猶太と世界戰爭(新仮名)20

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第二章 猶太と世界戦争
五、日本と猶太(昭和13年11月23日)続き

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我々の本来の目標は日本と猶太との関係を見ることであるが、既にこの点に関しては、主として日支事変を媒介とする場合ではあるが、以上に於ても多少は論及して来たのである。

しかしこの関係を真に理解するためには、今や日本を十重二十重(とえはたえ)に取巻いて、世界支配の完成のための最後の努力をしている猶太戦線の三つの幹線である國際資本主義、國際共産主義、國際フリイ・メイスン秘密結社に関して、それらが同一の根拠に立ち、同一戦線に属することについて、前の記述を補っておかなくてはならない。前述の通りに、日本知識階級の間には、自覚的又は無自覚的に猶太戦線に躍る者が今なお相当に見受けられるからである。

第一の國際資本主義に関しては、それが猶太資本閥に外ならないことは、日本でも現在では常識であると見做してよいであろう。世界の金の約八割をその手に収めて、米國の某々所にそれを死蔵*しており、そのために金が経済界を支配する現在の唯物的経済機構に於ては、猶太資本閥の意志のままに世界の景気不景気さえ決定されるのが実状であると称せられるが、この点に関しても今は語ることを差控えて、國際共産党とフリイ・メイスン結社との猶太戦線性に関してのみ述べて見たいと思う。

*死蔵:世の中の役に立てず、ただ無駄に仕舞いこんでいること

國際共産主義もまた猶太のものであると言われるとき、資本主義の本山とも言うべき猶太が自己の地盤を覆えそうとする共産主義を援助しまた信奉することはあり得ない、という疑惑乃至反対論が発せられるのが常であるが、これは実にお目出度い議論であって、猶太の宗教と人間観とその歴史とを多少とも知る者には、両者が表面的に対蹠的(たいせきてき:正反対)であるからこそ却ってその猶太戦線性が証明されるのである。とにかく、猶太人をも自己と同一の心理状態の民族であるとする所から来るこの類推作用に基づく反対説乃至疑惑は、猶太がそれを利用して既にその世界支配を将に完成しようとする点まで漕ぎつけて来ている所のものであって、この一点からも猶太の「頭のよさ」と「心の冷たさ」とに対して、非猶太人の「頭の悪さ」と「心の暖かさ」とが対蹠的であることが窺われるのである。猶太としては、共産主義が共産的であるから協力するのではなくて、その國際性が猶太國際民族の世界支配策に有効であるが故に援助するのであって、これは手段を択ばぬ猶太としては当然のやり方なのである。従って共産主義は、単に貧乏猶太人によって支持される許りでなく、猶太財閥そのものによっても支持されるのである。否それは猶太資本主義によって特別に援助し助長されるのであって、これは猶太の世界支配政策が主として資本主義猶太人の計画であることから見ても当然であろう。即ち、資本主義猶太人は、共産主義によって非猶太人の資本を潰滅させ、非猶太人の宗教を廃棄し、非猶太人の政治的権力を顛覆(てんぷく)させ、非猶太人の國家と家庭とを滅亡させようというのである。そしてこれがかの「トーラ」又は「タルムード」以来の猶太の政策であることは、前節の記述で充分に明らかであろう。それ故に共産主義は、猶太に取ってはエホバの命を果す方法の一つなのであって、この点に於て國際資本主義と少しも衝突する所はないのである。

然らば猶太資本主義は如何にして実際に共産主義を援助するかというのに、それはボルシェヴィズム革命が主として米國財閥クーン・アンド・ローブ(Kuhn Loeb & Co.)の援助によって遂行された例の示す通りに、資金関係に於てである。世界的組織を持つ共産党が資金なしに國際的活動をなし得るとは何人も考えないであろうが、この一点から考えても、國際資本主義と國際共産主義とが同一猶太戦線であることは理解される筈である。それ故に、たとえ猶太の幾千年の歴史を知らない人も、世界の通信言論機関を支配している猶太のその日その日の宣伝のみに躍らないだけの批判力のある人は、両者が表面上相矛盾するが故に無関係であるという如き疑問を提出すること、恥かしさを感ずるであろう。

実に猶太は、経済学者リカルドー[1]以来、マルクス、ラーテナウ[2]等を経て、現在フランスの赤色社会党首領のブルムに至るまで、上述の二重政策を意識的に実行して来ているのであって、リカルドーは銀行家であり、マルクスは敬虔なる猶太教徒(表面は改宗していたが、これは敬虔な猶太教徒がその世界政策のために意識的にする偽装の代表的な場合である)であり、ラーテナウもブルムも、日本の百万長者とは単位の異った億万長者であるのである。

[1]デヴィッド・リカードは、自由貿易を擁護する理論を唱えたイギリスの経済学者。各国が比較優位に立つ産品を重点的に輸出することで経済厚生は高まる、とする「比較生産費説」を主張した。スミス、マルクスケインズと並ぶ経済学の黎明期の重要人物とされるが、その中でもリカードは特に「近代経済学創始者」として評価されている。

[2]ヴァルター・ラーテナウは、ドイツのユダヤ系実業家、政治家、作家。多国籍企業電機メーカーAEG会長。キリスト教へ改宗しなかった。ヴァイマル共和国初期に外相を務め、ソビエト連邦とラパッロ条約を締結したが、極右テロ組織コンスルのメンバーに暗殺された。

 

そしてこの事情は、最近フランスで発見されたマルクス宛の手紙によっても判明する。即ち、彼の友人バルフ・レーヴィ**は彼に次の如く書いている。

「全体として見れば、猶太民族自体が救世主であるかも知れない。世界に対する猶太民族の支配は、爾余(それ以外)の人種の統合に依り、又小國分立主義の防壁なる國境や専制王國の払拭に依り、そして到る処に於て猶太人に市民権を許容するであろう所の世界共和國の設立に依って実現されるでしょう。人類のこの新しい組織の下では、イスラエルの子等は今後世界に拡がるでしょう… 彼らは到る所で、何等の抵抗も受けることなく、指導的要素となるでしょうが、特にこの事は労働者階級の支配権を自己の手中に確保することによって安全に成就されるのです。この世界共和國に属するあらゆる國家の政府は、プロレタリヤの勝利という仮面を被った猶太人の手に例外なく帰するでしょう。あらゆる私有財産が猶太民族の指導者達の所有となるのは勿論のこと、あらゆる公有財産もまた猶太人の管理下に入るでしょう。かくて、メシアの時代が来るや否や猶太人は世界のあらゆる國民の富をわがものとするであろう、というタルムード中の神の約束は実現されるでしょう。」

**詳細不明:1819年ドイツ各都市で起こったヘップ・ヘップ反猶太暴動をきっかけに設立された「ユダヤ人文化科学協会(Verein für Cultur und Wissenschaft der Juden)」に属したと言われる人物。

この言葉によって、マルクス主義そのものの本質は既に明瞭であろうが、なお念のために我々はラーテナウにも耳を傾けることにしよう。

「相識(互いに知り合い)の三百人が大陸の経済的運命を導いて居り、後継者を自己の周囲より選ぶ。この不可思議な現象は、将来の社会の発展を暗示するものであるが、ここにはそれを記することは控えたいと思う。」

これは彼をして「赤の預言者」の名を得しめた著名の語であるが、それが既に一九〇九年に書かれたものであることは、驚異に値するであろう。そしてこの三百人が猶太資本家乃至猶太的フリイ・メイスン結社員であり、「将来の社会の発展」とは世界大戦をも含む西欧に於ける猶太支配完成の時期を指示していることは、ラーテナウの他の活動及び言説から判明するのである。

「我々猶太人がこの世界に生れ出たのは何のためであるかを、君は知っていますか。あらゆる人類をシナイ山の前へ呼び寄せるためです。君は行くことを欲しないですか。もし私が呼ぶので駄目なら、マルクスが君を呼ぶでしょう。もしマルクスでも駄目なら、スピノザが君を呼ぶでしょう。スピノザでも駄目なら、キリストが君を呼ぶでしょう… 。しかし我々猶太人はまだその使命を満たしていないのですから、この点で君が我々を非難なさるのは尤もなことです。」

ラーテナウに取っては、彼自身もマルクススピノザもキリストも、何れも猶太の世界支配の一指導者であるというのである。資本主義もマルクス主義も「知性」哲学もキリスト教も、何れも猶太の世界支配の手段であるというのである。嘗て我々によって紹介された今春(昭和十三年)のカナダ共産党の宣伝ビラが、「共産主義の資金網を形成する猶太人の財産を保護せよ」と書いているのも、同じ事情を物語るであろう。

なお我々は一九一九年のヴェルサイユ会議の頃に於ける猶太自身の別の言葉を今一つ引用しておこう。それはその年の一月十六日の「猶太世界」誌の文である。

「國際猶太人が今度の戦争を欧州に強制したのは、多額の金を入手するため許りではなくて、これによって猶太のための新しい世界戦争を始めんがためである。」

この引用は一言論機関の語に過ぎないのであるから、それに過大の預言的意義を付することは適切ではないかも知れないが、然し猶太がその純粋の猶太機関に於て内輪に発表するプログラム的言説は、極めてしばしば猶太の世界政策を暗示していることがあるので、それを全然無視することもまた適切ではないのである。例えばかの「シオンの議定書」の如きも、猶太がその偽作であることをあらゆる虚偽の捏造によって否定する許りか、例えば近年スイスベルン市の法廷を煩わしてまでもその横車を押そうとしたにも拘らず、世界の動きと猶太の向背とがその偽作ではないことを証しているのみか、ベルンの法廷に於てさえ、猶太側の裁判官によって猶太側の証人のみの言を用いて判決されなかった第二審に於ては、議定書を猶太政策プログラムとする非猶太人側の勝利に帰したのである。この意味に於ては、この一ユダヤ雑誌の言も注目に値するのであって、世界大戦後の世界の動きは、「猶太のための第二の世界戦争」の準備のために総てが計画的に進められて来たのであり、今もまたそうである。

そしてその第二次世界戦争とは、世界革命を目的として、英米仏ソ等の猶太支配諸國の連合軍をして日独伊全体主義國家と戦わしめることをその現在のプログラムとしているのである。それ故に彼のスペイン問題に於てイタリアが立ち、チェコ問題で独逸が立ち、何れも猶太の計画とは齟齬(そご)して独伊の勝利に帰したのは、猶太としては取返しのつかない誤算であったのである。

しかし猶太の誤算は、東の支那事変に於ても見られるのであって、我々が幾度か説いて来たように、國民政府なるものは、その真の姿に於ては、支那國民そのものとは何等の関係のないものであって、それは東洋に於ける猶太の世界政策の協力者であり、番犬であるが、この蒋政権の究極の目標は、少なくともかの抗日政策の確立した日以来は、日本をも巻き込んでの第二次世界大戦の誘起にあるのであって、これは少なくも蒋介石自身の昭和六年の元旦の宣言以来は確立していたのである。然し現在の事変の経過が示しているように、これは全く猶太及び蒋政権の誤算となりつつあるのである。

かく西に於てはスペインとチェコに於て失敗したのであるから、東に於てもまた日支事変に失敗するとすれば、将に完成せんとしていた猶太の世界支配は根本的に蹉跌(さてつ:事が見込みと食い違って、うまく進まない(失敗の)状態になること)することになるので、ここに蒋政権の長期抗戦と焦土戦術が必然的に生れて来るのである。ここに蒋政権が案外強靭な理由もあるのであって、世界の猶太がその背後にあって支持しているのである。

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然し蒋政権のねばり強さの謎は、國際的フリイ・メイスン秘密結社と蒋閨閥又は蒋政府との関係を知るに至って一層よく判明する。この秘密結社については、その起源・成立史・本質等に関して種々の説があるので、ここではそれ等の点に論及することを差控えたいと思うが、少なくとも猶太解放革命としてのフランス革命以来それが猶太世界政策の一機関と化していることは、猶太人自身もしばしば主張している所である。念のためにここにその二三を紹介しておこう。

「フリイ・メイスン結社は猶太の設立物であって、その歴史・階級・職務・暗号・解釈は徹頭徹尾猶太的である。」

これは一八六六年に於けるアメリカの有力な猶太人アイザーク・エム・ワイズの言であるが、後述する純猶太秘密結社ブナイ・ブリスの会員ゲー・カルペレスは一九〇二年にこの結社の記念論文集に次のように書いている。

「フリイ・メイスン結社の設立者は、猶太の最盛期を到来せしめたソロモンであると称せられるが、それに相応わしくも、フリイ・メイスン結社というイデー(考え)は内面的必然性をもって猶太人の世界から生れたのである。用語や名称は大部分はヘブライ語である。」

更に新しくは、一九二八年のフランスのフリイ・メイスン結社の一機関誌「象徴主義」に次のように記されている。

「フリイ・メイスン結社の第一の行為は、神的な智慧を不変のままに保持して来た猶太民族を賛美することである。」

次に新しい例を独逸に求めるならば、一九二五年のフリイ・メイスン結社の一機関誌「アウフ・デル・ヴァルテ」には、

「フリイ・メイスン結社員となるためには、狭隘なる独逸的祖國的立場を捨てて、選ばれたる人即ち独逸猶太人とならねばならない。」

と記されている。

これを換言すれば、ルーデンドルフ将軍以来著名の語となっている「人為的猶太人」とならねばならない、というのである。純猶太フリイ・メイスン結社として現在の世界に大きな勢力を持っているブナイ・ブリス結社の会員が猶太人であることは自明であるが、その他のフリイ・メイスン結社の会員もまた、上述の諸引用によって見ても、すべて「人為的猶太人」と称せられて差支えないのである。普通フリイ・メイスン結社は三十三階級に分れているが、その幹部級が現在では大部分猶太人であるか、猶太と何等かの点で利害を一にして結合している者であるのが実状なのであって、ミュンヘン・アカデミーのエッケルは既に一八八四年に、「シュルハン・アルフ」よりの抜萃「猶太鏡」の真偽が法廷で問題となった時、その鑑定家としての研究の結果を述べた書物の中で、「猶太当局者に服従することが、フリイ・メイスン結社の責務であり、現実である、」と言っている。

なおフリイ・メイスン秘密結社の真の目的は、その第三十三階級にまで上ったが遂にこの結社の偽瞞政策に良心の苦痛を感じて脱退した独逸のレーリヒの手記に依れば、祖國を捨て、伝来の宗教を捨て、國民共同体と民族とを否定して、所謂『自由・平等・博愛』に生きることであるというのであるが、これが國際民族としての猶太民族に最も好都合であることは、改めて説明する必要はないであろう。従ってこれが、猶太の世界政策としてのマルクス主義及びボルシェヴィズムに連結され、またその温床としての自由主義と相通ずるものであることはレーリヒ自身も明らかに認めている通りである。

さて蒋政権とフリイ・メイスン結社との関係を明らかにするためには、支那革命の祖である三民主義の主唱者孫逸仙孫文)その者が既にフリイ・メイスン結社員であったことから説かねばならない。この点に関しては既に我々によって論ぜられたことがあるので略述するが、孫の属したフリイ・メイスン結社は、最も兇悪で最も勢力があるとされている純猶太結社ブナイ・ブリスであったのである。この点から見る時、孫逸仙は単なる「人為的猶太人」ではなくて、古き昔の猶太國滅亡の際に支那へ漂泊して来た猶太人の血を享けている所謂「支那猶太人」であるかも知れないのである。また、蒋介石その他國民政府の要人も、殆ど例外なくフリイ・メイスン結社員であることが判明している。従って彼等の信奉する三民主義なるものも、巧みに偽装されたフリイ・メイスン主義であり、従ってそれはそれだけで既に猶太共産主義又はボルシェヴィズムと親近性を持ち、従って、國民政府が直接間接に猶太の支那搾取の代用機関であることが判明するのである。容共抗日策の総ては、殆ど例外なく猶太人顧問の手によって実行されたものであって、貨幣改革の如きも猶太資本家サッスーンと英國政府財政顧問という肩書を持つ猶太人リースロスとの合作に外ならない。國民政府を援助するために送られている猶太人は、ソ連より来たガロンその他であろうと、英米仏の大使の肩書で来ているジョンソン、ヒューゲッセン、ナジャール等であろうと、また國民政府顧問として西安事件に蒋の救出に活躍して名を挙げたドナルドであろうと、何れも猶太人ならぬ者はないのであり、またその多くは同時にまたフリイ・メイスン結社員であるのである。

殊に彼等の大部分が純猶太フリイ・メイスン結社であるブナイ・ブリス結社の会員であることは注目に値するであろう。かの著名の「シオンの議定書」は、今ではブナイ・ブリス結社の世界政策のプログラムであると信ぜられているが、容共抗日支那に行われていることは、その地上的事件であろうと、地底的事件であろうと、すべて猶太的フリイ・メイスン的ならぬものはないと言っても過言ではない。

最後にフリイ・メイスン結社に関する認識が日本朝野に欠けている理由についても一言しておこう。日本朝野のこの結社に対する態度は、一般猶太人問題に対するのと全く同一であって、猶太戦線性の多い者ほどにこの結社について知ることを拒否するのである。それが表看板に慈善的相互扶助団体としているのを盲目的に迷信するのはまだよい方であって、かかる秘密結社の存在を疑う者さえあるに至っては正気の沙汰ではないのである。これは日本人の公明さのためでもあるが、しかし所謂知識階級にこの種の無批判者流の多いことは、日支事変とその後の世界と日本との情勢に思いを致す者に取っては、由々しき大事である。勿論、フリイ・メイスン結社そのものは日本にはない。あってもそれは外國人のみが出入するに過ぎない。日本政府とフリイ・メイスン結社との間の紳士協定によって、日本人は國内に於ては入会し得ず、またその会合に出席し得ないことになっているからである。しかしフリイ・メイスン結社の祖國である英國は、皇室を始め有力者の殆どすべてが結社員であるので、英國に駐在する帝國使臣は、儀礼的又は便宜的にそれに加入することがあり、日英同盟の立役者であった林子爵の如きは、相当の高級結社員にまで昇級していたことは外國のフリイ・メイスン結社に関する書物にはしばしば記されている。我々は、この外交上の習慣乃至伝統が現在どうなっているかは知らないが、フリイ・メイスン結社に於ては、脱会後さえも結社の秘密を守ることを生命をかけて誓約するのであるから、この点に関してはかなりの注意を要するであろう。

殊にこの紳士条約の裏面を潜るためとも見えるロータリー・クラブ、國際ペンクラブ等が、表面的にはフリイ・メイスン的な美名の下に、次第にわが國の上層有産階級を侵蝕しつつあることは、決して忽諸(こっしょ:疎か)に付すべき現象ではないであろう。創立者も宣伝者も猶太人であるこれ等の結社は、現在ではなおその害毒を表面に出してはいないとしても、心ある日本人はその美名に釣られて、猶太の世界政策の手先と成り終(はて)ることのないように反省すべきであろう。

それ故に我々は、以下日本と関係ある猶太人を述べるに際しても、彼等がフリイ・メイスン結社員であるか否かに関しても出来る限り注意して行くことにしよう。

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猶太と世界戰爭(新仮名)19

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第二章 猶太と世界戦争(続き)

五、日本と猶太(昭和13年11月23日)

日支事変が単なる日支事変でないことは世人の常識であって、蒋政権の背後が英米であり、ソ連であり、フランスであるとする考え方は、ほぼ世界の常識となっている。そしてこの事は一応は真実であって、我々もまた決してそれに反対するものではないが、しかし蒋政権の真の背景がこれらの諸國そのものではなくて、これらの諸國に支配的勢力を持っている國際的秘密力であることに思い及ばない時に、日支事変そのものの真相が充分に明らかになり得ないことを我々は主張したいのである。蒋政権を援助しているのは、表面的には英米であり、ソ連であり、フランスであるが、事実に於てそれはこれらの國に國籍を有している猶太民族に外ならないのである。

この猶太は、日支事変に於ては、英・米系財閥として現われ、ソ連共産党として登場し、フランス系フリイ・メイスン秘密結社として姿を見せているのである。そして特に注目すべきことは、これら三種の猶太政策の機関が、日支事変に関する場合にはそれぞれ國別に属しているように見えるにも拘らず、何れも國際的性質のものであることであって、英・米系猶太財閥と言えば既にその中に仏ソ等のそれを含み、フランス系フリイ・メイスン結社と言えば既にその中に英米ソ等のものを含み、ソ連系猶太共産主義と言えば既にその中に仏英米のそれを含んでいるのである。かくて日支事変とは、結局上述の如き内容を有する日猶事変に外ならないのである。

然し或人は、我々のこの説明に疑問を抱き、地底組織としてのフリイ・メイスン結社のことは問題外とするも、國際財団と國際共産主義とが同一秘密力の下に統一されているということは不可能であろうと主張するかも知れない。勿論、これらの三つの國際力は、必ずしもあらゆる時代に、あらゆる場所に於て、あらゆる問題に関して一致して来たものでないことは言う迄もないが、しかし団結心の強い猶太民族は、その世界支配を完成するためには手段の如何を選ばないのが常であって、共同の外敵のない限り内部に於ても文字通りに血で血を洗う闘争をも厭わないが、一度外敵が現れる時には、自己の陣営内のあらゆる相違を捨てて一致するのである。そしてこれは猶太の歴史を多少とも知る者には自明の事であるが、なおこの点に関しては節を改めて記述することにして、ここでは猶太的世界政策機関の國際性の謎を解くものとしてこの民族そのものの國際性に関して、その歴史的根源と模範的実例とを挙げることにしたいと思う。

さて猶太民族の國際性を知るためには、この民族が文字通りの國際的民族であることを知り、更にその原因と目的とが何処にあるかを知らねばならない。そしてこの点の謎を解くものは猶太教聖典としての「トーラ」及び「タルムード」であるが、これに関しては他の場所で論ぜられたことがあるので、ここでは極めて簡単に述べることで満足したいと思う。

「汝寄寓人(きぐう:仮住まい、つまりよそ者)としてこの地にとどまれ。我汝と共にありて汝を恵まん。我これらの國をことごとく汝及び汝の子孫に与えるべし。」

猶太民族の信仰によれば、「寄寓人」として逗留する國はやがてエホバの神の協力によってみずからの所有となる、というのである。この信仰は、幾千年かの猶太の歴史が証する通りに十九世紀までは文字通りに「寄寓人」として実現されてきたのであるが、実質上の猶太解放革命であったフランス革命以来は、表面的には「寄寓人」たることをやめて、寄寓する國の國籍を獲得しその國人となりすましつつ、実行されているのである。また彼等は、

「汝は汝の神エホバの汝に付したまわんところの民をことごとく滅し盡すべし。彼等を憫(あわれ)み見るべからず、また彼等の神に事(つか)えるべからず。」

というエホバの言を信じているので、その國籍を有する國に決して同化することはしないのである。

かくて猶太は、國籍上は英國人であり、ソ連人であり、米國人であり、フランス人であり、支那人であり、日本人であっても、実質的には飽く迄(あくまで)も猶太人としての自覚を有しながら、その世界政策を実行するのである。

以上が猶太民族の國際性の由(よ)って来たる根拠であるが、その目的が何であるかという点に関しては、改めて「トーラ」又は「タルムード」に典拠を求める迄もなく、それが、これらの國を盡(ことごと)く自己の所有とし、その際にその民をことごとく滅し盡(つく)すところにあるのである。

然しこの過激な世界征服の手段は、非猶太人の道徳観によっては到底想像だも能(あた)はない(できない)ことであるが、猶太人に取って手段が問題とならないことは、國際資本主義にせよ、國際共産主義にもせよ、國際フリイ・メイスン結社にもせよ、常に陰謀と裏切りとテロとをその実行手段としてきたことによって証明されるであろう。そして猶太人にこれが可能であるのは、特に「タルムード」に明確に表明されているその人間観のためであって、「神より生れたのはひとり猶太人のみであって、他の民族は悪魔の子である」とか、「猶太人のみが人間と呼ばれるのであって、非猶太人は人間と呼ばれず、動物と呼ばれる」とかいうのがその根本観念である。従ってこの民族に取っては、非猶太人を殺戮することはエホバに忠実なる事であり、あらゆる非猶太人に対しては、人間としての猶太人に対する場合の如き対人責務は何等存在しないというのである。勿論、猶太人の非猶太人に対して道徳的であることはあるが、然しそれは、タルムードに依れば、「非猶太人の感情を害したり、その敵意を惹起しないため」であり、また「それによって損害を蒙らないため」であって、決して良心からではないのである。

以上によって猶太民族の國際性とその根拠は大体に於て明らかになったであろう。それ故に我々は猶太人のかかる國際性が如何なる形態を持ってその生活に示現し得るかを、現代の最も著しい例によって述べて見ることにしよう。

猶太人トレービチュは一八七九年にハンガリーの一小邑(ゆう:村)で信仰の篤い金持の子として生れたが、親譲りで信仰心が厚く、猶太聖典「タルムード」の熱心な研究家であった。猶太人らしい「頭のよさ」と「俳優性」を持っていて、十六歳の時には俳優になることを志望したが、父に許されず、商業上の用件で欧州各地へ送られた。然しなおその志望を捨てず、遂にブダペストで俳優になった。そして猶太人らしく、文筆業にも手を出せば、政治にも関心を持つに至ったが、猶太教がキリスト教徒間に好遇(こうぐう)されないのを知って、独逸のハンブルクに於て新教に改宗し、やがて新教の牧師としてカナダへ布教に出かけた。其処ではその「タルムード」によって錬磨された論理によって牧師として成功したが、月給の問題でその教会を去り、敵方である英國教会へ転じた。この時彼は年漸く二十三歳であった。

その後彼は英國へ渡り、親猶反日独伊のカンタベリー僧正に取入って牧師生活を続けていたが、そのうちに父の遺産を手に入れると、地味な牧師生活を捨て、猶太人得意の改名をしてティモシー・リンカーンと称し、一九一〇年には三十一歳で英國の辯護士となりすましたのであった。しかし彼の猶太的放浪性がこの生活にも満足を見出さしめなかったのか、彼は大陸に帰って、ガリシヤ(スペイン)で採油業に手をつけ、百万長者となった。

やがて世界大戦が勃発するや、彼は英國紳士の資格で再び英國に渡り、独逸語又はハンガリー語の書簡の検閲係となったが、独逸側の間諜と見做されるに至ったので、米國へ逃走した。米國では英國の請求によって投獄されたが、在獄中のままで独逸の暗号電報の解読を引受け、囚人らしからぬ酒と女との生活をしていた。十六年にはいよいよ英國へ引渡されたが、二年の刑の宣告を受けたにも拘らず、病気という理由の下に病院へ移され、刑期を終了すると、直ちに独逸へ移った。この國では旧王党と結び、やがてカップの右翼革命に加わって成功せず、ミュンヘンに逃れてソビエト紙幣の大偽造計画を立てたが失敗したので、フランスの一通信社と関係をつけたり、チェコに渡って偽造文書で政府を欺いて一儲けしたりした。

然し彼の猶太的放浪性は、欧米二大陸を股にかけることでは満足せず、やがて支那へ移ってその将軍の顧問となり、欧州に於て支那のために借款を成立せしめようと、支那大使の資格で二三の支那人を引具(ひきぐ:引き連れ)して先ずイタリアへ乗込んだが、ウィーン市の家具商と称する男に生涯始めての経験として一杯喰わされ、また旅券偽造の科(とが)で捕縛されるに至った。然しやがてまた彼は支那へ帰り、三度目又は四度目の改宗をして仏教徒となり、西蔵チベット)に草庵を設けて照空和尚の名の下に墨染の衣を纏(まと)うに至ったが、なお政治活動をも忘れることはなく、ガロンの名の下に活動していた猶太人と共に支那の赤化工作にも関与したが、最近はまた事変下に種々の策動をしているらしく報じられている。

我々は必要以上にトレービチュ・リンカーン・照空の伝記を述べたようであるが、しかしこれではなお大綱を記しただけであって、彼の半生はまだまだ波瀾に富んでいるのである。勿論彼の生涯に見られるような無責任な國際性は全猶太人にあてはまるものではないであろうが、しかしなおこれが深い象徴的意義を持っていることは疑い得ないであろう。変名乃至偽装転向は実にあらゆる猶太人に常に認められる特質であって、例えば前ソ連外交の元締リトヴィノフの如きは、五つも六つもの名前を持っているのである。

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前節の記述から考える時、國際資本主義、國際共産主義、國際フリイ・メイスン秘密結社等の國際機関が、何故にすべて猶太の支配下に入るかが容易に明らかとなるであろう。即ち、他のあらゆる民族は「血」の外に「土」に結び付いているので、「土」を離れた國際性を取り入れることは殆ど不可能であるので、國際機関の運用に当っては、到底猶太と競争する力はないのである。それ故に、國際機関の中には、本来は善良なる意図の下に非猶太人によって設立されたものもないではないが、然しそれらは、暫時のうちに猶太の侵入を受けて、その世界政策の機関に利用されてしまうのである。否、それ位ではなくて、現在に於ては、殆どあらゆる國際的機関は猶太そのものの発起になっているのであって、そうでない場合には、たとえ、他民族に属する者が正しい國際協調の精神から創設することがあっても、到底國際的に普及する見込はないのである。また仮にかかる期間で國際的に普及しているものがありとすれば、それは猶太によってその利用価値が認められて、その援助を受けている場合に限るのである。事実如何に現代の國際的機関が、或いは猶太そのものの設立になり、或いは猶太の世界政策の機関となっているかは、我々の既に論及した重大なる三組織の外に、國際連盟を始めとして、ロータリー・クラブ、國際ペンクラブ、エスペラント運動、キリスト教関係の諸國際組織、殆どあらゆる國際平和団体青年団体、婦人団体等が然りであることから理解できるであろう。かの著名のドレフュス事件を契機として生れたフランスに本部を持つ人権擁護同盟の如きも、実質は「ユダヤ人権擁護同盟」に過ぎないことは、その内容を多少とも知る者には、フランスに於てさえも常識である。

日支事変以来、「國際平和運動連盟」なるものが、不公正なる宣伝乃至決議を事としている理由も、その猶太性を知るとき極めて明らかになるのである。我々が他の場所でも説いたように、國際連盟その他の平和主義団体は、真の平和団体ではないのであって、平和の名の下に戦争を誘致し、その責を猶太政策の妨げになる國に負わせようとするものにすぎない。然るに日本の朝野には、今なおその明治イデオロギー的西欧崇拝のために、かかる國際機関に対する迷信を捨て得ない人々が多数存在している。自由主義者乃至民政主義者の大部分より赤化主義者の殆ど全部に至るまでがそうであって、所謂、インテリ階級と称せられる者の相当数もその中に入るのである。然し今や日支事件を機会として日猶の間の全面的抗争が展開されつつあるのであるから、真に祖國を思う者は、徒(いたず)らに猶太の宣伝に躍(おど)って、その世界政策に協力する事をもって進歩的等と迷信することを止めるべきであろう。殊に当代に流行する偽装転向派の跋扈に深憂を抱かざるを得ない者には、第一次世界大戦期の独墺その他連合國に於ける内部破壊を目標とする猶太勢力の運動が他所事(よそごと)ならず思われて来るのである。勿論我々は國内猶太戦線が如何に猖獗(しょうけつ:悪い事がはびこること)を極めようとも、それによって皇國の運命に狂いが生ずるとは考えないが、しかしなお、陛下の赤子をして徒らなる猶太の犠牲たらしむることは、忠良なる一臣民として到底忍び得ないのである。世界大戦に於て結局独逸が戦敗國となったのは、内部に巣喰った猶太とその手先の策動のためであり、その結果戦後の独逸は全くの猶太國と化したのであるが、一方戦勝連合國側も決して真の戦勝を得たのではないのであって、世界大戦の真の勝利者が猶太であったことは、多少この方面の事情を事実に即して見る人には自明の事実である。とにかく、今や猶太問題は我々焦眉(しょうび:喫緊)の問題であって、決して独逸やフランスからの輸入品ではないのである。今度の聖戦の意義がこの問題を正当に理解しない限り充分に明らかとなり得ないことは我々の幾度か説いた通りであるし、事変の結果もまたこの問題を正当に処置しない限り充分の成果を収めることは不可能であろう。

以上の如く説く時、それはすべてを猶太問題とすることであるが、世界の現象は猶太問題のみからは説き得ないのである、との説をなす人があるかも知れない。この説の一応正しい事は我々も認めるに吝(やぶさ)かではないが、然しこの主張はあらゆる人間の言説が前提を持ち又必ず一面性を持つことを忘れた人によってなされる事が多いので、多くの場合にそれは故意に猶太問題を否定しようとする意志の偽装であるに過ぎない。精神史的に言えば、かかる抗議的主張の多くは所謂民政主義的自由主義者又は赤化主義者によってなされるのである。また或る一種の人は、その日本人的善良さから抗議を提出することもあるが、自己の正しさのために相手もまた正しいと見ることは、世界のあらゆる民族に対しては正しいかも知れないが、猶太人の場合のみにはそれは当てはまらないのである。猶太の歴史を説き、猶太の本質を説くことは、正義日本人なればこそそれを行うべきであって、日本人以外には正しい猶太問題の解決は不可能であるとさえ考えられるのである。勿論我々は、猶太人が非猶太人を動物であると称するのに倣って猶太人を動物であると考える者ではないが、しかし我々は猶太人によって抹殺されたる全世界の非猶太人の人権を回復し、猶太人によって汚されたる人間の実相をその本来の姿に回復しなくてはならないのである。とにかく、現代世界の万悪の根源である猶太が、その幾千年の詐欺と裏切りとテロとの歴史を拭(ぬぐ)い得るためには、その「トーラ」と「タルムード」を焼き、その教会堂を破毀(はき)しても、なお数千年の時日を要するであろう。

それ故に我々としては、猶太の手先となって容共抗日の暴挙を犯した蒋閨閥とその軍隊とを討つ以上は、その正規の剣をもって同時に猶太を討たねばならないのである。勿論、その剣は日本の剣であって、単なる殺人剣ではないのであるから、幾千年の間人類が猶太によって欺かれ、裏切られ、殺戮されたとは言うものの、必ずしもその復讐として剣を取るのではなくて、我々の活人剣は、むしろ積極的に猶太をして人間の実相を回復せしめ、然して正しき平和をこの世界に持ち来さしめるものでなくてはならない。

ここに我々は、現代日本の防猶又は反猶の歴史的意義に関して一言しておこう。所謂排猶運動は、これを歴史的に見る時、大体四つの段階を辿って来たようである。その第一は欧州・エジプト・波斯(ペルシャ)等の古代のそれであって、この時代には猶太人は猶太國民としてその劣悪さのために排撃せられていたのであるが、次のキリスト教時代には、旧教によっても新教によっても、猶太は猶太教として排撃され、特にキリストを殺戮せる者として指弾されたのであった。次に猶太は、近世に於ては別個の思想と道徳の所有者として、その詐欺性と陰謀性とのために排斥されたのであったが、最新の排猶運動は、独逸に始まり、イタリアに伝わり、今や欧米諸國に次第に伝播しつつある民族としての猶太の排撃である。勿論、この四つの段階ながらに、相互に共通の点を持っているのであるが、その根源的な特質よりして命名すれば、大体上述の通りとなるのである。そして以上は主として欧州の現象であるが、これは猶太の在来の活動の舞台が欧州であった事からして当然であろう。

然し今や猶太の國際性が猶太の活動の舞台を全世界とすると共に、神國日本の活動がまた世界的となって来て、ここに例えば日支事変の如き日猶の全面的衝突となり、所謂排猶の第五の段階に入ったのである。そしてこの日本の排猶が単なる排猶でなく、防猶であると同時に正しき平和の確立をその使命とすることは前述の通りであるが、この意味に於ては、日本の手に依る猶太問題の解決こそ、内容的には上述の四段階をその中に含有すると共に、在来よりも崇高なる八紘為宇の世界的原理に立っているので、世界史的に見て最後的のものとならねばならないものなのである。勿論それには前述の如く今後なお幾百千年の時日を要するかもしれないのであるが、然し神國日本を除いては、真に猶太を討ち、人類を救い得るものはないのである。

それ故に、少数民族の虐待などという猶太の得意の宣伝に躍らされることなく、また猶太的「文化」、「科学」、「ヒューマニズム」等の宣伝的モットーに眩惑させられることなしに、討つべきものは徹底的にこれを討つべきであろう。流行の反英気分に浮かされて、その英國の中枢を支配するものが現在に於ては猶太であることを忘れ、英そのものを憎むために親猶を宣言するに至っては、支那問題に限り英を裏切って日本と協力しても可いことを申出ている猶太の手先であると疑われても辯明の余地はないであろう。殊にこの種の議論が愛國主義の仮面の下に於て行われる時最もその害毒は大きいのであって、偽装転向流行時代の一産物としては珍らしからぬ現象であるとは言うものの、心ある人は充分に今後の成行に注目すべきである。自己の利益のために英國を裏切ることを約束する猶太は、同じく自己の利益のために将来また日本を裏切るであろうことは自然の理であるからである。我々は眼前の利益に目が眩んで、皇國本来の使命を忘れてはならない。

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猶太と世界戰爭(新仮名)18

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第二章 猶太と世界戦争(続き)

四、世界大戦へと駆り立てるもの(昭和16年2月8日)

日支事変の当初以来少数の憂國の士が声を嗄(か)らして、日支事変とは本質的に見て日猶事変であることを強調し、以て朝野の正当な認識を要求して来たにも拘らず、永年の猶太の宣伝と猶太的強要に災(わざわい)せられた朝野の自由主義者達は殆どその警告に耳を貸そうとしない許りか、却ってそれをナチス独逸の模倣であるかの如くにさえ見做して、自己の猶太性を反省することを肯(がえ)んじない(聞き入れない)のである。これは我が國における猶太戦術の成功の証左であって、英米を除く欧州が既に次第に猶太支配を脱しつつあるにも拘らず、猶太独裁下にある英米の宣伝下にあるわが國の自由主義インテリ層は、今なお独伊が第一次世界大戦の前後にあったのと同じ状態に彷徨して(さまよって)いる。そして猶太問題の認識に関する日本朝野のこの落伍は、猶太に取っては尤も好都合の状況であって、第二次世界大戦の危機の原因も正にこの点にあると言っても、さまで(そこまで)言い過ぎではないのである。それ故に我々は先ずこの一小論の冒頭に当って、多くの場合に故意的であるかに見える日本朝野の猶太問題に関する認識不足の最近の一例を拾って考えて見ることにしよう。

それは、最近のわが國の読書界を賑(にぎ)わしているフランス系猶太人モーロアの「フランス敗れたり」の場合である。出版社も訳者も金儲けの仕事であろうから深く咎めないとしても、その著の推薦者が、その猶太的教養のために猶太の宣伝にのみ敏感なインテリ階級の者である許りでなく、最近その性格を諸方面より疑われている所謂新体制派の重要なるポストにある者等であるに至っては、日本的日本人は決して黙視していることは出来ないのである。幾千年来裏切・嘘・搾取・殺戮をエホバの神命として実行し来った猶太は、このモーロアの場合にもフランスの真の敗因を隠蔽して、浮薄(ふはく:浅はかで軽薄)にしてセンチメンタルな自由主義インテリ層の理解の適する如き事情のみを拾い上げ、その点のみを強調して自己の罪業を抹殺し去ろうとしている。それ故にその所説は、事実の点では嘘でない要素を含んでいるにもせよ、最も根幹的な事実を抹殺している点から言えば、全体としてはこれより大きな嘘はないのである。然らばこの場合に何が隠蔽され抹殺されているかと言うに、フランスの敗因の最大なるものが猶太の専横に対するフランス人の反感であり、猶太の指令下にあるフリイ・メイスン秘密結社の社会的独裁に依るフランス人心の委縮であったという事実である。その他混血に依る民族的資質の低下等の原因も加わっていたであろうが、何と言っても最大の敗因は上述の二つなのであって、猶太の専横の事実は、財界におけるロスチャイルド一家を始めとする猶太独裁のことは論外とするにしても、なお人民戦線政府首相ブルム、永年の植民相マンデル、前文相ジャン・ゼーの悪業のみを数えても充分明瞭であろう。ブルムの如きは、百万長者でありながらも社会党を率いることによって純フランス人を搾取することを企てて来た許りでなく、フランス人を性的に腐敗させるためにはわが國に於ても発禁となった「幸福論」をさえ書いたのであるし、マンデルは、その植民相時代にフランスの植民地を事実上の猶太植民地とし、日支事変下の我々として未だ記憶に新たな仏印経由の重慶援助を敢行した許りか、敗北フランスの最後のレイノー内閣にあっては内相の地位に据(すわ)って、愛國フランス人を無数に投獄又は虐殺することによってフランスが猶太独裁を逃れて独伊に呼応しようとするのを防ごうとしたのである。ジャン・ゼーは教育の猶太化に依ってフランスを永久に骨抜きにして猶太独裁の基礎を固めようとしたのであるが、そのフランス國旗を嘲罵(ちょうば:あざけりののしること)し呪詛した詩に依ってフランス愛國陣営の憤激を買っていたのである。なお敗因の第二の原因として数えられた秘密結社に関しては、その歴史乃至性格に関しては今は叙述する紙面を持たないが、それが猶太の世界政策の機関であることは現在では世界の常識であるから、ここにはそのフランスに於ける代表者の名を多少挙げることで満足しよう。即ち多少過去に遡るならば、ポアンカレ、ブリアン等の大統領又は首相があり、近来ではショータン、サロー、ダラジエ、レイノー等何れもそうでないものはないのである。大臣級に至っては、猶太人に非ずんば秘密結社員であったというのであるから、今更名を挙げる暇はない。かくて欧亜黒色混血の異民族猶太の独裁下にあったフランス人は、欧州民族である独逸軍を敵とは見ず、寧ろ解放者として迎えたい衝動に駆られたのであって、この心理的の動きを知る事なしには、如何に装備の点では劣弱であったとは言え、幾十万の軍隊がかくも容易に独逸の軍門に降るということは不可能でなくてはならぬ。殊にこの後ペタン政府が國内改革の第一として先ず猶太人を公的地位から退け、フリイ・メイスン秘密結社を断乎として解散し、昨年十一月以来その暴露的展覧会をパリに開いて喝采を博しているのみか、前述のブルム、マンデル、レイノー、ダラジエのみならず、精神分析猶太人フロイド、独逸系逃亡猶太人ステファン・ツヴァイク、エミル・ルードヴィヒ、十九世紀に遡ってはハイネに到る迄を発禁にしている事情も、上述のフランス人の心理を実証しているのである。そしてこれを独逸の強要であると言うのは、猶太崇拝が不治の病となった盲目者流のみの場合である。

勿論かく言っても、我々は敗戦の罪の全部を猶太と秘密結社とに帰する者ではないのであって、フランス朝野が久しく猶太のかかる専制を許し続けていた無気力さに大きな不満を感ずるのであるが、しかし幾千年に亘って裏切・嘘・搾取・殺戮を神命として来た猶太の巧妙なる侵略戦術を思う時、深き同情を感じないでは居られぬのである。殊にモーロアの著作の如きがわが國の朝野に無批判に読まれていることを顧みる時、敗北フランスの思想界が我々に取っても単に外國のそれであるとは感じられないのである。猶太人に取っては、その在籍國そのものが自己に利をもたらし、従ってまた自己の世界支配の完成に役立つ場合には、それを愛する如く装うのであるが、その見込の失なわれる場合には、昨日までの表面上の祖國をも今日は敵國として少しも良心に痛みを感じないのが常であって、敗戦を待つ迄もなく「祖國」フランスを捨てて米國に逃避した「フランス軍人」モーロアの行動も、決して例外ではないのである。これは最近に於て英國系上海猶太人の多くが、英本國の敗色を見て逸早く米國に國籍を移しつつあるのと揆(き)を同じくしている。それ故にもしわが國の朝野にして真に欧州新秩序を目指す独伊との同盟に忠実であろうと欲するのであるならば、モーロアの如き者の著作に対しては必ず十分の批判を以て臨まなくてはならない。然るに残念ながら日本に於ける猶太認識は、敗戦フランスに於けるインテリ層のそれと同一程度であり、前世界大戦に於ける敗戦独逸のインテリ層のそれとも同一傾向であって、事変下(開戦後)数年の今になってもなお日本の対支出兵の全部を××主義とする東亜連盟論乃至國境抹殺の悪平等主義の東亜共同体論の如き秘密結社的敗戦主義乃至猶太的超國家主義が横行する余地のある事さえ、丁度敗戦仏独の当時と同一の様相を示しているのである。

時局便乗の赤色乃至桃色主義者が偽装して皇道主義又は國體(国体)科学等の名の下に横行しているわが國の現状が、上述の猶太認識の劣弱さに大いに起因することは、赤色乃至桃色主義の総本山が猶太であることから推察されるであろうが、なおこの猶太認識の不足に由来する驚くべき他の錯覚の例が、これまた現在のわが國の重要識者層にある人に於て見られるに至っては、緊迫した現下の世界情勢の真只中に東亜乃至世界新秩序に邁進しつつあるわが國としては誠に心細い限りであると言われねばならない。即ち、最近の米國の対日侵略攻勢を衝いてアングロ・サクソン民族のみの野望であるとする如き主張がそれである。これは現在の米國の真の支配者が何者であるかに対する認識不足から来るのであって、討英の場合ならば或いは表面的にかく主張することも適切であろうが、本来欧州各國人の寄合世帯であり、また多くの黒人のみならず、五百万の猶太人をも含有する米國に対しては、たとえアングロ・サクソンが数に於て優勢であるとしても、かの野望をアングロ・サクソンのみに帰することは適切ではないであろう。殊に今では世界の常識である通りに、デモクラシー國の真の主人は猶太人であり、米國もまた例外でないことを知る場合には、かかる言説は由々しき不公正でもあるのである。そしてもし万一にもこの場合のかかる言説が単なる認識不足に基くものではなくて、米國に於ける猶太人の支配的地位を認識した上での故意的猶太迎合であるとすれば、これこそ石油と鐡とのために猶太に節操と信義とを売るものであって、皇國の民としてはこれに過ぎる恥辱はないのである。然もこの後の場合もまた猶太の本質に対する無智から来るのであって、この民族幾千年の罪業史が明示している通りに、猶太は相手が劣弱であることを見れば、それに依って必ず軽蔑と虐待とを増して来るのである。民族神エホバの数十五を形成する一九一四年(1914=15)に第一次世界大戦を惹起(じゃっき)せしめて味を占めた猶太が、同じ数を形成する一九四一年(1941=15)に何を目論んでいるかを洞察する精神力なしに外交をすることは、子供の火弄(いじ)り(火遊び)以上に危険である。防共協定が防猶協定であることを知らなかったが為にそれを空文化した過去の苦い経験を忘れて、日独伊同盟もまたその真の意味に於ては防猶同盟である事を知らぬならば、それもまた或いは空念仏に終るかも知れないのである。

然らば最近の日米間の危機の真因は何であるかというのに、これまた猶太の世界支配計画の一翼をなすところの猶太の東洋攻略策の結果であるに過ぎない。即ち猶太に取っては、自己の独裁下にある英米を足場として、未だ完全に自己の支配下に入っていない東洋を攻略し、既にその支配下に置いたと確信した欧州が独伊の台頭に依って自己の支配を脱しようとするかに見える状勢を有利に転回させるか、或いは少なくとも欧州を喪失する代償として東洋を自己の勢力下に置きたいのである。それ故にこの為には、フランスに於けると同じく猶太的フリイ・メイスン結社の勢力を用いて、米國人を戦場へ駆り立てようとし、或いはかの秘密結社員のみで形成されている重慶政府を援助して、猶太とこの結社との年来の予定である第二次世界戦争を勃発させ、以て猶太の世界支配を完成しようとしているのである。

かくて現在の米國が如何なる程度に猶太独裁の下にあるかを述べるべき順序となったが、紙面の都合で極めて簡単に記述しなくてはならないのは残念である。先ずウォール・ストリートが完全に猶太支配下にあり、軍事工業もまた然りであることは、英仏等と同様である許りか、新聞・ラジオ・映画等もまた然りであるが、特に我々の注目に値するのは、秘密結社の高級会員ルーズヴェルトを取巻く者が猶太女を細君とするハル外相を除いては大部分猶太人であることである。これは既にウィルソン大統領時代から然りであって、ジュー・ディールと称せられるニュー・ディールも発案実行共に猶太の手でなされたのである。ジョンソン将軍に依ってアメリカの最有力と称せられる高等法院判事フランクフルター、実力上の大統領と称せられるバルーク、ウォール街猶太人の多くと姻戚関係にあるモーゲンソー財務長官、女労働大臣として各種労働組合の指導者であるパーキンス等の名は、それだけで既に米國の猶太支配の実状を語るに足るのである。ルーズヴェルト大統領の親戚の者で、彼の政府に反抗する者は必ず不慮の死を招くこと多くの実例を以て証明している者さえあるのである。ニューヨーク州知事もニューヨーク市長も猶太人であることは言うまでもないし、また世界的に強力な権限を有する猶太法師ワイズも米國に居住している。

以上の米國の実状を知る時、かの猶太の世界戦争への計画がどうして実現の可能性がないと言い得ようか。

ここに於て我々は急ぎ筆を転じて、今回の欧州戦争の裏面の意義を明らかにし、それもまた日支事件が日猶事件であるのに照応して、単なる独英・伊英戦争ではなく、結局は独猶、伊猶戦争であることを述べて見たいと思う。

勿論かく言っても、今回の欧州戦争の意味が独伊対猶太の戦争であることで全部盡されるというのではないが、しかし英國の真の主人が、國際猶太人であり、またクロムウェル以来の猶太との密接な関係からして血液的にも猶太化している英國貴族階級であり、更にまたかの英國を中枢とする処のフリイ・メイスン秘密結社であることを知るならば、今回の戦争の意味はこれ以上の説明を俟たないでも明瞭であろう。然しこれは、ヒットラー総統が口を開く毎に指摘している事実であるが、猶太問題に関する認識のない日本通信員の手にかかる時には、英國の國情のみならずヒットラー総統が特に強調している事までもが、多くの場合に不明になってしまっている。とにかく今回の欧州戦では、独伊の勢力の及ぶ所からは猶太勢力は容赦なく退却させられているのであるが、それが独伊の占領区域に於ては、その國人の熱心な支援を受けているので、単に前述の如きフランスの場合のみならず、例えばベルギー或いはルーマニアの場合もまた然りである。かくて既にニーチェが予言した通りに、二十世紀の欧州は、全く猶太の支配に屈するか或いは猶太の全部的撤退となるかの大変革期に到達していることが実証されつつあるのである。それ故に近来の米國の抗独狂躁と救英狂態とは、反日狂気とは意味を異にしているのであって、対日の場合には猶太の攻勢であるものが、対独伊の場合は猶太の守勢となっているのである。然してこれを経済的方面から言うならば、独逸の金本位制経済組織脱却に対する猶太の反撃に外ならない。即ち独逸の実行している如き新経済制度が次第に世界に拡大して行く時には、世界の金の七、八割とかを独占している猶太に取っては、神命に依る世界支配の資金として世界から搔き集めたこれらの金もその偉力を失ってしまうことになるので、ここにも猶太が死力を盡しても独逸と争うべき理由があるのである。ここに於て自己の軍隊を有せず、また自ら剣を取って前線に立つことを喜ばぬ猶太は、前大戦の時の英猶協定の先例を踏襲して今回もまた英猶秘密協定を結び、英國人を先ず戦線へと駆り立てたのであるが、然もその英國の形勢日に非なるのを見ては、デモクラシー擁護の名の下に今や米國人をも戦線へ駆り立てようと画策しているのである。然し前の世界大戦の苦い経験を持つ米國には、二百数十の反猶団体があると称せられる如くに、真の米國人は参戦を欲しないので、ここに猶太の代辯者であるルーズヴェルト政府の最近の狂態が生じて来ているのである。

かくて我々はここに於ても英國に於ける猶太勢力の実情に関して一言するならば、その財界・言論界・軍事工業界に於ける猶太支配が勿論である外に、政治的方面に於ても事情は米國と全く同一であることが判明する。即ち、久しい以前から好戦的煽動政治家として著名であったチャーチル内閣には、ダフ・クーパー、アメリー、ハンキー、アトリー、シンクレヤ等の猶太大臣が居る許りでなく、ウッドの如く猶太秘書を有する者、アレキサンダーの如く猶太女を妻とする者、イーデン、グリーンウット、マクドナルドの如くフリイ・メイスン秘密結社の幹部もあり、首相始め何等かの経路で猶太と婚姻関係のない者のないことは、既に前に論及した如くに英國貴族の血液の猶太化の結果としては当然であろう。そして猶太が有するブナイ・ブリス秘密結社等の如き無数の國際機関を通じて、この英國はかの米國と連絡しているのである。

ここに於て我々はなお筆を進めて、いま論及した猶太系諸國際機関の全機構を明らかにし、世界の全猶太が幾千年来の世界支配の夢の実現のためにエホバの年である一九四一年を期して世界戦争へと世界を駆り立てている実情にも論及すべきであるが、既に与えられた紙数も超過しているので、それの記述は他日を俟ちたいと思う。しかし以上の記述によっても、世界戦争へと駆り立てるものが結局に於て猶太であることは判明したであろう。

かくて東西相応じての世界新秩序の建設が、その根幹に於て如何なる方面に向ってなさるべきであるかも判明したであろうが、この際に於ける我々の覚悟と準備とは、既に充分であろうか。現在の独伊は、既に前世界大戦の前後に於て猶太禍を身を以て体験しているので、猶太と秘密結社に関する工作は徹底しているから、意識的には勿論無意識的にも内部から猶太の世界支配に協力する者はないのであるが、わが日本は果してこの点に於て安心すべき状態にあるであろうか。マルクス主義を始めとする猶太系思想に対する対策を怠った結果は、事変後幾年にして未だ國内は思想的に混乱を極めているかに見える。そしてこの際になお我々をして絶望せしめないのは、わが國體(国体)の偉力が最悪の場合にも我々を破滅から救うであろうという希望があるからである。切に有識者の反省と覚悟とを要請する。(一六・二・八)

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)17

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第二章 猶太と世界戦争(続き)

三、今次世界戦争の性格(昭和16年8月10日)

それがこの形に於てこの時期に来ることを阻止せんとして少数の憂國の士が声を嗄(か)らして叫び続けて来たにも拘らず、遂に来るべきものが来たのである。或る世界的なる秘密力の計画通りに、それが久しく予定していた年に予定の世界大戦が予定の方向に向って進行しつつある。しかしそれは、恐らくは少なくとも二度は防止し得たと考えられるし、またそれが結局世界史的必然であるとしても、少なくともその時期の点ではかの秘密力の予定通りに運ぶことを阻止され得たと考えられる。しかし我々は、いまここにそれを詳述している暇はない。また徒(いたず)らに死屍(しし)に鞭つにも忍びないにも拘らず、なお多少意のある所を述べてみたいと思うのは、なお来るべき日にも、現在の情勢の儘にて進むならば、同じ過誤を繰返し、また同じ無意義の戸惑い*を繰返すことを恐れざるを得ないからに外ならない。

*当時、独ソ不可侵条約は、日本に以下の深刻な事態を生んだ。ここで言う「戸惑い」とはそれを指す。
(ウィキより)かつて日独防共協定を結び、さらにドイツと同盟交渉中であった日本の政界が受けた衝撃は甚大であった。当時日本はソ連およびモンゴル人民共和国との国境紛争・ノモンハン事件(1939年5月11日~9月15日)の最中であった。8月25日に、平沼内閣は日独同盟の締結交渉中止を閣議決定した。8月28日には平沼騏一郎首相が「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」ために同盟交渉を打ち切ると声明し、責任をとって総辞職した。

 

 既に我々によって幾度か指摘されたように、エホバの数十五を形成する今年一九四一年こそは、かの秘密力に取ってはその世界制覇の年である。もしこの年を逸するならば、一九五〇年迄は機会がないのである。勿論一九四一年に失敗すれば一九五〇年を待つであろうが、然しこの年を無為に終ることは、秘密力としては、旧約聖書申命記二十八章にエホバによって示されて居る通りに、秘密力そのものがエホバによって亡ぼされる事になるかも知れないのである。有史以来エホバのこの命に恐れ戦き続けて来たかの秘密力は、最近事毎に自己のものの如く、今年を期して今や懸命に自己をエホバの罰より救わんとしつつあるのである。

かく言うとき、かかる迷信深い秘密力がいまだに地上に存在することを恐らく人は疑わざるを得ないであろうが、これは旧約聖書とタルムードを活眼を以て読む者には一点の疑をさしはさむ余地の無い事実である。

然らば我々はこの秘密力の努力をいま何と命名すべきであろうか。これに対して最も明瞭なる表現を用いるとすれば、猶太の人類他民族殲滅戦と言うべきであろう。これを我々は在来猶太の世界制覇運動とか、世界征略戦とか言って来ているのであるが、最近の緊迫した情勢に於ては、今次の猶太の計画した世界大戦はその人類殲滅戦の名をもって呼ぶとき最もその正当な称呼となるのである。

従って今なお近視眼者流の言う如き欧州戦争と独立した独ソ戦争はないし、また欧州戦争又は独ソ戦争と独立した日支事変もないのであって、これ等はその勃発の当時より、既に我々の指摘して来た通りに、一個の世界戦争の部分的事件であり、今一度別の表現を用いるならば、かの一九四一年を目指す猶太の世界殲滅戦中の一幕又は一場なのである。

かくて現在の世界には、多少とも世界の真の情勢と世界史の必然的運行とに理解を有する者に取っては、かの「複雑怪奇」などという漢語の成句に相応する現象はないのである。また世界史的な事件の起こる毎に戸惑い*して、敵も味方も見分け難くなり、世界情勢の変転極まりなきことのみを強調するのは、誠に無定見、無節操、無道義の井蛙(せいあ:井の中のかわず)の見の持主であるに過ぎない。田に耕す匹夫(ひっぷ:身分の低い人間)と雖も、日本人なる限りは、現在では今少しく世界情勢に通じ、所謂腹も出来ているのである。実に現在の世界には、或いは複雑さはあっても、「怪奇」なるものはないのである。怪奇ならぬものを怪奇とすることこそ怪奇であって、ここにこそ現代日本の行詰りの総原因がある。

 

然しこれらの点については、我々の在来の主張に理解のある読者にはこれ以上の説明なくして明らかであると考えられるので、ここに本節の冒頭に論及した回顧に移ろうと思う。

かつて我々は、日支事件が日猶事件たることを既に事変後一年にして明らかにしたのであるが、その中で既に防共協定が防猶協定であることを自覚しない限り、それが空念仏に終るべきことに論及しておいたのである。次には同じ観点より既に十三年秋に日独伊の軍事同盟を要請したのであったが、近世日本史上の最大〇〇の歴史の一つとしての××××××より約半年先行するのである。

今にして思えば、かの時かの×××軍事同盟の件が内外の不可思議なる力の活躍によって流産しなかったとすれば、換言すれば防共協定が防猶であることを責任ある地位の者が自覚したならば、従って防共協定が単に対コミンテルン又は対ソのものでないことを自覚するだけの明識を持っていたとすれば、所謂欧州戦争はかの時期には起こることはなかったであろうし、また独ソ不可侵条約も勿論あり得なかったのである。

しかし一度独ソ不可侵条約となり、欧州戦となった以上は、もし防共協定で防猶協定であることに徹していたとすれば、その場合に取るべき策は寸刻も不明となる筈はなかったのである。不可思議なる力の策謀にひきずられた事こそ「怪奇」なのである。この点を暗示しようとして、我々はかつて「複雑怪奇と不介入」なる短文を草し、その中に於て、当時に於てかの秘密力の正体が認識されたとすれば、そしてまた日独共同しての真剣の努力が重ねられたとしたならば、恐らくは戦わずしてソ連を改造し、ソ連をしてロシヤ人のロシヤたらしめ、其処に政権を独占する猶太をして不戦敗に終らし得たかもしれないことに論及したのであった。しかしこの点の日独了解は成立せず、猶太秘密力の英米を使嗾(しそう:指図して仕向けること)しての画策は、遂にソ連内部に於ても一時揺ぎを示した猶太勢力をして勢力を回復せしめ、ここに独ソ戦争となったのである。換言すれば、独ソ不可侵条約全体主義独逸の共産主義ロシヤに対する思想戦の不戦勝であり、日本の援助によって確立さるべき運命のものであったのである。

かく論じて来る時、現在の世界に於てわが國の一挙手一投足が如何に重大な意義を持つかが明瞭であろう。しかしながら、惜しむらくは、その我國に現在の世界を動している猶太秘密力(その機関としてフリイ・メイスン秘密結社等を含むことは言う迄もない)に対する認識が欠けているために、枢軸側に依る世界新秩序の建設は、その途上の大事件毎に最後の瞬間に於て猶太秘密力のために側道へ外れさせられてしまうのである。既に猶太としてはかつて我々が「世界大戦へと駆り立てるもの」に於て触れた通り、今次世界大戦は幾多の点に於て失敗に帰している。そしてそれが特に独伊に於ける猶太認識の結果であることは言う迄もないことである。この理由によって、我々は「前世界大戦に於ける敗戦独逸の場合」なる短文を物して、我々の時代に処する参考としたのである。

前述の通り、今はただ回顧のみに耽るべき時ではない。今は将来を見るべき時である。然しながら我々は、永遠の平和とか世界最終戦論などという如き偽装唯物論を弄している程に呑気ではないし、またかかる空言を弄(ろう)することによってかの秘密力に意識的にも無意識的にも協力するほどに猶太化してもいない。我々はいま我々の足下に迫っている世界の現在の情勢について、我々が今まで見続けて来た観点よりの展望を展開しなくてはならないのである。未来を説くことが総て空想であると称せられるならば、我々は空想の名も甘んじて受けるであろう。しかし生ける生は未来を含まぬものはないのである。政治も軍略も、生ける人間の世界のことはすべて然りである。

いま世界の視聴を集めているのは、何と言っても所謂独ソ戦争であるが、これはかの猶太秘密力の人類殲滅戦に於て如何なる位置を占めるものであろうか。ここに我々は歴史の論理を示すために仮に戯曲の構造を借りて説明するならば、独ソ戦争は今次世界戦争の第二幕を占めるものと言われるべきであろう。第一幕は勿論東の日支事変、西の欧州戦争であって、スペイン内乱チェコ事変等は勿論第一幕以前の序曲であるに過ぎない。

然らばその第三幕は何であるかと言うに、これは猶太秘密力の予定では、日米戦ではないかと考えられる。然してそれに続く第四幕は枢軸対英米ソ支等の文字通りの世界戦であり、第五幕はその決戦であって、猶太の人類殲滅戦はここにその頂点に到達する。そしてこれらの諸幕の何処までがエホバの年一九四一年たる今年中に来るべきであるかは、今は正確に予言することは避けたいと考えるが、猶太の信念に当って、然も天界に異状のある筈の今秋初めが最も注意すべき時期ではないかと考えられる。

有史以来エホバの命に依って他民族の殲滅を宗教的信仰として来た猶太人は、最近事毎に志のたがう(異なる)のを見て、今度の世界戦争にては一挙にしてその頽勢(たいせい:劣勢)を回復したいと考えているのであるから、その殲滅戦の激烈さは恐らく有史以来のものであり、人の想像を超えるものでないかと考えられる。殊に欧州方面に於ては前に我々が屡々論及した通りに、ニーチェの預言が実現して、猶太が欧州を去るべき日が来つつあるのを自覚したかにも見える猶太は、それだけその活路を東洋に求めようとしているかに見える。ここに最近の東洋情勢の真の原因があるのであって、猶太に取っては、英國そのものが大切に非ず、ソ連そのものが可愛いいのではなくて、自己の世界征略の手段になるものは何にても利用するに過ぎないのである。例えば本國を失ったオランダが蘭印に於て我國に反抗しているのは、オランダ本國よりは蘭印の方が猶太に取って重要であることを証しているのである。最近にも独英の妥協がまことしやかに流布されているが、これは英に於ける猶太陣営の揺らいだ場合か或いは揺らぐ見込のある場合以外には絶対にあり得ないことである。この点の事情を知らぬならば、或いはまたかの独ソ不可侵条約当時の如き戸惑いが来るかもしれない。しかし現在のチャーチル、イーデン、ダフ・クーパー等の猶太支配内閣の存続する限り、独英の妥協はあり得ないのである。また猶太としては、たとえ英本國を失うとも、その自治領又は植民地が従来の如く猶太支配下にある時は、決して独英の妥協はあり得ないであろう。そしてもしそれがあり得るとすれば、それは東洋乃至日本攻略のための猶太側より命ずる英ソの屈辱的な屈服の場合であるが、これを防止するためには何時までも我々に於て功利主義に立つことなく、真の道義と武士道との精神によって「志を同じくするもの」と協力し、裏面に於て常に秘密力と内応した ―たとえ多くの場合に無意識であろうとも― 過去の汚辱を再び犯さざる決心を要するのである。

現在の猶太秘密力に依る日本包囲を指して、秘密力の代辯者であるハル長官は、それは日本のせいである、と言っている。然り、正にその通りであって、日本の存在は、秘密力に取っては目の上の瘤(こぶ)である。その世界征服の完成の一歩手前に於てそれを妨げるものが東洋に於ては常に日本であるからである。それ故に猶太は、この日本討滅のために米國人をして戦場の露と消える覚悟をなさしめるために、あらゆる宣伝に憂身(うきみ)をやつしているが、現在の太平洋の彼岸に於ける狂躁曲の真相である。この度の英米二カ國の政治責任者の行方をくらましてのランデヴーもまたその曲の一節であるに過ぎない**。それ故に、西に於て独猶の決死の争闘が必然である如く、東に於ては日猶のそれが必然である。そしてそれは、米國人が猶太のために身を犠牲にする決心をするだけに宣伝に躍り、また軍備が量的に日本の幾倍かになる時を待っているに過ぎない。そしてその時が何時であるかは、我々素人には明らかではないが、そう遠いことでないことは我々の在来の記述で明らかであろう。

**恐らく、大西洋憲章調印の爲に1941年8月9日から12日に行われた大西洋会談を指すと思われる

 

かくて残る所は、この不可避の運命に如何に処するかである。或いは場合によっては、不戦勝ということも双方の側に於てあり得ることであろう。然しながらそれは、より適切なる時の猶太秘密力の日本攻撃を予想したものであることを忘れてはならない。幾千年間人類全体に対して常時戦争状態にある猶太は、文字通りの世界制覇の日迄は、戦略的休戦以外には、エホバより他民族との和平を許されていないからである。

ここまで論じ来って、この筆は最早先へ動くことを肯(がえ)んじない(許さない)のである。坐視していることそのことが大苦痛であり、大罪悪である如き感のすることさえあるが、しかし今は忍ぶ外に道はないのである。ただ我々は祖國日本の悠久の生命を確信しつつ、しかも来るべき幾年間の大苦難に当って天佑神助のあらんことを祈念して、この短い展望を終わりたいと思う。(一六・八・一〇)

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)16

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第二章 猶太と世界戦争
二、大東亜戦勃発後の世界情勢(昭和17年11月5日)続き

緒戦の敗戦が米英ユダヤを狂喜せしめつつあることには既に論及した通りであるが、この際に我々日本人として特に反省すべき一大屈辱事件のあることに論及しておきたい。それが何処まで政府当路者(当事者)によって自覚されているかは筆者に尚不明であるが、日本が道義國であり、武士道國である限りに於ては、次の一屈辱事件は決して闇に葬り去らるべきものではないであろう。皇國の栄誉を傷つけることこれにまさるものは無いと考えられるからである。

その醜悪なる一件とは、大東亜戦勃発の前日に至るまで継続されたところの対米借款交渉である。彼は平常よりユダヤ問題の否定者にして自称日本主義者の一人であるが、或系統の親猶主義を継承しているらしく、殊にその旧式日本主義に共通の自覚せざる唯物主義は常に背後に金権系支持者を有しているために、現代に於てはその愛國主義的看板にも拘らず、実際の行動は売國的結果となり勝ちなのである。(以下約四百字略)殊に彼が今なお一部の偽装唯物論者によってその権勢欲の強烈さのために支持され、またその無責任なるが故に放胆なる文筆の才のために若き無批判の徒の間に愛國者の名声を保持しているのを見る時、皇國の屈辱も正に極まれりの感なきを得ないのである。これ米國がわが國を軽視して、かの理不尽の三大条件をわが國に押しつけんとした原因の一つであり、元来無責任なる捏造事件によってわが國を中傷する米英及びユダヤに最も適切な口実を得せしめたのである。米英が抑留邦人を虐待するのも、はたまた元来個人主義的利己主義者の米國民が相当の頑張りを見せるのも、上述の徒輩の非日本人的行為がその直接原因となっていることを我々は忘れてはならない。ユダヤを識らざる者の行為が如何にユダヤを益し、ユダヤに利用価値あるかは、この一例をもってしても判明するであろう。今にしてこの汚点の拭はれざるに於ては、将来皇國の栄誉は如何なる曇を生ずるであろうか。怪奇なるはむしろ國内の情勢であると我々をして嘆ぜしめた二、三年以前の不快なる経験が、いま大東亜戦下に於てまたも我々の良心を痛ましめるのである。

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註:ここで指摘されている事件とは、恐らく野村證券野村徳七貴族院勅選議員)による工作であると思われる。その事件とは、次のようなものであった。(以下、「男の切れ味(中)著者: 小堺昭三」より引用)

[(野村)徳七の「対米工作」]
前述のように、東條英機が北進戦略から南進戦略に転じはじめると、逆に徳七は「ヨーロッパでソ連と戦っているドイツに呼応して、日本はシベリアへ兵をすすめるべきだ」と北進論を提唱する様になった。
外相松岡洋右ヒトラーと握手してのち、モスクワに途中下車してスターリンと「日ソ中立条約」を締結、意気揚々と帰国してきたときも徳七は、三歳若い彼にそのことを進言している。其処には鐘紡社長の津田信吾、大阪商船社長の堀啓次郎が同席していた。昭和十六年五月のことである。
徳七の気が変わったのではない。北進論はゼスチャーにすぎない。もし東條の号令一下、日本軍が南方諸国への武力侵略を断行すれば、大正初期からつづけてきた野村コンツェルンの南方事業が崩壊してしまう。
「何のために二十年間も心血をそそぎ、何のために巨費を投じてきた南洋事業だったか。三井、三菱、住友などがいかに兵器を量産しようと、ゴムと石油がなければ戦争には勝てないんだぞ」と叱りたいのであり、武力侵攻を阻止するだけでなく、日本軍の銃口をすべて北へ向けさせておきたいのだった。
だが、「日ソ中立条約」まで締結してきた松岡洋右は徳七の魂胆を見ぬいているかのごとく、こう答えた。
「あなたの南洋事業は保証します。わが皇軍が南方の拠点をすみやかに確保し、イギリス軍やオランダ軍に施設を破壊させるようなことは決してやらせません。日本は大東亜圏を支配するのです。むしろ、あなたの南洋事業はますます繁栄することになりましょう。その日は必ずやってきますよ。近い将来に」
海軍によるハワイ真珠湾攻撃と、陸軍によるマレー半島上陸作戦が敢行されたのは、それから半年後であった。
松岡の「あなたの南洋事業はますます繁栄する」を信じていなかった証拠に、徳七はこんな「工作」もやっている。
それは「対米借款に一役買いませんか」と政商Nがもちかけてきたのに始まる。
有力なアメリカ人ジャーナリストと結び、日米貿易公社をロサンゼルスに設立する。日本側は半額の五億ドルを日本に信託預金し、必要物資をこの会社がひきうけて供給する。陸軍省もかげながら支持しており、野村コンツェルンが中心となって設立運動費を出してほしい、とNはいう。
すでにアメリカは日本との通商条約を廃棄し、ABCD経済包囲網を締めあげつつあるときだ。こんなときにアメリカの民間人が、日本が欲しがっている物資を都合できるわけがない。都合できたとしても、日本の港に貨物船をよこすことは不可能だ。
とは思ったものの徳七は「頭から疑っていたのでは何も生まれぬ」のでOKした。
これは一種の民間外交だとも思った。こんなところから日米間の緊張がほぐれないともかぎらない、そうも考えたのだ。
さっそくアメリカへ、野村證券常務の飯田清三ら三名の社員を、調査団として派遣することにした。が、Nが国際ペテン師である事実がバレて、徳七は「対米借款問題の狂言はついに尻尾を出した」と日記に書いている。…

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かくて米(英)ユダヤは、最近伝えられる放送局の接収等に見られる如くに、いよいよその独裁体制を整頓しつつあり、そして現在にては最早何等の掣肘(せいちゅう)を受くることはないのである。勿論世人を欺くため、また日独伊陣営を撹乱するためには、種々の策謀が國の内外の事件に関連して行われるであろう。例えば今度の選挙に於てニューヨーク州知事ユダヤレーマンが退いてデューイ―が出た如きも然りであって、この他民族第一線主義への転換はユダヤ地盤の確立の結果とも見られ得るのである。今や米(英)に於けるユダヤの地盤は、ソ連のそれの如く、全く確固不抜のものとなったと言っても過言ではないであろう。たとえ今後敗戦が持続しようとも、又いよいよ長期戦となろうとも、この事情は容易には転換することはないであろう。これを思えば、枢軸側としても徒(いたず)らなる掛声に止まる所なく、真の総力戦体制を確立して、先ずユダヤ的謀略の正体を究(きわ)め、その上にて各般の施策を決定すべきであろう。

以上の記述で、米(及び英)の國内情勢の現在に於ける大勢は察せられるであろう。従って既に昨年十一月二十六日に汎米ユダヤ会議があり、その席上で「全世界に米國民法の採用を要請す」という決議がなされたのも、決して不思議ではなかったことが判明する。後述する如くに世界の赤化により世界支配を実現せんことを期しながらも、戦略上それを表面の旗印とすることの今では不利なるを自覚したユダヤは、先ず民主主義を以て世界を征服せんとしているのである。否、ユダヤの両建戦術は、赤化主義と黄金帝國主義との二つを併用しつつ進んで来ているのである。

この連絡に於て英國の場合にも論及するならば、ユダヤとしては既に英國そのものには見限りをつけているのではないかと考えられる。勿論利用価値のある間は今後も英國の名を利用しつづけるであろう。然しこの場合にもフランスの場合と同様であって、利用価値の消失と共に英國ユダヤによって捨て去られるであろう。そしてその伏線は、近来新聞紙上に散見する次の言説である。即ち、米國英國の遺産の継承をねらっている、というのがそれである。ユダヤがかかる言説を直接間接に世界に普及させつつあるのは、これによって世界をそれに慣らせ、将来それが実現の段階に入っても世人をして異様の感を抱かしめないためであろう。勿論英の遺産をねらう者が米のみでないことは、ユダヤ問題に多少の考慮を払う者には自明であって、ソ連もまた米と並んで英の遺産をねらいつつあるのである。しかしこれはユダヤの現在の戦術上隠されていると見るべく、印度問題が喧伝されるにも拘らずソ連の動向がこれに関して少しも新聞報道に上らないことは、却ってこの事情の伏在することを確証するものと言えるであろう。英の遺産の問題に関しては、新聞紙上に散見する問題をこの見地より見ることによって充分な解答が得られることを信ずるので、ここではわが國とも直接の連環を持つ英の遺産のうち、印度問題のみにつきなお多少の補説をしておきたい。

わが國に於ては現今の印度の騒擾を余りにも表面的に解し過ぎ、従ってまた余りにも重大に見做しすぎているようである。我々より見れば、ガンヂーは別とするも、その他の指導者の如きは英國及びユダヤの走狗たるに過ぎないのであって、大言壮語好きの結社系言説に見られる如き「東亜解放者」ではないのである。彼等は必ず英國系フリイ・メイスン結社の高級会員たるべく、この点は蒋介石等國民政府の要人と同一であって、その故にこそ印度の指導者連は國民会議派と自称して来たのである。時代を操るためには、時代に通用する名を採るのはユダヤの方策である。従って彼等の反英運動は、愚昧なる民衆を欺き、また一部の覚醒せる者の殺戮に機会を与えるためになされる英國ユダヤとの八百長であるに過ぎない。従ってこの反英抗争は、印度民族の殲滅を目標とするユダヤの運動であるに過ぎない。なお此度の反英抗争の持つ一つの重大なる意義は、この抗争によってビルマまで進攻せる日本軍の印度進攻を防止することである。今次反英抗争のこの性格は、印度指導者達 ―例えばアザット― がルーズヴェルト蒋介石スターリン等に仲介を求める態度を取っていることによっても裏付けされる。真の反英抗争は、現在に於ては枢軸との合作以外に道はないのである。如何に地理的制約があるとは言え、これは歴史の論理なのである。反英抗争のかくの如き自明の性格に無智なるらしく見える日本朝野の認識不足に対して、吾々は多大の不満と不安とを感ずるものであるが、これまたユダヤ問題に関する認識不足の必然的結果である。印度の将来に取って残る問題は、印度の民衆が如何なる程度の抗争力を持っているかによって決定するのであって、これさえ強力であれば指導者達の対英八百長も或いは将来その仮面を剥がれるに至るかも知れないが、しかしこれは至難中の至難事であることを我々は忘れてはならない。ここに我々の印度に対する態度も定まって来るのである。この適当なる対策なき時、英の遺産としての印度はスターリンの手に帰するであろう。嘗つてのチャーチルスターリン訪問はこの点に関する談合をその重要なる課題としたのではないかとも考えられる。世界のユダヤ通信網がこの点に触れなかったことこそそれを証すると言えるであろう。

 

かくて問題はソ連であるが、ハルピンのユダヤ雑誌「ユダヤ生活」が誇らかに述べている如くに、「ユダヤ教ソ連の國教である」のであるから、このソ連米國と並んでユダヤの二大牙城たることは言う迄もないことである。否、ソ連こそは、独ソ不可侵条約の頃に於て多少の変調はあったといえ、昔も今も全くのユダヤ國であって、ユダヤの地位に確立せる点では、現在の米と雖もなおソ連に及ばないと言い得るであろう。勿論かく言っても、米の反猶団体が大東亜戦以前に於ける如くその二百数十のものがそのまま健在であるというのではなく、またソ連に於て反猶主義が皆無であるというのではないが、しかし独裁者専制者としてのユダヤ人の有する権力の強度に於ては、ソ連が米にまさることはなお相当のものがあるのである。それ故に米に於ては汎米ユダヤ会議であった所のものが、ソ連に於ては世界ユダヤ人代表会議となり、然もそれが昨年八月二十四日と本年五月二十四日との両回に公然と行われているのである。ここに於てか我々は最早この会議の内容の詳細を検討するの要を認めないものであって、ただ「赤軍ユダヤの盾である」ということが明白に主張された一点を指示することで今は充分であると考える。古い話ではあるが、純ロシヤ人であったトハチェフスキー将軍等がその功績にも拘らず大根の如くに切り捨てられた謎もこの点より明白になるのである。マルクス主義乃至ボルシェヴィズムは、その実行はユダヤ人にのみ許されるのであって、その対象は非ユダヤ人であり、ただその実行の段階に至る迄は非ユダヤ人の協力を利用するに過ぎないのである。これは資本主義の場合も同一である。

然し前述した如くに、ソ連に於ても反猶主義は根絶された訳ではなく、ユダヤ権力の強烈であるに連れて或意味に於てはその反猶主義もまた強烈であるとも言い得るであろう。そしてこれが今次「独ソ戦」に於ける敗北によって時としてその発露口を見出そうとするかも知れないのは察知せられる。ここに本年十月初旬世界に宣伝せられた赤軍における政治委員制の廃止の如き件が生ずるのであって、この再度目(二度目)と思われる「廃止」は、対内的にはそれの形式的廃止と実質的強化を意味し、対外的には中立國及び日本等に対する宣伝に外ならない。元来スローモーのスラヴ人は、この宣伝によっても相当に乗ぜられるのである。赤化思想の処置に正当なる見識を示し得なかった日本がその宣伝の対象となされていることは名誉なことではないが、然し事実であることは如何ともし難いのである。少なくとも日本の新聞はそれをその儘掲載し、日本のインテリの一部がそれに感傷の涙を禁じ得ないことは、ユダヤの打算の通りである。

なお日ソの関係は、現在としては日ソ条約によって規定されているが、これとてもソ連及びユダヤにそれが好都合なるために維持されて居ると見るべきであって、連合國の軍備拡張が予定の段階に達する時には、今次大戦の第四幕、第五幕としての××衝突の来るのは必至であると考えられる。それを避け得るのは、日本がユダヤ問題にも早く徹して枢軸國との協調をこの点に於ても実行するに至るか、枢軸國による完勝が早く実現されるかの二つの場合である。しかしなおその時にも世界からユダヤ問題が消滅したと見るのは尚早であることは言うを俟たないことである。

ソ連赤軍と言えば直ち督戦隊が想像せられるが、同一のことは秘密結社藍衣社(らんいしゃ) ―これはかのフリイ・メイスン秘密結社の支那化であろう― の支配する重慶支那についても言われ得るのである。そしてなお他に両者に共通する重大なる要素に民族主義のあることは見のがし得ないのであるが、然しこれは前述せる如く印度が時代の風潮に即応して國民の名を利用するのと同一の方策に依るものであって、裏面に於ては秘密結社の力によって生命を威嚇して指導的地位にある者の自由を奪い、他方表面的には民族主義を利用して愚昧なる民衆を欺くのである。これは共に所謂「文明國」に於ては不可能であって、ソ連又は支那に於ける如き國に於てのみ実現され得る方策である。

ソ連重慶に関しては、以上の二点の認識に於て欠ける所がないならば、他の諸点はおのずから明瞭になって来るであろう。それ故に我々はここに筆を改めて、現在に於けるユダヤ対策に関して一言して、この小論を終ることにしたいと思う。

 

我々は既に國内の親猶主義者について多少記述して、それが主としてユダヤ問題に対する認識不足に由来することにも論及し、ひいてその唯物論的志向が必然にかくならしめることをも暗示したのであった。現時局下として最も警戒すべき今一つの傾向は、同じく一面に於ては日本主義を標榜し、國體(国体)論を口にしながらも、結局唯物論の魅力圏内に彷徨する狂信日蓮宗の一群である。この外にも財界その他に親猶主義が存在しており、特に表面的には解消したロータリー・インターナショナルの如き有力なるものもあるが、然しここでは或意味に於て現代の指導層に属するか、或いは責任ある指導層に直接の影響力を持ち、従って重大なる根本國策にも関係すべき憂のある場合のみを挙げるのである。(以下約百字略)

彼等に依れば、ユダヤ問題はユダヤに國家を形成せしめる事によって解決するのであり、独伊のユダヤ排撃は道義に悖(もと)るものであるから、道義國日本は独伊に忠告して、その排撃を中止せしめ、八紘為宇の精神によってユダヤをも救えというのである。彼等の言説が枢軸離間を目標とするものでなければ幸であるし、また××事変を誹謗せんとする下心を有するものでないことを我々は道義日本のために祈らざるを得ないのである。そして何故に猶太のみがかく慈愛の対象となるかについては或種の妖気の揺曳(ようえい)を感ずるのであるが、今はそれを語るべき時機ではないであろう。兎に角その代表者の某紙上その他に於けるあくどい論説は、その表現は、彼得意の美文調であるが内容に至って親猶主義の公式であって、所謂シオニズムとはかかる短見者流の無批判性を算盤に入れて形成されたユダヤの謀略である。従って内容的には問題とするには足りないが、これが責任ある要路者(重要な地位の者)に与えられたる一連の論説の一つであることを思う時、問題は過小視されてはならないのである。この盟邦を侮辱する親猶主義が万一にも責任ある為政者によって考慮されることがあるならば、その結果は前に論及した某の場合にも比すべき悪影響を持つに至るやも計り難いのであって、かかる言説の責任の大なることは、かの場合と同一である。この点に於ても道義日本としては事を曖昧に葬ることなきよう明断を望まざるを得ないのである。そして二つの場合ともに、それらの思想又は行為の地盤となった陰の勢力にもまた適当なる処置の要請されることは自明である。空想的観念的なる旧式日本主義が如何なる秘密力の策謀下にあるかは不明であるが、それが現下最大の危険なる存在と化していることは屡々(しばしば)あるのである。赤色主義に対する批判がなく、ユダヤに対する認識のないために、それは赤に利用され、ユダヤに駆使されるのである。(一七・一一・五)

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)15

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第二章 猶太と世界戦争(続き)

二、大東亜戦勃発後の世界情勢(昭和17年11月5日)

某閣僚は先般の中央協力会議に於て、英米は今年中(昭和十七年)を期して反撃に出でんとする気配を示していると説き、またその後の閣議に於ては、米國最近の中間選挙の結果としてルーズヴェルト政権の地盤に揺ぎを生ずることはないと述べたが、前の発言は今年も十一月に入った今としては既に多少の見当外れの感を与えぬでもないが、諸戦の勝利の為めにややもすれば弛緩し勝ちな人心を引緊めるためには、かかる発言も必要であったと考えられるし、殊にソロモン海戦以後の南方の状況をも考慮する時には、それはあながち見当外れとも言い得ない事情もあったのであろう。これに反してその第二の発言は全く肯綮(こうけい:物事の急所。かんじんかなめ。)にあたったものであって、ユダヤ宣伝機関の一つであるギャラップ輿論研究所の宣伝的調査の発表に一喜一憂することの愚を知っている者には、その世論調査なるものが伝える所がどうであろうとも、某閣僚の指摘する如き事情の生ずることは前以て予想されたのである。それ故に、もしその報告に「予想通りに」という如き言明があったならば、そのユダヤ秘密力に及ぼす威力は誠に大なるものがあったと想像される。ルーズヴェルト三選の時のギャラップ輿論研究所を先頭とするユダヤ機関の巧妙な掛引に一喜一憂せしめられた愚かな経験にも懲りずに、今なおこの方面より伝えられる報道をその儘伝えるわが國報道機関の無批判性にも驚かざるを得ないが、しかし思想戦の掛声の喧(やかま)しいにも拘らず、責任ある指導的地位の者が今なお適宜の時に敵の急所を突くことを忘れているかの如くに見えるのは、その理由が那辺(なへ:いずこ)にあるかは知る由もないとしても、兎に角、大東亜戦争完遂途上のわが國の前途にはなお相当大なる難関が世人の想像だにもせざる方面に潜在しおることを感ぜしめないではおかぬのである。吾人の屡々(しばしば)説き来った如くに、みずから戦線に出る勇気はなくまた現在では最早その必要をも認めない ―古来もまた然りであったが― ユダヤは、世界に張り巡らしたる通信宣伝機関を用いて自己の支配下にある連合國は勿論のこと、中立國のみならず敵性國をも巧みに自己の影響下に置く手段を心得ているからである。

然し時代の怪奇性はいよいよ複雑となって来て、昨今わが國の報道機関さえ外電記事のうちに屡々ユダヤの名を見せることがあるが、それすらも却ってユダヤ方面の策謀の結果であると見做さるべき場合 ―多くはこの電報の系統によって辨別(べんべつ:識別)し得るが― のあることを否定し得ないのである。我が國に於て、日支事変以来、特に大東亜戦以来、赤化主義者が東亜新秩序を論じ、民族問題を論ずるのみか、國體(国体)論までに手を出して、時局の先頭に立ちつつある場合がかなり見られるが、それと怪奇性を等しくするかの如くに、今やユダヤは自己の名の覆(おお)い難いのを知るに至ったものか、その名を隠見(見え隠れ)せしめつつ適当の方策を講じつつあるかに見えるのである。例えば本年十一月九日の某大新聞の第一頁の記事の如きもその一例と見做され得よう。即ちユダヤアングロサクソンとの不一致を殊更に強調することは、アングロサクソンのみを敵視するわが國朝野をたぶらかすには最勝の方便なのである。ルーズヴェルトユダヤ血統が真実であるとすれば、世人の眼を欺くためには或いは機会を見て彼を第一線より退けることが既にユダヤ指導層で決定されているのかも知れない。ルーズヴェルトによって事態が現在の所まで進められて来たのであるから、一面に於ては彼のユダヤ的使命は達成されたとも見得るからである。利用価値が消失する時に容赦なくその傀儡的人物を捨て去る ―殺害その他の「清算」手段に依って― ことは、これユダヤの常套手段であることを我々は銘記しなくてはならない。従って我々は、米議会に於ける少数の「孤立派」の勝利などに有頂天になる愚を避けねばならぬ。この場合にも我々は、ユダヤの両建戦術の巧妙さを忘れてはならない。我々の常に主張し来った如くに、嘘を吐くにも算盤玉をはじく術を心得ているユダヤは、世界の趨勢(すうせい)を打診しまた敵性國の内部情勢を察知するためには、世界及び敵性國の幾割が真実を認識する能力を有するかを前以て計算し、その上にて嘘の宣伝をするのである。この間の事情に通暁(つうぎょう:精通)しない限り、ユダヤ的否定原理の支配的地位についている現代に於ては、歴史の運行さえも把握は困難であると考えられる。勿論ユダヤのこの動向に徹することによって世界情勢の全部が把握され得るとは言い得ないであろうが、しかしその正当な認識なき施策は、政治・経済・学術の方面は勿論のこと、軍事の方面に至る迄も迂闊(うかつ)の讒(そしり)を免れることは出来ないであろう。殊に現代の如き急激なる過渡の時代に於ては、その指導的階級と呼ばれるインテリ層こそ最もユダヤ性に富み、その感情・思索・志向に於てユダヤ化されて来ているから、この点の考慮は特に重要なのである。

 

今次世界大戦の性格は、ユダヤ問題を研究する者の立場より見るならば、ユダヤ人の人類殲滅戦である。ユダヤ人がその旧約聖書の日以来一日として忘れることのなかった日が遂に到来したのである。少なくともユダヤ人の主観から見ればそう感ぜられ考えられているらしく見える。そしてその第一の根拠は、今次大戦の世界的規模への進展が、エホバの年一九四一年(昭和十六年)であったことである。勿論今次大戦は、なお第四幕・第五幕を残していると考えられるが、それが既に頂点としての第三幕に到達したことは否定し得ないことであろう。エホバ信仰に厚い狂信家としてのユダヤには、大東亜戦が昨年中に勃発したことはエホバの庇護の印として感激の的となっているであろう。そしてその後の戦況の経過は、恐らくユダヤのその信仰を益々強化しつつあるものと考えられる。既にアメリカの有力猶太新聞「アメリカン・ヒブリュー」は、一昨年十二月四日に、

「戦争の意義が現在ほど明瞭であったことはない。今や全人類は、その戦争観念をめぐつて二つの陣営に分けられている。即ちこの戦争は、ユダヤ人を敵視する者を相手取ったユダヤ人生観の戦いである。全世界は今やユダヤ的な生存様式が勝つか、ユダヤに敵対する者のそれが勝つかの戦に鎬(しのぎ)を削っているのである。」

と書いたし、また某英國紙もその頃この戦は「ユダヤの聖戦」であることを主張したが、その聖戦が「エホバの年」に本格的な世界戦へと進展したのであり、しかもその後の情勢がユダヤの希望通りに向いつつあるのであるから、今やユダヤが如何に満々たる自信のうちに生きているかは推測に難くないのである。(約百五十字略)

かく論ずる時、欧州戦線及び東亜戦線に於けるユダヤ支配國の敗退はユダヤに一大痛棒を与えているではないかとの疑問が提出されるかも知れないのであるが、これはユダヤ問題の怪奇性に徹せぬ単純な考えに過ぎないのであって、東西に於ける連合國の敗退こそはユダヤの喜ぶ所であり、殊に大東亜戦の緒戦に於ける日本の勝利はユダヤに取っては全くのエホバ神の神助の結果であると感ぜられているのである。我々は既に以前より、大東亜戦に於ける緒戦の日本の勝利を喜ぶ者は日本人とユダヤ人とであるという逆説めいたことを説いたのであるが、最近に至っていよいよその感の深まるのを覚えるのである。その理由は、日本がそれを喜ぶのは当然の事であるが、ユダヤに取ってもそれが滞留國民(米英等)の臨戦体制を強化するに役立ち、ともすれば生起し勝ちであったユダヤに対する批判と不満との念を外らせるに役立つからである。戦争の拡大が経済的に利益を齎(もたら)すことは言うまでもないが、既に世界の富の大部分を所有しまた支配する位置を占めているユダヤとしては、今次大戦に於ては寧ろ自己の政治的地位の強化確立に対する関心が主になっているのであるから、この意味に於て緒戦に於ける連合國の敗北はユダヤに取っては誠に好都合のこととなるのである。殊にみずから戦線へ出ることのないユダヤとしては、自己のために戦場へ出る傭兵を必要とするのであるが、米英人をその役目に就かせるためには、緒戦の敗北こそは天来の好機なのであって、ともすれば叫ばれた「戦争目的の不明」の言説は、緒戦の敗北を利用しての宣伝によって全く封じ去られ得たのである。枢軸軍による本國侵入とか、占領地に於ける枢軸側の残忍なる行為とかの宣伝によって、元来誇張された優越意識の持主である米英人は、この場合にもユダヤの策謀を見る余裕を失って、ここに戦場へと盲目的に駆り立てられるに足るのである。現在米國軍六十万乃至八十万が海外へ派遣されていると称せられているが、その実数の真偽は兎に角として、かく大部隊の派兵の可能なるに至ったのは、ユダヤの扇動政策の成功の結果である。真の愛國者に売國奴の汚名を被せることにユダヤは成功したのである。ルーズヴェルト及びその一味の言行は、この間の事情を把握しない限り、その全幅的な意味が理解されることはないのである。

 

以上で現大戦の性格とユダヤの動向の大略は明らかになったと考えるので、以下に於ては各交戦國の場合につき考察を加えることにしよう。

先ず盟邦独伊の場合であるが、両國の情勢は、ユダヤ系の宣伝に敏感な宿命を持つインテリ層の危惧する程に不安のないことは自明であって、ユダヤ問題を研究する者より見れば、両國の國内情勢は相当に整備されていると考えられる。連合國側のユダヤ言論通信機関が殊更にファッショ諸國の暴政を説くのは、独裁と暴虐との点に於てユダヤ的残忍性を実践しつつある自己の政策が民衆によって批判される事を防止するために外ならない。この事は米英ソ連重慶に於ける独裁支配者の行状の実際を知る者には自明のことである。何れの側にも例外はあり、皇國に於てすらも所謂インテリ層の大部分は依然としてその唯物主義的個体主義的利己主義のためにユダヤ思想戦線の志願兵たるに甘んじているのと軌を等しくして、独伊に於てもかかる一群の徒 ―殊に本國を捨てて亡命中の秘密結社系の者― の存在することは言う迄もないが、しかし独伊に見られる服従と随順との精神は、米英重慶乃至ソ連に見られる屈従又は盲従とは対蹠的な存在であると言い得るであろう。後者に於ける形式上の服従の如きは、利害による結合又は威嚇による屈従以外の何ものでもないのである。独伊に於ける精神主義全体主義体制と、最近に至って次第に完成されつつある米英等に於ける金権主義的全体主義形態及びソ連に於ける酷烈なる唯物主義的全体主義的形態とは、悪意ある短見者流が時としては故意にそれらの同一性を強調することもあるが、根本に於ては大きな差異を有するのであるから、我々としてはその根本的なる本質上の相違を認識して、盟邦の交りを益々堅くして共同の敵に当らねばならないのである。これこそ道義日本の使命でなくてはならない。一時的なる戦線の異状とユダヤ系通信機関の宣伝に躍らされて、直ちに利害の打算を始める如き卑しさに陥ってはならない。無節操なる者に最後の勝利のある筈はないからである。何れにもせよ、この点に連関して今後とも中立國筋その他の通信宣伝機関を通し、或いは外交乃至通商機関を通して種々の策謀が行われることは火を睹(見)るより明らかであるから、最後の勝利の日までは決して油断をしてはならぬのである。

去る九月三十日の戦時冬季救済事業報告演説に於てもヒットラー総統は、今次大戦がユダヤの策謀によって勃発せしめられたことを強調し、十月五日の収穫感謝祭に於てはゲーリング國家元帥もまた今次大戦のユダヤ性に論及している。然してこれらの言説が将来如何なる結果を示し得るかは、友邦日本の側に於けるこの点に於ける反応如何に依るとも言い得るのであるが、この点に於ては久しきに亘るユダヤの巧妙なる宣伝と、時としてはそれに内応する秘密結社の策謀があるかの如き情勢の動きの結果として、いまだ日本の朝野にユダヤ問題の正当なる認識が欠如し、この最重要最根本の点に於ての協力を示すに至っていない。思想戦方面に於ける枢軸側の不如意の日が到来することが万一あり得るとすれば、その最大の原因は必ずこの点の認識不足に基くであろうことは、容易に予言し得ることである。ユダヤ問題の認識も教育も徹底している独伊の場合は、戦略上の必要その他の理由に依ってその國内情勢等についても幾多の発表見合せのあることは言う迄もないが、しかし大戦によって連合國側の希望する如き動揺はあり得ないものと見られるのである。

では何故にスターリンが最近の革命二十五年記念日に於て、独伊の指導者と國民との間を離間せんとする如き言辞を弄するに至ったかと言うのに、これは例のユダヤの怪奇性による術策であって、その演説の目標は、第一には自國内に於ける自己の政権に対する批判を封ずるためであり、第二には中立國及び日本に対する宣伝のためである。如何にソ連幹部の頭がどうかしているとは言え、ユダヤの智謀を背後に持っている彼等が、今次欧州戦当初に英國が用いて物笑いの種となったと同一の筆法で今に至って演説する以上は、下の場合とは別な意味がその背後に隠されていなくてはならない。この場合にはユダヤは算盤を弾きながらスターリンの口を通して嘘の言説をしていることを忘れてはならぬ。

同一事情は独伊の戦線に於ける事情についても言われ得るのであって、唯物論の影響下にあるわが國のインテリ層はユダヤ系の報道に一喜一憂させられているが、これもまたユダヤの日独伊離間策に躍らされているものに外ならぬのである。わが國にしてもいまだ重慶を全面的に屈せしめ得ないことや、北支等に於ける共産軍の相変らぬ蠢動(しゅんどう)等の事象は、ユダヤ系の通信に依って如何に誇張されて世界に伝播されているかを思はなくてはならない。強大なる陸海軍國を前後に敢闘する盟邦に対しては、一戦線の消長如何に拘らず、絶対の信頼を維持することこそ武士道國日本の真面目でなくてはならない。各個撃滅を目標とする奸敵が幾千年の訓練を経た悪逆無道の猛者であることを我々は銘記しなくてはならない。

ここにフランスについて一言しよう。近来の新聞紙に依れば、ラヴァル首相はパリに於て「ユダヤ人がその存在するところの何処に於ても、一個の破壊的要素をなしていることは事実である」と言い、現在もフランスにはユダヤ人が氾濫しているが、この厄介者を除くことは困難である、と嘆いたそうである。独逸占領地帯に於ては独逸に於けると同様にユダヤ人マークを付けさせられたりしているが、非占領地域に於ては未だにユダヤ人は肩で風を切って闊歩しているのである。少数のフランス識者はユダヤ人とその支配者のフリイ・メイスン秘密結社のためにフランスの敗北が惹起されたことを自覚しているにも拘らず、現在のフランスには最早この「解体の酵母」に対して真の対策を施す力が消失してしまったかに見える。恐らくフランスには、米英に依る植民地の強奪によって二等國三等國に身をおとす外に可能性はないらしくさえ見える。そしてユダヤとしては、もともとフランス及びフランス人がかわいいのではないから、フランスの利用価値が消失されるに至るならば、フランスの滅亡をも決していとふことはないであろう。ユダヤとしては、自己の独裁下にないフランスには何等の未練もないことは自明である。従って現在のフランスには、ユダヤの走狗たるド・ゴール又はそれに類似のものが今後もなお相応に現われるかも知れない。このド・ゴールの如きは、英國諜報部のユダヤ人スピアス将軍の仲介によってその私生活の乱脈さを維持するために英に身売りをしたのであり、従って彼はユダヤの奴隷に外ならないのであるが、同じ系統の売國奴が、秘密結社の勢力の浸潤しているフランスに於ては今後も何時如何なるところに現れるかは想像だに困難である。

ラヴァル首相の言を引用したついでに、同じ演説中にある次の言説にもここに一言論及しておきたい。

「余が法王庁使節団又はクェーカー派の派遣団乃至は米國の外交団を接見すると、彼等は極ったようにフランス國内に於ける哀れなユダヤ人の負わされている運命を緩和するように世に向って説くのである。」

とラヴァル首相は言っている。首相に向ってユダヤ擁護を要請するこれらの三つは、第一にカトリック教であり、第二は米英系キリスト教徒であり、第三は注目すべきことにも米國の外交官であるが、これらすべてがユダヤ支配下にあることは今更縷説(るせつ:詳述)の要もないと思われる。しかしこの点に於ける正当なる認識に於ても欠如するわが國に於ては、フィリッピン等に於ける施政に思わぬ暗影を生ずることを覚悟すべきであろう。新旧キリスト教ユダヤ支配の現況については今は説明の暇はないが、米國外交官のユダヤ性についてはその大使の十人以上、その公使の五人以上がユダヤ人であることによっても明瞭であろう。例えば前駐日大使グルーの如きも恐らく例外ではないらしく、在留中はロータリー倶楽部員達の賛嘆の的となり、帰國しては戦争熱の扇動に狂奔していることによってもそれは証されるのである。

 

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猶太と世界戰爭(新仮名)14

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第二章 猶太と世界戦争

一、猶太の人間還元(昭和16年5月)

― 猶太問題研究根本原則十箇条 ―

第一条 猶太人は有史以来、少くとも旧約聖書と「タルムード」以来、かの著名な選民思想に生きている。そしてその内容は、エホバの命に依る世界征服の信仰と、同じくエホバの命に依る非猶太人動物視とを根本としている。それ故に猶太人に取っては、その世界支配に役立つ限りに於ては、動物としての非猶太人を強圧し、殺戮し、掠奪し、搾取することは神命であり、また虚言と詐欺と詭辯(きべん)も神命である。猶太の本質として世界周知の「底知れぬ憎悪」がまた神命に基づくことも自明である。また猶太人が非猶太人に対して何等の「責任」を持たないのも同じ理由に依るのである。そしてこれらの神命に背く時、猶太人自身がエホバのために殺戮され、殲滅されることになっている。

 

第二条 猶太人が拝金主義に於て天下無敵であることは周知であるが、往々、猶太人が「知力」に於ても偉大であるとされることがある。しかし猶太人のこれら二方面に於ける偉大さが、所謂マイナスの偉大さであり、破壊に於ける偉大さであり、悪魔的な偉大さであることは、第一条を想起する時、直ちに理解される。「金儲けが上手」ではなく、「詐欺が巧み」なのであり、「頭がよい」のではなく、「嘘がうまい」のである。旧約聖書及び「タルムード」以来、同一事を四十幾種かずつに肯定もし否定もすることを訓練されて来ているのであり、しかもそれをエホバの神命として行って来ているのであるから、以上の偉大さは当然であろう。赤色帝國主義理論、桃色法学乃至社会学理論、黒色哲学理論等のあらゆる國境抹殺主義と、世界の金の七割乃至八割の集積とは、同じ本質の二つの方向への発現にすぎない。

 

第三条 従って非猶太人に取っては、反猶主義は単に正当な自己防衛であるにすぎない。そしてもしその反猶主義が、世界十幾億の非猶太人を防遏(ぼうあつ)と殺戮と掠奪と搾取から救い出し、虚言と詐欺と詭辯(きべん)とから守る意味を有し得る場合には、それは全く人道的である。世界の言論通信機関を独占する猶太の宣伝に躍らされて、反猶主義は少数民族の排斥であると鸚鵡(おうむ)返しに言う如きは、冷静な批判力のある非猶太人のなすべきことではない。古今東西、猶太人の集まる所に必ず排猶現象の生起することを正視せよ。あらゆる場合に猶太人のみを正当なりとする立場は、世界支配を目標とする猶太人自身のそれとしては意義あるものであろうが、非猶太人の立場としてはこれ以上に無批判にしてまた屈辱的なものはあり得ないのである。非猶太人みずから自己を獣類なりとし、猶太の世界支配に協力することによって人間猶太人の仲間となることを光栄と感ずるのでない限り、かかる宣伝に盲目的に躍って、所謂人為的猶太人の仲間入りをしてはならない。

 

第四条 猶太の金力と知力とを見て、ある者はそれを恐れ、ある者はそれを利用せよと主張する。然しこれは二つながらに猶太の本質を認識せざる所より来るのである。恐怖することは、迎合の場合と同じく、猶太を増長せしめる以外に何の効もないことは歴史の証する所であって、所謂『人情』などという如きは、この憎悪の民には薬にしたくもないのである。情をかける事によって改悛せしめ得るなどというが如き甘き感傷に捉われてはいけない。況(いわ)んやそれを利用しようというに至っては、全く言語道断である。これは単に猶太人がそれ程に甘からずまた頭もそれ程に悪くはないというためではなくて、それが実に盗金と賊品との利用又は分配を求める事に外ならないからである。世界に実例が屡々(しばしば)あるように、黄金と鉄と石油とに目が眩んで、このような恥辱に甘んじ、操を売ってはならない。殊に迎合し共謀する事によって自己の利益を図ろうとする如きは、猶太人以下に堕せるものと言われても、辯明(べんめい)の余地はないであろう。

 

第五条 猶太利用は殺人者乃至盗人との協力であるが、反対に猶太人によって利用されることもまた身を彼と同列に置くことになるのである。特に注意すべきことは、前条の利用説が多くの場合に、卑賤なる拝金宗乃至唯物論者に見られるのに反して、これは善良なる非猶太人に多く見られる現象であるということである。このうち最も恐るべき場合は、猶太の世界攻略のこれも巧妙なる手段としての内面的侵寇である。英帝國に於てなしたように、征服しようとする國の主権者と猶太とが同祖同種族なりとする遣り方と、アメリカ合衆國の場合に於てなしつつあるように、攻略せんとする國を自由と正義との國なりとして賞賛する遣り方とは、この場合の是も代表的なものである。そして前の場合には、多くは愛國主義を装う者又は國粋主義を自負する無批判者流を利用し、それによって目標國の上層部と愛國陣営とを無意識的なる猶太の援兵にしようとする。次に後の場合は、現代に於ては殆ど世界的に最も時代遅れであり、最も無批判である所の所謂インテリ層に働きかけることによって、彼等を無批判なる猶太の傭兵としようとするのである。

 

第六条 戦争と革命とを欲しないならば、殊に猶太の世界制覇に役立つ以外の意味なきそれらを避けようと欲するならば、万國の非猶太人よ団結せよ。そして猶太の本質を明らかにし、その策謀を暴露せよ。そして単に黄金帝國主義のみならず、トロツキー第四インター等に至るまでの総ての國際主義が、意識すると否とに拘らず、直接又は間接に、猶太の世界征服の機関であることを確認せよ。あらゆる平和団体、社交団体にして、奇怪なる國際的伝播力を有するものもまた然ることを確認せよ。フリイ・メイスン秘密結社(主として主権者の側近・外務・政党・軍部を目標とする)乃至ロータリー・インターナショナル(主として財界・学界・司法部を狙い、フリイ・メイスン結社の禁止されている國に於てはその代理を勤める)よりオックスフォード・グループ・ムーヴメント(主として宗教界に食い入ろうとする)に至るまで、その本質が上述のものなることを知れ。そしてそれらの会員は、かなりに上級の者にあっても、特にその会員が國家又は社会に於て上層部に属する者である場合には、結社の真の秘密に何等関与させられていないことを銘記せよ。この謀略の場合にこそ、猶太人の偉大さを認識すべきである。また、あらゆる流派のキリスト教徒もまた、ルターの誤訳を未訂正の儘に盲信してエホバを「神」乃至「宇宙神」なりと信ずる限りに於ては、上記の結社の会員達と同じく、所謂「人為的猶太人」である。

 

第七条 猶太問題は結局思想問題である。従ってそれは、自由主義に「自由」ありなどという考え方をする無批判者や、自由主義の発展が赤色帝國主義であることを認識し得ぬ程度の楽天主義者には、その存在さえも理解し得られぬ難問題である。それ故に、彼等がそれを否定し、それに反対することそのことが、既にこの問題の真実性と重要性とを証明する。あらゆる合理主義者・相対主義者・唯物主義者・利己主義者に取っても、それはその理解を超える。彼等すべてに取っては、この問題を理解することは、否、単にそれの存在を認めることその事だけが、既に彼らの存在を根底まで揺るがせるのである。その理由は、彼等の大部分は、何等かの意味に於て、前条の「人為的猶太人」であるか、或いはそれに近似する思想史上の位置を占めているからである。

 

第八条 猶太の本質と歴史に通じない人は、以上の諸箇条に於ける如き猶太批判に対して、猶太人と雖(いえど)も全部がかかる世界支配欲に生きているのではなく、従って猶太人全部をかように批判するのは不当である、と主張するのが常である。しかしこれは、軍隊に於て全兵員が統帥本部の計画の詳細に通じていないが故にその兵員は戦闘員ではないとするのと同一の論法であって、「旧約全書」と「タルムード」が猶太法師に依って猶太教会堂に於て猶太民衆に講ぜられている限りは、たとえ指導的地位にある猶太人の場合のようではないとしても、なお、各猶太人には「本能的に」以上の諸箇条に記述された傾向が存するのである。これは全日本人(時局便乗の偽装転向者をも含めての赤色人のみは例外とした方が適当であるかも知れない)が、「本能的」に忠君愛國の精神を持つのと正に同様である。

 

第九条 然らば猶太人は人間に非ずして、動物であるか。非猶太人としての吾人の立場より言えば、猶太人と雖(いえど)も動物ではなく、人間であって、この点に於ては吾人の立場は猶太人のそれと対蹠(たいせき)的である。それ故に吾人は、この人非人種族もまた何時かはその本来の「人間」としての資格を回復することを信じようとする者である。但しこの猶太の「人間」への還元は、次の如き諸条件が完全に実現する迄は、絶対に不可能である。

  • 旧約聖書を根本的に改刷し、「タルムード」の大部分を焼却し、エホバ信仰を棄て、猶太法師職を廃し、猶太教会堂を破棄し、加えて割礼を廃止すること。
  • 少なくとも四分の一猶太人に至るまでの全猶太人が同一場所に集って國家を形成すること。
  • そしてその世界征服の悪夢に生きた幾千年間と同一の年数が経過すること。

 

第十条 日本と猶太との間には、その本質に於て、その歴史に於て、その性格に於て、その道義に於て、その人間性と人倫とのあらゆる点に於て、百八十度、否、三百六十度の差がある。即ち存在の次元が全く異なるのである。それ故に、日本的原理が世界的に認識される迄は、猶太人の世界征服の欲望は断絶されることはなく、従ってまた世界に真の平和と正義とはないであろう。然もその日の以前に於て、日本と猶太との正面衝突は必然の運命であると考えられる。非猶太人と猶太人との戦いの序幕戦である今次欧州大戦に続くものは、如何なる形式となるかは別として、不可避的に日本と猶太との戦いである。そして真に猶太問題を解決し、全人類を「悪」の手より解放し得るものは、八紘為宇の精神を奉ずる日本以外にはないのである。然もその八紘為宇の精神とは、糞味噌同一視的悪平等人道主義ではなく、前世紀的空想たる猶太人東洋人説の如き安価なる感傷ではなく、何等の根拠なき猶太教盲信者の日猶同祖説の如きお目出たき神話ではなくて、まつろわざる者はこれを討ち平げる処のものでなくてはならぬ。そしてその後に於てのみ猶太其者も「人間」に還元され得る秋(とき)が来るであろう。猶太のお先棒として「世界戦争」を目指す「人為的猶太人」の群であるフリイ・メイスン結社支配下重慶政府を討つことが聖戦であるならば、その本拠を覆滅することがより大にしてより崇高なる聖戦であることは、論証の要のないことであろう。(一六・五)

 

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