの地図10を取り上げることにする。読者はその地図を詳しく研究して欲しい。というのは、この地図は他の何よりも私たちの物語を良く伝えているからである。

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地図 10 ロスチャイルド家(1760~1914年)

 

18世紀の中ごろ、フランスの王は財政の失敗によって信用を失墜していた。またイギリスは、IJCが支配していた先程と同じドイツの小王侯領地から、すでに王を引っ張って来ていた<10>

これと同じころ、フランスで『イルミナティ』が創立された<11>。 そのメンバーは、おそらくその知性のゆえに選ばれたのであろう。しかしもっと強い選択理由は、彼らのIJCに賛同する信念であり、更に強い理由は、IJC司令部の指令を遂行しようという彼らの熱意であったと、私は信じている。そして、ジャコバン<12>イルミナティとその仲間たちにより組織された。

またアメリカでは、ジョージ・ワシントン自身が大陸会議<13> に出席した。その会議で彼は軍服を着て、イギリスからの独立宣言を発表したのである。彼はそれをし得るただ一人の人物であり、それは彼が最高の地位にいる指令官であることを確信させた。アメリカの全13植民居留地からの『良心的愛国者たち』から成る連絡委員会<14> が具合良く設置されていたが、この委員会は何年も前から彼を支援していた。イギリスから別れたいという意向に対して、1年前にはイギリス側からの拒絶があったが、今回はなかった。何故なら戦いが始まったからであった。

(先の会議に至るまでにも戦火は交えられていたが、独立といったものは試みられてはいなかった)

それにしても、すべてはIJCが自らの国を得るためにお膳立てされていた。そのように名付けられてはいなかったものの、そのように操作されていた。戦いに勝つことだけが必要であった。

フリーメーソンに関しては、その団体とともに活動した私の過去の経緯により、意図的に何の記述もしてこなかった。しかし私は、この団体はイルミナティジャコバン党の活動と、そしてまたアメリ独立運動とも密接に関係していたと確信している。また彼らはIJCの仕事をするという同じ目的のために、読者がこの本を読まれているまさにその瞬間も、日本においてまだ活発に動き続けている。

私はどのような誓約も破りたくはないし、それによって私が、賛成にしろ反対にしろ、裏の動機を持っていると責められるようなことについては書きたいとは思わない。これが、私がフリーメーソンに関して話すと決めたことのすべてである。というのは、これらの紙面を通して最善を尽くしているように、私の人生の目的は他の何よりも、IJCを暴露することにあるからである。この本を翻訳している時の翻訳者が、言葉は違っていても、この本を書いている時の私と同じ位に冷徹であることを祈るばかりである)

ベンジャミン・フランクリンは、フランスおよびフランス国王からの支持を勝ち取るために、アメリカ人たちによって送られたもう一つの道具であった。フランス国王は天皇制下にある人たちとは違って、自分の喉を掻き切られたくなかったら、暴徒からの要求に答えざるを得なかった。フランクリンは外交官として申し分がなく、多くの人々が彼に魅せられ(多くの女性たちがそうであったように)、フランス国王は彼を受けいれた。こうして兵器、兵士たち、艦隊が送られ、支援行為が実行され、1783年にパリ条約が交わされた。この条約は他にも多くの事項を含んでいたが、アメリカの独立宣言はその中の特別の項目であった。

その当時も、そして今日の米国内でも、この様なことが起こっていたと信じる人はいないであろうし、また誰も信じられないであろう、またさらに重要なことには、誰も喜んで認めようとはしない。しかしこのことを誰かが知ろうと知るまいと、私は、それは実際に起こった事実であると確信している。人生を通してずっと教えられてきたこと、そしてその中で愛国者として信じてきたことは表面的なものであって、真実はその底に流れていたことを自分に認めさせることは、私にとってさえ難しかった。

追想したとしても、後知恵的に考えたとしてもIJCの最終目的は明白である。既成の体制を徹底的に破壊し、自分たちの利益のために再構築すること、これである。再構築に際しては、なお一層支配を強めるように導いてきた。彼らはそれを早い時代、エジプトとは言わないまでも、少なくともカザール王国の時代から学んできた。そして多くの実習を積み重ね、今やどのような時、場所、状況においても、円滑に適用し得るまでに洗練された。次にフランスに目を向けてみよう。

フランスはアメリカの独立戦争においてイギリスには勝ったものの、1783年のパリでの講和には失敗して、カリブ諸島および最後に残されたカナダへの要求も放棄した。フランスは今や、氷の滑走面上をそりに乗って落下するが如くに坂道を転げ落ちていった。

フランス国王が支払不能に陥ったことにより、将軍たちが1788年に召集されたが、この様な会合は1614年以来であった。(フランスの立法府は議会に似ているが、権力は殆ど無く、すべての活動については国王の承諾を必要としていた) 

 混乱は続き、1789年の革命に至った。国王(ルイ十六世)と王妃(マリー・アントワネット)はギロチンにかけられ、恐怖の日々は続いた。貴族階級は殆ど根絶され、混沌が支配した。ヨーロッパ中から事態を収集するために、また各国を肥やすために軍隊が行進してきたが、誰もそのどちらが本当の理由だとは言えなかった。フランス人たちは、暴徒たちが制圧されるまで結束して抵抗した。国内の秩序は、5人の急進論者で構成された理事会からの要請に応じたナポレオン・ボナパルトによって1793年に回復された。この集団はナポレオンをその支配下に置いていた。

その後ナポレオンは戦争ばかりでなく、政治的支配にも乗り出した。教科書はナポレオンがいかに戦闘、戦役、戦争で活躍したかを飾り立てており、それらは今日でも読まれ研究されている。

彼はイタリア、スペイン、オーストリア、ドイツ(西方は小さな王侯の諸領地からなるライン連邦、東方はベルリンを中心としたプロシャ王国からなる)、エジプト、近東等々、次から次へと進軍し、モスクワに到着するまで勝ち続けていった。1812年、モスクワでは頑強なロシア人たちと彼らの冬が、ナポレオンを罠に掛けた。ナポレオンは退却を余儀なくされ、彼の兵士たちは凍死していった。彼は流刑に処され、ヨーロッパ諸国は以前の状態に戻そうと、事態の復帰を図った。しかしそれがなされる前にナポレオンはエルバ島を脱出し、フランスに戻った。そこでは軍隊が結集し、それはかってないほど強力に見えた。しかし彼は、ウォータールーにおける短時間の戦役でウェリントンに打ち負かされ、今度は遠く離れたセント・ヘレナ島に流刑となった。彼はその地で死んだが、世評ではイギリスの捕獲人により砒素を盛られたという。 

IJCにとってナポレオンの重要性は、彼が今日世界を支配している民主主義を生ぜしめる傍ら、統治貴族階級とその実権を永久に破壊したことであった。彼は恐怖とその恐ろしい集合体を通してそれを実行した。IJCは私がここに記載したよりも遥かに詳細な手法を持っており、彼らが所有し実行したその手法を彼らは今日も利用していると、私は信じている。

ロスチャイルド家は1805年にロンドンに銀行を設立した。そして彼らは伝書鳩の利用により大衆と政府よりも情報収集において先行し、先に入手した戦況情報に応じて、パリとロンドンで債券の売買を行っていたと言われている。

今日彼らの手先は愛国心を極めて声高に叫んでいるが、彼ら一族は愛国心など完全に無視している。私たちが話をしている人物にも確かにそれは言える。コンスタンス・バターシィ夫人によれば、後の英国のロスチャイルド家の一人は『小さなメシア(ユダヤの救世主)』のあだ名で呼ばれていたことを思い出す。

再び地図10に注意して欲しい。この地図には、彼らの銀行の支店とその開設年度が、閉店または吸収された彼らの競争相手の銀行とともに記載されている。これを見て、読者は銀行業務の原理と今日の政府の方式を理解されると思う。

さてこの後、IJCが彼らの玩具を使って北米で為していることを見てみよう。

 

【訳注】

 

 <9>   旧約聖書 詩編110.2より。

 <10>  イギリス、ドイツの王侯から王を招く: ジョージ一世(ドイツのハノーヴァー家)の就任(1914)を指す。以降現在までこのハノーヴァー家が継続。これはイギリス王室の乗っ取りである。ドイツのハノーヴァー家はヴェネチアの黒い貴族(Black Nobility,ゲルフス家)の直系と言われている。

 <11>  イルミナティの創立: イエズス会士のアダム・ヴァィスハウプトが創立(1776年5月1日)。5月1日は、悪魔に使える魔女たちにとって記念すべき「ベルテーンの祝祭日」であり、ルシファー(悪魔王)が地獄より地上に戻り、空に宿る日である。この祝祭日とイルミナティの創立日およびメーデーの日は深く関係していると言われている。

 <12>  ジャコバン党:1789年、パリのドミニコ会修道院で結成。革命の進展とともに急進化し、1792年後半から山岳党が主導権を取った。

 <13>  大陸会議(Continental Congress):英本国に対抗して米国で組織された13植民地の合同会議。第1回(1774)はフィラデルフィアで開催され、第2回(1775~1789)は臨時政府の役目をした。

 <14>  連絡委員会(Committee of Correspondence) :米国独立戦争当時、緊急事態に即応するため各植民地間に設けられた委員会。

 

国際秘密力12

第13章  出会い    『彼の家には多くの富があり・・・<3>

新世界での話を続ける前に、スペインとポルトガルのこれらの早期の航海がどこから来たのかを見てみよう。

イベリア半島は過去長い間侵略されていて、イスラム教によってもたらされたアラブ文化に、一時期だけ完全に占拠されたことを思い出そう。明るく、陽気で、流れる水と泉のある優美な建築物のアラブ文化は、北欧文化とは似ても似つかない。北欧の文化は、小作人たちが居住していた不潔な堀立小屋と、貴族たちが居住していた要塞化した前哨基地から現れ出たものであった。

アラブ文化は、ギリシャ人たちの多くの知識を世界を代表して保存するとともに、中国、インド、ペルシャから古代人たちが知っていたことの多くを吸収していた。アラブ文化は、それらの知識の科目の大部分について知識を蓄積するとともに拡張していった。建築と文学はやや遅れていたものの、数学と医学は彼らの得意とするところであった。

アラブ人の様に長い歴史を持つ民族について一般論を言うことは、明らかな例外もあって非常に難しいのであるが、概して言えば彼らは雅量のある人々であった。特に、西洋と接触している文明の下にあったスンニ派はそうであった。アラブ人たちの血と知識は、イベリア人たちが知っていた以上に、かなりの量がイベリア人の中に入っていた。

征服者たちはインド諸国<4> の香辛料を求めており、コロンブス船隊の巨大な新大陸への到着に少し遅れて東インド諸島に到着した。東方への前哨基地はアフリカとインドを廻ってゆっくりと延長されていた。一方、西方への直接的航海はすでに盛んに行われていた。というのは、コロンブスが最初の航海ばかりでなく、その後の航海でも、ある金属を持ち帰っていたからであった。

(彼の各々の航海は、遥か遠方より帰ってこられるであろうということを、なお一層はっきりさせた)

その金属とは、大昔から男たちの卑しい激情を煽ってきた金であった!!!さらに重要だったのは、わずかな量の金を持ち帰ったことに加えて、コロンブスは内陸に巨大な量があるという噂話をもたらしたことであった。それは確実だと信じられ、そしてコルテスの遠征によって確かに証明された。今やスペイン人のすべての若い二代目たちは、彼らの足跡を残し、一財産を作ろうとして『インド諸島』への航路を求めた。当時はまだアメリゴ・ヴェスプッチ<5> は航海をしておらず、彼らはアメリカのことを『インド諸島』と呼んだのであった。

彼らは無思慮な欲望の塊となって、略奪、強姦、殺人そして大量殺戮による根絶へと突き進んでいった。その大量殺戮は、何世紀か後に、ラオスカンボジアで、そしてヒトラーポーランド人用窯、それらは子供騙しの様に思えるのだが、で築かれることになる頭蓋骨の山々のすべてより悲惨であった。

第二次大戦における大量殺戮は今だに、IJCに支配されたメディアを通して、繰り返し定期的に、世界中の人々の目・耳にこれでもかこれでもかと、うんざりするほど叩き込まれる。これを過去にアメリカで為された大量殺戮に対する、これらのメディアの態度と比較してみると良い。これらは子供騙しの宣伝である。またハノイで失われた生命や、ドイツ・日本に加えられた猛爆による膨大な死者について、これらの同じメディアは殆ど言及しない。

さらに比較してみると、原子爆弾によって、広島・長崎の人々に訪れた苦難と破壊の恐怖について、これらのメディアは殆ど何も言わない。この原子爆弾が投下された時、太平洋戦争は実質上すでに終了しており、日本は絶望の中でロシアを通して平和への嘆願をしていた。そしてそれらすべてを米国戦略事務局(American Office of Strategic Service)のアレン・ダレスは知っていた。彼はその組織の後身・CIAを統率し、またロシアとの冷戦の初期段階では、兄弟のジョン・フォスター・ダレスとぐるになってIJCのために活動した。

コルテスの信じ難いほどの蓄財の報告とほぼ同時期の1520年、フェルディナンド・マゼランは世界を回る航海に出ていた。彼は、彼が到着した土地をすべてスペイン領だと主張していった。そしてついにフィリピンにおいて日本人とヨーロッパ人が対面し、直接的に対決した。

私の日本の歴史に関する知識はたいへん貧弱であり、読者にはお侘びをしたい。そして、この本で記述されている考え方に読者自身で補足して頂くことをお願いする。その私の貧弱な知識も、IJCに迎合した作者によって悪しく汚されており、殆ど価値の無いものとなっている。私は、私が正しいと知っている事実を何とか拾い集めてみた。例えば、後鳥羽上皇流罪となり島後(隠岐)で死ぬことを許されたが、それは彼自身が知っていたかどうかは別にして、彼が反IJCであったからであった。

そして約1世紀後、後醍醐天皇は同様の流罪から逃れ、大神山様の斜面で農民たちの助けによってIJCの捕獲人たちを打ち負かした。繰り返すが、彼らはIJCの存在について知識もヒントも持っていなかった。しかし彼らは、何か邪悪な勢力が行動していることを知っていた。そして彼らは日本の人々のために全力を尽くした。

ここで読者が正しい事実を知っていて、私が間違っている点があれば読者自身で読み取って欲しい。読者はこの後また、日本の有史以来の歴史全般に亘ってIJCが掛り合っていることを見るであろう。 

秀真伝(ほつまつたえ)<6> に記述されている内容を除けば、日本の歴史書は、IJCおよびその目的に合う様に何世紀にも亘って変造され、書き直され、または捏造されてきた。秀真伝はIJCの汚れ、血塗られた手によって触られておらず、純粋で汚れがないと理解している。その理由はただ一つ、その写本が秘匿されて長く保存され、他のものが破壊された後で発見されたからである。

とにかく、秀吉はより広い生活圏を求めて南方に日本帝国を拡張していった。私たちがすでに見たように、彼はアフリカ回りの航海で示された海軍能力を備えていた。彼が持っていなかったもの、そして後にヨーロッパ人とフィリピンで出合った時点で日本人が持っていなかったものは、大砲とスペイン式火縄銃であった。そのスペイン式銃は、ラセンを切っていない平らな穿孔の銃口装槙式銃で、肩にかついで射撃するものであった。

日本の弓術家と騎兵隊は、当時世界のどこよりも優れていたし、彼らは火薬も知っていた。問題は彼らが技術的に後進的であったことであった。技術的に劣っていたため、またヨーロッパ人の目の中に強欲の微光を見たため、彼らは日本の島々に退却し、鎖国した。

彼らは鎖国が、これらの風呂にも入らない妙な生き物たちの生物学的および物質的な襲撃から身を守る安全な処置である、と考えていた。彼らはその時だけでなく、過去からずっと何世紀にも亘って浸透されてきていたことを知らなかった。その時IJCに対抗するために必要とされていたことのすべては、日本の島の塁壁が破られる前に、この彼らにとっての巨大な新地域を強化することであった。 

そうこうしている間、IJCはうねりながら前進していた。読者は、前出のマッケベディーの『ペンギン現代歴史地図』第3巻の地図8を見て欲しい。この地図は、ローマ法王教令によりブラジルがポルトガルに割譲される1600年までにスペインが新世界において占領した地域を描いている。

この地図は、オランダ、フランス、イギリス、後にはロシアまでが、お互いにどっちつかずで、要求・論争・戦争・植民するようになっていた北米の詳細までは示していない。  

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地図 8 スペインの占領政策(~1600年)

                              

バージニア州のジェームスタウンは1607年に英国により建設され、マサチューセッツ居留地は、1620年に英国の清教徒団により作られた。後に米国になった他の居住地は1776年までに総計13を数えるまでになっており、各々は実質的に所有権がほぼ確立していた。オランダはマンハッタン島を僅かな金額で購入しニューヨークを建設した。そして何年か後に、英国との間の多くの戦争と論争の一つを鎮める際に、英国の西インド諸島の一つの島と交換した。後に米国となった西部では、スペインが北方のカナダ方向へと要求を広げていった。

ロシアはまだアラスカには来ていなかった。ロシアは極東を目指して進んでいたが、まだ現ウラジオストックへの途上であり、それは幾多の連続した探検と征服を伴う困難な仕事であった。ロシア皇帝の命を受けたベーリング<7> はアラスカ地域を突き止めたが、ロシアの所有権という観点でまともに考慮されるまでには何年もかかった。アラスカ地域の所有が実現してからのロシアは、海岸線を南下して現カリフォルニア州のサンフランシスコ付近に着くまでのすべての土地を要求した。

次に、これらの底流にあるものを再び見てみよう。前出のギルバートの地図9をまた詳しく見て欲しい。

この時代の一連の事件に関して、私には発生時期が奇妙に一致して見える。ヴェネチアと東方との通商が閉鎖されたころに、一人のユダヤ人が、ユダヤであることを秘密したかしなかったかは別にして、全く新しい世界を発見した。

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地図 9 アムステルダムユダヤ人交易商人(1550~1750年)

 

その時スペインの王室は、ユダヤ人たちの富を求めた航海によって浸透、操作されていた。そしてスペインはそのユダヤ人たちを放逐したが、ユダヤ人たちは彼らの商業社会に移動しただけであった。そして、その商業社会もヴェニスから、スペインが支配しているジブラルタル海峡を通過せずとも公海を自由に利用できるオランダに移った。これらすべては、歴史の中のある瞬間に同時に発生したのである。この年代を通してのユダヤ人たちの成功は、世界中の誰の目にも明かな公知の事実であった。

ニューヨーク州ルーズベルト家は日本では、日露戦争におけるセオドル・ルーズベルト大統領の『調停』と、フランクリン・ルーズベルト大統領の太平洋戦争を通して良く知られている。セオドルの『調停』によってロシアは親切にもポーツマス条約に調印し、戦争は終息をみた。

このルーズベルト<8>ユダヤ人であることはあまり知られておらず、バケツ一杯の歴史修正学派の人々ですら虚であると疑っているが、彼らのオランダのユダヤ人からの家長血統はしっかりと文書化されている。彼らの女家長の系譜は良く記述されていないと言うのは真実であろうし、従って彼らのユダヤ人としての純血性は証明されていないと言うのも真実に近いであろう。

しかし私はここで読者に注意を喚起したい。それは、このことはロスチャイルド家の場合と全く同一であろうということである。ルーズベルト家の場合と違うのは、ユダヤ人であることが否定されないばかりか、声高に誇らしげに宣伝されているということである。もし読者が、ロスチャイルド家の場合にも女家長系統を辿って系譜の線引きをしたいと望むなら、彼らがユダヤ人というのは真実でなくなるであろう。しかし、ロスチャイルド家の人々が系譜の線引きをした時、彼らは単に貴族の爵位が欲しかっただけではなく、後に引用するコンスタンス・バターシィ夫人の日記に記述されているような一族特有の目的のために、家長系統による家系に依ったという事実は残っている。

長い話を短く言うと、本章で示されたこれらの二つの地図はこの本の主旨を伝えている。この地図では、イギリスとフランスのどちらが、海外に設立された居留地を支配していたかについては区別していない。お金およびそれからの利益は、戦争から得る利益と同様、同じ懐に入っていった。

この人種は、お金の力とその管理方法について早くから学んでいた。お金は貸付や利用を通して力を発揮するが、彼らはまさにそれを実行していた。彼らはフランス国王の大蔵大臣や会計係を操作することにより、フランス国王を破産させ、フランス革命に導いていった。彼らは苦しい貸付を留保することによってヨーロッパの君主をして彼らの命令を実行せしめた。そして戦争があれば、彼らは当事者の両側に軍需品を売りつけた。

では次では彼らの銀行業務について論じることにしよう。

 

【訳注】
 
 <3>  旧約聖書 詩編112.3より。

 <4>  インド諸国:インド、インドシナ東インド諸島。

 <5>  アメリゴ・ヴェスプッチ:(1451~1512)   フロレンスの人。1499年、スペイン人に従って南アメリカに航海し、詳細をヨーロッパに紹介。

  <6>  秀真伝(ほつまつたえ):古代日本の真正の歴史と道統を明らかに誌した文書(BC668およびAD126)。全編12万余字の古代文字から成り、その成立の古さ、伝承の深さにおいて、今日に完全な形で残る世界最古の古典と言えよう。歴史書は常に時の権力によって弄ばれる。「秀真伝」もその例外ではなく、仏教伝来、蘇我氏専権のころから受難が始まったと考えられ、ついに道境専横の時代に社会の表面から秘匿されるに至った。その後一千余年して、江戸時代安永年間に惚焉とその姿を現し、「秀真伝」作者である神武朝の大臣櫛甕玉命(くしみかまたのみこと)の遥かな裔孫であるという和仁估容聡(わにこやすとし)および小笠原家により、大正年間まで研究が続けられた。しかしその後再び世に隠れんとしたところ、戦後になって松本善之助氏が奇縁をもってこの書物に出会い、以来鋭意専心研究に打ち込むとともに、散逸した諸本の蒐集に尽力された。同氏の業は、国史破邪顕正の上からも大書すべき功績であった。五・七調で綴られているその内容は、言葉(日本語)を極めて尊ぶ思想で貫かれ、また現代の四季折々の行事に直結する事柄が数多く記載されている。この文献の後に書かれ、外国文明に大きく影響されて間もないと思われる古事記(AD712)、日本書紀(AD720)よりも、現代の私たちに違和感のない世界が広がっている。その教えるところは崇高で、2700年の時を越えて私たちの心に訴えかけてくる。それはいかにも日本的と感じられるものであり、西欧文明とは明らかに異なる。大和魂を持つ日本人にとって必読の書である。 

 <7>  ベーリングデンマークの航海者(1681~1741) ロシアのピョートル大帝の命を受けて北太平洋を探検。ベーリング海峡を発見しユーラシアとアメリカが別々の大陸であることを発見。

 <8>  ルーズベルトの家系:ルーズベルト家の祖先を辿って行くと、17世紀末にオランダにいたユダヤ人、Claes Martenzan van Rosenvelt に行き着くと言われている。このローゼンフェルト家の祖先は、異教徒審問中にスペインから亡命したユダヤ人の一群に属し、ローゼンカンポと称されていた。その後この一群のユダヤ人はヨーロッパ各地に分散した。 彼らは、Rosenberg,Rosenbaum,Rosenbarium,Rosevelt 等々を名乗っていた。
この中のヤコブス・ローズベルトがオランダに移住し、この一家のみが諜者(agent)となるために改宗した。この一家は1649年にオランダからニューアムステルダム(現ニューヨーク)に移住したという。                          (『日本人に謝りたい(日新報道)1980』)

 

国際秘密力11

第12章  土着民族

         『・・・主は広大な地をしかばねで覆われる・・・<1>

 

多くのことが前節までに書かれないで残ったが、これには理由がある。旧世界で起きた出来事の多くは新しい時代に持ち越されたからであり、また新しい時代の出来事と類似性があり、それらの事件を何となく結びつけたくなる感覚にさせるからである。これまでは順序良く年代順に記述してきたが、これからは私の主張を明らかにするために年代を飛び越えて記述する。読者はこの点を我慢して頂きたい。またこれまでの様に、適当な本というよりは陪審議論的スタイルに近い形で記述する。

(私は、世界の歴史に関する自分の著述や視点が中立だと主張する歴史家を否定する。もし彼が中立性を要求するなら、彼は偽善者である。彼が自分が偽善者であるということを知らないなら、彼はその上に無学である)

13世紀の帰来した十字軍に話を戻すと、彼らは単一世界支配*よりさらに恐ろしいものを連れて来た。彼らは恐ろしい、殆ど致命的な病気を連れて来たのである。その病気は犠牲者の外観のゆえに黒死病と呼ばれているもので、その病名は短くペストとされた。およそ1200年から1600年代の半ばまでに繰り返し流行したこの病気のために、すべての村、町、州そして国の大きさにも相当する広大な地域の住民が一掃されてしまった。

*今でいうNWO(New World Order新世界秩序)体制である。(燈照隅註)

続いていた戦争はこの病気のために下火となり、多少なりとも存在していた産業は停止した。細菌が生物進化によって今日肺ペストとして知られ良く封じ込められているものに変わり、そのいくつかの毒性を自然に失ってしまうまで、この様な状態は約4世紀の間続いた。

13世紀の初め、ヨーロッパ人たち自身に襲いかかったことよりもさらに恐ろしいことが起こった。彼らは猩紅熱、腸チフス天然痘の様な危険な病気とともに、はしか、水痘、百日咳といった比較的無害な幼児病をことごとく新世界に持ち込んだが、これらの病気は、血流中に抗体を持っていなかった土着インディアンの住民たちには一様に致命的であったのである。

私たちが西インド諸島として知っている北米の島々では、征服者たちがインディアンたちを労働者として奴隷化しようと計画していたが、これらの島々の住民たちはこれらの病気により絶滅してしまった。黒死病がヨーロッパを一掃したよりも遥かに悪く、病気は原住民たちを一掃してしまったのである。

そのため、中世では珍しくたいへん尊重されていた砂糖キビを耕作させる者の代用として、アフリカの黒人奴隷たちが速やかに輸入されたと言われている。砂糖キビは蜂蜜の改良品用や砂糖として、ヨーロッパでは常に高価で売買されていた。

歴史の話を先に進めても、そこにはアメリカインディアンたちの話が、南太平洋の住民たちと同様に続いていく。白人たちは破壊と死をもたらしたが、それは彼らの馬、武器、鉄剣によるばかりでなく、彼らの存在自体がその一因なのである。細菌はまだ見極められておらず、白人とインディアンの出合の際に細菌は常に存在し、病は野火の様に広がっていった。

この状態は20世紀に入るまで続いた。南米の僻地では、それは今日まだ進行中であることを私は理解している。そのことは、その事態が7世紀以上に亘って続いていることを意味する。マッケベディーは、ヴェネチアが取り扱った商売を歴史上最大であると言ったが、私は、これらの流行病は世界の歴史の中で人類が人類自身に課した最大の破壊行為であると信じている。

今日では、前記と同様またはそれ以上の悲惨な事態を引き起こすには、誰かがボタンを一つ押すだけでいい。今日の人類は、核兵器を発射することによりこの惑星を煙と灰で覆い隠すことができる。煙と灰の犠牲者となったと思われる恐竜とは異なり、人類は核爆発による大量の塵を宇宙空間に放置することによって、人類自身に同様のことを成し得るであろう。

 いささか冗談めいたが、それは何も可笑しなことではない。この様な方法によらないとしても、貪欲なIJCは環境汚染をうまく利用して同様の悲惨な事態を招いていくであろう。環境汚染は今日、野火の様に、というよりペストの様にと言うべきであろうが、広がっている。

私たちの主テーマに戻って、私が最も興味を引かれる征服者はエルナン・コルテスであり、従って新世界での征服事件ではメキシコの征服が最も興味深い。1519年にコルテスは上陸し、当時メキシコを統治していたアステカ族に好意的に迎えられた。私の世代の米国人は子供のころ学校で、モンテスマの策略による妨害を乗り越えて、コルテスは粘り強く奥地に進んだと教えられた。しかし私は子供ながらにモンテスマを敬慕した。自己の欲望を滾らせて略奪することに夢中になっている、風呂にも入らない外国人に自分の国が侵略されるのを、誰が喜ぶであろうか。

(当時のヨーロッパ人は、入浴を不健康で危険なものと考えていたことを思い出して欲しい)  

征服者たちは、おそらく当時でさえ彼らがかって見たことのあるどの都市よりも大きかったメキシコ市に到着した。征服者たちにとっては、これまでインディアンたちが見たことも無かった馬や兵器を持っていたことも大いに役立ったが、それ以上にインディアンたちが征服者たちを神々の来訪と考えたためにメキシコ入りは容易であった。

私の子供時代にも、それ以前にブレンダン一味とその一行が近付いた時、インディアンたちは彼らを偉大な神の訪れと間違えたという話を聞いた。このブレンダンの航海については、前11章ですでに触れている。以来半世紀以上いろいろと考えてきたが、今私はインディアンたちがこの征服者たちを一度去った日本人たちがまた戻って来たと思い違いしたのではないかということ、それは大いに有り得たと信じている。この信念は、中央メキシコの僻地の山村で神道の奉納儀式を目撃したことが確固たる基礎となっている。その儀式での彼らは、彼らがかって持っていた、そしてさらに重要なことに、征服されていない精神と誇りをすべて携えていた。

数年前に私は小説風に書かれた一冊の本を手に入れた。但し、その内容を史実として引用することは、学会から価値無きものと突っ張ねられている。この本はゲリー・ジェニングス著・『アステカ人』であり、1980年にアテナ学術振興機関から第一版が発行された。私のペーパーバック本は、1982年にアボン・ブックス社が発行した第一版である。この本は、アステカ人たちの帝国がコルテスの手に崩落していったころの、アステカ人たちの歴史に関係した歴史小説であり、奉納儀式が行われていた僻地の山村で私が見た人々の風情や本質を捉えている。

この本は特に信頼できる情報源で、アステカ人の神々に関する知識を得るには手ごろであり、読者にも推薦する。ただ一つ問題なのは  ジェニングス氏には神道の素養がないことであり、二つを結び付けられないことである。私もまたアステカ人の宗教の基礎がないため、二つを適切に結び付けることはできない。私がこれからしようとするのは、日本の山容に良く似た山々の峰に囲まれた、谷合いの町で私が見たことをもっと記述することである。

1540年ごろ、カトリック教会は修道会の一つを、伝道または前哨基地を確立するためにメキシコに派遣したが、それは実に奇妙なものであった。この修道会は、同じ時期に日本に派遣されたものと同じものであったと、私は信じている。これがIJCの主要な常套手段の一つであることは、私としては全く疑いないことである。もちろん兵士たちが修道士たちに同行し、今日私たちが見るのと同様の激しい戦闘を行った。このころはメキシコ南部のチアパス州で戦闘を行っていた。

この様な兵士たちをも含んでいたのが当時の修道会であった。当時スペインは、その広大な領地内でインディアンを服従させるために、武力と十字架を結合させるやり方を展開中であった。これらの状況は後日、伝道者たちによる精緻な美術品として残った。これらは歴史の証拠品ともなっているが、サン・アントニオ、その中でも特にアラモ、そしてカリフォルニア州西海岸で今日容易に見ることができる。

1980年ごろ、私が始めてこの谷に車で乗り入れた時、私は山頂に多くの礼拝堂があることに気が付いた。質問したところ、ローマのカトリック教会の様々な聖徒に捧げられたものであるとのことであった。私はその答えを割り引いて受け取った(懐疑的に)。というのは、以前日本で見たのと似過ぎていたのである。

しかしその時は、神道と何かしら共通点があるアニミズム(物活論的)崇拝の一形態としてのみ考えていた。しかし、後にこれらのインディアンたちによる奉納儀式を見た時、私はもう一つの閃光が頭の中で爆発するのを覚えた。熱海の時よりはずっと小さかったが、同様のものであった。これらのインディアンたちはあの修道士たち、それはフランシスコ修道会であると私は信じているが、と妥協する道を選んだのだと私は理解した。

インディアンたちは教会とその聖徒たちを受け入れたが、彼らの古い神々の場所に聖堂を建てることを要求した。彼らは、彼らの神々のこの世における代用として、聖徒たちをそこに収納したのであった。従って彼らがこれらの聖徒を拝む時、実際には彼ら自身の古い神々を拝んでいたのであった。

強制的占領の間のインディアンたちの態度は、私にとって何と勉強になったことか。これらのインディアンたちを、私がどれだけ誇りに思ったことか。そして、私が日本人たちを何と恥に思ったことか。これらのインディアンたちは接触を避けて遠隔地に留まっていた。彼らは征服者たちの生活様式およびスペイン語を学ぶことを拒絶し、今だに彼らの原語を話していた。

日本人たちは、彼らの征服者たちの施し物、癖、気紛れ、物好きにもて遊ばされる小犬の如く振る舞っていた。日本人たちはもっとこの本当の教訓を学ぶべきである。私は、これらのインディアンたちだけが抵抗する力を教えることができ、またその資格があると強く信じる。彼らは、単なる50年<2> ではなく、およそ500年もの間、征服勢力に抵抗してきた。

ほんの数年前メキシコでは法律改訂がなされたが、これはIJCの北米自由貿易協定(NAFTA)に対する準備以外の何物でもなかった。メキシコでは、1910年の革命に由来する法律によってローマカトリック教会の資産を削減し、他の信仰や外国の伝道団を除外したが、今回の法律改訂の中でこの法律を変更または緩和した。

今や、十分に確立した外国の信仰や外国の伝道団は認められると思われる。そこで私は、メキシコのこの様な人里離れた山地に、これらのインディアンたちが利用できるような神社を建立すべきであり、彼らの信仰にたいへん似ている日本はこれを申し入れるべきであると確信している。

またその付近に、ひっそりとした中で神々と一体となって、神道の神官と信心深い世俗人とが親しく語り合える隠遁的な閉居所を同時に設置すべきである。そこではまた、インディアンたちから、征服者たちに抵抗する力や宗教について知っていることを学ぶのである。世界のすべての人、特にIJCは、この様な独特で普通ではない連合の出現に驚かされるかも知れない。

在日していた1994年(平成6年)に、私は本州西部の米子市近くの、日本海隠岐の島が見渡せる大神山神社に大神山様(大山)を訪ねた。私は大神山様の神々と、何年か前にメキシコで体験した感触とが似ていることを発見した。私はそのメキシコにしばしば帰っている。現在では大山と呼ばれている大神山様からは、多くのことを学ばねばならない。私は、そこは3、4万年ほど前から人類が連綿と崇拝し続けていた神地であったと感じている。

その伝統からすれば、ヘブライ人たちまたはユダヤ人たちが彼らのヤーヴェ神やエホバ神の高々六千年を自惚れ、まして今日それを日本に掴ませようとしているなどはお笑い沙汰である。

大山は、日本において神道が始まり発展してきた始源の神地の一つを構成している。私が見たところ、この神地はIJCの陰謀に汚されず純粋のまま残されている。IJCは、前に述べた様に仏教をでっちあげ、またはでっちあげる立場におり、そしてまた純正神道を妨害しようとしていた。彼らはそれを実践したと信じている。そして彼らの方法・手段については他章で説明してきた。

私にとって、大神山様はあらゆる力の中で最強であり、猶且つすっかり落ち着いた雰囲気の中で親しく語り合える相手である。この神は受容性に富み、人間的な情緒に溢れ、ユーモアの鋭い感性を持った親しみのある神であり、信仰を超えて愉快である。それはおどけていると言っても良いほどである。

(ある夜私が米子市の彼のお膝下で寝ていると、私の所から約15Km離れた大神山の頂上付近でたいへん大きな稲光と雷音を伴った物凄い雷雨があり、まぶしい閃光と物音に私は起こされた。私は彼に、私または誰かを怒っているのかと尋ねた。彼は答えた。

『もちろん違う。これは、お前たち人間が花火を眺めて楽しむのと同じ様に、我々神々が楽しむやり方である』)

私は古代ギリシャやローマの神々の物語を読んで、全人類のすべての神々は同じ親族から出たものではないのではないかと思っている。その中のあるものは、今まで人類に啓示されてきた神々よりも強いのではないか。より重要なことは、今まで日本人とおそらく他の人々に啓示されてきた神々よりも、いくつかの点で強いのではないか。宗教を利己的にでっち上げたIJCの過去28世紀間に亘る操作によってこれらの神々は消失してきたのではないだろうか。

 

【訳注】

 

 <1>  旧約聖書 詩編110.6より。

 <2>  日本の戦後50年を指す。

国際秘密力10

第11章  新世界

         『そこで、一同は舟に乗って人里離れた所へ行った・・・<12>

 

14世紀の中ごろ、元帝国は崩壊し、西洋ではタマレイン(Tamerlane)の名で知られているチムールが、東欧、バルカン、そしてアジアの一部を掌握するために立ち上がった。彼の征服に関して好奇心をそそられるのは、彼が本拠とした地方・国は、一世紀弱の後にオスマン宮廷(Porte)、 別名オスマン朝スルタン(Ottoman Sultanate)<13>の領土となる地域を基本としていたことである。

オスマン朝スルタンが征服した時、征服前の境界線の多くはそのまま残された。そして最も興味深いのは、征服された国々のインフラ(施設や建物など)は全く手を付けられずそのまま残されたということである。かなりの広さと規模でこの様な事態が発生していることを私が知ったのはこれが最初であった。そして私は、彼はおそらくIJCにより外部からの援助・助言を受けていたのではないかと疑っている。IJCは征服した州・地方・国々の管理に関して長い経験を有していた。

また私は、彼はIJCが採用していた方針を、そうと知りつつ継承したのではないかと疑っている。その真相は私たちには知らされないであろうが、私はここにある行動様式が出現したのを見る。その行動様式とは、設立当初から占拠されている国家において良く起こり得るものであり、アメリカ合衆国はその事例であると信じている。またその行動様式は上層部から占拠された従属国家にも起こり得るもので、マッカーサーと彼のGHQ到着後の日本はその事例であると信じている。

そうこうしている間、14世紀、15世紀では絶え間のない戦争が続いた。ヨーロッパ全域、特にイタリア、ドイツ、フランス、イギリスの間で。この時代の一つの帰結としては、フランス・アヴィニョン教皇ローマ法王の併設があった。これは醜悪な性的行動、免罪符の販売、ローマ法王教書の販売などの当然の結果として起こった。

もう一つの帰結は、ブルゴーニュ人とフランドル<14> の女子相続人との結婚である。この件は、ヨーロッパの王室において、家長制(父権制)と同等またはそれ以上に女家長制(母権制)が継承されている可能性について私に興味を抱かせる。私たちが信頼を置くように育てられたのは女家長制ではなく、家長制である。王室における女家長制の継承は、そこに陰謀の可能性があることを読者は認めなければならない。

オスマン帝国は1453年にコンスタンチノーブルを陥れてビザンチン帝国を滅ぼし、基盤を確実なものとして何世紀にも亘って支配を続けた。またオスマン帝国は附帯的領土を併合することによって東方交易ルートの絶対的な支配権を獲得した。このことは、計画されたかされないかは別として、またギルバートの地図6に示されるようなユダヤ追放による刺激を受けて、新大陸発見の航海を推進させた。

 

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地図6 ユダヤ人放逐(1000~1500年)

 

現代考古学が示すように、人類は何世紀と言わず、数千年にも亘って大洋を航海してきた。トール・ヘイエルダール南アメリカから南太平洋諸島へのアメリカインディアンの航海、およびアフリカから北アメリカへのエジプト人の航海を証明した。また彼と他の人々は、インドから東洋・北欧への航路、およびスカンジナビアから北アメリカへの航路を証明した。11世紀終了直前に、アイルランドの修道士ブレンダンがヨーロッパからアメリカに旅したことは良く知られている。

遥か古代の時代にこの様な旅行が数多く行われたことが示されており、今日の米国TVでは中国のジャンク(平底帆船)に関するドキュメンタリー番組が盛んである。中国のジャンクは、中国とカリフォルニア・メキシコ間の太平洋を往復し、彼らの錨石を海岸沖の水中に残していった。

秀吉は1500年までに*、日本からアフリカ南端を回って現在のリベリアの近く、ヨーロッパ人が『黄金海岸』と呼んでいる場所に向けて、沿岸航行の活動的な交易船を出発させた。その時期、我々の歴史に残る冒険家たちは、まだヨーロッパから少しずつ動き始めたばかりであった。

*秀吉は16世紀の人で出生前。室町幕府と細川・大内などによる日明貿易の中での出来事か?
 ここでウェスト博士が指摘する交易船の活動については不明(燈照隅註)

(いわゆる歴史家と称する人の中で少なからぬ人々は、ある事象が実際に発生したと承認される前に、自分こそその事象の証人であると言いたがっていたように私には思われる)

ポルトガルの王子は海岸線をわずかばかり南に下って航海者ヘンリーと呼ばれていたが、彼は1480年代の後半に、アフリカ南端付近までの航海にバルトロメオ・ディアスを送り出した。これは偉大な功績であるとして、ヨーロッパ中で喝采を受けた。特に世界の果てからこぼれ落ちないで、奇跡的な航海を成し遂げたという理由で。

これらが進行中の間に、アラゴンの王子・フェルナンドと、カスティリャの王女・イサベラはムーア人<15> を征服し、キリスト教のためにスペインを勝ち取り、またギルバートの地図6に示すようにユダヤ人たちを放逐した。

皮肉なのはクリストファー・コロンブスであった。彼は表立ったユダヤ人ではなかったとしても、『マラノ(改宗ユダヤ人)』または隠れユダヤであった。コロンブスは王子や王女らに、スペインの隆盛には東洋の富が必要であり、西方への航海によって彼は彼らのためにこれらの富を獲得できると説き、納得させた。

キリスト教徒の君主としてだけでなく、裕福になるのも悪くはないと考えた彼らは、ついに3隻の船と、そして悲しみと言い表せない苦しみを供給した。それは、新世界にコロンブスが到着することにより始まった、アメリカ原住民たちの嘆き悲しみと筆舌に尽くし難い苦悶であった。

ヴァスコ・ダ・ガマは素早く後を追い、ユダヤ人たちには何世紀も前から知られていた太平洋を『発見』した。マゼランはパナマ地峡を迂回し、記録上では最初の完全な世界一周航海を行った。

エルナン・コルテスはメキシコに到着し、メキシコ市征服のための供給基地として、1520年までにベラ・クルスの町を設立した。ほぼ同時期にピサロはペルーのインカ帝国を破壊した。スペインでは異端審問所<16> が始まっており、異端者、特に改宗しようとしなかったすべてのユダヤ人たちの足下で、炎が燃え広がった。

キリスト教に対するこの様な激情の嵐は、相互に競い合う様々な修道結社群の修道士たちという形でメキシコにも船積みされた。彼らは、大砲・馬・銃・そして特に聖十字架形をした剣を携えた軍隊を背景に、『異教徒』の改宗を始めた。この様な事態を導いていったのは、一方はスペインの多くの『マラノ』であり、もう一方は自らの宗教を守るために雄々しく熱狂的に戦ったインディアンたちであった。

当時のインディアンたちの宗教がどの様なものであったか、私は知らない。それを明らかにするのは極めて難しいであろう。何故なら、彼ら『野蛮な』インディアンたちによって大切に保たれていた記録類は、彼らの寺院、建物、そして崇拝用偶像とともに悉く破壊されてしまったからである。偶像のごく一部は征服者の目から逃れてかろうじて残った。メキシコ中央の人里離れた山間の村では、チチメカ・インディアン(アステカの後身)の残部が今日まで生き延び、居住している。私は、私がそこで発見したものが何であるかを知っている。

私はメキシコに神社を建て、神道儀式ができる施設を作る計画を持っていた。そして土地を手に入れたので、神道家たちの神殿造りの基礎工事に取りかかるため、地方のインディアンによる地鎮祭を行うことにした。それは昭和の最後の年であり、その当日には約50人のインディアンたちが民族衣装を着て集まった。

また横笛とドラムからなる小さな楽団が一緒におり、その楽器は各々異なる大きさ、音の高さ、音色を持っていた。続いて行われる儀式の時に床または舞台として使われるはずの広場があり、彼らはその片側に座っていた。一人のリーダーが前に出て来ると他の3人の踊り手が彼に従い、伴奏音楽のリズムに合わせて体を揺すりながら詠唱を始めた。

私も神道の日本人である妻もそれまでインディアンの儀式に出席したことは無かったが、その音楽にはなつかしい響きがあった。それから他の踊り手たちは、先ほどの4人の男たちを一列の中央に入れ、同じ人数の二列となって勢揃いし、詠唱と踊りに参加した。次の式次第に私は特別の関心を引かれた。列の中央にいた主たる4人の踊り手または『神官たち』は各々、細長い棒または、その地方特有のピルルという木から切った葉付きの大枝を携えた。 

彼らは、40人の『合唱団』と一緒に詠唱しながら東西南北の四方向に踊って行った。彼らを支える合唱団も、東西南北の各方向を拝むように場所を変えていった。私が見ていたものが何なのかが、ようやく次第に明らかになっていった。それは、私が何年も前に伊勢で見たのと殆ど正確に瓜二つの、神道の儀式であった                       

彼らが神へのお供え物を取り扱う式次第の部分に来た時、私は倒れるかと思うほど驚いた。そして妻は威に打たれていた。それはお供え物がその地方の産物となっているだけで、全く神道の儀式そのものであったからである。その儀式は日本から来た以外にあり得ず、お供え物は日本で使用されていたであろう品物の代用品であったと私は信じている。

お米の代わりに穂からほぐした穀類を使い、野菜の代わりにチリ胡椒を使っていた。チリ胡椒は彼らにとって必須の調味料であり、食料である。また、お酒の代わりにプルケ。プルケは彼らがマゲイ(リュウゼツラン)と呼んでいるサボテン科の植物を醸造して作る、ビールまたはワイン様のものである。果物の代わりにツーナ別名ペアアプル。これはメキシコ原産サボテン科のウチワサボテンの実である。儀式を締めくくるにあたり、彼らは携えていたピルルの大枝を祭壇に供えた。

全体及び個々の点で、この儀式は神道の奉納の儀と瓜二つであった。それらは共に、熟してすぐに供せられる旬のものを使っていた。私は、それは何世紀または数千年前に日本の船乗りたちによってメキシコに、そしてこれらのインディアンたちに伝えられたものに違いないと確信している。

『設立』され、公式に『組織化』され、『認定』された世界の宗教の『布教』と言われるものは、世界の人々の上に破壊を解き放った。私はインディアンたちの儀式を見学し、この『布教』による破壊を考えた後では、これらの宗教またはその同類と、これ以上共に歩みたいとは思わなかった。

何年か前に熱海でIJCおよびキリスト教に関する啓示を受けた私は、スペインの異端審判について、地方住民による憎悪が自然にむき出しにされたというよりは、IJCの野望と目的を促進させるために易々としてやられたのであろう、と考えるのに何の手間も取らなかった。

振り返って見るとユダヤ人たちの歴史の中では、小ユダヤ主義のユダヤ人またはIJCに関係しないユダヤ人を除けば、次から次へと似た様なことが起こってきた。カザール人は主要な例である。またユダヤ人たちがユダヤ人たちをガスや炎の中に供給した、アウシュヴィッツの窯も同様に主要な例である。

ギルバートの地図7に示す様に、それらの窯はすべてドイツの外側東方の適当な地にあった。IJCとその雇われ人たちは殆ど常に無事であり、ユダヤ人たちに向けられた憎悪の炎の中で消費させられたユダヤ人種またはユダヤ教の人々の数も僅かであった。その憎悪の炎は、IJCとその会員たちの、前に述べた強欲私生児(Greedy-Bastards)としての行為が原因なのである。

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地図 7 強制収容所(1939~1945年)

                                     

ローマのカトリック教会自体は、歴史を通して周期的にIJCではない人々が統治する期間があった。後に述べるアヴィニョン教皇はこのような時期の例であって、当時ユダヤ人たちはローマの外に移動していた。

争乱という授業の中で彼らが学んだことは、彼らの世界支配、すなわちカザール人(カザーリア、カザリスタン、現在はカザクスタンと呼ばれている)の時代という最終ゴールに向けての大きな前進を可能とした。ヤン・フス<17>、マルチン・ルター<18>そして各宗教的分派はヨーロッパを引き裂き、その分裂はヘンリー八世の統治下の英国教会をそぎ割ったが、この様なことはIJCが計画したのではないとしても、今までの秩序を破壊しその混沌の遺物の上に新たに構築するという唯一の目的のために推進され、資金援助されたものであると、私は信じている。

カザール人がこの様な道を走り抜け、私たちの歴史を支配していることを知っているいま、それは私の信念である。スペインの異端審問によるユダヤ人の迫害はIJCの陰謀のもう一つの例といって良いであろう。彼らはそれが無垢な人々にどんな影響を与えるかなどお構いなしに事を進め、望んでいた結果を引き出した。この場合、それは新世界の発見と植民であった。

この時代以降の話を続けていくが、これまでの教訓を良く心に刻み込んでおいて欲しい。というのは、この後の数世紀の混沌が今日の支配をもたらしたからである。私たちの話は新世界の発見の時代を過ぎ、私たち自身の時代に近づいてきた。現代に近付くにつれ、人々の記憶はより生々しくなっていく。

 

【訳注】

 <12>  新約聖書 マルコによる福音書6.32より。

 <13>  スルタン:イスラム世界の支配者。イスラム社会(スンニ派)では、元来カリフが政教両権を有する最高権威者であったが、アッバース朝時代にカリフの権力が衰えるにつれて、教権と俗権が分離し、スルタンが世俗的支配権を有するようになった。後に、オスマン・トルコのスルタン、セリム一世は、アッバース朝最後のカリフからカリフの称号を取り上げ、スルタン・カリフ制が成立した。  

 <14>  フランドル:中世西欧にあった国。現在のベルギー西部、フランス北部、オランダ南西部を含む地域。

 <15>  ムーア人:アフリカ北部に住む、イスラム教徒、バルベル族、アラビア人の混血種族。8世紀にスペインに侵略後、その地に定住。

 <16>  異端審問所:宗教裁判。スペインの異端審問所(~1834)は特に残酷で有名。

 <17>  ヤン・フス:(1369~1415)ボスニア宗教改革者・殉教者。異端者として焚刑に処せられた。

 <18>  マルチン・ルター:ドイツの宗教改革者(1483~1546)。プロテスタント派の祖。聖書のドイツ語訳者。後に宗教改革ユダヤの陰謀に乗せられたものであったことを知り、 晩年は徹底したユダヤ批判を行った。

 

国際秘密力09

第10章  マルコ・ポーロ

           『では、ユダヤ人の優れた点は何か? <9>

 

ここでちょっと世界貿易の話に戻ると、そこではまだヴェネチアが支配的であった。13世紀の初めのころまでヴェネチアは支配的であり続けたが、多くの歴史書イタリア半島の反対側にあるジェノアが競争相手として興隆してきた話を満載している。私はこの様な話は全く真実に反すると思っている。

ジェノアで盛んになった貿易は、ヴェネチアの商業を支配していたのと同じユダヤ一族によって、イタリア半島の両端の両者には開かれていたが、半島中央には開かれていなかったと、私は信じている。それは、原価は削減され、生原料の購入には競争が行われていると大衆に思わせるために、同一の朝食用穀類加工食品製造業者が『競合する』商標を市場に出す類である。その場合、生原料の製造者と販売者には安い代金しか払われていないのが実態である。

この真相の中で私たちは、ヴェネチアが輸送請負の代価としていかに島々を征服し獲得してきたか、そしてそれがヴェネチアに地中海を支配することを許してきたのを見てきた。そして今度はジェノアが、ビザンツ帝国における対輸送商品税金免除資格者の後継者としてヴェネチアを押し退けた。それはヴェネチアと同じ一つの『会社』であって、同じ源泉によって同じ市場を形成し、独占的な強力経営の結果潤沢な利益を享受した。イタリア半島両側の大衆が弄ばれただけであった。これらの事態は今日と凡そ同じである。       

次の300年間、部分的な変形と、計略と役者の少しばかりの変更はあったものの、多かれ少なかれこの状況は続いた。しかしそれは常にヴェネチアと共にあり、それらの全期間を通してヴェネチアはそびえ立つ支配者として現れ出てきた。

13世紀の初めころ、はるか遠くモンゴルの大草原では、西洋ではチンギス汗の名で知られているテムジンが決起し、騎兵と弓手たちを活気付けていた。前8章・64頁で私たちが密かに準備して、歴史の桧舞台に登場するのを待たせていたあの彼らである。テムジンは、1227年に自然死を遂げるまで彼らを戦闘に駆り立て、まさに日本の門前からアジアを横切って、欧州深くドイツ・イタリーに届くまでの道をすべて制圧した。   

私は、当時テムジンのモンゴルが信仰していた宗教が何かは知らない。しかし、彼が征服したのは基本的にはイスラム教が支配していた土地であったことと、何世紀か経て彼の後継者たちの多くはこのイスラム教の信者になったことは知っている。ただ、その宗派や変種については情報を持っていない。

多くのテムジンの部下たちが中国の仏教と接触して来た。そして中国の王座についていたテムジンの息子フビライ汗はマルコポーロを接見した。彼は丁度良い時期に『世界の記述(東方見聞録)』の旅行者として現れ、西欧を離れたことがなく、中国の名すら聞いたことのない人々が殆どであった地方の住民たちのために、東洋の神秘をヴェネチアに持ち帰った。

彼がヴェネチアの家に戻った時、彼の話は殆どすべての点で疑われ誤解された。古代のギリシャ人たちや、キリスト生誕後間もないころに生きていたアレクサンドリアの偉大な地理学者プトレマイオス<10>は、世界の多くは知らなかったが、両者ともこの遥か離れた中国のこと、また世界は丸いか球形をしていることは知っていた。歴史的古文書の時代のこれらの古代人たちは、地球の陸と海の広さ・割合を調べていたので、それまでに発見されていた陸や海と同じ様なものが、地球上のどこか他にもあるということを知っていた。私たちはその証拠を古文書から得ている。これらをユダヤ人たちは知っていたが、西洋の人々は忘れてしまっていた。

このギリシャ人やプトレマイオスと中世西洋人の話は本当の事実で、今ではすべての人に知られていることであるが、著者の立場の方に読者を引き付けるためにここに記載した。17年前にユダヤの世界支配に関して私が書いたとしたら、それはもっと詳しい、広く、分別のある本であったろうが、今とは別の内容であったろう。当時の私は問題を局限してはいなかったし、本著者本人はその集団にIJCの名を付けてもいなかった。当時私たちが議論をする時は、『ボルシェビキ』、『ウォール街の男爵』、『資本家』そして『死の商人』などの言葉を使っていた。しかし重要なのは、議論がなされて概ね受け入れられたこと、そして特に当時の人々や支配されていなかったメディアが現実を直視していたことである。

私はいまマルコ・ポーロの立場にいる。かってすべての人が知っていた事を、人々はいま忘れてしまっているのである。

(人々は忘れるように助長・強制されたと私がいかに感じているかについて、この本で、または他のメディアでのあらゆる機会を捉えて私は説明していくつもりである)

それは私自身に、英語の言葉で、さらに他の言語に訳されて襲いかかった。そしてそれはまた、自らの国で自分たちの警告を伝えるために母国語で叫び続けている、多くの勇敢な作者たちに攻撃を行っている。中でも特に名誉を与えられるべきは、今日の世界に残っている極く、極く小数の出版者である。彼らはIJCやその手下たちに媚びない成果を発刊することによって、彼らの商売を失う危険を侵していくであろう。IJCの支持者や卑屈な従者たちからの話を私にこれ以上聞かせないで欲しい。ヒトラーゲッペルス<11> に関するもの、プロパガンダ(悪意の宣伝・布教)、報道の自由言論の自由の類を!!!

特に、それは反セム主義だと言い続けるこれらの手先によるアラブ社会への中傷を、私にこれ以上聞かせないで欲しい。カーター大統領の兄弟ビリーが反セム主義だと非難された時(本当の意味は『反ユダヤ主義』であるが)、当時のカーター大統領は非難した人々に、ビリーはそうであるはずがない、彼はアラブの友人を持ち過ぎていただけだと返答した。アラブとユダヤはともにセム人を起源としており、従って同じセム族である。

アラブはこの本の主題ではなく、ユダヤが主題であるが、ユダヤ人たちはこの本の標的ではない。というのは、私は、たいへん多くのアラブ人と生涯の友好関係を保っているのと全く同様に、たいへん多くのユダヤ人と同様の友好関係を保っているからである。但し、IJCはこの本の標的であり、そして標的はIJCのみである。これらの卑屈な従者たちによって過去の百年間に亘って使われてきた言葉を使おうとすることは、使おうとする人のぞっとするような虚偽性または無知さを暴露するだけである。

歴史の話を中断しているついでに、私の生活に起こった別の出来事を読者に紹介したい。私は法律の仕事を始めるためにテキサス北部の町に行き、私より30才ほど年配の弁護士に雇われた。私は郡検事補佐として彼とともに6ヶ月間裁判所で仕事をし、1954年の1月1日、私たちは一街区先の彼の新しい事務所で仕事を始めた。

(彼の下で働き始めてから2年ばかり経ったある日、彼が私を呼んで言うには、裁判所で共に仕事をしていた時から私たちはパートナーであったということであった。このことはこの人物を良く語っている) 

私たちが新しい事務所を開いた最初の日か次の日の朝、彼は仕事に早く来ていて私を呼び寄せ、私は彼の部屋に急いだ。私たちはお互いにどちらかと言えばくつろいだ感じであった。そして彼は『どうぞ座って下さい。君にお話しておきたい事がある』と言った。

私は言われる通りにした。彼は続けた。

『君は、クソヤンキー(DamnYankee)という言葉と、我々南部の者がどういう気持ちで「クソ(Damm)」という悪態言葉を、北部諸州の人という意味のヤンキー(Yankee)と一緒に使うかを知っているだろう。それは以前、南北戦争の間と特に戦後に、南部で彼らが我々を取り扱ったやり方が原因している。君は、我々がどうして一つの言葉としてそれらを綴るのか分かるだろう。

さて、今日は君に新しい言葉を教えようと思う。それは強欲私生児(Greedy-Bastard)だ。この言葉は『私生児(Bastard)』とそれを修飾する『強欲な(Greedy)』とから成り立っている。そしてこれもまた一つの言葉として綴られている。君はこれらの人種が生存しているのを発見するだろう。そして君が法律の仕事を実行しようとするなら、君は彼らに対し防衛線を張らなければならない。

彼らは真実や他人に対する感情など一顧だにしない。彼らが顧慮するのは、金と権力を蓄積しようという彼ら自身の個人的な強欲を満足させることだけで、他人に降り懸かる損失など全くお構いなしだ』 

そして彼は私に、その様な型の人間と会社のいくつかの例を教えてくれた。私は後にIJCという言葉を作ったが、それを作った理由は、IJCの連中が、私が若い時に強欲私生児(Greedy-Bastards)と呼んで学んでいた人種のまさに典型であり、その型の人種の中でも最高レベルにあったためであった。私が使う限り、IJCという用語は強欲私生児(Greedy-Bastards)という言葉を含む。その用語が話され書かれる時はいかなる時でもである。読者がIJCという用語を使う時は、これと同じ考えを抱いてくれることを私は切にお願いする。私にとってIJCという用語は実に不快な言葉となっている。そしてその用語は、あの実に不快な集団を指すのに真に的を得たものとなった。

私たちの歴史の話に戻ると、私は、マルコ・ポーロの遠征はIJCにより計画され一致協力してなされた力演であったと信じている。それは次の300年間に亘って、さらに長い長い発見の航海を持続させるためであった。その航海は海岸線を辿ることによって実行され、IJCの後援のもとでついに絶頂に達した。そしてコロンブスアメリカ航海を引き起こすことになる。次章以降では、私たちはこの300年の間に他で進行中の事象に追い着いた後で、世界の実に多くの場所にいる、極めて多くの民族や人々に関する、興味をそそられる世界探求の話を取り上げ、それを辿っていく。

 

【訳注】

 

 <9>  新約聖書 ローマの信徒への手紙3.1より。

 <10>  プトレマイオス・トレミーギリシャ出身の2世紀のアレクサンドリアの数学者・天文学者 ・地理学者。天動説の代表者。 

 <11>  ゲッペルス:(1897~1945) ドイツの政治家。ナチ最高指導者の一人。第三帝国の宣伝相。

 

国際秘密力08

第9章  マグナ・カルタ(大憲章)

     『わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう・・・<1>

 

彼らは商売領域では常に強くたくましく、カザール国の崩壊の際においても、崩壊とほぼ同時にラベンナ<2> の多数のユダヤ人たちが近くのヴェネチアに移動し、その土地のユダヤ人に合流した。ヴェネチアアドリア海北端にある町で、当時すでにユダヤ人たちが住み繁栄していた。

ヴェネチアは防衛し易い島の上にあり、また抜け目なくビザンツ帝国の許可を取り付けていたため、政治的に独立していた。ここではモンテフィオーレ家が非ユダヤ人への金貸しとして尊敬を集め、強力な地位を築いていた。

(モンテフィオーレ家については、その分家であるロスチャイルド家との関係で後でも出てくるが、ヘンリー三世<3> の時代のシモン・ド・モンフォール<4>と彼の義兄弟はモンテフィオーレ家の親類で、将来のために政治的な企みを織り込みつつ英国化したもので、その名前はモンテフィオーレをノルマン風にアレンジしたものではないかと私は時々疑っている)

1000年ごろに彼らが獲得した重要な優位性は、ビザンチン帝国における自由貿易の権利(税金免除)である。当時、税金や関税の徴収と仕事の割り当ては彼らの生業であったため、この権利取得は彼らの信じ難いほどの成功を確実にした。彼らが買い取ったこれらの仕事にかかる経費は、彼らが様々な国の領土を通過する度に多くは通行料として要求された膨大な税金に比較すると微々たるものであった。

話を少し先走ると、ポーロ兄弟によるマルコの東方への派遣はこの成功が基本にあった。マルコは数千年とまではいかないにしても、数世紀に亘ってユダヤ人たちに知られていた通路を通って行った。彼は発見の旅に出たのであろうと言われるが、私はもっと重要な役割を担っていたと信じている。それは、将来海洋で成し遂げられる『発見の航海』において実現されるある目的のための何らかの告知ではなかったのか。...私は話を先に進め過ぎたようである。 

脚註にすべきことであるが、読者はノルマン人による英国征服と、イタリア南部とその東のシチリア島でのノルマン人自身の強化とが時間的にほぼ同時期であることに注意しておいて欲しい。この事はこれから進展しようとしていた事件に強い影響を及ぼしたと考えられる。このころ、ほぼ同時期にヴェネチアはイストリア*とダルマチア**の一部を併合した。
*イストリアはイストラ半島のイタリア名。付け根にトリエステの港を擁する交通の要衝。
**ダルマチアクロアチアアドリア海沿岸地域の名称。多島海となる交通の要衝。

私たちは今鍋が急に煮え立つのを見る。というのは法王が突然、神聖なる都市エレサレムを汚す『異教徒』に対する十字軍を要請し、ヨーロッパの各王国にエレサレム遠征と『キリスト教』のためのエレサレム奪還を命じたからである。この命令を各王国は忠実に実行した。特にノルマンジー公国<5> は戦役資金のために国自身を抵当に入れ、結局借金を返せず国を失うことになった。公国の新しい所有者は英国(イングランド王国)王で、私が情報源を正しく読んでいればそれはへンリー三世であった。そして私たちにはすでにおなじみのシモン・ド・モンフォールが国王に代わって個人的支配を行っていた。

十字軍は来ては去ることを繰り返していたが、1204年に第四次がやって来た。<6> それは世界のためでなく、明らかにユダヤ人たちとそのすべての支脈のためであった。同じ参照文献からで読者はもう飽きていると思うが、再びマッケベディーの中世地図の68頁から引用する。それはこのころの事を簡潔にまとめている。

『この歴史的断片の元凶は、死につつある(ビザンツ)帝国の心臓を盲目的に切り取った無知な十字軍にあるのではなく、帝国の最終的悪化を陰険に企んだヴェネチア人にあった。ダルマチアの町ザラを騙して奪い取り(1202年)、十字軍兵士たちから通行料をせしめる事から始めて、彼らはついに貿易通路上のすべての島を強奪し独占するに至った。8世紀後の今日でも、第四次十字軍におけるヴェネチアの商業謀略の大成功は、すべての時代を通しておそらく最高の地位を保持している

           (文字強調とビザンツの言葉は本書の著者による)

 

 これらすべての密接に関連した歴史的事件の展開は、地政学のゲームのやり方をユダヤ人たちがいかに良く学んでいたかを示している、と私には思われる。彼らはこの世界に、地政学という言葉の必要性をもたらした。

ロビンフッド』で有名なリチャード一世獅子心王)が十字軍で留守にしている間、弟のジョン皇太子が摂政として英国を治めた。リチャード一世は十字軍戦争でエジプト王サラディンに打ち負かされて帰国する途中、ドイツ国<7>により牢獄に投げ込まれ身代金を要求された。この身代金は巨額の税金徴収に繋がり、貴族たちに耐えがたい生活を強いた。貴族たちは課税に苦しみ、その他の点でもジョン国王によるローマ法王軽視を含む権力悪用により侮辱を受けたりしたため、この貴族たちは武器を持って立ち上がった。ここに私たちは、ユダヤ人たちが法的領域で過去に成し遂げた成功の中でも、最大のものを見ることになる。

1215年6月15日、ロンドン郊外ラニミードの牧草地で、IJCが過去に作った中で最も重要な文書がジョン国王により承認された。それは言うまでもなくマグナ・カルタ(大憲章)である。

地球上のすべての人々はこの文書を、国王を法的に拘束することにより民主的政治を確立したもの*として知っている。この長たらしい文書にはそれほど注目を集めていない三つの附帯条項があった。
*とんでもないですね。単に金権政治確立のための準備だったのでは、と思われます。(燈照隅)

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マグナ・カルタと附帯条項 I、X及びXI

この条項を次に示す。

 

『Ⅰ.最初に、我々および我々の後継者たちのために永久に承認されたこの我々の憲章によって、英国教会は自由であらねばならない事、その権利は完全無欠であらねばならない事、およびその特権は侵すべからざる事・・・、を我々は神から許される』、そして・・・

『Ⅹ.もし誰かがユダヤ人から金を借りその返済が済む前に死んだ場合、その借金をした者の相続人が未成年である間は、借りた金額の大小に拘らず、その負債に関する利子を取り立ててはならない。たとえその相続人が誰からその負債を引き継ごうともである。そしてもし負債が我々の手の中に落ちた場合でも、我々は証文上に記載してある基本金額以外は何も取り立てないであろう』、そして・・・

『ⅩⅠ.そして誰かユダヤ人に負債がある者が死んだ場合、彼の妻は彼女の寡婦産(遺産)を受けられるべきであるが、負債については何も負わない。そしてもし故人の子供が未成年で残された場合、その子供は誰でも故人の資産を保つ中で必要なものを供給されなければならない、そして余った資産の中から負債を払わなければならない。

   なお、領主に対する貢納は行わなければならない。ユダヤ人以外の人たちから負債を受けた時のやり方の様に』

 

これは現代では、そして今日の国際社会での法律、習慣その他の多くに照らし合わせて、重要性は殆ど無いかも知れない。しかし、キリスト教創立以来利子請求は暴利であり、法律と教会によっていかなる場所においても絶対的に禁止されていたことを思い出して欲しい。それにも拘らず、ユダヤ人たちは暴利を含めた利子を取り立てていた。それは今日の標準から言えば非常に高い利率であった。

ユダヤ人たちは西欧の土地倒れの貴族たちに資金を融通していたが、それは王たちを含めた貴族たちには必要であった。そしてユダヤ人たちは高利貸し活動により、かなりの場所や国から周期的に退去させられていた。しかも彼らはキリスト教徒ではなく迫害されており、市民とは認められていなかった。

数千年の迫害を通して彼らはどうして大成功するかを知っており、そして彼らは大成功した。彼らは資金提供や貸付により権力を購入し、繁栄した。彼らは貿易を行う権利を持っていなかった、または殆ど持っていなかったにも拘らずそれを国際的規模で実行し、さらに一層繁栄していった。だが彼らは不法の存在であった。今日まで!

マグナ・カルタ(大憲章)の項目ⅩとⅩⅠの中に秘められた恐ろしい襲撃により、彼らは彼ら自身を一挙に合法化した。ユダヤ人に対し高利貸し行為のある範囲のみを禁止することにより、ジョン王は暗に、そして和平への禁反言<8>として知られていた原理を通して、ユダヤ人たちの集団により実際に行われていた他のすべての形態の高利貸しを合法化してしまったのである。

さらに進んで、この文書に織り込むことにより、以前は何の地位も所有していなかった所に彼らは地位を認められた。そしてもし私が正しければ、これは西欧で彼らに与えられた最初の市民権***に等しかった。彼らはついに到達したのであった!(燈照隅が強調)

(私たちの話を続けるための脚註として、以下の文を付け加えておきたい。前に記したマグナ・カルタ(大憲章)の最初の項目を良く注意して欲しい。というのは、もし私が正しければ、この記述は、約三世紀後のヘンリー八世の時代に起こった、英国教会のローマ・カトリック教会からの独立のための布石であったからである)

 

***燈照隅註:結局のところ、市民権や市民階級、或いは最近はやりの地球市民と言う言葉が意図するところの「市民」とはユダヤ人のことなのである。それは、私に言わせれば、土地やその民に根付かない経済力(カネ)だけの階級のことである。同じ支配階級でも、そこが、土着の王や支配者との違いであると思われる。そしてここにマグナ・カルタによりE. Michael  Jones 博士が言うところの、利殖主義による国家運営とその国家の利殖による資本主義が世界で初めて英国と言う國を創ったのである。しかもその国家の利殖を帰するところ巻き上げるのは、国際金融勢力「市民」なのである。この構造こそが欧州近代国家の特徴であろう。

 

【訳注】

 

 <1>  旧約聖書 詩編119.97より。

 <2>  ラベンナ:イタリア北東部の都市。ダンテの墓がある。

 <3>  ヘンリー三世:在位1216~1272。

 <4>  シモン・ド・モンフォール:フランス生まれの英国の軍人・政治家。同名のフランスの十字軍士の子。1264年、貴族の指導者としてヘンリー三世に反抗し、王を捕らえて最初の議会を召集したが、翌年エドワード皇太子と戦って戦死。「下院の基」とも呼ばれている。

 <5>  ノルマンディ公国: イギリス海峡に面したフランス北西部の地方。十世紀の初めに侵入して来たバイキングによって成立した国。ノルマン人のイングランド征服以後はイングランドの王室御料地となったが、1450年フランスに併合。 

  <6>  十字軍:第一次(1096~1099)、第二次(1147~1149)、

        第三次(1189~1192)、第四次(1202~1204)。

 <7>  リチャード一世を捕らえたドイツ国王:オーストリア公国のレオポルト大公。

 <8>  禁反言:自己のなした陳述や行為に反する事実を後になって主張することを禁止すること。