筈見一郎著 「猶太禍の世界」08

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第五章 マルクスと猶太性(ユデンツム)

 

東方ユダヤ人とは何ぞや

吾人は前章の数ヶ所で「東方猶太人」に就いて早や言及したことがあった。此処に先ずそれを鮮明にする必要が生じた。

一体「東方猶太人」とは如何なる意味か。「東方ユダヤ人」と言うのは、東部欧州に住んでいるユダヤ人、若しくは前世紀に、東欧から出てきたところの猶太人の総称なのである。

この東方猶太人こそは国際猶太人問題で最も注目を払うべき対象と言わなければならない。恐らくその第一位として考察しなければならぬものであろう。彼等は実に全猶太民族の三分の二以上の約一千万人と註せられるのだ。

 

東方ユダヤ人が危険なる所以

この東方ユダヤ人は頑固な無知の階級がその大多数を占め、所謂「人為的猶太人」と言われフラン・マソンの煽動に乗り易く、その手先となるものが多いので意外に危険性があるのである。

紀元前六三年、祖国エルサレムローマ帝国支配下に置かれた結果、遂に国際的流浪民族の境遇に否でも応でも陥ってしまった猶太人は、聖典タルムッドをばその金科玉条として、神から生まれ出でたものは独り猶太人である。我等は即ち神の選民である。ユダヤ人以外の民族は全て悪魔の子であるという先入主の観念は如何にしても取り去ることが出来ない。

 

ユダヤ人のタルムッド的盲信は想像以上

人間が動物より高等であると同じ理屈で、猶太人こそは人間の高等なものだ。若しこの世の中に猶太人が居なかったならば、あの輝く太陽の光線の恵みも、風雨も、草木も、・・・どんなこの世の幸福もあり得ない。人間は決して生存することが出来ない。永遠に価値のあるのは、ただ猶太人だけなので、他の民族は凡て驢馬(ロバ)にすら劣るものだ。ユダヤ人こそは名実ともに人間と名乗る権利があるが、不浄の神から生まれたところの非猶太人は、すべてゴイ(豚)と呼ばなければならない。

エホバは非猶太人を憎み給う程も、驢馬とか犬とかを憎しみ給うことはない。

非猶太人は地上に在る幸福を享ける資格も権利もない。そのわけは、彼等は畜生であるからである。非猶太人の持ち物は我等猶太人の嘗て紛失したもので、その本当の持主は猶太人なのであるから、丁度、畜生を勝手に追い出したり、又は殺したりすることの出来るように、我等猶太人は非猶太人を追い出したり、ころしたり、また非猶太人の財物を自由に取り上げて利用することが出来るのだ。

だが、非猶太人がユダヤ人のものを少しでも掠めたり、盗んだりしたならば、これを死刑にするは当然である。「汝の隣人に悪を施す勿れ」と聖典にあることはあるが、それは非猶太人には適用されぬことだ。「非猶太人に悪を施す勿れ」という明文はない筈だ。若しか非猶太人が穴の中に墜ちたとするも、引き上げてやるには及ばない。もし、その穴に梯子でもあったら、その梯子をのけてしまい、傍に幸い石でもあったら、拾ってその石を穴の中に投げ込んでやれ。

非猶太人の財産を管理するものは、猶太人の権利である。非猶太人を殺す権利も猶太人にある。非猶太人を殺すのであったら、その中でも一番地位の高いものを選べ。非猶太人の生命は我等猶太人の掌中で活殺自在である。とりわけ、非猶太人の黄金はみな猶太人の所有物となるべきものである。

非猶太人を殺すにあたりては、なるだけ我等の敵である基督教徒の最高の地位にある者を選ぶがよい。非猶太人の血を流す者こそ、エホバの神に生贄を捧げる殊勝な者である。こうしたタルムッドの戒律を只管守りながら、絶えず世界に革命をたくらみ、非猶太人の支配者とか権力者とかに叛逆を計っているのである。いわば、彼等の一生は、非猶太人への詛いの一生と称してよい位なのである。そうした思想を、昔ながら、生地のままに持ち続けているものが、「東方猶太人」には非常に多い。

歴史の上で、猶太人が革命に手を着けたのはローマ帝国の顛覆(転覆)であった。それも、祖国エルサレムを恢復(回復)したいと言う単純な思想に基づいたものだけに、それは可成り原始的な形式を執ったものであったことは、西洋史を少し注意して研究するものには容易く肯かれるであろう。これは苟もユダヤ人であればプロレタリアであろうと、ブルジョワであろうと、共通した心理なのである。

この地上に神の選民として生を享けた以上は、世界の現状を何とかして破壊して、偉大な猶太國を建てたいと言うのは彼等の一様に渇望している理想なのである。

 

東欧は革命の温床―欧州の火薬庫バルカン

こういう盲信を持って居る東方猶太人の住む東欧は、第一次世界大戦の火をつけたセルヴィアの青年を出したところである。最近では、この意味で欧州の火薬庫とまで言われているバルカン半島の大火に付け火をしたユーゴの反枢軸運動を急激に巻き起こさせたところである。ギリシャのサロニカは、その総人口約十一万の中で七万人までが以上述べたような思想傾向の猶太人に占められ、特に陰謀の中心として最近のバルカンに於ける独伊対英ギリシャの睨み合いに盛んに暗中飛躍を行ったのであった。

この東方猶太人の住む東欧には別に六かしい(難しい)理論も生じようがない。ただ革命の直接行動あるのみである。

 

西欧のユダヤ人とマルクス主義

ところが、これと対蹠的(たいせきてき:正反対)に西欧の猶太人を検討すると、必ずしもそう盲信のみで終始できない。彼等の多くは或は少なくとも主たるものはインテリであるだけ、同じ世界革命を企図するにも別のコースを必然的に取るようになった。

こういう意味で、遂に西欧にマルクス主義の運動が漸次発生するの機運が醸成されたのであった。

 

ハイネの汎神論の影響

西欧のドイツにマルクスを出したのに、見逃してはならぬ、今一つの影響としては、熱血猶太詩人ハイネのネオ・メシア思想の発生そのものを無視してはならない。

これは、要するに東方猶太人の太古さながらの露骨な神の選民思想をもっと高尚に近代的の思想に粧い直すにあった。

ハイネが、ネオ・メシア思想を唱え出した当初、彼はフランスに居た。ハイネはその生得(しょうとく)の何物をも、その信念の前には焼き尽くさねばならぬ気象(気性)を以て、非猶太人に火のような反感を抱き、往古より猶太民族の信条となっていたメシアの思想、即ち、最後の審判の日が来た暁には、神エホバが救世主をこの世にお降ろしになって、神政の世となし、神の選民たる猶太人をして多民族を統治されるであろうとの思想を、もっと、近代的意味に解釈して、メシアとは、要するに、預言の主張している如き神の子ではなくて、更生した猶太民族そのものを指すのであって、猶太民族全体が、即ちメシアとなって、世界を征服し支配するに至るものであるとの熾烈な信仰を持つ、彼自身の創造した思想団体であるところの『ネオ・メシアニスト』(新しいメシアの思想を主張し信仰する人)を引率して、世界革命への礼讃運動に没頭したのであった。

 

カール・マルクスユダヤ的思想

猶太人カール・マルクスは一八一四年五月五日を以て、ドイツの古都トリエルの猶太教職上がりの一商家の子として生まれた。マルクスの生家は、表面はプロテスタントに改宗していたが、家庭の内部では、勿論、秘かに熱心な猶太教の信仰者であり、マルクス自身も、お定まり通り、タルムッドの訓(おし)えによって、若き日から薫陶されたのであった。マルクスは、正規の如く、ボン大学法律学を、次いでベルリン大学で哲学を修め、就中、当時の流行学説であるところのヘーゲル学派の思想に心酔するに至った。ヘーゲルの汎神論は、マルクスの心中にあるヘブライの自然神教の概念を一掃し、ただ猶太人たるの誇りと、全世界を支配する最高の思想をその胸奥の裡に成長発展させるようになった。

マルクスは此処に至って、彼の説かんとする猶太民族の至高な思想こそは必ずや全世界を支配して無窮(永遠)に猶太民族をして雄飛させるに至るだろうとの信念を鞏(かた)めるに至った。救世主とは団結した猶太人それ自身であらねばならぬと言うヘーゲルの汎神論にはマルクスは深く共鳴を感じた。これには世界共和国建設の理想を説くに限る。かくて君主国専制国を廃止し他民族を統一するの手段を講ずる必要がある。これには特殊国家を形成している猶太人こそは、その指導原子たるべきものである。同一の種族で一貫した伝統的陶冶(とうや:才能・性質などをねって作り上げること)を受けているイスラエルの子孫こそは、この新しい国家制度の生みの親たるべきものである。国家の統治権なるものは労働大衆をうまく煽動し、無産者の勝利を期すると言う旗印を先頭に翻したならば、易々と猶太人の手に帰するに相違ない。かくて、国家の統治権を猶太族が握った場合には、私有財産権なるものは当然廃止せられるべく、その代わりに公共財産を猶太人の支配者於いて管理すると言う猶太人に取りてこの上もない地上の楽園が出現するであろう。世界の人民の財産を猶太人の手に取り上げた暁こそは、この世に即ちメシアの理想が招来されるわけである。 ―こういうのがマルクス及び彼に追随する猶太人マルキシストの理想となったのであった。

こういう猶太人のより深刻な陰謀を成就させるべく、世界の非猶太人の少なからぬ不心得者は、知らぬが仏で、却って、マルクスに追随し、孰れも彼等に結局は不利な猶太共和国建設のためにわざわざ一臂(いっぴ:片ひじ)の力をかすというような状態にまで遂に発展した。

かくて、マルクスの思想は燎原(りょうげん)の火の如く(野原の火事のように防ぎようのないものの喩え)世界のあらゆる隅々に浸潤せずに置かぬ勢いを示した。

ハイネはマルクスのこの主張に彼の汎神論に対するよき後継者を見出したと大いに喜んで、その押しも押されもせぬ独特の文壇的地位を利用して、マルクスをあらゆる機会に引き立てようとした。僅か二十代のマルクスは、斯くて、雑誌記者或いは新聞主筆に容易にハイネの紹介でなるを得た*。甚だしきは、マルクスがパリコンミューンの暴動に参加して官憲に捕らわれたのをハイネが救い出してやるなどのことさえあった。

*世の中の有名人(特にジャーナリストや文筆家)、と言われるものの中には、こういう人間が多いことを是非、良く心に留め置かれるべし、と思う ―燈照隅

やがて、マルクスは、その行き過ぎた思想のために欧州大陸から追われることとなった。

彼がロンドン亡命中に一八六四年を以て、「バンコクの労働者よ団結して立て」と言うスローガンで、英国は、勿論、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ロシア等の革命主義者に盛んに呼び掛け、第一インターナショナルの結成に奔走し出した。しかしながら、彼のこのスローガンの表面には、いとも不純な猶太第一主義が潜んでいたことは勿論であった。

 

マルクス反対の急先鋒バクーニン

それが、誰よりも先に、露国の貴族出身のアナーキストであるバクーニンに看破され、マルクスの運動に対し、激烈な反対党糾合運動が勃興して、大陸諸国でも響の物に応ずる如く、マルクス反対の運動が普及されるに至った。それで、流石の厚顔で鉄面皮のマルクスも僅かに英独の猶太人の同志のみをその傘下に集めるのに成功しただけで終わった。この失敗に彼は業を煮やして、卑怯にもスペインの嘗ての同士であったインターナショナルの首脳の名前を彼自身がスペイン政府に密告して投獄の憂き目を見させるという非道の行為にさえ出た。

それだのに、何分、猶太財閥から貢がれる資金そのものが実に豊富だったので、彼の第一インターナショナル支部が二三ヶ月のうちに世界の到る所に設けられるに至った。これは、現在の前世界猶太人同盟の前進である猶太文化科学聯盟の国際的で飽くまで強靭な組織力の充分な掩護(えんご:背後からの援護)を受けた賜物でもあった。

 

マルクス主義の欠陥

マルクス主義の正体と言うものは既に述べたものであるが、その何よりの欠陥は要するに英国の民主主義と共産政治とを結びつけんとする点にあった。これは実行不可能なる命題を多く含んでいて、後にロシア革命ソ連の実際政治で全面的に訂正されるの運命となった。

現在のソ連は事実マルクスの理想から大いに遊離している政体を取っているのである。これについて更に後章に於いて詳述するところがあるであろう。

 

猶太人の財的勢力

一体、猶太人は全世界に亘りて約千六百万人あり、若しこれに改宗又は混血の猶太人まで合わせると凡そ世界に五、六千万人はいるだろうとのことである。その財的実力と言うものは実に大したもので、アメリカの資本の凡そ85%は猶太人のものと称して可なるもので、欧州にありても、フランスでは一般仏人の財産の二倍強をば猶太人が占めるものと言われ、現在では最早そうではないが、ナチ政権の徹底的猶太排斥ある迄はドイツの全財産の75%は猶太人に独占せられていら程なのである。

随って、猶太人のみで世界の商業利得の二分の一は確実にそのポケットに収めて来たわけで、全世界の資本の約三分の二は何といっても猶太系統のものと称し得る程の驚くべき経済上の実権を握っているのである。

これらの猶太人は孰れも自分自身から猶太人とは態々(わざわざ)名乗り出ているわけではないのであって、或いは米人と称し、英人と称し、仏人或いは独人とのみ言っているわけなのである。ただに金権のみならず、世界の言論機関の殆ど大方は猶太人の経営と言って差支ないのである。

 

言論界の猶太の勢力

世界に於ける国際通信事業の先駆者は、何といっても、あのドイツ生まれの英国への帰化の猶太人ポール・ユリウス・ド・ロイテル(ロイター)男爵(或いはルーター男爵)の創立したロイテル(ロイター、ルーター)通信社であろう。この通信社は随って今でも、猶太人のためには決して不利な情報を供給しないばかりか、色々と、その利益に反する又は主義に反する国々のニュースには様々の作為やデマを製造するに躊躇しない。これは日支事変に対する彼等の報道に徴してもあまりにその態度が明瞭である。その他、米国のアソシエ―テッド・プレス(A・Pと略称する連合通信社)仏国のアヴァス通信社、米国のユナイテッド・プレス(U・Pと略称)等、孰れも世界第一流の通信社だが悉く猶太系統のみである。

英国のタイムス紙、デーリー・テレグラフ紙、モーニング・ポスト紙、デーリー・メール紙、デーリー・エキスプレス紙、デーリー・ヘラルド紙、マンチェスター・ガーディアン紙等あらゆる主要な英国の新聞紙は悉く猶太人の経営である。

フランスでは左、右両翼の新聞を含めた知名の新聞の一切が皆猶太人の経営である。それら幹部の記者の同じく猶太人のみである。これら仏国新聞紙は啻に猶太財閥の息が掛かっているばかりか、フラン・マソンの魔手さえものびているのである。随ってその論文とか記事とかは必ずしも正鵠を期し得られない場合がある。右翼と言うも左翼と言うも、表面だけのことで、内実は大した相違はないのであって、便宜上、そういうジェスチャーを行っているに過ぎない。

 

猶太人の特徴

猶太人は風俗習慣が一般の欧米人とは違っていて、非常に強烈な家族的意識を持って居る。表面は兎も角、その家庭内では、男尊女卑の鉄則は決して破られていない。そうして、格別、老人とか年長者とかを尊敬する風がある。猶太人の青年子弟は大学を卒業して全く独立し得るまでは、決して酒を一杯と雖もひっかけるような不真面目なことをしない。

また、大学を卒業してからも、相変わらず親父のすねを齧(かじ)って、のらりくらりと暮らしていくような不心得者は一人も居ない。その点は実に感心である。英国ではこの傾向が特に顕著であって、これが第一の理由をなすからであろうか、英国居住の猶太人はイギリス全人口の5%であるのに、英国に於ける知名の猶太人は英国名士中の六割を占める有様なのである。猶太人は西洋人には一見して容易に猶太人なることがわかること、我等日本人が支那人を一見して日本人から容易に区別し得られるほどに、その容貌は特異のものである。

猶太人の鼻は一般に鷲鼻と言うやつであり、彼等の理財のすぐれていることをよく象徴している。口は孰れかと言えば山羊のそれのように見えるのである。猶太人はその服装や装飾には極端に派手好みが多く、例せば、ネクタイなど、年に似合わぬ大柄のものとか強烈な色彩のものをつけているので、格別よく目立つのである。

 

枢軸全体主義と猶太民主主義の対立

既に述べた如く、民主主義とか自由主義とかいうものは、猶太人の一般世界人に与えた毒薬も同然であり、それが、英米仏では意外の勢力を得たのであって、今日では英米等の民主主義擁護と言えば、要するに、猶太人の身勝手な利己主義をカムフラージュする手段としてか、我等には見られないのである。

この意味で、現在、枢軸国が陰に陽に英米の敵性国を相手として、西に東に戦っているのも、全体主義と民主主義とが実際に於いて、相戦っているのと同じである。そうして、この二つの異なったイデオロギーの孰れが実力上、まされるか否かを、武力の上で解決しようとしている矢先なのである。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」07

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第四章 ビスマルクと猶太民族問題

 

独逸民族精神の勃興

ドイツが民族的に自覚して、遂に今日の如くナチスが奮起、その政権を取り、その国粋運動を極度に強大拡大し徹底的な排猶を実行するようになって世界を聳動(しょうどう: 恐れおののかすこと)するに至るまでには、種々の歴史的過程を経過して来たのであった。

顧みれば、彼のドイツ精神の擁護者とも称すべきドイツのペザント達により企図せられた農民戦争やマーチン・ルーテルの宗教革命こそは、実に、ゲルマン民族が猛然ローマン・カトリックの久しきに亘って毫も揺るぎがなかった宗教制度に反対して立った民族解放の起源とも称すべきであった。ただ、その企図は未だ民族的に統一したドイツ国家とまでには発展し得なかった。

なぜなれば、斯くて、彼等は宗教的方面ではプロテスタントによる民族の統一をある程度まで計り得たとは言え、まだ封建的に自由な*都市を中心として分立したままの姿であったからである。(*原典:重な 恐らく間違い)

 

オーストリアはドイツの民族主義の宿敵

この間にオーストリアハプスブルク王朝は、斯うしたドイツの統一されて強大となるのを喜ばず、何かにつけて、それを妨害するの政策に出た。この意味でオーストリアはドイツ民族主義の宿敵とも称すべきものに遂になった。メッテルニヒの斯うした保守的政治は、かのウィーン会議以後更に辵(ちゃく)をかける(輪をかける)ようになった。

プロシャや固よりこれに対して拮抗した。フリードリヒ大王以来ことにそれが顕著となった。

 

鉄血宰相ビスマルクの出現と独逸

そういう時代に現れたのが、実に鉄血宰相ビスマルクその人であった。ビスマルクは、その思い切ったドイツ国粋主義を頭から真向に振りかざして、気の弱い幾多のドイツの自由主義者を縮み上がらせ、その度胆をすっかり抜いてしまったのである。この意味で、宰相ビスマルクこそは今日のドイツ復興の恩人の一人と言えるのである。

未だ完全な意味で統一されない依然支離滅裂とも評すべき革命後のドイツをば、統一し得たのは、何といってもビスマルクの巨腕が物を言ったのであった。

嘗てかのドイツの史家ワールが、

ビスマルクが、最近従来よりも遥かに熱心に追憶され、その業績が頻りに学者の研究の対象となり、彼に関する著作が多くなったのは、ドイツ民族そのものに今なお健全な要素の存在するのを語り、その民族的復活を期待し得る証左ではあるまいか」
と評したのも、慥(たし)かに正鵠な観察と言うべきであった。

 

独逸への猶太人の移住の始め

ドイツに猶太人が移住してきたのは、既に述べたスペインへの猶太人の転住と相前後した紀元後一世紀か二世紀の頃と見るのが、史学者の定説となっている。

それは当然、スペインよりフランスを経て、主として、西南ドイツのライン沿岸地方に行われたものであろうと推察されている。疑いもなく、カール大帝はそうした猶太人に対し想像以上寛大な態度を執ったのであった。

それが九世紀か十世紀になると、ドイツ国内でも就中(なかんづく)、マグデブルグとかメルセブルグとかの地方に相当多数の猶太人が最早移り住んでいたのであった。

しかし、プロシャ又はブランデンブルクに猶太人の移住したのは、それよりかは、ずっと遅れていたらしい。兎に角遅くとも十三世紀になれば、ブランデンブルクに猶太人が愈々移住していたに相違ないことだけは、立派に立証が出来るのである。

 

十四、十五、十六世紀の独逸に於ける反猶運動

ドイツでは、ところが、一三四九年、一四四六年、一五七三年と前後三回まで反猶運動が起こった。その結果、特にブランデンブルクでは、猶太人が居たたまれず、全く姿を消すに至った。

その後、ブランデンブルクで又もや猶太人が多少なりともその存在を示すだけの活躍が認められるようになった。それは、大選帝侯*フリードリヒ・ウィルヘルムの頃からであった。(原典:大選挙侯)

 

フリードリッヒ・ウィルヘルムと猶太人対策

それから、十七世紀の中葉に、十年間(一六四八~一六五八)の戦争があり、ポーランドに居た猶太人の多数がブランデンブルクに逃げ込んで来た。だが、フリードリヒ・ウィルヘルムは勿論、フリードリヒ大王は、どちらかと言えば、猶太人にはつらく当たった方であった。

彼等には猶太人の宗教上に甚だしい偏見があることや、その日常の習慣が、どうしても、気に入らなかった。

 

猶太人モーゼス・メンデルゾーン

しかし、間もなくドイツでは猶太人に取りて新しい時代が訪れた。それは、有名なモーゼス・メンデルスゾーン*が、猶太人の内的改造を行い、従来より以上、ドイツ人との折合をよくするようになったからであった。そうして、ドイツに於ける猶太人の地位を大いに高めたからであった。
(原典:メンデルゾーン)

このモーゼス・メンデルスゾーンは所謂「寛容されたジュウ」として貧困な家庭からそのスタートをなしたのであった。彼こそは全く立志伝中の人と言うべきであった。十四歳の頃、彼とても、憐れむべきバイブルの旧約やタルムッドはては精々マイモニードの知識しか持てぬ猶太の一介のみすぼらしい少年であり、そのドイツ語とても頗る怪しいものであった。

一七四九年にユダヤ人レッシングの有名な喜劇『猶太人』が公にされた。

このレッシングの名筆で活写された猶太人の青年ヒーローこそは誰あろう、今は正に二十代となったメンデルスゾーンの偽りなき現実の姿そのものであった。語学にも、哲学にも、詩学にも、儕輩(せいはい:同輩・同僚)を凌ぐ優秀な青年で独自の境地を有する推奨するに足る前途有望な男子として、彼メンデルスゾーンは大々的にドイツの公衆に紹介され、メンデルスゾーンは忽ちドイツ人間の寵児とさえなった。

それから十数年を経過して、一七六三年に、メンデルスゾーンはベルリンアカデミーの懸賞論文に応募した結果、カントに打ち勝ちて、当選の栄を得たので、ドイツ全国は、その才能に驚異の眼を大いに耀かすに至った。

この時も、彼のレッシングはメンデルスゾーンをば、第二のスピノザとまで賞揚(しょうよう:褒め称えること)した。メンデルスゾーンはこれに力を得て、モーゼの五書のヘブライ語からの独訳を企て、五箇年の努力の結果、それを完成、これを仲立ちとして、基督教徒にもヘブライ語が読めるようにした。そうして、基督教徒にも猶太性(ユデンツム)の正解されるように努めた。

これは従来失意の境遇に沈淪して居た猶太青少年にも、その青雲の志を大いに鼓舞するよすがとも手本ともなった。それらの青少年は随ってメンデルスゾーンを「当代のソクラテス」とまで礼讃するに至った。

 

歴代独逸王侯の重商主義と猶太対策

大選帝侯以下歴代のドイツの王侯は、その重商主義の見地から猶太人の金力に目を付けざるを得なくなり、猶太人は従来にまし、利用されるに至り、この意味でも、猶太人の地位は漸く改善された。そうして、一方、彼等を機会さえあれば、依然抑圧する政策を取り、多額の租税を猶太人から取り立てた。

兎に角、以上のような次第で、世界の猶太民族の近世の歴史と言うものは、メンデルスゾーンを以て始められたと称するも可なりであろう。彼は一言にして謂えば、猶太人の近代的生活を開拓したものであった。

彼は、斯くして猶太人の地位を改善に努めたのみならず、その信仰の純化をば図った。後年の猶太人の解放の理論もメンデルスゾーンに負うところが少なくないことは勿論である。

 

猶太人寛容令

オーストリアの皇帝ヨセフ二世の如きは、一七九二年を以て、猶太人に対するその名高い「寛容令」を発布したものの、それは必ずしも、猶太人をば、基督教徒と何処までも同一に扱うとか、同様の権利を与えるとかの意味合いではなかった。皇帝自身にそんな意志は毫もなかった。

依然、ウィーンに於いては、特別な猶太人に限って、保護税なるものを上納して、漸くウィーン市に入ることを許した程度にとどまっていた。猶太人がウィーン市内でそのエホバ礼拝堂のシナゴーグを建てることなんかは、以ての外と、絶対に許されなかったのであった。

 

十八世紀末の在独猶太人

しかし、十八世紀末になると、猶太人の文化的社交的地位と言うものは、著しく向上して来るのであって、最早ドイツ人に比べて何らの遜色とては認められない有様となった。

かのフランス革命は指導的原理としての人権の尊重を叫んだので猶太人は従来の伝統的反猶思想から、大分に救われ解放される運命とはなった。この裏面には、猶太人自身の工作が多分にあったことは既に前章で述べた通りである。

 

ネーベン・メンシとゾンデル・ナチオン

国民議会は有名な「人権の宣言」を公にし、フランス在住の猶太人の如きは一七九一年の九月下旬には完全な市民権を与えられるに至った。此に至って、猶太人の満悦思うべしである。だが、好事魔多しとやら、その後ドイツに又もや反動が生じ、猶太人は、嘗てのオーストリアで称せられた一人前でない副人民(ネーベン・メンシ)と、大同小異な、特殊国民(ゾンデル・ナチオン)として再び憎悪の的になった。それは猶太人があまりに図に乗って、一般ドイツ人の目に余る行動に出たからであった。そうして、猶太人を迫害する暴動さえも遂に起こった。これが、ただにドイツ国内に於けるのみならず、コペンハーゲンにまで波及するに至った。

一八二二年には猶太人は絶対に上等兵以上の軍職に、一八二三年には大学のプロフェッサーにも就かれぬことにさえなった。従って、たとえ表面的とは言え、猶太人としては基督教徒に改宗するより外に、生きる途はなくなってしまった。逐年そうした改宗者は増える一方であった。ところへ、例の産業革命が、欧州の政界に一大波紋を描き一大転換を促すに至った。

かのガブリエル・リーサーはこれに関連して、彼自身の生涯そのものが、ドイツに於ける猶太人の解放史というべきような活動を続けた。

 

ビスマルク普魯西(プロシャ)の首班となる―其巨腕

遂に、ビスマルクは一八六二年を以て、遂にプロシャ政府の首班となった。殊に一八六六年普墺(プロシャ-オーストリア)戦争以後の彼の鮮やかで水際立った内外に揮った手腕というものは、恐ろしい効果を奏した。

殊に、彼が猶太人の社会民主主義者フェルディナンド・ラッサルの提案した普通選挙権を採用したことなどは、猶太人の大いに歓迎するところであった。全く猶太人の思う坪に嵌ったものであった。この点、今日から考えると、ビスマルクも猶太人に瞞着(騙す・誤魔化すこと)されたと言わなければならぬのであった。が、流石のビスマルクも進歩的政治家といわれたかった。当時のイデオロギーには抗し切れなかったものと見える。これがため、一八七二年には、期せずして、ドイツ帝国憲法で猶太人の解放問題の如き自然と解決を見るに至ったように見えた。

 

ビスマルクの反動政策

しかしである。ビスマルクも、決して凡庸な政治家ではない。猶太人を利用すべきときには十分利用し、彼等が不要になり、ぐっと、引きしめる必要を認めたときには、うんと、引きしめる方法を知っていた。彼は普仏戦争後、間もなくドイツ国粋主義の強化には、どうしても、異分子の猶太人に相当の抑制を加えなくては、都合が悪いことを明確に察するに至った。

何となれば、一八六九年七月三日、猶太人解放の法律が公布されるや否や、待っていましたと言わんばかりに、ポーランド、ロシア、オーストリアハンガリールーマニア等から、所謂「東方猶太人」と称する者が挙(こぞ)って、ドイツは彼等の楽土であるとて盛んに我勝ちに移住してきた。そうして、その結果、ビスマルクはこれ等の猶太人を権力利用するに努めて、遂に普仏戦争に光栄ある勝利を得た。のみならず、ドイツが何より目的とする一皇帝、一帝國、一国民の理念がここに至りて殆ど完全するに至った。それが洵(まこと)に結構であった。

この階梯にまでドイツ民族統一のことは結実を告げかけたとすると、今度は何より邪魔になるのは、真の意味で同化せざる異分子を少なからず国内に包蔵していることだ。ここに至りて、ビスマルクには猶太人の存在はどうしても禁物と思われて来た。斯様な異分子のドイツに居るということは、決してドイツ民族そのものに将来害こそあれ、決して、幸福を齎(もたら)すものではないことを見て取ってしまった。

あのローマでもシーザー以前から多数の猶太人が居住し続けていて、その東方的な、しかも特殊な宗教性、民族性、乃至思索的傾向なり慣習なりは、ローマ市民と事ある毎に正面衝突をなし非常な反感を惹起したことなどは、ビスマルクも古代史を精(くわ)しく研究していた関係上、誰よりもよく知った。

 

ビスマルクの反動政策の理由及び根拠

ラッセンは一八四七年『印度古代学』を著わし、各人種のそれぞれの特徴を比較し、就中、アーリア族とセム種とを対立せしめ、アーリア族こそは結局セム種より遥かに優秀なる所以を明らかにした。それをビスマルクは読んで大いに悟る処があった。のみならず、フランスの学者ルナンさえも、一八五五年に『セム種言語史』を刊行して、ラッセンの所説の正しき所以を更に裏書するところがあった。しかし、ルナンは上古のセム種と当時の猶太人とは別様に扱うべきであると主張した。

処が、一八七二年になって、人種学の権威であるフリードリッヒ・フォン・ヘルワルドは『猶太民族の特質に就いて』という論文を公にして、ルナンのセム種に関する批判こそは、その専門の人種学上から見て、そのまま、古代の猶太人に宛て嵌めて考察するに寸毫も差し支えはない意見を発表した。これらは、勿論、後に起きた反猶運動の驍将(強い・勇ましい将軍)であるオイゲン・デューリングにその理論的根拠を充分に与えたのであった。

 

アイゼンメンガーの『ユデンツムの発見』

これと相前後して、ユダヤ教徒の反基督教思想なるものは、要するに、猶太教の経典そのものに基づくものであるということの学的見解も段々に明らかにされて来た。就中、有名なのは一七〇〇年に公にされたハイデルベルグの大学教授アイゼンメンガーの『猶太性の発見』であった。この本の著者は、実に十有九年という長い年月を専ら、猶太人にとりて何よりも不利な資料を蒐集した結果、この後年、あらゆる反猶主義の金科玉条となるべき著述を纏め上げたのであった。

事実、こうした形成に鑑み、ビスマルクも遂に意を決して、総選挙以来、ドイツに保守党の勢力が意外に力を加えてきた関係もあり、従来の自由主義を漸次揚棄(さらに高い立場から破棄すること)して、再び反猶主義を敢然執ることとなった。

即ち、法律を変更しない範囲で、巧妙な方法で猶太人の顕現を出来るだけ抑圧することに努めることになった。

 

「行政上の欺瞞?」といふモムゼンの攻撃

これに対しては、親猶派の史家モムゼンの如きは、巧みな「行政上の欺瞞」だと政府を攻撃した。

一八九三年には議会に反猶派の議員が十六名も出来、それ等が、独立の政党をさえ組織するに至った。皇帝ウィルヘルム一世も決して猶太人には行為を持って居らなかったが、次いで立った青年皇帝ウィルヘルム二世も孰れかと言えば、矢張り親猶派の皇帝とは言えなかった。

ビスマルクは、ポーランド・ロシア方面から過激な思想を持った東方猶太人がドイツへ集団的に移住することに対しては、殊に厳重な警戒的措置を講ずるを怠らなかった。それらには毫も仮借するところなく最も強硬な態度に出た。

 

ビスマルクは反動政治家の典型

こうした関係上、ビスマルクをば、反動的政治家の典型として、彼に反対するものが遂に出てきたが、そう人々を吟味して見ると、孰れも殆ど猶太人ならぬはなき有様であった。これは、ビスマルクが終始、自由党を彼の政敵として、決してその自由主義を無条件には容認せざる態度を堅持していたからでもあった。蓋し、これは、取りも直さず、自由主義と猶太人とがドイツにありてもこの時以前より既に切って切れぬ関係が存していたからでもあった。

ビスマルクは、たとえ基督教の洗礼を受けても、猶太人は矢張り猶太人に相違ない。その本質には決して変化あるべき筈はないとの見解をいつも持って居た。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」06

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第三章 千六百万人の祖国なき流民

 

ローマ帝國を内部から崩壊せしもの

既に言った如く猶太は大ローマに征服され、その版図に編入された。それで猶太人の憎悪は詮方(せんかた)なくやがてローマをいくたびか破壊しようとする陰謀に代わって行った。ところが、その猶太人の中からパウロと言う愛国心に燃えた宗教的偉人が現れた。パウロは基督に主唱された教こそ寧ろローマ帝国への宣伝に適するものと怜悧(れいり)にも見て取った。

彼は愛と無抵抗との教義こそは、ローマの軍隊組織を内部から引き倒す唯一の力となるべく、ローマの尋常一様の方法では打ち破り難い権力を挫(くじ)いてしまうのに持って来いの教義を具(そな)えていると看取(かんしゅ)した。依って、それまでは、誰よりもローマ反対の急先鋒となっていた彼が、外見上は豹変して、心中、ゴイ(豚)と蔑(さげす)んでいたエトランゼで異端の宗教を奉ずるローマ人の間に喰い入って、先ず、霊的に思想的に大ローマ帝国を征服して見ようとの大望を起こした。

そいつが、実にうまく成功した。それから僅かに四百年かそこらで、彼の斯くして継承した基督教は世界の半ばを併呑(へいどん)し、遂にはパレスチナを亡国にしたローマ帝国をば思想的退廃の結果、崩壊せしめるに至った。この間にも、猶太人はローマ帝国内で、機会さえあれば反乱とか革命とかを絶えず起こそうとして居た獅子身中の虫であったのである。

 

パール・コジバの第三革命

その最後の叛乱と言うのは、彼の西紀一三五年(我が成務天皇の五年に当たる)に起こったパール・コジバの第三革命であった。この第三革命は、要するに、エホバがエルサレムの都をお護りであると言う堅い信念の下に、彼の輩下の猶太人が性懲りもなく謀叛を起こしたのであったが、そいつは、ローマの皇子のチウス総督の親征で、てもなく一敗地にまみれ、遂にエルサレムを完全に包囲されてしまい、どどのつまり、糧食其の他が欠乏を告げるに至り、降服者続出し、遂にエルサレム城を抜かれ、猶太人はすべてその時以来と言うものは、絶対にエルサレムに居住することを禁ぜられる始末となった(それは自業自得で致し方なかった。)

かくて、今日の世界の如き千六百万の祖国なき猶太人の状態を段々に生ずる直接の原因を生むに至った。それから猶太人で数百年間、パレスチナを中心とした東洋各地やアラビア一帯に流浪する者が多かった。

 

マホメットを弑(しい)せしもの

ところが、間もなくマホメット教がアラビアに起こった。勿論、猶太人は頭からマホメット教を認めなかったので流血の惨事を伴った迫害を受けることになった。だが、狡猾な猶太人は回教を自己の利益のために利用し得る場合には絶えず利用に努めた。

だが、間もなく、猶太人は遂にマホメットの暗殺を企てるに至った。しかも、それは楚々たる(清楚な)女性の織手をかり、まんまと成功した。

それで、遂に回教の根強く広がったアラビア一円には最早居られないことになってしまった。

 

再度のユダヤ人の大移動

此処で又もや大規模の猶太人の移動が再び生じた。斯くして東の方は、ペルシャや印度を通じて支那に入り、十七世紀前後には河南省開封あたりに彼等の姿が既に部落をなして現れたと言うから驚くではないか。

ただに中支のみならず、南支那の広東にも彼らの勢力が伸び、支那の土着民との葛藤が間もなく起き、そこでも今に猶太人虐殺の歴史が残っている位なのである。だが、いつしか彼等は、元は同じアジア人種同士であるせいもあり、土着民と全く融合を遂げてしまったらしい形跡がある。

特にアラビアから南欧のスペインへは紀元一世紀に既にその移住を見、最初のスペイン宗教会議ではユダヤ人の侮るべからざる勢力防止の方法を講じた位であった。いつの間にか、彼等はゲットウGhettoを作り、持ち前の非融和性と偏狭な団結力を発揮し、そのいやに高ぶったしかも華美や肉慾に耽溺(たんでき)した生活はスペインの一般居住民の反感を甚だしく誘って、そこへ、宗教的な不和を醸(かも)す原因さえ加わって、虐殺を必然としたポグロムが絶えず随処に起こった。

それでも、猶太人の金力に物を言わせて、いつしか、スペインの商取引や海外貿易事業や金融界の重要の位置はだんだんと猶太人に占められるようになり、遂にスペイン王室に巧みに取り入り、大蔵大臣とか財政顧問に任ぜられるものが、それらの猶太人に段々多くなった。だから、スペインでも必然的にユダヤ人排斥の火の手が、機会ある毎に、揚げられたのも無理はなかった。従って一四八〇年には『受洗したユダヤ人』(マラノス)の憎むべき搾取を取り締まるための宗教裁判が実施された。

 

十字軍は猶太人の使嗾

あの十字軍の前後七回の企図と言うのは、皆、猶太人の煽動によっておこったものであり、つまり、彼等の憎んでいる回教徒と基督教徒との間にこうした絶えざる戦争を戦わせて、双方の全く疲れ切ってしまうのを見済まして、最後には猶太人の憧れの的であるパレスチナが濡れ手に粟も同然その掌中に帰すべく願った反間苦肉の手段であった。(今考えると、日米戦争を彷彿させる。或いは、日露戦争もこの手であった ―燈照隅感想)

これら十字軍の戦費調達には、それだから、猶太の金貸しは惜しげもなく応じた。この十字軍の時代は斯くして百七十年も続いた癖に、結局、馬鹿正直なキリスト教徒は、頗る不安定なエルサレム王国を西紀一〇九九年から同一一八七年まで辛うじて維持し得た外は、結局聖地を回教徒から完全に奪還する程には成功しなかった。そのエルサレム王国とても、やがてエジプトに征服され、更にマホメット教徒の手中に全く落ちる運命とさえなった。

ただ残るのは猶太人に対する莫大な借金のみで、王侯等は遂に領主たるの権威さえ失墜するのみじめな結果を見た。これがため、又もや幾多の猶太人の虐殺事件があちらこちらに当然持ち上がった。

かくて、十字軍の総決算としては、欧州の封建政治の没落と言う歴史的過程を急激に辿ることとなった。一方、折角の聖地とやらは一五一七年以来一九一八年まではトルコの領分となってしまった。一四九二年には、スペインに於ける反猶運動はクライマックスに達し、約三十万というスペイン居住の猶太人の国外への追放が実行され、これが爲猶太人は又もやトルコ、イタリア、フランス、オランダ、ドイツ、英国、果てはロシアと言う塩梅(あんばい)に、まるで蜘蛛の子を散らすように転住せざるを得なくなった。

 

アメリカ発見と猶太人

丁度、この頃、猶太人コロンブスが偶々(たまたま)同族の発展のために、あのカタイ(支那契丹からきた言葉・キャセイ)まで旅行したマルコ・ポーロの記述で知った黄金を夥しく産するジパング(日本)を探すために西へ西へと船出し、ゆくりなくも発見したアメリカ大陸があった。そこへ、これは滅法いい処が見付かった?ぞとて、猶太人の大量移民が続々行われた。(これが奴隷貿易の始まりとなった ―燈照隅感想)

それはさておき、上述の欧州各国に分布した猶太人を分類すれば大体三つに分けることが出来よう。

 

欧州に於ける猶太人の分布

第一は後にオランダ系猶太人となるものである。オランダは十六世紀に於いては盛んにスペインと何かにつき輸贏(しゅえい:勝ち負け)を争った國であって、この世紀の末頃から、寧ろ、その反スペイン勢力を増大すべき一助として、そうした猶太人就中所謂マラノス達(Marranos)の移住を歓迎した。そのためオランダの貿易は急激に発達し、欧州で一時は並ぶものもなき黄金時代さえ産むに至った。

この結果、オランダの第一の海港でメトロポリスであるアムステルダムは、現代の欧州に於ける猶太財閥の揺籃(ようらん:揺りかご)の地とさえなった。

第二は彼の西欧派と呼ばれるものである。これは、現代までに及んだドイツやフランスの文化的啓蒙の中心ともなった猶太人の一派を言うのである。

これらの仏独への猶太人は所謂自由職業即ち文学者とか弁護士とか医者とかの仕事に従事する者が多く、往古、ギリシャで発生した自由主義の萌芽を更に拡充し近代的にするに努め、また嘗てローマで彼等の祖先が培養しかけていた共和思想の一層の洗練に努めたものを、両国の貴族階級に浸潤せしめるのに全力を尽くす一方、早や十七世紀頃に創立されたフラン・マソン(フリーメーソン)結社の猶太人への門戸閉鎖主義をば撤回せしめるのに成功していて、やがて、その秘密結社を彼等猶太人自身の薬籠(やくろう)中のものにしてしまった。この秘密結社の乗っ取りが、どれだけ、その後の彼等猶太人の異民族(ゴイ)征服のために隠然たる勢力を拡大するのに役立ったか知れないのであった。

最後に、第三はというに、それは、後年、所謂ポーランド系猶太人と唱えられるに至った一派のことである。この系統の猶太人の派には、勿論、米国のワルブルグ財閥と比肩するような裕福なクラスもあることはあるが、その最大部分は、何といっても貧民階級に属するユダヤ人で構成されていた。

この最後の一派こそは、後になって、ロシア革命などの主動者となるに至った如何なる流血や惨虐をも厭わぬ過激なテロ分子を含むものとなったのであった。だが、十七世紀にポーランドウクライナがロシアに譲渡されたり、十八世紀にポーランド分割が行われたため、ポーランドの猶太人の統一は一時阻害されたり瓦解してしまったこともある。

 

フランス革命と猶太人のつとめた役割

フランスではカロリング王朝の時代に、ユダヤ人は平和な生活を送ることが出来たが、十字軍以降には当然彼等の頭上に頻々(ひんぴん)として迫害が加えられることになった。一三九四年にはチャールス六世がユダヤ人をフランスから追放したので、彼等の殆ど全部はドイツへ移動するのやむなきに至ったこともある。

フランスの猶太人にとって幸になったことは、彼等の中のインテリで進歩的分子が色々と学究的努力の結果、遂にフランス国に十八世紀の後半に於いて自由平等の精神を叫ばせるに成功したことであった。これに追随したのはドイツの思想家で同じく自由主義を唱えた人たちであった。この間にキリスト教の啓蒙運動が行われ、それが著しく文化線上の猶太人にも影響を与えた。当時、ベルリンは随(したが)ってユダヤ人啓蒙の中心とさえなっていた。

一体、一七八九年のフランス革命なるものは、大陸のフラン・マソン(フリーメーソンに同じ)の総帥である仏国大東社(グラン・トリアン・ド・フランス)を本拠とした猶太人の策動の結果生じたものに外ならぬのであった。ヴォルテールモンテスキューコンドルセー、ディデロー、ダランベール等の有名なフランス革命の理論的指導者は実は孰れもマソンの社員であり、ルイ十六世や王妃アントワネットの処刑もマソンの計画の熟したものであった。

 

猶太人の三つのタイプ

この間に、フランスの自由主義運動は、猶太人の密かに飲ませた薬が効きすぎて、極端な唯物論無神論、科学上の熾烈な熱情、理智の礼讃、形而上学や在来の宗教に対する反対運動を生むようになり、ために、多くのインテリユダヤ人自身の近代思想に接触したための煩悶(はんもん)と言うようなことにまで趨(はし)るに至った。それは、言うまでもなく、猶太教精神とも全く背馳(はいち)する思想と言わねばならなかった。

それで、猶太人の中には、表面は猶太教から離脱して、少なくとも基督教へ改宗する方法を以て、彼等の当面するジレンマを脱そうと図るものが続出するに至った。教養のある猶太人は争ってこの便宜な方法を執った。しかし、彼等の心中には、やはりエホバがあり、タルムッドがあり、シオンがあり、孰れも決して清算されず、忘れられず、しかと、こびりついていたのであった。こういうわけで、今日の猶太人には少なくとも三つのタイプがあることを承知しておく必要がある。

第一は、文化線上にある者、これは世界に於ける猶太人の総数千六百万の中の四百万人を占めている。

第二は、依然頑固にも猶太人としての伝統的生活を維持して行くもの、これらは千六百万の半数に近い七百五十万人である。

第三は、近代文化の影響を是認はするが、依然、表裏ともにユダヤ教の精神を守って行きたいと念ずるもの、これは残余の四百五十万人である。

猶太問題は、いつも、これを念頭に置いていないと、多くの誤解を生じ易い。第一の文化線上にある猶太人四百万の中でも、その三百万と言うものは主として、裕福な実業家が多く、今日の欧米の主要都市の駐留の猶太人達をさすものと考えてよい。その残りの百万人は、同じくこうした欧米の都市に住む大学教育を受けた猶太人のインテリ階級乃至富豪連中を指すのである。

こうしたユダヤ教徒の基督教同化運動の淵源は紀元前二世紀から同一世紀に至るヘレニズム運動に基づくもので、西紀八世紀から同十二世紀までに亘ったビザンチン文化時代に適当な培養を受け、遂に十八世紀以後の基督教の啓蒙運動と同化するに至ったものと称してよい。

 

同化主義猶太人の行き過ぎ訂正運動

つまり、言葉を換えて謂うと、かくして、猶太人の基督教の本質に喰い込んだ、より巧妙な、より近代的な、思想革命運動にまで進化したことになった。かくて、識者についに、思想的にも文化的にも宗教的にも猶太禍を大に叫ばしめる動機を大いに作ることとさえなった。この間にも、イギリスは一八三二年、猶太人に被選挙権を与え、ドイツ、スイス、オーストリアルーマニアも相次いてユダヤに平等解放の制度を布いた。それで、その解放の機運を迎えた喜びに、甚だしきは、『猶太人は民族ではない』と主張するこうした改宗同化思想の猶太人さえあらわれるに至った。

これには流石の猶太人の指導者も、その行き過ぎに狼狽して、一八六〇年には、フランス共和国政府の法相で猶太人であるクレミュウを含んだ知名の猶太人を創立委員とする世界イスラエル同盟を結成して猶太人間の団結をより強くするに努めたのみならず、一八六二年には西欧猶太人モーゼス・ヘスは、『ローマとエルサレム』と題した書を著わして、「同化主義の猶太人は猶太民族の敵と見做さなければならぬ。パレスチナに猶太國を再建するシオンの理想こそは輝かしいフランス革命の趣意を徹底させる所以ではあるまいか」と、猶太民族精神を大いに高揚して、動もすれば意気沮喪(そそう)せんとする猶太人仲間を激励するところがあった。これはやがて既に述べたヘルツル博士のザイオニズムの提唱を見る前提ともなった。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」05

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エホバの約束とやらを信じて

時節さえ到来すればエホバはその使いのエリヤを天からこの世に遣わし、猶太人一同を率いさせて、全世界を征服し、世界統一の企てを成就し、エホバをば一神とする猶太の教を宇宙に流布させるであろう。猶太は今その国は亡んでいても、其の実亡んでいるのではない、今猶太人を踏みにじっているものはやがて全部征服され、その異端的な(?)文明は根も枝も残さないように灰燼に帰してしまうであろうと言うのである。

宣なるかな、今日までの世界の目に立つ大きい事件の裏面を窺うと、屹度(きっと)そこには猶太人の不気味な魔手が、ちゃんと、廻されているのである。

 

大事件の蔭には猶太の魔手動く

現に我が国が有史以来の聖戦を敢行している支那事変の蔭には援蒋(蒋介石支援)の猶太の手が、「檻を出た犢(子牛)の如く躍って」いるではないか。日露戦争の裏面にも猶太人が同じように暗躍していたことは、今では隠れもない話になっている。

高橋是清が当時米国の猶太資本家(独逸系ユダ人の銀行たるクーン・ロエブ商会の)ヤコブ・シッフから戦争遂行のため巨額の借款を易々となし得たのも、実は米国の猶太財閥が日本の勇猛な武力を借りて、ツァーの帝国の没落せんことを只管希望したからであって、彼等の真の日本への友情からそれを快諾したのではないことが、現今では判明している。

天草の切支丹の乱後、徳川幕府鎖国を遂に断行したのは、日本に押し寄せんとする猶太禍を単なる切支丹禁絶のみにては到底防ぎ切れないと見て取ったための最も賢明な処置であった。日本はこの鎖国二百五十年間に、色々の経緯こそあったが、日本精神の深き涵養に遂に徹することが出来て、明治維新後の開国のために生じたあらゆる外来思想や文化の影響を結局今日までうまく乗り切り、今日の如き八紘一宇の大精神の貫徹に毅然たるの態度を堅持し得る下地を充分に蓄えることが可能であったのである。

 

シオニズムとは何ぞや

さて猶太禍の問題と言えばシオニズムのことにも一寸触れなければならない。シオニズムとは、パレスチナの地に創設されるべき純猶太國にすべての猶太人を集合させるのを目的にする運動だと一般に解せられているようである。だが、そこまで窮屈に解釈しなくてもよい。猶太人憧れのパレスチナと根拠として猶太人の世界の到る処に勢力を振るうことを目的とする運動だとする人もある。

蓋(けだ)し、シオンの賢者の意嚮(意向)としては、どんな国家にありても平穏に国力を充実させてはならぬという悪いデザインがあることをこれによりて明らかに語っているのである。

若しそれ共産主義とか赤の思想とかに関しては、シオンの所謂賢者は、非猶太人が人間自然の法則に反するところの社会の階級を撤廃するが如き平等の思想を受け容れたのは、非猶太人の頭脳が如何に低級千万であるかを直接に物語るものだと、蔭で赤い舌をべろりと出して笑っているのである。平等とか階級撤廃とか自由などの言葉は、猶太人が、非猶太人に与えた最も怖るべき毒薬麻酔剤も同然であると想い到さねばならないのである。

 

シオンの理想境とは

「荒野と濕(うるお)いなき地とは楽しみ、沙漠は喜びて香紅(サフラン)の花の如くに咲き輝かん。

盛んに咲き輝きて喜び且つ歌い、レバノンの栄を得、カルメルおよびシャロンの美わしきを得ん。

彼等はエホバの栄を見、我等の神の美わしきを見るべし。

汝等、萎えたる手を強くし、弱りたる膝を健やかにせよ。

心騒がしき者にむかいて言え。

汝等雄々しかれ。懼れる勿れ。汝等の神を見よ。刑罰来たり、神の報い来たらん。

神来たりて汝等を救い給うべし。

その時、瞽(盲・めしい)の目は開け、聾者(みみしい)の耳はあくことを得可し。

その時、跛者(あしなえ)は鹿の如くに飛び走り、唖者(おうし)の舌は歌うたわん。

そは荒野に水湧き出で、沙漠に川流るべければなり。

焼けたる沙は池となり、濕(うるお)いなき地は水の源となり、野犬の伏したるすみかは、蘆葦(ろい:芦のこと)の繁り合う所となるべし。かしこに大路あり。その道は聖(きよ)き道と唱えられん。

穢れたる者は、これを過ぐること能わず。ただ、主の民のために備えらる。

これを歩むものは愚かなりとも、迷うことなし。

かしこに、獅子居らず。荒き獣もその路にのぼることなし。

されば、そこにて之に逢うことなかるべし。

ただ、贖(あがな)われたる者のみ、そこを歩まん。

エホバに贖い救われし者、歌うたいつつ、帰りて、シオンに来たり、その首(こうべ)に永久(とこしえ)の歓喜(よろこび)を頂き、楽しみと悦びを得ん。而して悲しみと歎きとは逃げ去るべし。」

以上は旧約イザヤ書の第三十五章にある猶太人のシオンの理想境を巧みに表現した有名な箇処なのである。

 

シオンの意義

シオンと言うのは、ヘブライ語で、「日の照る処」と言う原義を有している言葉である。

エルサレムの石垣の中でも、西南の方に位していたところの高き岡の名なのである。

猶太の王様達が、この岡の上に其宮殿と城郭とを築いていた。

それで、聖書の旧約で、シオンとか、或はシオンの娘とか、言う場合には、それが、多少転義して、より大きい意味のエルサレムを指すことにもなってしまった。或場合には基督教会そのものをこの関係上、シオンと呼ぶことさえあるわけである。

 

シオニズムの提唱者と其意見

抑もシオニズム(ザイオニズムともいう Sionism, Zionism, Zionismus)と言う理想は誰によりて叫び出されたかと言うと、猶太人によると第二のモーゼとまで尊敬されている、ウィーンの新聞記者でハンガリー系の猶太人であるテオドル・ヘルツル博士(Theodore Herzl 1860~1904)其人によってであった。随って彼は猶太民族精神中興の祖として渇仰されている。

このヘルツル博士は西暦一八九六年(日本の寛政八年に相当している、あのジェンナーが種痘法を発見したのと同じ年である*)を以て、『猶太國(ユデン・シタート)』と言うパンフレットを発表した。その大要は左の通りである。(*これは著者の思い違いからか、一世紀ずれている。1896年は明治29年である

「我等猶太人は中世紀に於いて強いられた境遇に追い込まれた癖に、財的に優越権を得るに至ったのは事実である。

しかも、近世の事態はいやが上にこれを増進し、先ず取引所の支配権を獲得し、経済社会で押しも押されぬ権威を自ら構成するようにさえなった。

他方、我等猶太人の中で試算に恵まれないところのインテリゲンチャは、その必然的傾向として、社会主義者となるに至った。随って、同じ猶太人の仲間であるのに、一方は資本家となり、他方は社会主義者となった関係上、双方の間に激烈な闘争をやがて惹起することとなった。

孰(いず)れにせよ、猶太人問題は中世紀から残されてきた遺物であり、苟(いやしく)も猶太人の居る処には課鳴らすこの問題が生じている。

また、この問題のないところがあっても、間もなく猶太人がそれを齎(もたら)して発生させると言う傾きがある。猶太人は迫害のない処を専ら選んで行くのであるが、其の行く先には必ず迫害が生じて来る有様だ。

今や猶太人は英国へ排猶運動を輸入しているではないか。米国へも既にそれが輸入された…」
云々と述べて、それが、解決手段として、

「宜しく祖国パレスチナを復興して猶太國を再び建てよ」

との提案をしたのであった。

以上が実に所謂シオニズムの提唱であり、彼は同時にこれにユダヤ民族固有の宗教的色彩をさえ加味したのであった。

 

第一次シオン会議

次いで、このヘルツル博士は翌年の八月二十九日に全世界三十七ヶ国の猶太人代表をスイスのバーゼルに召集して第一次シオン会議を催した。其の決議の第一条をあげると、

シオニズムは、合法的保障を以て承認されたる国土を、猶太人のためにパレスチナに創設するを目的とす」

とある。これは世界の暗やみに彷徨する猶太人に光明を与える燈火のような希望となった。かくて第一次世界大戦の直前にはシオニストシオニズム謳歌するもの)が無慮五十万人を数える素晴らしい勢いとなってしまった。

 

タルムッドとは何ぞや

本篇ではシオニズムのことはこの辺で打ち切り、次にタルムッドのことを少々ここに述べておきたいと思う。一体タルムッドとは何であるかと言えば、未だにユダヤ人を拘束する力のある『ヘブライの法典』そのもののことだ。

その中でも先ず第一に発達したのは『ミシュナ』の規約で、それは、ラビ(法師)が口伝えに伝えた各種の規定を言うのである。

更にこの規約を注釈したり補充したりする必要に迫られて、第二の規約である『ゲマラ』が生じた。この両者を合併して出来上がったものが、即ち猶太精神王国の中核をなすヘブライ聖典『タルムッド』の法規なのである。

 

タルムッドの精神と意図するところ

凡そこの『タルムッド』の精神たるや、

 神から生まれたものは唯猶太人あるのみである。その他の人間は悪魔の子と称してよい。
と言う極端な非猶太人主義を鼓吹するにあるのだから驚くではないか。

 非猶太人の生命なんかは我等神の選民たる猶太人の活殺自在な掌中にあるものである。

 特に非猶太人の黄金は猶太人の所有物たるべきものである。
と殊に真面目に主張しているのには何人も呆れ返らざるを得ないではないか。

マルブルグ大学のコーヘン教授と言う猶太人の如きは、一八八八年(明治廿一年)四月二十五日に

 タルムッドの含まれている信仰、道徳、風儀上の諸規定は猶太人にとりては強制的なものであり、法律の如く有効たるべきものである。
と放言している。じゃ、どんな書き振りかと言うと、その一節にはこんなのがある。

 すべてのユダヤ人(イスラエル人)はお互いに結ばるべきである。

 海行く船の中で乗合の一人が船底に穴を穿ってから初めて抗議され、『我は唯自席の下に穴を穿ったに過ぎない。何も抗議されるわけはないではないか』と答える。

 同舟の者曰く『なる程そうだ。だけれど潮満ちれば我等は汝と共に溺れることになるではないか』

正しくイスラエルも亦斯様な運命にあるのである。その安危は挙げて、イスラエルの各人の掌中にあるわけである。

こう言うような比喩的文章なので、此処に船とは民族観念をそれとなく象徴して語っているのである。不十分ではあろうが、これでタルムッドの概念はほぼ読者にも想像が出来ると思う。

 

ゲットウの制度

猶太人の特徴としてはゲットウ(Ghetto)と言う制度があり、それによってユダヤ人の他との雑婚を禁止して、その血の純血を保護している。これが、てもなく、彼等猶太人の団結心を強め、又は同時に革命思想を彼等の間に煽る原動力ともなった。

タルムッドに拠ると、異民族はゴイ(豚)で、共によわいし難いもので、畜生同然でああるから、早く滅ぼさなければ、いかぬと言っているのである。ゲットウはスペイン方面に浸潤して行った猶太人によって自己保存の便法として採用されたのに始まる*と言われる。(*註:ゲットーと言うと、猶太人差別のために造られた貧民街のように印象付けられているが、実は猶太人自らが自己保存のために進んで作った一種の「租界」である。)

筈見一郎著 「猶太禍の世界」04

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猶太から出た神の子イエス

間もなく、猶太から神の子と自称するイエス・キリストが現れた。

ところが、キリストは単に猶太人のみならず世界の人間の全部を救済せんと宣伝して、猶太教中の「神は特に猶太人を愛し、猶太人のみ幸福を下し給う」とあるのを「神は如何なる民にても信ずるものを愛し給う」と改めて、自己のより広き範囲の宗教を弘めようとした。いわば驚くべく徹底的に基督はユダヤ教の、大改革を施したのであった。これが約三年間も続き、神の選民として自任する排他的で凝り固まったユダヤ人の癇癪(かんしゃく)の種となり、憤怒(ふんぬ)の対象として基督をローマの代官に売るの浅ましさを猶太人が演ずる直接の動機とさえもなった。ために基督は荊棘(けいきょく:いばら)の冠を戴かせられ、十字架上に磔(はりつけ)の刑を受けると言う世にも悲惨な目にとうとう遭ってしまった。

エスは金曜日に十字架に釘付けされ、同日の午後おそく葬られたという。しかるに基督教の解き明かしによると、それから一週間目のはじめの日の日曜の朝早く、その死から蘇み甦り、四十日の間、折々、使徒と其の他のあまたの弟子との前に現れた。その間にイエスは神の國のことにつき彼等に懇々と教えるところがあった。そして四十日の終わりには、使徒を導いて、橄欖(かんらん:オリーブ)山に登って、彼等に、地の極(はて)までも、その証人となるよう命じて彼等を祝福しながら遂に昇天したと言うのである。

 

神の選民の思想の拠って来るところ

猶太人の神の選民思想の拠って来るところは、何といっても、旧約聖書の明文あるがためである。所謂タルムードやプロトコールは、それに比べると、寧ろ、派生的のものであり、後発的のものであることは勿論である。その証左を一々挙げることは容易なことではない。本書の前頁を以てしても猶(なお)不足であろう。此処に単にその若干だけを参考のため示そう。

(創世記第十二章)

エホバはカナンに赴くべくメソポタミアのハランを去るアブラハムに斯くいった。

「汝の國を出で、汝の親族に別れ、汝の父の家を離れて其地に至れ。

我れ汝を大いなる国民となし汝を祝(めぐ)み汝の名を大ならしめん。汝は幸福の基となるべし。我は汝を祝する者を祝し、汝を詛(のろ)う者を詛わん。天下の諸々の種族(やから)、汝に拠りて幸いを獲ん。」

このアブラハムの一行が漸くカナンの地に辿り着いた。そうしたらエホバはアブラハムの前に現れて、

「我れ汝の苗裔(すえ)に此の地を与えん」

と言った。それでアブラハムはそこに始めてエホバを祭る壇を築いて礼拝を行った。

 

(創世記第十七章)

アブラハムが九十九歳の時エホバが久し振りで、アブラハムの前に現れて、かく言った。

「我は全能の神なり。汝、我が前に歩みて全(まった)かれ(全うであれ)よ。我わが契約を、我と汝の間に立て、大いに汝の子孫を増やさん。」

アブラハムは「はあっ」とその前に畏(おそ)れかしこみ、ひれ伏してしまった。エホバは更に言葉を続けた。

「我れ汝と我が契約を立つ。汝は多くの国民の父となるべし。我れ汝をして多くの子孫を得しめ、国々の民を汝より起こさん。王等、汝より出ずべし。我わが契約を我と汝および汝の後の世々の子孫との間に立て、永久(とこしなえ)の契約となし、汝および汝の後の子孫の神となるべし。

我汝と汝の後の子孫に此の汝がやどれる地即ちカナンの全地を与えて永久(とこしなえ)の持ち物となさん。而して我れ彼等の神となるべし。」

エホバは、またアブラハムに言った。

「されば汝と汝の後の世々の子孫、我が契約を守るべし。

汝等の中の男の子は皆な割礼を受くべし。

汝等その陽の皮を割(さ)るべし。是れ我と汝等の間の契約のしるしなり。

割礼を受けざる男の兒(児)、即ち(生まれて八日に至り)その陽の皮を割(さ)らざる者は我が契約を破るによりて其人其民の中より絶たるべし。」

 

(創世記第二十二章)

エホバはアブラハムの信仰を試してから、その信仰の堅きを喜んで、左のように言った。

「我大いに汝をめぐみ、又大いに汝の子孫を増やして空の星の如く濱の沙(いさご)のごとくならしむべし。

汝の子孫は其敵の門を獲ん。

又汝の子孫によりて天下の民、皆幸いを得べし。」

 

エホバは(創世記第廿八章)、また、カナンを去りメソポタミア方面に赴く旅の中で石に枕して野に伏しているヤコブの前に現れ、斯く言ったこともある。

「我は汝の祖父アブラハムの神(汝の父)イサクの神、エホバなり。

汝が偃臥す(えんがす:ふす)ところの地は我之を汝と汝の子孫に与えん。

汝の子孫は沙の如くなりて、西、東、北、南に蔓(ひろ)がるべし。

又天下の諸々の種族(やから)、汝と汝の子孫によりて幸いを得ん。」

 

(創世記第三十五章)

(エホバ)神、彼(ヤコブ)に言いたまわく、

「汝の名はヤコブと言う。汝の名は重ねてヤコブと呼ぶべからず。イスラエルを汝の名とすべし。」

と、その名をイスラエルと呼び給う。

神また彼に言いたまう。

「我は全能の神なり。埋めよ。殖えよ。国民(たみ)および、多くの国民(たみ)、汝より出で又王等なんじの腰より出でん。わがアブラハムおよびイサクに与えし地はこれを汝に与えん。我なんじの後の子孫にその地を与えるべし。」

 

(創世記第三十七章)

ヤコブはカナンの地に住めり。即ちその父が寄寓(やど)りし地なり。

 

出エジプト記第六章)

神モーゼに語りて之に言い給いけるは、

「我はエホバなり。我全能の神と言いて、アブラハム、イサク、ヤコブに顕(あら)われたり。

我また彼等とわが契約を立て、彼等が旅してやどり居たる國、カナンの地を彼等に与う。

我またエジプト人が奴隷となせるイスラエルの子孫の呻吟(しんぎん:苦しみのうめき)を聞き、且つ我が契約を憶(主)い出ず。

故にイスラエルの子孫に言え、我はエホバなり。我汝等をエジプト人の重荷の下より援(ひ)き出し其使役(はたらき)を免れしめ、又は腕をのべ、大いなる罰を施して汝等を贖(あがな)わん。

我汝等を取りて、吾が民となし、汝等の神となるべし。」

 

出エジプト記第十九章)

イスラエルの人々がエジプトの地を出でて後、三月目にいたりて、シナイの曠野(あれの)に至った。そこの山に登りてモーゼは神に祈った。

エホバが現れ、下の如く言った。

「汝等もし善く我が言葉を聴き、我が契約を守らば、汝等は諸々の民にまさりて我が宝となるべし。全地は我が所有なればなり。汝らは我に対して祭司の國となり、聖(きよ)き民となるべし。」

(以下第二十章)

「我は汝の神エホバ、汝をエジプトの地、その奴隷たる家より導き出せし者なり。

汝わが面(かお)の前に我のほか、何者をも神とすべからず。

汝、己のために何の偶像をも彫(きざ)むべからず。

又上(かみ)は天にある者、下(しも)は地にある者、ならびに地の下の水の中にある者の何の形をも作るべからず。之を拝むべからず。これに事(つか)えるべからず。

我エホバ、汝の神は嫉む神なれば我を憎む者に向いては、父の罪を子に報いて、三、四代におよぼし、我を愛し、吾がいましめを守る者には恵みをほどこして千代に至るなり。

汝の神エホバの名を妄りにあぐべからず。

エホバは己の名を妄りに口に挙げる物を罰(つみ)せずにはおかない。

安息日を憶(おぼ)えてこれをきよくすべし。

六日の間働きて、汝のすべてのわざをなすべし。

七日(目)は汝の神エホバの安息日なれば、何の業務(わざ)もなすべからず。

其れはエホバ六日の中に天と地と海と其等の中の一切の物を作りて七日目に休みたればなり。」

 

(マラキ書第四章)

万軍の神であるエホバが言った。

「視よ。炉の如くに焼ける日来たらん。

すべてたかぶる者と悪を行う者は藁の如くにならん。

其の来たらんとする日、彼等を焼き尽くして、根も枝も残さざらしめん。

されど我が名を恐れる汝等には義の日出でて昇らん。

その翼には医やす力をそなえん。

汝等は檻より出でし犢(子牛)の如く躍らん。

又汝等は悪人を踏みつけん。

即ち我が説ける日に彼等は汝等の脚の裏の下にありて灰の如くならん。

万軍のエホバこれを言う。

なんじ我がしもべ、モーゼの律法(おきて)を憶えよ。

即ち我がホレブにてイスラエル全体のために、彼に命じた法度(のり)と誡(いまし)めをおぼゆべし。

視よ。エホバの大いなる畏るべき日の来る前に、われ預言者エリヤを汝等に遣わさん。かれ父の心にその子供を思わせ、子供の心にその父を思わしめん。

是は、吾が来たりて詛(のろ)いをもて地を撃つことなからんためなり。」

 

全世界を詛(のろ)うエホバの誓(ちかい)

以上の文句を玩味して行けば、猶太(イスラエル)の神の選民思想の拠りどころ、その全世界を詛う神の誓いに励まされて、やがて、猶太の脚下にひれ伏させようとする大それた陰謀をめぐらして、決して、やすまざる原因がここに伏在するのが何人にもはっきりわかって来るであろう。

猶(なお)、最後の呪詛の如き神の言葉は、同じマラキ書の第三章の

「われエホバは易(かわ)らざる者なり。

故にヤコブの子等よ。汝等は亡ぼされず。

汝等、其先祖等の日よりこのかた、わが律例を離れてこれを守らざりき。

我に帰れ。

われ亦なんじに帰らん。

万軍のエホバ之を言う。」

とあるに対照して、読めば、更によくエホバの意識する前後の意味が判然して来るであろう。

今日の世界の猶太禍はここに第一の源泉が存するのである。旧約聖書は、実にこのエホバ神の咒詛(呪詛:呪い)を以て終わっているのである。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」03

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第二章 猶太の歴史

 

基督教の源流と創世記の伝説

世界の三大宗教である仏教、基督教、回教が、孰(いず)れも亜細亜にその源流を発しているのは一奇と言わねばならない。

今、本書には直接関係がないので、仏教や回教のことは措(お)いて問わないものとして、基督教の元はと言えば旧約聖書の創世記にもある通り、エホバ(Jehovah)神の信仰が、その本来の濫觴(らんしょう:物事の源流)なのであって、エホバ(エホバはヘブライ語で「我れ在り」の義)なる造化の神あり、それが天地を創造し、「光あれ」と言って、宇宙に光が射して来、それを暗と分かって、昼夜の別が出来、夕あり朝あり、大空をば天と名付け、乾ける土を地と呼び、水の集合したのを海と称し、地には草木花果やもろもろの生き物、天には日月星辰、海には大小の魚、空には種々の鳥が為に生じたと伝えている。

 

人間の創造 ― 後の猶太思想の芳しからぬ芽生

そうして、このエホバ神が、海の魚と空の鳥と家畜と地に匍(は)うところの昆虫を治めさせるために、人なる者を彼れ自身の映像の通りに創造したと言うのである。

この神の像(かたち)の如くに土の塵を以て造られた者の鼻孔に生命の気をエホバ神自身が吹き込み人間と言う生霊が創めて出来た。先ず男のアダム(「赤い」の義)と称する者が造られ、それから彼を深く睡らせてその肋骨(あばらぼね)の一つから更に女のイーヴ(「生命」の義)が造られた。この両人は父母があって生まれたわけでなく、また赤子から段々と成長したわけでもなく、神の姿通り造られたものであるから、始めより身体の大きさとか背丈とかは、一箇の丈夫又は淑女であり、力も智慧も徳も一人前と称してよいものであった。彼等には意志の自由を与えられ、固有の善を発揮し得ると共に、悪に誘惑されて罪を犯す弱点をさえ持とうとすれば持ち得るものとせられた。手短に言えばこの根本思想の欠陥に猶太思想の芳(かんば)しからぬ方面の発展もやがて生じた。

 

安息日の謂はれとエデンの園の物語

エホバは以上のものを創造するのに六日掛かり、七日目に安息した。これ今日に於いてキリスト教國日曜を以て安息日となす所以である。

エホバはこの人類の始祖夫婦をエデン(「楽しい」の義)の東の方に園を設けてそこへ置いた。このエデンの所在地は確実なところは元より不明であるが、何でもコーカサスの南方に当たるアルメニアの山中の地名ではあるまいかとキリスト教神学者によりて推定されている。かの楽園パラダイス(パラダイスは古きペルシャ語で「いと美(うる)わしき園」の義)とは、このエデンのことでもあるそうだ。

ところが、エホバはアダム夫婦が禁断の木の実を食べたのを知ってエデンから彼等を追い出してしまった。これは大それた人類の祖のそれといわんよりも、猶太人そのものの流浪史の本当の始めの姿ともいうべきであろう。

 

猶太族の発祥地

元来、猶太人というのは、前アジア人種とオリエント人種の混血から成ったセム種族(旧約に拠るとノアの長子セムの子孫がセム種となる)の太宗[他にセムの系統としてはアラミ人、パルシ人、アンリ人などあるも言うに足りない]であって、旧約そのままの伝説に従えば、約四千年(これは実の処大いに割引を要する)前、今のペルシャ湾頭なるチグリス・ユーフラテスの流域のメソポタミアの地の遊牧の民であったと称するのが正しいともいわれる。初めは慥(たし)かに偶像崇拝多神教の民族であったことは史学者の定説と言ってよかろう。

 

猶太教の最初の形態

猶太教が一神教となったのは、蓋しモーゼ以後の事実に属し、それは、信仰上の理由と言うよりも、統治上の都合がよいので、そういう風に漸次造り上げたのだと称せられる。ここに遂にエホバ神なる一神を崇拝する猶太教即ち今日の基督教の前進が生まれた。猶太教の最初の形態は或はメソポタミアにそれより以前に拡がっていた筈の拝火教であるゾロアスター教の亜流ではないかとも疑われている。兎に角、孰れにせよ、猶太のエホバ教が四千年も前から一神教であったとは大分眉唾な伝説に過ぎないのである。

天文学の研究や東方学の方面の考察から行くと、安息日の思想は猶太本然のそれであって然らずとするも、七曜の名称の起源なんかは寧ろ支那に淵源を有するとする方が正しいであろう。少なくとも印度を経由して、それがメソポタミアに伝わった形跡がある。上古に於ける天文学の研究は支那が一番発達していると思われる。

 

猶太族はセムの血統―アブラハム―イサク―ヤコブ

紀元前一九二五年頃とかに、猶太人の祖先たるセム種は七十五歳の老酋長のアブラハム[ノアの子セムの血統を引いたものと言われる、カルデアのウルに生れる]に引率されて、遂にカナンの地に定住するに至った。カナンとは今のパレスチナのことをいうのである。

それから後の話であるが、イスラエル人の高祖と言われるアブラハムの子イサク、このイサクはアブラハムが百歳の時に生れた男であると言う。右のイサクの二番目の息子のヤコブは、性狡猾で聞こえていたが、母のリベッカを巧みに自分の方の味方にしてしまって、母を仲立ちとして、今は盲目となった正直な父のイサクをまんまと欺いて、長兄エサウの勇猛な性質の癖に割合に思慮の浅いのをよいこととし、或る日、その兄の狩猟から帰って空腹と疲労のあまり、意識も半分あるかないかと思われる程、ぐったりとなっているのを良い機会として、蜜のような甘い言葉をその耳の中にささやいて丼一杯の紅い色をした味豆の羹(あつもの:スープ)を唯一の交換材料として彼が家督の権利を売らせた。ところが、エサウにも味方があり、殊に叔父ラバンは、そのあまりな仕打ちに激怒し、ヤコブを思い切って殺そうとまで決心した。だが、エホバ神は、こういう不合理な不徳千万のヤコブを害なからしめるよう助けたのみか、ヤコブエサウとに角力(力比べ・相撲)を取らせ、尋常であったなら、エサウは到底ヤコブ如きに敗けっこない筈だのに、神はヤコブに進んで力を貸し、エサウを一敗地に塗れさせた。ヤコブに一層神の恩寵を示すため、イスラエルの名を与えた。このような偏頗な神様は他人種には一寸類例が無いであろう。

こう言う不良の手本でしか有り得ないヤコブを直接に祖先にしたのが、実に、今日の猶太人なのであるから、人類一般の道徳の尺度から言って見ても猶太人には彼らの祖先が祖先なので、今にその天賦の不良性が断ち切り難いのは実際、怪しむに足りないとも言えるではないか。殊にヤコブの長子某の如きは生みの母と通じ、廃嫡となったという驚くべき畜生道に陥った話さえもあるには実に想像を絶したものと言わねばならぬ。

元来、先祖からして、その神様からして、こういう風に正しくは行動していないのであるから、猶太人の間には口ばかり正義人道を唱えたり平等とか自由とかを御定まりの如く主張しても、全く空念仏のそれに過ぎず、人を瞞着(騙し誤魔化す)したり又は色々の陰謀や狡計を敢えて講ずるものが、自然に多く出で、後になればなる程、その傾向がますます悪化して行ったのである。

 

猶太族の流浪―モーゼ―ヨシュア

カナンの地は、斯くして、猶太人として栄える能わざるところとなり、彼が異教徒とさげすむパールと言う真面目に働く先住民族との戦いにいつも負けてばかりいた。それで、その子のヨセフがエジプトの宰相となった良い伝あるのを幸い、全族は挙げてエジプトに移住し王のお許しを受けてナイル河口のゴーセン(聖書の所謂ゴセン)と言うところに、約二百年余り落ち付き、猶太の人口が男ばかり数えて六十万もある位に栄えるに至った。

だが猶太民族には最早、この頃から、非融和性があり、排他的な団結力が必要以上に堅く、貨殖(金儲け・財産増進)にのみ長け、人道には疎いところが沢山あるので、間もなく、エジプト人に擯斥(ひんせき:排斥)され圧迫され、エジプトに居たたまれなくなった。この出エジプトは紀元前一三二〇年頃と伝説されている。

それで族長であるモーゼ[『援け出す』と言う意味がある。イスラエル人をエジプトから援け出したから]が全部の猶太人を引き連れて、今のスエズ地峡を経て、紅海の東の海岸を大廻わりして、アラビアのあちらこちらを遊牧して歩いて暮らすこと四十年にも及んだ。この時に、所謂シナイの山麓の色々の物語が生まれたのであった。

モーゼの所謂『十戒』もこの時の語り草である。このモーゼは今日の基督教の前進である猶太教を一つの宗教に纏め上げるのの成功したのであった。誰か知らん、この猶太教が更に基督教の名の下に世界最大の宗教の一つとなり、飽くまで世界統一の手段に供せられようとするに至ろうとは。誰しも先祖が住んだことのある故郷の地は何となく恋しいものである。それで、モーゼも矢張りそうした心理で昔アブラハムのいたことのあるカナンの地に何とかして帰ろうという気になった。だが、モーゼはその志を達せずして、死海の東岸なるネボ山に着いた時に遂に病没してしまった。

モーゼの遺志を継いだのが、その息子ヨシュアであり、あのヨルダン河を終に渡って、エルサレムの東南であるジェリコの城を、戦うこと六年目に、漸くのことで攻め落とし、恋しいカナンの地に復することが出来たのは、何でも紀元前*一二五〇年頃であったといわれる。
(*原典:紀元一二五〇年頃 ―間違いと思われる

 

猶太族の分裂―建国―亡国

ヨシュアがカナンを手に入れてから、彼等は間もなく十二の支族に内訌(ないこう:内輪もめ)の結果分裂してしまった。この十二支族の中の一族のユダ族こそは特に後の猶太族の明白な祖先と言われている。サウル王[紀元前一〇九六年即位、治世四十年]がサムエルの推挙で王様となり、漸(ようや)く國を統一し、其子が英邁(えいまい)の王様として有名なダビデ[王位にあること四十年、紀元前一〇一五年崩ず]である。ダビデ王のときこそ猶太國としては名実共に黄金時代であり、その領土は南はエジプトから北はレバノン山脈に達し、東はユーフラテス河に至るまでの広大な地域を擁し、文字通り旭日昇天の勢いであった。

三代目のソロモン王[歳二十一歳で王位に就き紀元前一〇二一年から九八〇年に至るまで四十年間治めた]こそは、有名なソロモンの殿堂をエルサレムに建立した王様で心のままの栄華に耽り、奢侈(しゃし:贅沢)を極めた結果、國幣が足らず、過酷な重税を課し、民心が王から離れるようになり、内乱が遂に勃発したので、その国は勢い南北に二分される憂き目を見るに至った。

やがて紀元前九五三年には、その北の國なるイスラエルは、アッシリアに滅ぼされ、南の猶太國とても、それから百五六十年経った紀元前五八六年にバビロン王ネブカドネザルに攻められ、遂に亡ぶに至った。その国民の役に立つものはバビロンに捕虜として引き立てられ奴隷にされてしまった。

民族的には、うそか本当かは知らぬが、四千年もの歴史を誇る彼等であるが、かくて真にその國を立派な独立の國として保ち得たのは、僅かにサウル、ダビデ、ソロモンの山王の約百二十年間の短い間の事蹟しかない。それなのに神の選民と自称して所謂メシアの信仰を信ぜんとするのであるから、哀れなものである。かくて彼らは永遠に寄るべなき流浪の民族として世界中に毛嫌いされる運命を益々辿ることになってしまった。処がペルシャ王は紀元前五三九年になって寛大にもバビロンに奴隷となっていた猶太人の帰国を許した。次いで紀元前七〇年にはヴェスパシャン皇帝やタイタスによってエルサレムの陥落を見、神殿は跡方もなく破壊せられ次いで紀元前六三年には故国パレスチナはすべてローマの将軍ポンペイに征服され、僅かに大ローマ帝国の版図の一小部分となるの憂き目を見てしまった。斯くて紀元前三十七年から同四十三年に至る迄パレスチナローマ帝国の任命した有名なヘロデ王に支配され、甚だしい植民地的搾取がその結果行なわれた。

 

メシアの思想

この属領時代に於いて彼ら亡国の民猶太人の唯一つの夢の如き希望は、メシア(救世主)の出現による祖国復興の考と、大それたエホバ神の冥助による世界征服の念の執拗な継続でしかあり得なかった。メシア(Messiah)とは『エホバの膏(あぶら)を沃(そそ)ぐ者』と言う義であって、ヘブライの言葉、ギリシャ語の『キリスト』と言うのと同じである。

要するに、メシアは特別に世の始めから約束せられ、且つアブラハムの時からマラキ[マラキは紀元前四一六年の頃の預言者であって、バプチストのヨハネがエリヤの心情と才能とを受けて来るべきこと、それから、キリストの再来すべきことを預言し、キリストを畏敬しこれに仕える者は福あるべきことを同じく予言したので聞こえている]の時に至るまで色々と預言せられたところの救世主イエス・キリスト其人のことを指していると考えてよい。

ローマの偉大なる創建者のシーザーとても猶太人の金銭的力を無視することが出来なかった。シーザーはその政治資金の大部分を猶太人の手から支出して貰ったとさえ言われる。そうして、その代償として、孰(いず)れは猶太教を国教とすべきことを誓っていたが、ブルータスに図らずも暗殺され其雄志を悉(ことごと)く遂げざるにこの世を去ってしまったので手に唾してその機会を待った猶太人は全く拍子抜けせざるを得なかったというエピソードさえ残っている。

筈見一郎著 「猶太禍の世界」02

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  階級には健全な区別を設けよ(猶太式ブルジョワは無用の長物)

ブルジョアジーの演ずる役目はもうお終いになったよ。永久におさらばだ。蛙の表皮を剥いた骸(むくろ)に電流を通じて、それが暫くの間死んだ筋肉をいくら動かしたからとて、そんなものにだまされちゃいかん。だが、今日の上層階級でも苟も健全な純乎たる(純粋な)分子に至りては、余はそれを撲滅しようとは決して考えて居らぬ。そういうのは却って助長して行く方針でさえある。そればかりか新たな上層階級を大いに創造する必要さえ感じている。そいつは実力による闘いによって適宜選択して行くより外はない。だが此処に重大な誤解を防ぎたい。マルキシストのように労働者が新しい主要な社会的勢力たるべきユンケルス*(貴公子)の地位を奪うなんてことを容認する考えは絶対にない。政治的見地から見ても今日の労働者に端的にそのような地位を与えることは、単なる貴族やブルジョアジーにそうした地位を与えるのと同じく、消え去ろうとしている古い意味の社会的階級の余波が依然たゆたって残っているに過ぎないから到底問題にはならない。余は社会に新しい中堅の階級をさえ設けようとしているのだ。これなくしては折角の我が国家社会主義の国家も健全たるを得ないこと勿論だ。凡ゆる異なった要素を含むあの歴史的な実力で鍛えられた紳士階級も同じく必要だ。ナチスの党員は勿論新しい中堅階級の一つに居るべきものだ。こうした中流階級の下には最大多数の大衆の階級があるべきで、それが集団的に国家のために奉公すべきもので、この中に在来の旧き意味のブルジョアジー、地主階級、労働者、或いは独立の生計を営む商工業者などが当然含まれるべきものである。これらの点独逸の国家社会主義は実質に於いて猶太性を持った共産主義とか、民主主義とか自由主義とかとは大いに趣を異にするのだ。」宰相の言々句々は益々熱を帯びて行く。一座のものは水を打ったように粛として、しわぶき(咳)一つしないでそれを傾聴する。

 *ユンケルスとは、ドイツの領主(地主)貴族のこと。

猶太式の教育は駄目だ

「無暗矢鱈に人を選ばずして教育を平等に施したのは猶太性自由主義の自滅の手段とさえ図らずもなった。教育には実力に応じて総統の隔たりや差などを設けるのが当然である。単に知識があればとて、それだけでは、直接何も世渡りの手段とはならない。それぞれ自己の力にふさわしい実行や応用が出来なくては時と勢力の浪費だ。国家自身の損失は金銭などでは計られない。大衆には大衆に相応した教育だけを授ければよいではないか。其方が大衆自身も要らぬ苦しみをせず却って幸福だ。それだけ早く世の中に活動出来るからである。」

このヒットラーの深く実際に即した教育論は、どこやらの國の青年子女の多くに三斗の冷水を浴びせかけるものだ。能ある者もなき者も、狭き門へと、ひしめき合って、一旦、入学して仕舞えば、もう占めたものだと安心してしまって御座なりの勉強しかしない。それを指導する先生も至って熱のない十年一日のようなノートを読み上げる講義だけをする。学生はただペンを走らせる器械でしかあり得なく試験前になって急にそれを棒暗記する。これを大学を卒業した。カレッジを終えたと称する。こんな先生、こんな生徒を莫大な国費又は公費を賄って養成する。そんなユニヴァーシティーやカレッジが国内到るところにある。それを大学教育又は高等教育が普及したと称する。これは猶太製の『でも暮らし』の余弊の最も甚だしいものである。全体主義にありては、こんな御座なりの教育を絶対に排除するのである。誰か、猶太禍が、こんなところにもおよび、一時はデモクラシイの美名の下に、世界各国のもっともっと健全で有用であるべき国民教育を殊更委縮させ行き詰まらせていたのを、これより先、洞察し得たものがあろうか。

ヒットラーはこういう有名無実な大学教育高等教育を、その何より熱愛する独逸大衆のために先ず廃絶せねばならぬと言う剴切(がいせつ:適切)極まる意見をここに吐いたのであった。ヒットラーは愈々熱して、その異常な力に充ちた拳をば自分の胸に再三擬して、その卓越した論旨を進めた。

「一国最高の教育を何らの拘束なく選択し得るのは、国家社会における我も斯く信じ人も左様に許すなる秀れた真の国の精華と認められる分子のみの特権であるべきである。彼のアメリカに見受けられる生半可な知識を振り廻す労働者による自縄自縛の現象も、国家の手によって教育に真の選択がないから始まるのだ。英仏その他の労働者だって、畢竟(ひっきょう:結局)、この亜流たるを免れない。殊に今日のフランスが、何か大きい問題にぶつかったり、いざ緩急と言う場合にも、国内にいらざる意見の対立を来たし、ややもすれば、挙国一致たらざる傾向あり、その本来の独逸に優るとも劣るまじき優秀さを発揮し得ないのは、その原因に色々あろうが、その一つは慥かにこの教育の選択に失敗しているからだ。デモクラシーの余弊はここに至って極まれりというべしだ。」

ヒットラーは昂然とその眉を挙げた。この信条に基づき、彼の胸にはヒットラー・ユーゲントの計画其他ナチス独特の教育施設の目論見が徐々に実行に突入すべく熱しかけていた。

一九三三年の七月十四日にはヒットラーは斯くてナチス党をば法律的にドイツの最も須要な中堅たらしめるのに成功した。在来存した大小の政党の息の根を全く止めてしまった。独逸で合法的な政党はナチス党より外無くなってしまった。