世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)15

7. アーサー・ブリスベーン氏の猶太人援助

『汝等は何を饒舌しつつあるか、吾等が全世界の新聞を其の掌中に収めざる間は、汝等の総ての努力は徒労に過ぎない。我等は民衆を眩惑し且つ欺瞞せんが爲、全世界の新聞を支配し吾人の勢力下に置かねばならぬ。』(猶太人モンテフィオレ男)

新聞記者としてのブリスベーン

吾人は更に今一度近世の猶太問題に関する吾人の研究を中絶し、他の方面に表われたる同問題を観察しようと思う。それは1920年6月20日ハースト系新聞サンデー紙のTo-dye の論説に、二欄余りに亘って述べられたアーサー・ブリスベーンの執筆した評論である。アーサー・ブリスベーン米國第一流の最も有力なる新聞記者なりと称するのは、或いは過言かも知れないが、兎に角彼は有識記者中の一人に数えられる人物である、従ってブリスベーン位の記者が、猶太問題について、大胆に論述を公開すると言うことは、米國に於いて此の問題が一般に重大視されているということになる訳である。

ブリスベーンは猶太問題を研究したことのない人である、彼個人として會談するときには恐らく彼は、此の問題について毫も知る所がないと告白するであろう。併しながら彼は中々やり手の記者であるからして、状況上猶太問題を説述するということが、新聞経営上必要であると言う場合には、彼は勿論一見識ある立論を為すことが出来るのである。抑々如何なる民族にも善良なところはあるもので、その民族中に或いは卓越する人物を輩出したものもあり、又過去の歴史に於て頗る興味ある活動をして居るものもある。 -此れだけでも人類社会に現出したる某國民についての一論説を作るためにはその材料十分である。一体世人は問題の本来の内容にまで立ち入って研究しないもので、一民族に関する論説は、通常二三回の新聞論説で取り扱われ、爾後決して該問題には触れない、凡そ新聞記者たる人々は此の呼吸を能く心得て居るものである。

ブリスベーンの一般記者としての性質も、凡そ右のようなものであるが、併しながら彼は長年ニューヨークに生活して居り、頗る重大な性質の財的関係を米國の同業者等と持って居るものである、されば彼は勿論多少とも大トラストの内情に通じ、且つ大銀行団の内幕をも見たものであり、尚絶えず猶太人たる同志及び相談相手から取り囲(巻)かれて居ったものであるから彼は必ずや此等のことについて独特の意見を持って居るに違いない。けれども新聞記者と言う職業は、自己の國の人種に関する意見を論述することは、ちょっと控えなければならないことで、それは恰も見世物師が、自分の見世物の贔屓客に関する意見を発表することが、其職分でないのと同様である、又実際作家としては、其の作物の性質に関して、自己の意見を発表する必要もないのである。新聞の持って居る権利は、頗る制限されたものであって、単に社会に対して刺激を喚起すればそれでよい。従って新聞の有する可能性も亦頗る局限されて居って、新聞が論述するを可とすることを感じた場合に於てのみ論説となりて表われるに過ぎないのである。

従ってブリスベーンが、猶太問題について執筆するの必要ありと知った時は、即ち彼が何を書くべきかを予想し得た時である。合衆國内又はその他の國に於て、猶太人支配の範囲及び原因について、その根本を暴露しようと試みられた際、彼は之を真に猶太人排斥と感じたのであろうか、或いは彼は有為なる新聞記者としての敏感を以て、今こそニューヨーク及び全米國の有力なる人々の注意と尊敬とを贏(か)ち得るに恰好の機会が到来したと感じたのであろうか、それとも又(これは可能の範囲内にあるのであるが)彼に日曜論説に一文を草すべき機会が来る迄又は經營主側が彼の希望を認定する迄は、暫時待とうと欲したのであろうか? 斯くブリスベーンの動機を疑うのは彼を非難する為ではない、如何に微妙なる絲に論説が引っ掛かって居るかと言うことを暗示するに外ならないのである。それはさて惜いてブリスベーンも亦猶太人に対する行為の辯護者として、一般の猶太人著者と同様、世人が存在を否定する猶太問題の一部を構成する幾多の事実を陳述するの已むなきに至って居る。

世界の成功者と世界商業利得の二分の一

ブリスベーン曰く「大都市に於て世人が遭遇する成功者の名前は、皆猶太人の名前である」と、ブリスベーンの町ニューヨークに於ける猶太人の成功者の率は特に大なるものがある。

又曰く、「地球上の人口の百分の一にも足らざる猶太人が、その偉力、企業心、熱心及び賢明に依って、世界の商業利得の百分の五十を所有して居る」と。

この事実を見て、ブリスベーンは如何に感じているであろうか?、彼は又猶太人が如何にして斯かる結果を獲たであろうか、と言うことを熟考して見たであろうか、又これらの成功なるものが、人道上大いに非難すべき性質のものでないと彼は揚言し得るであろうか? 又猶太人の事業の此の決定的成功の利用法を以て、彼は間然する所なき方法として満足し得るや否や、又斯かる猶太人の事業上の成功は、彼が列挙した如き称賛に値する諸資質の賜であって、決して非難すべき性質によるものでないと、彼は何時でも証明し得るの準備があるであろうか? 猶太人が経営するハリマン(Harimann)鉄道の競争に彼は同意して居るであろうか? 又彼は猶太人の懐中より出でたる金が、眞實有用なる鉄道敷設に用いられたことを聞いたことがあるであろうか。

平和会議に於ける猶太人[1]

 

若しブリスベーンにして、公平なる人士に托して実際の材料を蒐集させる意志があるならば、彼及び読者諸君の蒙を啓くべき幾多の文献を提供することが出来る、先ずその文献の一つは「平和会議に於ける猶太人」と題する冊子である。この書を読むとき、ブリスベーンの徒は、必ずや何人が平和会議に於て最も卓越した人々であったかを知るであろう、又何人が平和会議に於て最も頻繁に出入りし、何人が最も重要なる委員会に出席したかを知ることが出来よう、又如何なる種族のものが、重要人物の秘書として最も多く働いて居ったかを窺知するをえるであろう、又人々が重要人物に面接するための諸経路には、如何なる種族が多数の歩哨を配置し、そして各種の接触は此の歩哨を通じて保たれなかったか、又平和会議を以て舞踊及び贅沢なる宴席と為すべく極力努力したものは何人種であったか、平和会議の牛耳をとる委員達を、頻繁に私的晩餐に招請したのは又何人であったか等を詳細に知ることが出来るであろう。

ブリスベーンの卓越した通信能力は既に周知のことである、されば彼が配下の記者を斯かる任務に配置し、集まりたる諸報告を印刷に付する時は、茲に彼の名声を馳せうる一つの歴史が記述されることとなるであろう。

更に斯の如き方法に依る時は、先ず「如何なる問題が平和会議に於て勝ちを得たか」という様な文が出来る訳である。即ちブリスベーンの配下のものも、何故斯くも多数の猶太人がパリに赴いたか、又猶太人等が如何にしてそのプログラムを貫徹したかと言うことを究めるに努力するに違いない。就中猶太人のプログラムの微細な一点と雖も、拒否され又は変更されたことがあるかという様なことを探究するに努めるに違いないのである。斯くする時は、「会議に提出された百般のプログラム中(人々が白熱的希望を懸けて居った主議題をも含む)円滑に議了を見た唯一の議題は、実に猶太人のプログラムであった」と言う事実を彼ブリスベーンは探知して驚倒するであろう。

アラスカは米國領にあらず

ブリスベーンの調査すべき局面は無数にある。そしてその何れの方面に於ても、彼はアラスカが何人に属して居るかを知って居るであろうか?思うに彼は他の人々同様(詳細を知って居る少数者を除く)アラスカ地方は合衆國のものであると言う考えを持って居るに違いない、併しそれは間違いである、アラスカは間もなく合衆國が属するに到る其の國民の所有する所なのである

経済界の秘密

ブリスベーンは國家の新聞業と言う有利な立場にあって、彼は米國の経済生活に於て、労働と言う観念に依っても、將又資本と言う観念に依っても了解することの出来ない或る分子が活動して居るということを知って居るであろうか。又彼は生産と言う意味に於ける労働と言う力でもなくまた同様に資本と言う力でもない或る力が、或いは労働者を扇動し或いは資本家を刺激して、労資の離隔分裂を出来るだけ増大しようと計画して居ることを些少なりとも知って居るであろうか。そして又彼は経済状態の研究に当って、其処に瀰漫(びまん)する所の如何にしても説明することの出来ない秘密に際会し、その背後に潜む何者かの片鱗を認め得たに違いない。此の何者かを発見することこそ、方に(まさに)新聞業社としてふさわしい企てであると言わねばならない。

米國の砂糖と綿花

ブリスベーンは、嘗て合衆國の砂糖配給を一手に占めて居る人々の名前を公表したことがあるであろうか、又彼は此等の人を識っているであろうか。

更に彼は米國に於ける綿花業を仔細に観察したことがあるであろうか。銀行の圧迫によって、綿花生産地の所有権が変更し、綿花生産が故意に困難にされ、遂に反物及び衣服の価格の変動を来すの事実を知るや否や。斯の如き研究に際して、彼は思惑買占めを為す人々の名前に注意したことがあるであろうか、思惑買が如何なる方法で行われ、又何人がそれを為すかを知ろうと努めたことありや否や。彼に若し真に其の意志があり、そして配下の有為なる専門家を督励してこの問題に従ったならば、彼は以上のことを凡て知り、之を國民に示すことを得るのである。

憎悪と偏見

抑々憎悪及び偏見は、猶太問題を科学的に研究することによって除去され、且つ防止し得るものであって、吾々は能く識らないものに対して、偏見を持ち又能く理解しないものに対して憎悪するものである。猶太問題の研究は、啻に(だたに)非猶太人に対して認識及び見識を新たに与えるばかりでなく、猶太人に対しても同様に認識と見識とを新たに与えるものである。殊に猶太人は非猶太人に比して一層此等の観念を必要とする。猶太人がある事柄を見、理解し、そして共鳴するという風になれば、問題の大部分は相互の理解の基に解決消滅するのである。非猶太人を、猶太人に関する事実に対して覚醒させるというが如きは、単に一部の目的たるに過ぎない。猶太人をも亦この問題の事実ということに対して、受感性あらしむることが重要欠くべからざることである。そして非猶太人をして、単なる辯護者の位置より進んで、更に公平無私事実に精通する裁判官たらしめる必要がある。そして此の調査研究を進めるに従って、非猶太人及び猶太人が、互いに誤解して居ることを発見する様になる。斯くしてこそ、猶太問題に於て更に多くの知識を必要とする場合には、此の知識及び識得を言論に発表するの途は容易となり、何等の妨害をも見ない様になるのである。

ブリスベーンは「単に記述されたに過ぎない」書を読み、そして少数の猶太人の名を列挙して居るが、之を以て彼は猶太國民に対する理解を増進したものと言えようか。

凡そ新聞と謂うものの性質から観る時には、猶太人の勢力を探究することなしに、単に世界の視聴をその当座当座に誤魔化そうとしても、それは無理なことである。そして新聞が露國人、リトアニア人、ドイツ人、英國人のことを報道して居るのは、単に事実の輪郭だけを報知して居るものであって、決して事実の神髄に触れて居るものではない。斯様に名前を誤魔化していることが、抑々全問題に於ける最も面倒な一要素となるのである。されば世界人類をして明瞭に首肯理解させる為には、実際の姓名を挙げ事実を事実として直言し、実際の性質を述べるべきである。ブリスベーンは大いにこの問題を研究し、以て彼が目下従事して居る所の他の問題に対する指針と為すべきである。

兎に角ブリスベーンは既に猶太人に関する論述を為したからして、爾後恐らく他人の書きたる同問題については直ぐに眼に映ずるであろう。そして彼自身の読む材料の中に於て、曩(さき)に彼の注意した以上に多くの猶太人に関する注意事項のある事を発見するであろう何れ遅かれ早かれ真摯なる研究家及び正直なる著述家は、世界に於ける猶太人の勢力を解する鍵を発見するに至るであろう。

ディアボーン・インデペンデント(Dearborn Independent)社は、唯他の出版物が部分的に為したるものを、組織的に且つ詳密に亘って公表したに過ぎないのである。

米國新聞の恐怖

合衆國の新聞界、言論界には、猶太人恐怖と言う気分が漲って(みなぎって)居る -斯かる恐怖は今や歴然として表面に現われて居る、世人は宜しくその根底を研む(つとむ)べきである。若し吾人の見る所にして誤りがないならば、ブリスベーン亦此の恐怖を感じたものである。仮令彼は恐怖を意識して居ないにしろ、確かに恐怖に囚われて居るものである。此の恐怖とは一民族に不正を加えるという性質の恐怖ではない、一民族に絶対的賞賛以上の或るものを公表するという恐怖である。彼にして沈思黙考する時は、「今やアメリカの新聞界は、辯別力ある批判の爲に、斯かる賞賛を制限すべき任務の前に直面している」と必ずや確信するであろう。

 

[1] 第一次大戦後のパリ和平会議のこと

 

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6. 言論雑誌界に猶太問題の出現

『我が広汎なる計画は、既に吾人の憧憬する地点に近づきつつあるが、之に向かって非猶太人の各政府を敢て動かしていくためには、所謂大國の出版物の援助により、密に吾人の製造した輿論を以てしなければならない。極めて少数の例外を除いては、すでにすべての出版物は吾人の掌中にある。(シオンの議定書第七條)』

露國の真相発表の不可能

嘗て数年前のこと、アメリカの某大学教授が、露國に視察に赴いたことがある。此の人は啻(ただ)に学会の権威者たるのみならず、明敏な評論家である。彼が露國に赴いた目的は、露國政府の為政者が如何に猶太人を取り扱って居るかということを視察するにあった。彼は露國にあること三年にして一度帰米し、一年の後再び赴いて殆ど一年間露國に滞在した。この前後二回に亘る露國視察を了(お)えて彼の帰國するや、彼はアメリカ國民に向かい露國の猶太問題に関し詳細に報告するの必要ありと考え、頗る周到綿密なる一文を草し、之を合衆國に於ける第一の某出版業者に送付した。此の出版家は親しく此の著者を招致し、殆ど二日間に亘って種々懇談し、大いに実情を聴取して感動する所あったが、遺憾ながら此の論文は出版すること不可能であると謝絶した。依ってこの著者は更に有力なる他の雑誌の発行者に対し掲載方を交渉したが、結局は右同様体よく謝絶された。思うに斯く出版掲載を謝絶されたのは、教授が文筆の才がなかった爲ではなくして、その真因は出版業者が掲載を欲しなかったに因るものである。斯くて此の教授の論文は遂にニューヨークに於ては印刷発行を見ずして終わった。

教授の論文は右の如き結果に終わったが、猶太問題は遂にニューヨークの某雑誌に進入するに至った。猶太人等は極力問題を粉砕し、以て斯かる問題は、現実に存在するものでないと言う主張を、公衆に信じさせようと大いに駁論する所あったことは勿論である。

ここに珍なる現象は大雑誌が -これら大雑誌の経営上の後援者を公表すれば一層興味深きものあらん -猶太問題に関する次の一論文のみを掲載したことである。此の代表的論文の目的たるや、猶太問題なるものが存在しないことを証明しようとするにあったが、公衆は却って該論文の型からいろいろ看破し得たのである。

メトロポリタン誌の猶太問題発表

ウィリアム・ハード(William Hard)氏はメトロポリタン(Metropolitan)と言う雑誌の六月号に、猶太問題について一論文を発表した。ここに於て猶太人に捧げられた賛辞を鵜の目鷹の目にて蒐集(しゅうしゅう)する電信班、通信班がメトロポリタンの発行者を自己の同志として、一般民衆を慰安すべくハードの論文を利用し共鳴したことは、蓋し察するに難からざる所である。

此のハードの論文を熟読すれば、此の論文から幾多の反対の事実を察知し得る。即ちハードが此の論文により一般公衆に知らしめようとしたこと以上に、多くの事実を民衆は察知し得るのである。

ウィリアム・ハードの論文

先ず第一に此の論文に依って猶太問題が儼(げん)として存在することを知り得る。ハード曰く「ロンドン及びパリの社交會に於ては、猶太問題が話題となりつつあり」と、斯く社交界の事を叙述したのは、筆者が此の問題の重要ならざることを示すためであったか、それともハード氏の触接した範囲を示すに止まるものであるかは不明である。次でハード氏は述べて曰く、華盛頓(ワシントン)の某官界に於て、猶太問題に関する一文書がかなり広く観覧されていると。又更に彼はニューヨークワールド紙に発表した彼の猶太問題に関する電報通信のことを述べて居る。ハードの此の論説は些か(いささか)過早(早すぎる時期)に発表されたため、ロンドンタイムスの上記電報通信に関する評論をも加えて発表することが出来なかった様である。併しながら兎に角真正の事実を研究する読者は、此のハードの論説に依って、猶太問題が実際に存在することを看破し得るのである。就中猶太問題なるものは下層社会に存在するものではなくして、寧ろ猶太人の勢力、猶太人の支配権の事実が、最も豊富に存在する社会に於て存在するものであることを看破し得たのである。然り猶太問題は斯くて闡明された -ハードは詳細にこれを確証して居る。彼ハードは、この辺にて論旨を打ち切り、猶太問題が上流階級の人々及び國民的に又國際的に有力なる人々の間に於て、頗る真面目に研究されていることについては述べて居らぬが、此の理由は彼が此の事実を知らないことに依るのであるか、或いは斯かることを叙述するも自己の論説に無益だと思惟するのか、両者中其の一であろう。

之を要するにハードは、猶太問題が存在すること及び猶太問題が研究されて居ること、就中猶太問題を判断して之を説述するに尤も容易なる地位にある人々から研究されていることを、事実として確定したものである。

陰謀観念の存在

此のハードの論説を読んだ読者は、誰しも猶太問題が陰謀的性格を帯びて居るものであると言う印象を受けるのである。著者は曰く「予は徒党的誓約を信じる者にあらず」と世人は斯かる告白を尤も容易に受け入れるであろう、何となれば非猶太人的思考法にとって、徒党的誓約即ち陰謀程軽蔑するものは無いからである。蓋し陰謀なるものは非猶太人の精神がら見れば全然不可能事なるが為である。抑々ハード氏は非猶太人系の人物である、されば彼は如何に高尚なる誓約と雖も、かなり多数の非猶太人を仮令一時たりとも結合させることの困難なことを知って居るものである。元来非猶太人は陰謀を為すの性格を持って居らない、故に非猶太人が徒党的誓約を為すことありと仮定しても、斯かる誓約は一朝にして恰も砂製の縄の如く崩壊するのである。非猶太人は其の血液の中にも又その趣味上に於ても、猶太人の如き団結性を持たない。即ち非猶太人は既に天性上徒党的陰謀観念を毫も有し得ないものである。従って非猶太人は敢て適切なる実証を挙げなければ陰謀などと言うことを信じる者ではないのである。

さればハードが陰謀を信じるの困難なことは容易に諒解し得る所である。然しながらハードは自己の論説を記述する為、猶太問題を論ずる毎に陰謀の観念は常に其の大部分を占めることを、殆ど歩々に(徐々に)承認するの止むなき立場に陥って居る。これ実にハードの論説を一貫する中心観念であって「猶太人の大陰謀」なる表題に於て、既にハードの観念が明らかに表われて居るのである。

猶太問題とソヴィエト問題の関連

著者たるハードは就中詳細に露國内の現象を論じて居る。そして往々にして猶太問題がソヴィエト問題と同様に論述されているかのような観さえある所がある。 -斯かる混淆の妥当ならざることについては、ハードも亦これを熟知する所である、たとい両問題相互が、明らかに相関連するものであっても、此の類似性を人為的に並列して猶太問題の為大いに利用しようとするが如きは、実に奸策と謂うべきである。然しながらハードが演繹した結論は別として其の例証した諸事実は頗る興味多きものである。

露國事情の観察

吾人は先ず第一に露國の事情を観察してみよう。彼の言に依れば、ソヴィエト露國の内閣内に猶太人は唯一名あるばかりであると、併しながら此の一人の猶太人はトロツキーなのである。勿論政府内には尚他にも猶太人が多数いる、ハードの言うのは単に内閣のことのみを指して居るのである。彼は実際の露國の支配者たる委員連のことにも言及してはいない、又トロツキーレーニンの支配権及び本来の勢力たる赤軍についても言及しては居らないのである。露國と同様ハンガリーに於ても亦統帥の地位には単に一名の猶太人が存在するに過ぎない、けれども此の一名とは余人ならぬベラ・クーン(Bela Kun)である。茲に於てか猶太人たるはトロツキー及びベラ・クーンの両猶太人のみなるに拘らず、何故に全ヨーロッパが、ボリシェヴィズムは大部分猶太的色彩を有すと確信し居るのであろうか、という問題に逢着(ほうちゃく)するのであるが、然しこれを以て非猶太人が愚かなる妄想を抱いて居るとすることは、ハードが猶太人の陰謀団結を不可能と為す以上に更に不可能であり、又猶太人の狡猾怜悧なるを信ずるよりは非猶太人の馬鹿なことを信ずるほうが容易であるという理もないのである。

乃ち(すなわち)ハードが述べて居るのは単に一部分のことに過ぎない、即ちトロツキーが露國の第一人者なること及びトロツキーがボリシェヴィズムの権力頂点をレーニンとただ二人で分かって居ること、そしてこのトロツキーが猶太人なることを述べて居るに過ぎない、此の事実は従来何人も否定しない所であって、ブランスタイン(Braunstin)(トロツキーが合衆國内のセント・ルイスに住まい居たる当時の名前)自身すら認めて居る所である。

ハードはさらに述べて「併しながらメンシェヴィキ(Menscheviki)も亦猶太人により指導されていた」と、此のことは実に驚愕に値する事実である。ボリシェヴィキの先頭にはトロツキーあり、メンシェヴィキの先頭にはリーベル・マルトウ(Lreber Martow)及びダン(Dan)あり -これらの人々は全部猶太人である。(ハードの言)

そして又右の両極端の党派と共に又一つの中央党が存在して居る。即ちカーデッテン(Kadetten)である。ハードの言に依れば此のカーデッテンは露國に於ける最強の國民的党派たりしものであって、方今(ほうこん、今は)パリに其の本営を有し、其の党首はヴィナーヴェル(Vinaver)-即ち猶太人であると。

右の事柄はハードが確定した事実である、即ちハードが挙げて居る猶太人等は、露國における政治界の三大政党を率いて居ったのである ――ハードは大呼して曰く、読者よ猶太人等が斯く分裂し或ることに注目せよ、互いに相反目闘争する人々の間に如何にして徒党陰謀が存在し得よう、斯の如き実情を考察する時には、猶太人が露國の政治生活の各期に影響を及ぼすことを寧ろ奇異にかんずるであろう、此の現状は猶太人達が到る所支配権を掌握するに努めるものであるという意見を幾分否定するものではないか、と。

米國事情の観察

然しながらハードの論文の事実に準拠して研究するときは、以上の外なお幾多の教訓を此の論文から発見することが出来る。ハードは合衆國に論鋒を転じて幾多の頗る興味ある事実を確認して居る、ハード曰く、合衆國にはオットー・カーン(Otte Kahn)ありと、然りオットー・カーンは時に合衆國にあり、又時に重要なるインターナショナルの用務を帯びてパリにもあり、又時として彼はロンドンにありて、英國の資本と米國の資本との連絡に任ずることもあるのである -此の連絡のことたるや、広範囲に亘って欧州の政情を相手とすべき企図である。世人はカーンを目して保守派と言って居る、然りある点に於ては確かに保守派である。然しながら或る人物を目して保守派なりと言い、又然らずというのも、要するに世人が観察する視角の大小に依りて異なるのみ。合衆國内の最も保守的色彩濃厚なる人々は、実際に於ては急進的色彩最も濃厚なる人々であるのだ。彼等の動機及び彼等の用いる方法は、諸事の根底に触れようとするものであって、彼ら本来の行動は過激的である。最近の共和会議に於て牛耳を取った人々は、一部の特種経済的利益に依って束縛されて居る人々からは、保守派と称されて居るが、その実彼等は過激派中の過激派であって、既に赤色の舞台を通り越して、今や白色となったものである。若し夫れカーンの背後に如何なる人物があるかを知り、又ハードが何を為し何を企画しつつあるかを、地図に依って示したならば、恐らく同氏を目して保守派と言うものはないであろう、輿論は兎に角として、吾人はハードの論述により、カーンが合衆國にあることを知るのである。

更にハードは「他面にはローザー・バスター・ストークス(Rosa Pastor Stokes) あり」とハードはこれと同時にモーリス・ヒルクイト(Morris Hillquit)を挙げて居る、彼の分類に依るときは、これら両人物は急進派の人である。ハードは此の猶太人の姓名と相殺する為、之に対立してユージーン・V・デヴス(Eugen V. Debs)とヒル・ヘイウッド(Hill Haywood)なる二名の非猶太人の名を挙げて居る。そして彼は此の二人の非猶太人の方が、先に挙げた猶太人よりも過激派として遥かに有力なるものとして居る、然しながらハードも久しく政情の研究に没頭した人であるが、苟も最近の政情を仔細に検討したものは何人も、此のハードの考え方には同意するものはないであろう。デブスもヘイウッドも、其の全生活に於てストークス及びヒルクイトの様に有力な政党を作らなかった、そしてデブスとヘイウッドは寧ろ前二者の勢力下にあるものである。

若し世人にして合衆國に於ける社会主義運動を仔細に観察したならば、具眼の士は恰もハードの論文に於けるが如く、必ずや猶太人の名を見るであろう。ハードが所謂保守党及び急進党の党首として猶太人の名を列挙して居ることは、誠に吾人の深く考えねばならぬ所である。ハードの確定に基づき読者は、合衆國に於ける二大政党の統率者が猶太人であることを認定し得るのである

尚、ハードは「アメリカの労働組合をして反急進派たらしめるため、最も努力し最も統率の実力を有したものは猶太であって、彼の名はサミュエル・ゴムパース(Samuel Gompers)なり」と言って居る、読者は此の事実よりして、アメリカの労働団は一猶太人により率いられて居ることを知るであろう

けれども次に諸君はハードの論文に依って「最強の反ゴムパース職工団即ち連合被服職工組合(頗る強力にして頗る大いなる組合である)は一猶太人シドニーヒルマン(Sdney Hillmann)に依って率いられている」ことを知るのである。

即ち此の米國に於ける有様は、曩(さき)に述べた露國に於けるものと全く趣を同じくして居るものであって、政治的運動の両方面及び此の運動内部に於ける発動力は、共に猶太人の統率下にあるのである。此の事実はハードの本来の意志に反して、ハードが之をその論文の性質上より認めざるを得ない所である。

そして中央党即ちハードの名づける所に依れば「自由中央党」は、中間に位置する総ての人々を網羅するものであるが、此の党内にもジャスティス・ブランダイス(Justice Brandeis)ジャッジ・マック(Judge Mack)及びフェリックス・フランクフルター(Felix Frankfurters)の名前が挙げられて居る。これらの人々の世界戦争終了後に於ける活動は頗る興味あるものである。

ハードは又左の説を述べて居る「なお二人の猶太人の名前を挙げる必要がある、それはギュンツブルグ(という)男であって、勿論猶太人である、彼はバクマテッフ(Bakhmeteff)大使の露國大使館に於ける忠実なる館員で、今一人は露國通信事務長官として新聞にもしばしばその名前の掲載されているエイ・ジェイ・サック(A.J. Sack)である」と。

猶太問題存在の事実

以上は如何に見るも決して完全なる猶太人名簿と言うことは出来ないが、併しながら兎に角頗る興味あるものである。ハードが軽蔑的に殆ど無価値であると述べようと欲した文書に却って重要な価値がある。吾人がここにハードの所説を逐一子細に検討した所以は、啻に(ただに)ハードが述べた事実を観察するに止まらず、なお他の驚くべき事実を発見したが為である。

この文書が猶太問題を捏造したものではない、若し猶太問題なるものが、実際に存在しなかったならば、何故ハードが此の問題を論説する必要があろう、又メトロポリタン紙が之を掲載する必要があろう。

ハード氏の功績は、世人が予期しなかった所に猶太問題が現存し、且つ之を闡明する要あるを確証したにある。「猶太人の大陰謀」と言う論文を書かせた所の人は、必ずやこれに対する必要を感じたが為であろう。

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三 反猶太主義は米國に生ぜんとす(生じようとしている)               

扨て米国に於てアンチセミティズムは以上の中如何なる形をとって現われて来るのであろうか、兎に角猶太人の大衆を排斥する様な形式を取らないことだけは確実であって、寧ろ群衆行動は却って猶太人自身の側に存在して居る、即ち非猶太人の各個人に対し、若しくは公衆の注意を猶太問題に向けようとするあらゆる行為に対しては、猶太人は一致団結して衆の力を以て之に向かって来るのである。

(1)反猶太主義は米国に現われん(現れるだろう)

アンチセミティズムはアメリカにも軈て(やがて)は来るであろう。この精神運動及び思想は地球を漸次西進する、この西進の法則に従ってアメリカにも必ず来るであろうと思う。

彼のパレスチナは猶太人が最も久しく居住した所で、現在もその数は中々多数である。此のパレスチナの北方に於てはアンチセミティズムが明瞭に存在し而も中々きわどい所まで突き進んで居る。その西方ドイツに於てはアンチセミティズムは同様に明確なる形をとるが、併し其の力及び強度は未だ革命を齎(もたら)すには不十分であった。更に西方に進んで英國に於てはアンチセミティズムは認め得るほどになって居るが、元来英國居住の猶太人の数が比較的少数であること及び彼等が支配階級と緊密なる関係にある等の結果、英國のアンチセミティズムは寧ろ感情上のアンチセミティズム位の程度で未だ運動としては存して居ない。合衆國にあってはアンチセミティズムは未だ判然と輪郭を明らかにしては居ない、併しある程度の不安を惹起して居り且つ一問題となって居る。

アメリカに於ける猶太問題は、切実になりつつあるから、凡そ具眼(ぐがん)の士は猶太人の短見者流の反対等に拘泥することなく、諸外國の如き禍を未然に防止することを心掛けねばならない。そしてこの問題を根本自政党に見解し、永久の解決に必要なる根本的の材料を諸外國に供給することはこれアメリカの公然義務である。然らば之が為に如何にすべきか、唯々次の如くするより外に策はないのである、即ち従来諸民族が苦しみの本源に触れることなく悩んだ状態を悉く解剖分解し、極めて公明正大に論究するより外に此の目的を達する方法がないのである。

(2)米國に猶太問題の生ずる原因

何故に猶太問題がアメリカに於て重要な問題となって居るかと言う第二の理由は猶太人が計画的に大挙アメリカに流れ込んでくるからである。此れは単に人間が這入って来るばかりと考えてはならない、思想も共に這入って来ると考える必要がある。抑々猶太人は其の内心に於て、非猶太人に就いて如何なる観念を持って居るか、従来猶太人の著者中一人もこれを大観して完全に説述したものはいない。

併し猶太人は恐らく将来も斯様な説明は為さないであろう、何故ならば若し猶太人にして極めて厳正に何の遠慮もなく、事実に立脚して之を論述するならば、其のものは必ずや猶太民族から烈しく排斥されるからである。

扨てこれらの入國者は非猶太人を祖先伝来の仇敵と見做して居るものである -彼等にして見れば斯う思うだけの相当な理由があるであろう。 -そしてこの観念に基づいて猶太人自身の行動を律すべきものと信じて居るのである。そして此の入國者は如何にも孤立無援の様に見えるが、事実は決してそうではない。例えばポーランドに於て猶太人は、大戦間非常に虐待され、其の所有品は何一つ残らぬ迄没収されてしまったという。然るにポーランドにあるアメリカ領事館には日々数百名の猶太人が、アメリ渡航の手続きをしに来たのであった。即ち彼等は斯程虐待され、何一つ残らぬ迄に奪われたのであるから、ちょっと考えれば非常に苦悩と貧窮のどん底に陥っている様にも見える。然るに豈計らんや彼等は斯かる長途の旅行を企て且つ移住を為し得るのである。斯様に多数のものが旅行するということは、他の國民の到底為し得ざる所で、ただ猶太人のみが行い得る所である。吾人は彼等が喜捨や施しや其の他これに類似の慈悲事業を頼って居るものでないことをも知って居る、猶太人の生活と言う船は他の諸民族の船が難船する様な嵐の場合にも依然として浮かんでいるのである。猶太人は能くこれを承知して居る、そして之を喜んで居る。併し彼等が渡米の時に於ても矢張り彼等が以前の住地に於て、其の地の人々に対して抱いて居ったと同様彼等独特の感情を抱きつつ移住するのである。彼等は名簿には露國とかポーランド人とかその他の某國人となって居る、併し彼等は立派な猶太人である。

以上斯の如く述べたからと言って是は決して人種的偏見ではないのである。

(3)猶太問題の中心

嘗て欧州で蔓延した思想も、アメリカに到れば必ず変化したものである。自由の思想、政治の思想、戦争の思想等皆然りである。さればアンチセミティズムに於ても亦同様米国に於て変化するであろう。猶太問題の中心はアメリカたるべく、又吾人が慎重に行動し且つ敢て此の問題に畏縮する様なことがないならば、此の問題はアメリカに於て解決されるであろう。ある猶太人記者が先頃次の様な意見を発表した、「猶太人と言えば現今主としてアメリカの猶太人のことである…過去の猶太人の中心は悉く大戦間に破壊され、今では猶太人の中心はアメリカに移って居る」と。此の点から観察すると猶太問題は米人が欲し様が欲しまいが、純然たるアメリカの問題となって居るのである。然らばこの問題は如何なる経路を取るであろうか?要は米人の行動如何に因るのである。第一の現象は、恐らく猶太人の経済的成功に対する不快の表現であろう、就中経済的成功を贏(か)ち得る要素たる所の猶太人の団結ということに対する不快の表現であろう米國國民は彼のモルモン教のことをある程度知って居る、モルモン教モルモン教を奉ぜざる米人の間にあって如何なる状態となったか、遂にはモルモン教は退散したのだ。即ちイスラエル人も亦同様にエジプトに帰り、その人民を征服するべきであろう。

(4)偏見と煽動

アンチセミティズムの表われる第二の形は、疑いもなく偏見と煽動に於て現出するのである。アメリカの國民が斯かる態度に出るのも固より無理からぬ点もある、併し國民と言う多数の者が、悉く常に真に理性の儘に動くとは言えない。猶太人も非猶太人が偏見を以て居ると認めている。又非猶太人も同様に猶太人が偏見を持つと認めて居る。お互いに斯う偏見を持って居ると言うのであるから、従って両者に取っては誠に遺憾の極みだが、此の偏見は頗る激烈な形をとって現われることがないとも言えない。何となれば偏見を持つ者も、持たれる者も、共に精神に蟠まり(わだかまり)があり、濶然たる気分(広い心)を持たないからである。

(5)正義の反動

此の点について吾人は、アメリカ人の誇りとする正義と言う観念に俟つことが出来ると信じるものである。此の正義と言う観念から見れば、恐らく斯様な問題はアメリカ人の精神を以てすれば訳なく解決がつくことであろうと思う。元来アメリカ人の怨恨を招いた様な諸現象も、此の特性たる正義的観念の御蔭で常に緩和されて居った。感情の儘に動くと言う様なことは、アメリカに於ては決して長くは続かないことであって、直ぐに理性及び徳義上の判断と言う反動がやって来るからである。アメリカ魂なるものは、各人に対して敵意を起こした儘、何時までも敵意を棄てないという様なことは嘗てなかった、されば此の問題に対しても、アメリカ人は探りの針をさらに深く突っ込むであろう、即ち理性を以て十分に此の問題を研究するであろう。斯の如き態度は、既に英國に於ても亦アメリカに於ても事実看取し得る所であって、アメリカ人の特性は人が正道を進みさえすれば何時までもその人を非難することなく、さらりと忘れてしまうという点にある。

先ずアメリカ人は探り針を以て禍根を探索する、そしてその後には斯くして得たる事実を考査し、その結果迷宮を開く鍵は発見されるのだ。ちょうど地中の暗がりから根を引き出して太陽に当て枯死させる様に、総ての紛糾の禍根を明らかにし之を死滅させるのである。その次には猶太人自身をして事件の整理に配慮する様に仕向けるのである。固より猶太人は彼等の特性を棄てる必要はない、又彼等の事業力を委縮させるにも当たらない、彼等の光輝を鈍らすこともいらない - 併し彼等は斯様な力を悉く今までにも増して更に清純なる運河に向かって注ぐ様に、自らを指導しなければいけない。斯くしてこそ彼等は優越支配権を要求しても差し支えなく、又要求し得る資格あるものとなるのである。

吾人は猶太人を根絶させ様とは思わない、併し彼等が従来人類社會を苦しめた様なことを将来も為すことは断じて許さぬ所である。

猶太人は組織によって利益を独占している、併し此の組織は其の内容其のものを完全しなければならないものだ。従って世界に於ける彼等特有の地位を正当に確保しようとするためには、彼ら自らを変更し且つ高尚なる目的に向かって進む様にしなければならないと思う。

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二 反猶太主義(アンティセミティズム)の程度

反猶太主義(アンティセミティズム)が、各種の時代に於て人類の大部のものを不安に陥らせ、冷静なる理性を失わしめ純真なる性格を傷つけたということは疑いのない所である。斯の如くアンチセミティズムが相当に人心を動揺させて居ったに拘らず、不思議なことにはアンチセミティズムの主張者が、その目的を達成し得たということは遂になく、又アンチセミティズムの当の目標たる猶太人が、大いに警戒し又は覚醒したということも遂になかったのである。

アンチセミティズムの程度は可成り沢山ある、今次に之を述べて見よう。

(1)無暗に猶太人を毛嫌いするもの

猶太人とは何者であろう、又猶太人とは如何なる者であろう、ということは一向無頓着で、唯々猶太人とさえ言えば、無暗に好かないというアンチセミティズムがある。斯ういうアンチセミティズムは、各階級の人々に屡々見受けられる所であるが、殊に猶太人と親しく接触したことのない人々に多いのである。斯の如きアンチセミティズムは「猶太人」という言葉に対して感情的に嫌だと感ずる少年時代に於て既に萌(きざ)して居ることが往々ある、そして罵詈の言葉として用いられた猶太人と言う言葉或いは一般に不要なる奸策に対する一つの形容詞として用いられた猶太人という言葉によって、斯様なアンチセミティズムは一層その程度を進めるのであって、時としては実際悪いことを企んでいる非猶太人に対しても罵詈の言葉として「猶太人」と罵る場合もある。斯の如くして猶太人なる言葉に対する嫌悪の情感は、日ごろ目に見る猶太人個人の上にのみに限られずして、自分が実際知らない人に対しても、要するに猶太人でさえあればアンチセミティズムを感ずるという風で、遂に猶太人全体に亘る反感となって居るのである。

感情は意志とは無関係である。従って事を正統に考える為好かないという感情も、これを理智の下に考究して見る必要がある。即ち自分が好かないという人は、実際に善くない人であろうか、それとも自分同様に良い人であろうか、或いは更に自分よりも善良な人だろうか、と時々考えてみる必要があると思う。単に吾々が好かないという感情は吸い付きたい程好きだという感情と、突き退けたい程嫌だという感情との中間を表して居るものに過ぎないのだ。斯様な両極端の感情は、吾々自身と他人との間には始終存在するものである。従って好かないという感情は斯の如く中間のものである故に好かないからといって、それが他人を侮蔑して居る証拠にはならない。所が実地に猶太人の嫌なことを経験して居り、又猶太人と社會上接触することを好まないと本能的に思って居る感情とが一致する場合、即ち経験と本能的嫌忌とが合致する場合には、猶太人に対するこの嫌忌を勿論偏見と言うことは出来ない。然しながら世の中には、猶太人中に尊敬する人物は概して居ないと主張する人々がある、これ等の人々は経験と本能的反感の一致したものとは言えない。斯の如き極端な排斥的態度の中には、単なる自然の感情以外何らかの分子が含まれて居るのである。以上のような訳で、たとい猶太人を嫌うも反猶太主義者と言うを得ないのである。彼の教養ある猶太人達が、自分が猶太人であるに拘らず一般猶太人と交際するのを好んで居ないと言うことは屡々見受けられる所であるが、此の現象は一般猶太人の性質、習慣及び彼等の行為の卑しい様を明らかに物語って居るものであって、これについては猶太人自身もしばしば完膚なきまでに批評をして居る程である。併し斯の如き猶太人の特性に関しては、後に章を改めて説くことにしよう。

(2)憎悪及び敵意を有するもの

第二段のアンチセミティズムと言うのは、右のアンチセミティズムよりも少しく程度の進んだもので、猶太人に対して敵意と憎悪とを持って居るのである。即ち曩(さき)に述べた方は「好かない嫌だ」という程度のアンチセミティズムで、今述べる方は憎悪である。好かないという感情と憎悪とを同一視してはいけない、単に好かないという感情は憎悪でもなければ又敵意でもないのである。物に譬えれば茶に砂糖を入れて飲むのを好かない人もあろう、其れだからと言ってこれ等の人々が砂糖そのものを嫌忌しているとは言えないと同様である。然し好かないという感情が深刻なる先入主となって牢乎(ろうこ)として抜くべからざる程、頭の中に浸み込んでしまった結果、それと言うのも猶太民族との交際に於て不快な経験を味わった結果ではあるが、兎に角少なくとも初歩のアンチセミティストであると言わねばならない様な人がある(実際の礼を挙げれば約百万のアメリカ人は去年の冬猶太商人および猶太人旅館主人と交際した結果猶太人憎悪者となってしまった)。此の憎悪とは敵意とかいう感情はその人にとって一つの不幸である、それは此の感情に妨げられて、猶太問題を明瞭に理解することが出来ないからである。故に吾人は熱情によって理智と言うコンパスの針を狂わしめる様なことがあってはならない、憎悪と言う舵を手にして居れば航海は危険である。併し敵意の分量は何れの民族よりも、猶太人の方が多分に持って居るのである、これは各時代を通じて大きな謎であり不可解のことである。昔の歴史又は近代の歴史に於て、吾人の眼に映ずる猶太人の性格なるものは、此の敵意に負う所少なくない。猶太人とアリアン民族との接触する所、猶太人は敵意を喚起し、若しくはアリアン民族も亦これに挑戦している。されば古来より猶太研究家は、常に斯かる猶太人の運命の研究に没頭したものである。或る者は之を説明して「エホバの神は猶太人を人類に対する預言者たらしめようと思って居った、然るに猶太人は此の神意に叛いた為に、エホバの神は自分の選んだ此の民族に対する罰として斯様な運命を与えた」と言って居る。若し右のような訳で、此の神の怒りが猶太人の遺伝性の一部を説明するものとすれば、キリストの聖書に「神の怒りは必ず来るべし、されど神の怒りを招きたる者が罰せられるなり」という言葉の説明に有力なものとなるのである。

(3)迫害暴行となれるもの

世界のある部分に於て又いろいろの時代に於て、此の憎悪と言う感情が遂には殺人暴行を敢てしたことがある。勿論此の暴行は人類の驚愕と憤慨とを惹起した人道上の遺憾である。これ実にアンチセミティズムが極端に現れたものであって、これが爲猶太問題を公開論議しようとしても直ぐに此の暴行と類似のことを計画して居るのであると非難されることとなった。斯様な暴行の勃発は固より許すべきではない、併し此の暴行勃発についての説明は十分にすることが出来る。猶太人は通常これを宗教的憎悪の表現であると説明し非猶太人は「猶太人が其の國の國民に課した経済的奴隷の桎梏(しっこく)に対する國民の反抗だ」と説明している。これについて茲に不思議な現象がある、それは露國のことであるが、露國のある地方では、アンチセミティズムの暴挙が最も頻繁に行われた、そしてその地方が露國中最も殷賑(いんしん、繁栄)を極めた地方なのである、その殷賑は猶太人の企業心の結果であることは争われない所であって、猶太人は常に、自分たちが此の地方から退散することに依って、これ等の地方を経済的に商業的に不振の状態に蹴落とすことが出来る、と揚言(ようげん、公言)して居ったのである。この事実を否定し様とするのは尤も愚かなことであって、事実は色々の人に依って実証されている、即ち猶太人に対するロシア人の態度に頗る憤慨して、自ら事実を調査する為その地方に往った人は沢山あるが、これ等の人々が再び帰来して発表する所に依れば暴行に賛成し難きも止むを得ぬことであると是認的説明をして居る始末である。又最も公平なる観察者さえ、斯の如く猶太人の排斥されるのはこれ自ら招いたものであると断定して居るほどである。排斥されている露國猶太人の爲に熱心に盡力するため世界に有名となったある通信員すら、アンチセミティズムの暴行の原因を研究しようとする時には、常に猶太人の方から攻撃されるという有様である。彼は猶太人に対して「予自身が露人側の不法であることを承認して居らなければ、たとい猶太人の冤罪を雪(すす)ごうとしても、世人は予の言うことを信用するものではない、従って茲に調査の必要がある、そして後猶太人達の受けている迫害の不法なことを世界に闡明(せんめい)しよう」と説明しても、やはり猶太人側から常に調査を妨害され攻撃を受けたということである。今日まで各國に於ける猶太人は、自己の欠点自己の非難される行為を自ら認めたことは殆どない、たとい非難を受けても彼等は辯解をこととするのが常である。若し今後彼等猶太人自身が、他國民の反感を惹起する様な諸性質を排除しようとするならば、先ずこの非難を意とせず直ぐに辯疏[1](べんそ)するという性質を消滅しなければならない。尚世人は猶太人に対する敵意を、経済上の理由に帰するであろう。然しこれは、猶太人が他國民の愛好を贏(か)ち得る為には、猶太人の精神内にある猶太人の特質及び猶太人の成功に対する特種の天才を抛棄(放棄)しなければならないかどうかということに到達する問題であるが、此の問題については後に説明することとする。

(4)キリスト教の偏見を云々するは当たらず

宗教上の偏見ということは、猶太人が常に口にする所ではあるが、此の宗教的偏見は合衆國には確に存在して居ない。然るに猶太人の著述家は、露人に対すると同様に、アメリカ人に対しても宗教的偏見を持って居ると非難して居る。非猶太人の読者諸君よ、諸君は嘗て猶太人の宗教の爲に彼等に対して憎悪を感じたことが従来あったか、これについて自問自答して見れば、読者は自ら斯様な非難が当を得て居ないということを理解し得るであろう。最近或る猶太集会の席上で、猶太人辯士は次の様な演説をした。「若し街上で誰でも良い通りすがりの人を呼び止めて、猶太人とは何か、と問うて見よ、殆ど全部の者は、猶太人とはキリストを殺したものなりと答えるであろう」と。此の演説は猶太紙上にも掲載された。又合衆國に於て最も著名にして衆望ある猶太教牧師もある説教の時「キリスト教の日曜学校では、子供達に対して猶太人の先祖がキリストを殺したのであると教えて居る」と述べて居る。斯の如き猶太人の言分に対してキリスト教徒は一様に「斯の如き言葉は初めて猶太人の口よりきいた所であって、未だ嘗て使用したことがない」というであろう。実際猶太人の此の主張は馬鹿げ切ったもので、試しに合衆國及びカナダのキリスト教の日曜学校の児童二千万に聞いて見れば、直ぐに証明し得られる所であるばかりでなく、キリスト教会には却って猶太宗教に負う所ありという感謝が存在して居るのである。全世界のキリスト教会日曜学校は本年の六か月間、國際的課程を講義している、即ちルース紀(Ruth)、サミュエル書(Samuelis)の前書及び後書と列王紀略(Koenig)を専ら講授して居る、尚又毎年旧約全書から講授して居るのである。

偏見は猶太側にあり

茲に於てや猶太人宗教家は「猶太人側に於てこそキリスト教に対する宗教上の偏見及び公然の敵意が多分に存在して居る、そしてキリスト教会の方には何處にも偏見や敵意は存在して居ない」ということを考慮して見るべきである。この点についてはアメリカの教会新聞と猶太教の新聞とを比較考察すれば直ぐに納得がいくことである。キリスト教の記者にして猶太宗教を攻撃することを賢明にして正しいなどと考えて居る者は一人も居ない筈である。然るに猶太教新聞は常にキリスト教攻撃及び宗教的偏見を連載して居る。殊にキリスト教に改宗した猶太人に対する筆誅毒舌(ひっちゅうどくぜつ)は実に猛烈を極め、一種の宗教上の殺人復讐とも謂うべき程のものである。これに反し若しキリスト教徒が猶太教に改宗した場合には、その動機に対し大いに尊敬をするが、猶太人がキリスト教徒となるや決して其の儘黙認する様な事はないのである。斯の如き行為は、実に猶太教の信仰の偏狭と放縦との両極端を能く現わして居るものと言うべきである。之を要するに猶太人は信仰の爲に憤慨するのではなくして、他の原因より憤慨するのであると言うことが出来る。然るに猶太人は千篇一律に(同じ調子で)斯の如き感情は曩(さき)に述べた三つの原因殊に宗教的原因に由ると主張するのである。併し苟も見識を有する猶太人ならば此の理由が虚偽なることを知って居るはずである、そして尚彼等は、キリスト教会に於ては昔の預言を承認し之を研究して居ること、及びイスラエル民族の将来に対して大いに興味を持って居ることをも承知する必要がある。吾人は世界に於けるイスラエル民族の将来の地位に関し、神が猶太人に預言したことを決して忘れては居ない、吾人は猶太人等が此の預言を実現するであろうと信じて居るものである。預言者達が、猶太人に告げた様な猶太人の将来と言うものは、地球と言う惑星の将来と密接なる関係を持つものである、そしてキリスト教会は - 少なくとも猶太人が最も呪詛する新教を奉ずるキリスト教会 - 斯の選ばれたる民族の復活を信じて居る。若し大多数の猶太人が、キリスト教会が十分の理解と同情とを以て彼の昔の預言を研究して居ること、世人が預言の実現を信じて居ること及び猶太人に依って人類が更に大きな幸福を得られるべしと信じて居ることを知る時には、猶太人達は確かにキリスト教会を現今と違った眼で見る様になるであろう。そして少なくとも猶太人は、キリスト教会が猶太人を改宗させるための道具として活動して居るものでないということを知るであろう - 此の点については猶太の有力者が大いに誤解して居る所で、而も昔より幾分尚悪化して居る - 否斯かる改宗と言うものは教会以外の他の道具と他の状態の下に於て実現すべきものである。即ち猶太人自身が「救世主」となることによって実現するものであることを知るであろう。

宗教と関連したものではあるが、右に述べた形式と異なるアンチセミティズムが他に多くある、例えば無神論者の運動の如きも其の一つであるが、此の主張の人が多くないのと意見が余り極端過ぎるから本問題に対しては無意義な意見である。

  

[1] 原文:辯疎

 

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世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)11

5. 反猶太主義は合衆國に実現するや否や

猶太問題に対する猶太人の宣伝

米國及びその他何處の國に於ても、猶太問題を論じ之を公表するものは、反猶太主義者として非難され、猶太人虐待者として蔑視されることを十分覚悟しなければならない。そして國民の援助も望む訳には行かないし又新聞の後援も到底期待することは出来ない。従って欧米一般に該問題に触れるを避け、事件の成り行きに委せて姑息の態度を持する傾向がある。今日斯様な問題が存在して居ることを、真摯なる態度で事実を説明するだけの大胆な新聞なり雑誌なりが果たしてあるだろうか、恐らく一つもあるまい。否反対に新聞という新聞は猶太人のこととさえ言えば、大いに之を称賛誇称すると言うのが一般の有様である。(これが実例は到る処に求めることが出来る)然らば猶太新聞はどうかと言うに、猶太新聞は甲も憚る所なく傍若無人を極めて居る、殊に米國には斯様な猶太新聞が頗る多い。

若し猶太問題について公然と宣言し得るものがあるとすれば、それは著述家、出版家或いは趣味的研究家たるを問わず、単に猶太人憎悪者であると目せられるだけであって、此れは固定的思想であると見て差し支えなく、猶太人は伝統的に非猶太人即ち反猶太人と信じている。そして彼等は非猶太人論客の著述は、悉く偏見と憎悪とに基づいて居るものであって、斯くの如き著述は虚構、誹謗に充ち、ポグロム(猶太虐殺)を行わせるための煽動であるから信じるべきものでないと、非猶太人一般の頭に先入主的に注入する為、不断の努力を以て宣伝に努めている。斯様な宣伝は猶太人の何れの論文にも見る所である。

猶太人の種類

米國の猶太人等は、猶太問題の存在を承認して居るが、然し反猶太主義でない所の非猶太人の一部を、自己の圏内に抱擁するの必要を感じたらしく大いに之に努力したのである。

今猶太人を観察して見ると其の間に判然区別し得る四つの種類が存在して居る。その第一は猶太人の信念及び生活を不変に維持することを熱情的に願望している人々で、たとい人気を害そうが、成功を犠牲にしようが一切無頓着で、兎に角猶太人の誓約及び生命を溌剌たらしめんことを望む人々である。第二には猶太宗教を維持するため必要な犠牲は之を辞せないが、併し猶太人生活の伝統的習慣には大して重きを置いて居ないと言う人々、第三には概して確乎たる信念を持って居らないご都合主義の人々で、斯の如き人物は常に成功者側に多く見受けられるところである。第四には猶太人と自余の人種間に存する反対性を解決する唯一の方法は、猶太人が完全に多人種に同化融合するにありということを信じ、且つ唱道している人達であるが、此の第四の部類の属する人々の数は極めて少なく、そして猶太人間に於て最も排斥され蔑視されて居るものである。

猶太問題に関する非猶太人の方も二種に分けることが出来る。其の一は別にこれと言う理由はないが、兎に角猶太人は好かないというもの、今一つは同情すべき事件たると否たるとに拘らず、自身を公平に暴露するもので、少なくとも猶太人問題は研究すべき問題で、有耶無耶に葬るべき問題ではないと認めている人々である。この両者とも自己の意見を明らかに発表する時は、直に「あいつはアンチセミティズムだ」と定まって非難される人々である。

目下アンチセミティズムなる語は甚だ軽率に取り扱われている、この言葉は専ら感情にのみは知って居る所の排猶太的偏見の感情を表すときに用い、猥(みだ)りに使用すべきではない。若しこの言葉を猶太人の特性及び世界支配を論明する総ての人々に使用する時は、これと反対の意味に解せられる様なことを生ずる。

 

一 斯の如きは反猶太主義(アンティセミティズム)にあらず

(1)問題の認識

斯の如きものはアンチセミティズムではない、と定義することは事態の説明上当然必要な事であると思う、以下これを述べよう。

アンチセミティズムと言うのは、猶太問題が存在して居ることを認識するということではない、若し猶太問題の存在を認識することが、即ちアンチセミティズムであるとすればアメリカ國民の大多数は確かにアンチセミティストであると、断定し得る事になる。何故なれば今や猶太問題は、実際生活の各方面に於て國民との交渉を激甚ならしめ、アメリカ國民の大多数派、該問題の存在を認識し始めたからである。これらの人々が皆アンチセミテストであるということは到底あり得ない。従って問題を認識することをアンチセミティズムと考えるのは間違いである。問題は現存している。世人は実際この問題に対して盲目なのかも知れない。或いは臆病から沈黙し、又は不正直にもこれに対し否定さえしているのかも知れない。併しやはり問題は存在して居る、何時かは何人もこれを認識しなければならなくなるだろう。そして猶太人に説伏されている人達のあの「黙れ黙れ」の声も、この問題を圧止することが出来なくなるであろう。けれども猶太問題を認識するということは、猶太人に対する敵意及び憎悪の戰を開始することを意味するものではない、単にある一定の流れが、我が文明社會に瀰漫(びまん)[1]し、遂には此の流れが広大となり強力となり、これによって始めて人の決意を喚起して何を為すべきかを考えさせるに至るということを意味するだけである。斯くてこの問題に関する解決策を講ずると共に又処置をも要求することとなる。即ち過去の欠点を繰り返さないばかりでなく、将来起こり得る社會の脅威を始めから排除する様な処置を要求する様に成るのである。

(2)問題の公開

猶太人も居大を公開論議することも亦決してアンチセミティズムではない、公開は大いに有効な方法である。アメリカで従来行われた猶太人問題の公開論述或いは個々の現象の著述等はいずれも甚だしく人心を迷わしめるものばかりであった。アメリカほど猶太人分で斯様な問題が論ぜられた國は他にないが、しかしそれらの論説たるや、皆虚構捏造でなければお座なりのものばかりで、事実を正直に論じ、又は将来に遠く着眼して述べた者は一つもないのである。猶太新聞内に終始定期的に表れている二つの論調は「非猶太人の思想の低級」及び「キリスト教的偏見」のこの二つである。猶太人の利益を目的として執筆している猶太人記者は、頗る内容豊富なる材料を提供して、民族意識と言うものは即ち他民族を蔑視するに至る所以であることを説き、以て猶太人の爲に所謂人種平等を叫んで居る。斯かる点に於てはアメリカは常に称賛を博して居る所であるが、併しこれはアメリカ國民のアメリカとしてではない、猶太人の蔓延するアメリカとして賞められて居るのである。

従来日刊新聞で真面目に猶太問題が論ぜられたことは未だない、これは決して驚くべきことでもなければ、又非難すべきことでもない。日刊新聞は唯々その場其の時限りの日常問題を論じているばかりである。若し日刊新聞が猶太人のことを述べるとすれば、その時は幾多の金言名句を沢山準備してかかるのであって、通常は歴史上有名になった猶太人の名をずらりと陳列して、猶太人の偉大を説き、次にその地に定住する猶太人を賛美して筆を措き、これが往々に免に跨って記載されることも決して珍しくないのである。これを要するに米國に於ける猶太問題の論説発表は、猶太紙を通じては非猶太人の悪評を、非猶太紙を通じては猶太人の虚構の批評を載せて居るということになるのであって、いずれにしろ眞實を去ることが遠いのである。

随って事実に立脚してこの問題を公衆の前で論議するという公平無私なる試みは、決してアンチセミティズムと見做すべきではないのである。

(3)世界支配計画の真相発表

世界を支配しようとする計画が此の世の中に活動して居る、その方法たるや領土の攻略でもない、戦争行為でもない政府の権力でもない、学術的の意味に於ける経済的手段でもない、否商業と取引所の機械的作用(メカニズム)によって世界を支配しようとするものである」と斯の如き疑惑が今日欧米の大都市に存在して居り又主要な人士が斯く主張して居る。この事実を発表し又これが真相を証明したからと言って、これをアンチセミティズムであると言うことは出来ないのである。インターナショナルの猶太人自身が最も容易にこれを否定し得る筈であるが、彼等は之を否定し様とはしない。又全人類の文化文明を悉く吸集抱擁することを理想として居る猶太人達も亦これを否定し様とはしないのである。恐らく他日一人の預言者が出て、次の様な事を告げるであろう。

古代イスラエル人に神が賦与した約束は、ロスチャイルド式の方法を以てしては果たされぬであろう、そしてまた全民族はイスラエル人に依りて幸福となるべきものなりとの聖約も、全民族を経済的にイスラエル人の奴隷と為すような方法に依っては果たされぬであろう」と、若し斯かる時代が来たならば、その時は多分猶太人の生活力は河と流れ出で、爲に猶太問題を惹き起こしつつある現今の源泉は悉く枯渇するに至るであろう。とにかくも右の如きことは決してアンチセミティズムではない。否此れに依って猶太人の上層階級の計画が鮮明にされ、猶太人全体は更に幸福となるのであるから、斯の如きことを述べるのは決してアンチセミティズムどころではないのである。

 

[1](ある気分・風潮などが)広がりはびこること。 

 

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世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)10

種族と宗教との問題

然るに欧米に於て特に猶太人なる名称の下に彼等が論議されるとき、一部の新しき猶太人の中には、猶太人は唯宗教上に於て他の人種と異なるだけで、他は同一である、と之を否定するものがある。例えば新聞等に猶太人が犯罪したことを掲載する時彼等は、猶太人とは決して人種の名称ではなく、単に宗教上の名称に過ぎない、ちょうどエピスコパリアン、カトリック、プレズビタリアン等と言うのと同様である、他種族の被告の時には何宗のものとも書かないのに、何故猶太人のみ書くのであるか、と抗議する。これに対して米國人は猶太人は唯宗教上に於てのみ他のものと異なるだけであるとしたならば、ユダヤ教の道徳的内容が他のものと異なることになるがどうか、と喝破し尚論を進めて、合衆國に生活して居る猶太人中、其の奉信する宗教を申告して居るものは僅かに百万に過ぎない、他の二百万は猶太人たることは申告して居るが、其の属する宗教については何ら申告して居らない事実がある。故に若し彼等の論法を以てすれば、乙は甲より猶太人たるの程度が僅少であるという妙なことになって来る。たとい愛蘭土人アイルランド人)が其の属する教会を棄てたとて、アイルランド人たることに変わりはないと同様、猶太人が猶太教会を捨てたからとて猶太人たるに変わりはないではないか、と反駁して居る。議論は兎に角として、要するに猶太人は猶太人の性格を有し、他の民族は他の民族の性格を有して居るということである。

「猶太人」なる誇り

斯様な訳で近来新しき猶太人の中には、自己に不利益な場合に於て、猶太人ということについて種々否定を試みるものもあるが、併しながら将来に於ても世人は依然として猶太人を一つの人種と見做すことに変わりはないと思う。又少なくとも猶太人自身は斯く感じているに相違ない。事実此のことは現代のソヴィエト露國に於て之を見ることが出来る、以前帝政時代の露國に於て、猶太人に対して「君はロシア人か」と問うた場合、此れに対して、「然り私はロシア人である」と答えるのが通常であって、特に親密になるか或いは特別の場合の外「否私は猶太人である」とは答えなかった。然るに現在猶太人が露國の実権を掌握してからは前と同様の問いに対して傲然として、「否私はロシア人ではない、猶太人である」と答えるに至った。今のソヴィエト露國で「私は共産党である」ということと「私は猶太人である」ということが誇りであって、又巾が利くのである。即ち以上は猶太人自身猶太人は一つの人種であるとの自覚を裏書きしてるものでなくして何であろう。話が大分横に走ったが序(ついで)であるから同様なことを今一つ紹介して置く。或る人がアメリカに於て、ある紳士に対して「君は米國猶太人か」と問うた所「否、私は國際猶太人である」と答えたので、大いに驚いたとのことであるが、蓋し此の猶太人自身は左様に思って居るのである。

抑々猶太民族は極めて靭強な人種であって、従来其の絶滅について色々試みられたこともあったが、悉く無駄であったばかりでなく、益々繁栄して居る。それは猶太人賊が自然法則を遵守した結果であって、自然法則を破った他の多くの民族は、人種を低下し多くの雑種を造るに至ったが、猶太民族のみは其の生活力なり、精力なりが毫も退化して居らない。彼等は過去より現在に亘り、二大道徳的価値即ち唯一神教と一夫一婦主義とに因って、連綿として伝承し来たり、そして吾人の全精神的所有物の源泉たる古代其の儘の姿で、今日の吾人の前に立って居るのである。

猶太人は永久に猶太人なり

然り曩(さき)に述べた如く猶太人自身は将来永遠に、一人種であり、一國民であり、一民族であると言う感じを継続し、そうしてたとい如何なることが猶太人内部に侵入しようとも又他の思想及び他の信仰生活と関係し或いは又他民族の習慣に従う様なことがあっても、決して彼等の考えは豪末も変化することは無いであろう。猶太人は永久に猶太人である。猶太人が完全にして侵すことの出来ない伝統の中に忠実である間は、永久に猶太人として存在するであろう。斯くして彼等は、猶太人であるということが即ち優越なる人種に属するものであることを意味する、と感じるの権利を永久に持つことであろう。

英人がシェイクスピアの言葉を有するが如し

扨て此の世界を支配して居る猶太人が其の位置を保持して居るのは、他にも原因はあるであろうが、主として猶太國民性中に継承して居る資質の恩恵に因るものである。而も猶太人たる者は何人も皆此の素質を持って居る。勿論どの猶太人も此の資質を完全に持って居ると言う訳ではないが、兎に角此の資質を有することは、英人の言葉を借りて言えばちょうど各英國人が、たといシェイクスピアの程度にあらずとするも、兎に角シェイクスピアの言葉を有するが如くである。されば猶太人の根本性格及び猶太人の根本心理を究めずして、インターナショナル猶太人を理解しようとするならば、それは不可能なことと言わねばならない。

機敏に対する疑いの眼

猶太人の偉大なる成功と言うものは厚顔無恥に基づいて居るものであるということは、屡々吾人の耳にする普通一般の非難であるが、実際他民族から見て彼等の商売方法が幾多の沒義道なことのあることは敢て疑いを容れない所である。然しながら彼等の成功は独り此の沒義道や厚顔無恥のみに因るものではない、他の原因があらねばならぬ。元来猶太人は商人としては、他の民族に比較して天性遙かに敏捷である。勿論猶太人同様商売にかけては随分抜け目のないものも他にないではないが、併しながら概して猶太人とはちょっと太刀打ちが出来ないと言うのが世の定評である。緩慢遅鈍な人々から見れば、あまりに機敏過ぎる人を嫉視するのは人情で、たとえその機敏ということに豪末悪意を蔵して居ないにしろ、疑いの眼を以て之を見るのが常である、随って此の機敏性が世人をして一層彼等に対する疑いを大ならしめて居る。

数世紀に亘る古書の統計が示して居る通り、猶太人は極めて商業に熱心な民族であった。そして彼等は他から見て狡猾であると思う程機敏であった。従って彼等は商売上のことから人に好かれなくなってしまった、そしてその原因を見ると商売上の理由を盾にして猶太人を憎むのは、憎む方が悪いのであると言えない点が少なからずあった。今その実例として往年英國に於て、猶太商人が排斥された当時のことを研究して見よう。

英國に於ける猶太商人排斥の原因

昔時の英國の商人は、非常に上品な習慣を沢山持って居った。例えば尊敬を受けているような商人は、自ら進んで商売を始めては宜しくない、商売がある迄待って居るのをよいとした様な習慣を持って居った。又店の窓を光線や色彩で装飾したり、公衆の目の前に品物を誘惑的に陳列することは、同業者の客を奪う卑劣な不純な手段であると思われて居った。就中一種以上の品種を商うことは、全然商業道徳に背反し商業的習慣を蹂躙するものとして排斥され、茶を売る店では茶匙すら売って居なかった。商業広告などに至っては最も鉄面皮なものとして排斥され、若し之を為すものあれば、輿論は商人を商業界から追い出すという有様であった。近代の人が茶を売る所では茶匙もその他種々の物も一所に売るということを、若し当時の英人が聞いたとしたならば、非常に驚嘆するであろうと思う。それで当時の商人の態度はちょっと見ると商品を手離すことを厭うかのように見受けられる位であった。

デパートメントストアと薄利多売の創始者

猶太商人が斯くの如き英國商人の習慣内に割り込んだ時、そこに何事が出来したか、既に読者は想像し得たであろう。当時習慣なるものは、恰も神が規定した所の道徳法とも言うべき威力を持って居った。従って猶太人が猶太人式に振舞った結果は、どうしても瀆信者と見做されなければならなかった。これが爲に猶太人の歓迎されなかったのは蓋し当然である。併し鞏固(きょうこ)な伝統を破壊することを屁とも思わぬ猶太人のことである、歓迎されない位で遠慮して居るものではない。歓迎されなければされない程一層商業に没頭した。即ち猶太人は或る品物を売り得なかった時は直に客に押し付ける他の品物を手に入れて居った。斯くて猶太人の商店は宛然たる(さながら)勧工場(かんこうば:昔の百貨商品陳列所のこと)となった、之が現今のデパートメントストアの濫觴(らんしょう)である。そして英國の古き習慣たる一店一品主義は茲に破壊されてしまったのである。そして猶太人は愈々に商業に熱注して駆け廻り、顧客を求めて之を説得し益々販路を拡張した。即ち猶太人は迅速なる販路と小利益所謂薄利多売の創始者となった。又彼等は済し崩し即ち賦払制度(分割払い)を考案した。猶太人の最も嫌忌したことは品物が寝ることであって、彼等は満腔の努力を品物を捌くことに注いだ。広告の元祖も猶太人である。店の様子を公衆に公告するということは、公衆をして商店主が金融逼塞に陥ったのではないか破産に面しているのではないか、と疑問を起こさせた時代に於て、而も英國商人が所謂良賈(りょうこ)深く蔵して見せずと自重した当時に於て敢て広告を実行したのである。

また斯くの如き猶太人の努力が、不正な事と相結び合って活躍したことも事実であって、随分不正な商売をやったのである。猶太人の活躍を見て少しく落ち着いた英國商人は、猶太人は我々と競争する積りではあるまいと考えて居ったが、事実猶太人は凡てを己が掌中に収めんが為英人と競争して居ったのであって、今や全くこれを実現するに至った。

猶太商業圏

猶太人は英國で発揮したと同様な能力をその後も常に発揮している。彼等の金融界を解剖して金を自己に吸集する能力は、殆ど本能的のものである。猶太人が其の一國に居を定めると、ただちに彼等は其の同族の爲に活躍し得る新根拠を其処に造るのが常である。これ猶太の遺伝的性質が自然に発露したものと見るべきであろうか、それとも民族としての一致及び誠忠ということを自覚して計画して居るものと見るべきであろうか。兎に角猶太人の商業団体は悉く相互連絡を取って居った。猶太人の商業団体が富力に於て、特権に於て又勢力に於て隆昌となればなる程、又其の団体が活動して居る國の政府と関係し其の國の生活関係と益々密接なる関係を結ぶに随い、自然に猶太中央商業団体に勢力が移って行った。そしてこの中央団体は時代に従って或いはスペインに、或いはオランダに、或いは英國にと移り行きつつ益々勢力を増進し、各商業団の結合は愈々緊密を加えた。蓋し猶太人間には民族的結合のセメント及び同胞主義も強帯が存在したから斯くも緊密に相互連繋したのであって、非猶太人間には到底夢想も出来ない所であった。そして非猶太人は世界支配の戦場に於て猶太人の競争者ではなく、その善良なる代理人であった。

これ等個々の商業団体から中央団体へ勢力が注入され、中央団体には頭目たる大銀行家や諸事業の本元たる操縦者が控えて居る、そして必要な場合には何時でも中央団体から再び頗る重要な情報と高価な補助が地方の団体へ向けられるのである。斯くの如き組織であったからして、猶太人に対して反感を持って居た國民が猶太人の爲に苦しめられ、又反対に猶太人の希望を容れた國民は猶太人から大いに恵まれたということは、蓋し何人も理解し得る所であろうと思う。

工業会と金融ブローカー

斯くの如き組織は既往より存続し来たって今日も依然として存在し、而も一層其の範囲を拡大して居る。併しながら今日この組織は、従来嘗て見なかった窮境に立って居るのである。抑々五十年前に於ては、世界の金融ブローカーとして猶太人の支配下にあったインターナショナルの銀行組織と言うものは、隆昌の極みに達し実に其の黄金時代を現出して居った。そして猶太人達は至る所政府と財界とを支配して居ったが、茲に一つの新しき事実が起って来た、即ちそれは工業である。工業は日一日とその範囲を拡張し、遂に賢明なる預言者も嘗て夢想だもしていなかった範囲に発展するに至った。工業がその実力と勢力とを増加するに伴い、金銭を吸集する一大偉力となり、世界の富を工業界内に吸収し、而も工業会は啻(ただ)に金銭を引き寄せるばかりではなく、更に又之を其の発展のために活用せしめた。従って生産は公債に代わり、公債の利息よりも生産の利益ということになって、之が一時世の主なる方式となってきた。此の時に当って世界大戦が勃発したのだ。茲に於て既往に於ける世界金融ブローカーたる猶太人等は、此の大戦に関係し非常な巨利を博したのである[1]此のことは既に世界公知の事実であって敢て蝶々するまでもない。そして今や此の両勢力即ち工業と財商とが相互に鎬(しのぎ)を削って戦って居るのであって、実に其の勝敗は猶太問題を裁決する一要素として見られて居る。

 

[1] 原文:茲に於てか既往に於ける世界金融ブローカーたる猶太人等は、此の大戦に関係し非常な巨利を博したのである。(「か」が余分?)

 

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世界の猶太人網(ヘンリーフォード著・包荒子解説)09

4. 猶太問題の意義と事実

日本における真面目なる猶太研究

今日までわが日本には、親猶太主義も反猶太主義も勿論猶太問題もなかった。然るに世界大戦は急に猶太勢力を倍加し、これまで内面的に行われた其の國際的活動は自ら暴露され隠然包蔵された其の潜勢力は公然の勢として出現するに至った。即ち革命に因る露・独・墺三大帝國の崩壊に伴う猶太人の活動、英米における猶太資本主義の発展、猶太故國パレスチナの復興運動等実に驚嘆すべきものがある。随って猶太勢力が我が帝國に多大の波動を与えつつあるを観たわが日本の識者達は、猶太民族について或いは宗教及び歴史方面から或いは其の現況について等それぞれ各方面から之を研究して國民に紹介する所あったが、世人多くはこれを対岸の火災視し甚だしきに至ってはその信疑を確かめようともせず、自ら何等研究穿鑿することなく、而も之を帝國主義者の捏造と誣(し)い、中には西洋の反猶太主義を真似て居るとさえ罵倒する所謂大家なるものもあった。然るに近来に至り漸く猶太民族の偉大なる世界的勢力を一般に認識して、我が帝國の存立上恰も吾人が支那を研究し、米國を観察すると同様、愛好憎悪の感情を超越して真面目に猶太問題に注意を払うに至ったのは、我が國の爲にも亦猶太人の爲にも慶賀すべきことであると思う。

欧米の猶太問題と日本の猶太問題との差異

茲で一言御断りして置くが、同じく猶太問題と称しても、欧米における猶太問題と我が國の猶太問題とは、自ら其の意義に於て異なるものがある。即ち欧米方面のものは、猶太民族の寄生生活、言わば非猶太人と猶太人との雑居から来る問題が多分に含まれて居るが我が國で言う所謂猶太問題とは、欧米列強を通じて各種各様の形で現われ来たる左右両端の國際的猶太勢力の浸潤と影響とが其の主なるものである。例えば我が隣接國たる露國が猶太主権下にあり、米國が反猶太國である以上、猶太民族の研究が必要なことは当然なことである。そして欧米に於ける猶太問題を研究することは、言う迄もなく吾人に必要な問題の研究即ち猶太民族とその勢力の研究であると共に欧米そのものの真相を捉える上に於ても亦緊要欠くべからざるものである。

ヘルツルと猶太問題の存在

扨て猶太愛國者テオドル・ヘルツルは猶太問題について、其の著「猶太國」に次の様に述べている。

「猶太問題は今日猶存在して居る、此のことを否定しようとするのは愚かなことである。苟も猶太人が人目に付くほどの数住んで居る所には常に猶太問題が伴って居る、猶太問題のないところへは猶太人が問題を持ってくる。勿論吾人猶太人は排斥のないところへ移住するが吾人が現われると排斥が起って来る。此の不幸な猶太人は目下反猶太主義を英國に持ち込んでいる。既に猶太人は之をアメリカに持ち込んでしまった」

とヘルツルが述べた様に、欧米に於ては至る処猶太問題がある。

欧米人の猶太問題に対する態度

そして猶太人も非猶太人も共に此の問題に対して頗る敏感であって、為に猶太問題を説くことは頗る困難とされて居る。唯「猶太人」という言葉を公然と口にし或いは筆にするだけで既に適当でない様な一種曖昧な感情が今もなお欧米人の間に存在し、甚だしきは猶太人と言う代わりにあまり適切でない所の希伯来(ヘブライ)人又はセム人と言う名称を用いるさえ逡巡している様な有様である。それで欧米人が猶太問題を取り扱う様子を見ると、頗る懼(おそ)れて居って恰度(ちょうど)禁制を犯して物事をして居る様な風である。

抑々この「猶太」なる言葉は決して侮辱的な性質形容詞ではない、古く且つ名誉ある言葉であって、人類歴史の現在、過去、未来を通じて意義あるものである。元来欧米人は一般に猶太問題を公然と論議することを極端に躊躇する風があって、沈黙と言う幕の中に猶太問題を包み、朦朧たる想像の境地に之を保留して置こうとしている。思うに欧米人をして斯くの如き態度を採らせるようになった実際的の原因は、猶太問題を論議する結果生じて来る幾多の困難を感じて自ら恐怖しているからであろう。仮令公然と猶太問題が話題に上ることがあっても、それは当り障りのない政治的駄弁か或いは愉快気な雑談であって、而もその内容は哲学、医術、文学、音楽、財界等の偉大なる猶太人の話か又は猶太民族の能力精力節倹性等の賛美に過ぎない。従って猶太問題に関する最も困難なる点は何ら解決することなく残っている、又実際こんな表面的なことによって真相に変化を及ぼすものでもない。依然非猶太人は非猶太人たり猶太人は猶太人たりで、結局猶太人は世界の謎として存在するのである。

各国に於ける猶太問題

この問題に対する欧米人の遠慮がちなことは、彼等が沈黙を守ろうとする点に於て尤も明瞭に現われて居る。換言すれば「全体何故に斯の問題について論議せねばならぬのか」と言うのが、欧米人の態度であり感情である。この態度それ自身が既に、「成るべくこれを避けようとする問題の存在」を証拠立てているのである。

革命前の露國には言うまでもなく猶太問題があった、而も最も猛悪な形式で存在して居った。猶太人口の露國の人口に対する百分率は、合衆國に於ける率よりわずかに百分の一だけ大なるに過ぎない。そして露國に居る猶太人の大部は、アメリカの猶太人に比してその素質に於て敢て劣らないが気性が峻烈である。アメリカに於て猶太人は何等の制限を受けてないが、露国では米国に見ることの出来ない束縛を受けて居った。それだのに露國の猶太人は彼等の天分を遺憾なく発揮し、完全に露人魂を閉息させている。ルーマニア、ロシア、オーストリア、ドイツその他苟も猶太問題が重大問題として表面に現われ出ている國を見ると其の問題の主なる原因は、猶太人が支配的勢力を完成する天才なるが為である。

猶太人の能力と権勢獲得

合衆國に於て猶太問題が八釜しくなったのは、一億一千万の住民を擁する米國に於て、猶太人は僅かに百分の三に過ぎないに拘らず、此の少数者が僅々五十年間に権勢を振るい得る地位を占めるに至ったという事実が原因である。若し他の民族であったならば仮令十倍も多い数を以てしても今日猶太人の占めて居る様な支配的地位に達することは不可能である。況や此の猶太人の様に百分の三くらいであったならば到底問題にならない。然るに事実猶太人は凡そ高き地位には必ず其の代表者が居る。例えばヴェルサイユに於ける四國委員の秘密會議の席にも、最高審判廷にも、白亜館内の諸會議席上にも、広大なる世界の財界にも、苟も権勢獲得が達成され且つ行使される所、そこには必ず猶太人が居るのである、即ち猶太人は真に文字通りの到る所で最高の地位を占め権勢を行使して居る。彼等は理解力、事業力、本能的に鋭敏なる判断力の持主であって、これ等の諸能力が殆ど自動的に猶太人を最高の地位に挙げるのである。猶太人が今日他の何れの人種よりも一層顕著なるものとなったのは蓋し当然の結果であると言わねばならぬ。

猶太問題を生ずる根本原因

然らば如何にして猶太人は最高の位置を占めるか、又如何にして其の目的を達するであろうか、又彼等がその地位にあることが世界に何を意味するのであろうか?これが即ち猶太問題を生ずるに至った根本的原因であって、これ等の点は引いて他の諸点の原因となるものである。そして此の猶太問題も批判する人の偏見的尺度の如何に因って、親猶太的ともなり、又反対に排猶太的にもなる、又猶太問題が人情味ある方向に進展するや否やは、一つに猶太問題に関する智識の程度と洞察力の鋭鈍によることである。

「インターナショナル猶太人」の意義

抑々今世界に「インターナショナルの猶太人」という言葉が使われて居るが、この言葉には元来二様の意味が含まれて居る。其の一つは猶太人は何處に行っても依然として猶太人であると言う意味と、今一つは国際的支配権を行使する猶太人と言う意味である。そして今日全世界を刺激して居るのは此の後者の種類に属するものである。

扨てこの後者の意味に於ける所謂、インターナショナルの猶太人型(タイプ)、即ち世界支配権を獲得しようと努力する者、否既に之を把握して居り之を行使して居る猶太人は尋常の猶太人に取っては誠に不幸なる因縁を有するものと言わねばならぬ。そして此処に最も目立って珍奇なことは、此のタイプと言うものが、独り猶太民族のみに限られて居って、他の何れの民族にも見ることが出来ないということである。即ち財的國際的世界支配者の中に幾らかの猶太人が存在すると言うのではなくって、世界支配者は専ら猶太人に限られて居ることである。斯様な特異な現象があるがために却って、尋常の猶太人達は苦境に立つのである。即ち斯様な世界支配者階級に属して居らず、又将来に於ても属する見込み無く、単に猶太人種と言う以外に何等他と異なる所のない猶太人の逆境と言うものは、実に此の世界支配階級の存在に因る所少なくはない。又若し世界支配なるものが猶太人も非猶太人も混同して行われて居るものならば、縦令(たとい)幾らかの猶太人が大財閥の中に伍して居たとて、決して問題を惹起する様なことは無いであろうと思う。従って此の問題は、人種や系統に関係なく、唯世界支配権を行使する少数の人々だけに関する問題ということに制限されるのである。併しながら事実に於ては、世界支配権なるものがユダヤ人の渇仰(かつごう)努力の目標であり、且つ現に此の目的を達成して居るのであり而も此の目的達成の手段たるや、所謂他の世界攻略者の使用した様な尋常の手段と趣を異にした独特の猶太式のものであるから、此の問題はどうしても直接に右に述べた様な特殊の猶太人に関するものとならねばならぬ。

問題は富力に有らずして支配なり

この問題で一寸(ちょっと)面倒なのは世界支配者階級の一団を「猶太人」と言う名前の下に包括してしまうときは、之を純然と一般の猶太人から区別することが困難となることであるが、併し賢明なる読者は自ら充分区別し得るであろう。又猶太の富について論ずるならば非猶太人にも大富豪があるではないかということになるが、それは問題ではない。問題は富ではなく、世界支配であって、富と支配とは全く別種のものである。勿論世界を支配する猶太人は富を所有して居る、併し彼等はその上に富よりさらに力強き或るものを持って居る、それが欧米人をして問題たらしむる所であって、即ち彼等が他の何れの民族にも到底認めることの出来ない熱烈な自己民族への忠実及び自己民族の連帯観念上に立脚して居り、尚且つ彼等が猶太民族特有の商略的精神と支配的天才とを、極めて多分に極めて判然と所有して居るから世界を操縦し得るのである。従って今試みに今日此のインターナショナルの猶太人の世界支配権を、最高の商業的才能ある非猶太人の一団に譲渡したとしたならば、その結果はどうであろうか、世界支配の全機関は忽ちにして崩壊没落するであろう。即ち非猶太人は如何に商才優秀なものであっても、到底今日のインターナショナルの猶太人程の世界支配権を持続することは不可能である。蓋し非猶太人は、其の人間的であると神聖であるとを問わず、又先天的なると後天的なるとを問わず、兎に角猶太人の持って居る所の性格を欠いて居るからである。

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