ドイツ悪玉論の神話090

第二十一章 連合軍の最終目的? 独逸の滅亡!

「君たちが理解しなければならないのは、この戦争はヒトラーや國家社会主義に対するものではなく、独逸人民の強さに対するものだという事である。その強さは、この際、一気に叩き壊さねばならない。その強さがヒトラーの手にあるか、イエズス会の僧侶の手にあるかは関係ないのだ。」ウィンストン・チャーチル(1940)エムリーズ・ヒューズの本「ウィンストン・チャーチル戦争と平和に於ける彼の経歴」の引用より。

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フレデリックリンデマン(初代チャーウェル子爵)


最初のチャーウェル(Cherwell)子爵となったことで知られるフレデリックリンデマンは、独逸のバーデンバーデンで生まれた猶太人だが、英國で育った。彼は、独逸に戻ってベルリン大学で物理学の博士号を取得したが、その後、英國に帰った。リンデマン英國の航空技術発展の初期の草分けで、チャーチルが首相になった時、彼は、リンデマン英國政府の(そして彼の)先端科学顧問に指名した。猶太人としてリンデマンは病的な憎悪を國家社会主義者だけでなく、独逸と独逸人に対しても抱いており、その時、独逸に対して遂行していた國際猶太の「全面戦争」の熱心な推進者でもあった。独逸に対する復讐心が彼のあらゆる活動と意見を動機づけた。彼は、最初から、独逸の都市に対する「地域爆撃」の主導的な唱道者であり、それを実行するための「段取り」を工夫した。

リンデマン計画」は、英國は軍事標的については忘れ去るべきで、独逸人の士気を挫く為に独逸の民間人に集中的に空襲すべきだと提案した。彼らの士気が挫かれた後、独逸の民衆は連合國への無条件降伏を要求するだろうとリンデマンは信じ、また、チャーチルも信じた。彼の計画は、「爆撃は労働者階級の家に向けられるべきだ。中流階級の家は周りに空間があり過ぎて爆弾の無駄になる」と提言していた。

「強調しなければならないのは、家、公共企業、交通機関と人命の破壊が前例がない規模の難民問題を そして、家庭と戦場両方に於ける広範囲且つ強化爆撃の恐怖による士気の低下を引き起こす事、これらが我々の爆撃政策の承認された意図した目的である。これは、工場を爆撃する事の副産物ではない。」と言った。言葉を換えれば、大量の民間人を殺す事こそが、空襲爆撃の主要な目的である、という事だ。

リンデマンは、リンデマン計画を作った時にただ虚空に文字を書いていたのではなかった。ソリー・ズッカーマン教授とデスモンド・バナール教授、どちらも猶太人、も地域爆撃の構造物と人々に与える効果について研究しており、どちらも独逸の大量爆撃の強い提唱者となった。総力戦を戦う手段としての都市の爆撃は、既に英國の「戦争派」の構成員の間では承認された戦略となっていた。英國は、長距離重爆撃機の開発と製造を1933年には始めていた。米國も同じことをした。ランカスター、B17、B24などは、都市を破壊し、独逸の人々に大量の犠牲者を出すため以外の目的には製造されなかった。軍事作戦には小さくて高速で「戦術的」飛行機が必要だった。千機の(4つのエンジンを搭載した)四発「戦略」重爆撃機などに軍事的な目的は無かった。ロビン・オールズ大佐(後の准将)、非常に尊敬される将校で、第二次大戦にもヴェトナム戦争にも従軍した米空軍の戦闘機飛行士は、所謂戦略爆撃計画は、効果が少なく、無駄が多く、意味がない、と一度ならず話していた。今日では一般に認められているが、戦略爆撃計画は戦争を一日でも早く終結することは無く、最終的にそれは軍事的目的には役に立たない。結局、独逸は戦争向けの生産が戦争の最後の月に最も高い段階に達した、それは、爆撃が最も激しい時期であった。

オールズ大佐は、とりわけ、低空を高速飛行する、爆弾1個を抱えた戦闘爆撃機の方が、独逸の軍事と戦略目標に対してはるかに効率的であるという意見を持っていた。彼は、ムスタング一機で、500ポンド爆弾一発をどこの独逸の工場であれその窓にめがけて落とすことが出来ただろうと言った。巨大な編隊を組んだ2万5千フィート(7,500m)の高度を飛んでいる爆撃機が特定の工場に落とすのは、周りの何マイルかを破壊しない限り不可能だった。彼はまた、これは、劇的に民間人の犠牲を減らせただろうと強調する。大佐は、純真なのかもしれない。彼は、「戦略爆撃」の目的が當に、民間人犠牲者を最大化する事にあったことを理解していなかったのかも知れない。一言で言えば、「戦略爆撃」の目的は、大量虐殺なのである!

英米が町の破壊と大量の民間人の殺戮を目的とする何千機もの四発の長距離重爆撃機を製造している一方で、独逸は、地上支援のための軽い、移動しやすい低空飛行の爆撃機しか製造していなかった。これらの飛行機は、大量虐殺のテロ爆撃には不向きだった。英空軍が、独逸の都市のじゅうたん爆撃を始めた三か月後、ヒトラーは、英國の民間人標的の爆撃をいやいやながらしかしなかった。ヒトラーは、いつでも喜んで殺戮を止めただろう。

チャーチルの戦時内閣は、リンデマン計画を1942年3月に採用し、それは、英國の正式な政策となった。この戦時内閣の決定は、戦時中、そして戦後も長年に亙って英國一般公衆にはしっかりと護られ機密にされてきた。英國民は、軍事と産業標的だけが爆撃され、それ以上の損害は意図したものではない、と教えられてきた。英國による独逸都市・民間人爆撃の本質は、1961年に物理学者の小説家、チャールズ・スノーの「科学と政府」という題の本で明かされた。この本の次の件(くだり)は直ぐに数カ國語に翻訳されて出版された。
「1942年の早い時期にリンデマン教授、今ではチャーウェル卿と閣僚の一人が独逸の戦略爆撃についての案を内閣に出した。それは、次の18か月間(概ね1942年3月から1943年9月)の英國の空襲爆撃が独逸に及ぼす影響を定量的に記述したものだった。その論文は戦略的政策を載せていた。爆撃は、基本的に独逸の労働者階級の家に向けられなければならない。中産階級の家は、間に空間があり過ぎて爆弾の無駄になってしまうし、工場や軍事標的は、見つけるのも攻撃するのも難しい為、公式の広報以外では長く忘れ去られていた。その論文が主張するには、-航空機の製造とその運用を完全に集中する事が出来れば- 独逸の全ての大きな町(つまり、人口5万人以上の町)で全ての家屋の50%を破壊する事が可能だ。」

アンガス・カルダーは、その著書「人民の戦争」(1969)の中で次の様に書いている。「それは不都合な歴史かも知れないが、英國が、独逸ではなく英國が民間人への爆撃による殺人的殺戮を始め、それで報復をもたらした。(ネヴィル)チェンバレンは、それ{民間人と都市の爆撃}は、「完全に國際法違反だ」と認識していた。それは、1940年に始まり、チャーチルはそれが勝利の鍵(秘密)を握っていると信じた。彼は、充分な激しさの空襲は、独逸の士気を挫くと確信し、彼の戦時内閣は敵の軍備を攻撃する正當な慣習を捨て去り、そうではなく民間人を主な標的とした作戦を計画した。夜な夜な、英空軍の爆撃機は、益々その数を増やしつつ、通常労働者階級の家屋に対し、何故ならそこはより人口密度が高いからだが、斯様にして独逸全土を空襲した。」

英國は、その資源をその他の全ての軍の支部を合わせたよりもより多く、英空軍の爆撃機部隊に専ら費やした。戦争初期に工場や滑走路などの小さな標的を高空から叩くのは不可能だと発見し、爆撃部隊は、空軍全体をして独逸の都市に一度に何千機もの爆撃機による攻撃を集中する事を決心した。独逸の戦闘機や地上からの対空砲による航空機の損失を防ぐ為にこれら大量爆撃は、夜間に高高度から行われたのだ。英國は、戦争の早い時期に軍事標的の攻撃を諦め、標的を街の中心部にして完全に独逸の町への攻撃に集中することを決めたのだった。町の中心部とは、その町で一番古い部分であり、中世やそれ以前に遡るものだ。町の中心部では通りが細く、建物が立て込んでおり、殆どが燃えやすい木で建築されてそれを石膏板で覆ったもので、それは、発火しやすく、激しく燃えるものだ。これらの古い町の人々は、苦痛に苦しみながら、火事で焦がされ、焼かれ、そして、炙られ、或いは、爆発で粉々に飛ばされながら、死んでいったことであろう。

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ディープステートについての考察02

覃府の発覚-その存在の確証

我々無辜の善人は、その意図に於いて裏表なく、偽るところを知らないので俄かには信じがたいのですが、世の中には秘密結社なるものが存在し、その目的・教義・秘儀などは完全に闇に包まれており、知る術もありません。そして、殆どの善良な人々はその存在をほぼ考える事なく、従ってその存在を意識することもありません。

或いは、我々が日頃慣れ親しんでいる宗教組織や慈善団体、非営利団体なども、極端な話、実際にどの様な隠れた目的があるのか、実は外部の人間には知らされないし、また知り様がないのも事実です。

更に極端な考え方をしますと、我々が「言論の自由」などという一見自由を享受しているように見えるこの社会も、実際にその言論界に入って見ると、SNSですら、やれ、國家社会主義を礼賛するな、差別発言をするな、ある種の言語を使うな、と言われて、その「秘儀」に於いて何ら言論の自由などないことを思い知らされたりします。

そう言う世の中の実態を知るにつけて、私などは覃府の存在を直観で見抜くのですが、妄想ではなく、現実に18世紀にイルミナティと言う秘密結社の存在が発覚した歴史的事実があることをつい最近まで知りませんでした。この「ディープステートの歴史」にはそれに関する生々しい記述があります。以下引用をお読みください。

 

<引用始まり>

(「第3章 ディープステートイルミナティ」より)

アダム・ヴァイスハウプトの新世界秩序の姿は全くの偶然或いは、神の手に因ってのみ発見されたのであった。話が進むにつれ、バイエルン選帝侯(本質的に一種の王様)は、イルミナティの会の活動がメーソンの神殿の中で行なわれていることに注目し始め、(秘密結社が他の秘密結社の内部に植え付けられて形成される形でメーソンも浸透された)バイエルン中のメーソンの神殿を襲撃した。バイエルン選帝侯は、間もなくあらゆる種類の秘密結社を禁止する法律を制定した。フリーメーソンの集会でさえ、その時までに主にイルミナティに侵されていたのでこの新しい法律の例外ではなく、イルミナティの悪を文化から放逐する意図で、その儀式を執り行っている者は誰でも逮捕した。この襲撃が遂行されている中、1785年7月10日、ヴァイスハウプトの個人的な友人がその秘密結社の危機に気付いて逃れようとし、イルミナティの世界征服の真の謀と課題が含まれる秘密書類を持って馬に乗って逃げ去った。

彼が馬を駆けていると夜になり嵐が来て、実際、奇妙な偶然としか思えないことに彼はフランスへの逃避行の途中、雷に打たれて死んだのである。彼の焦げた體には秘密結社イルミナティの教義が破損せずにそのまま共にあった。バイエルンの当局は彼が死んだのを見つけ、そのブーツに隠されていた秘密書類を全て押収した。ヴァイスハウプトの手書きになる内部侵略(ディープステートマニフェスト)の悪魔のような企みを通じて世界中の政府を転覆する計画、ディープステート指針(政策)が明るみに出た。ヴァイスハウプトは即時バイエルン大学を追放され、永久に彼の國から消え去った。ヴァイスハウプトは地下に潜る前にバイエルン当局に、10倍強力になって戻って来る事を誓った。

 ヴァイスハウプトの一言は敗北したことへの否定の偉そうな見せかけのようにも思われるが、彼は実際、この声明を出していた。ロスチャイルドの世界中の事業(総額は欧州における全てのおカネの完全な支配になる)を通じた全面的な財政支援による彼のフランス革命煽動は既にその途上にあった。

比較的短い期間に(1771年~1785年)イルミナティの結社とそのディープステート計画である世界中の政府転覆計画は、瞬く間に欧州中に拡がった。計画は殆ど世界に明かされていたにも拘らず、彼は何とか新しい平和的な目的を一組宣言し、世界をまたぞろ騙しおおせたのであった。アダム(ヴァイスハウプト)は、心にもない、イエズス会の僧侶に戻り、永久にイルミナティの活動を諦めたように見せかけた。この世界への宣言を以てそして、完全に地下に潜ることで彼は神を畏れる人道主義的純粋な者と言う社会的信用を回復したのであった。

雷に打たれて死んだ使者は実際には二つの使命を持っていた。ヴァイスハウプトに近い取巻きはバイエルンから逃げるところであったけれども、その密使[1]もまたフランスに向かう途中であった。如何にして「國民國家」を転覆するかの詳しい指示を持って。その伝言は、マクシミリアン・ロベスピエールに宛てて出すつもりのものであった。ロベスピエールは貧乏人の味方、18世紀フランスの食糧と収入の不平等を解決、それに死刑反対を自身で唱えていたが、その意図は全く反対であり、これら全ての博愛主義を見せかけながら政治権力を手に入れ、その後「フランス革命」を起こす煽動をすることであった。

 

[1] 原文はcurrier(革職人) courier(密使)の間違いと思われる

<引用終わり>

 

この事件が無ければ「イルミナティ」なる秘密結社の存在やその目的は明かされることが無かったのかも知れません。逆に言うと、同様の反社会的秘密結社が他にも存在する可能性がかなり高い、とも言えます。考えてもみてください。この社会に善人を装いながら、その社会への忠誠を誓わず、寧ろその社会の破壊工作を着々と進めている団体があるのです。そのような気味の悪い社会が健全に機能するはずがありません。心底、背筋に冷たいものが走る気分です。

そして、一向に全貌は掴めないながら、現在の覃府の中心を構成している中に、このイルミナティシオニスト、それに國際金融閥が少なくとも含まれていると思われます。(そのいくつにも重なって属する団体・個人が居ることも指摘しておきます)

 

更によく考えると、宗教改革の頃からの欧州の社会の変化は常に何らかの秘密組織が裏で関与して推し進められてきたことが何となく透けて見えます。我々が正史で習った欧州の歴史は:

1. ローマ教皇が、そして国王達がその権威で強権支配した不潔な中世の暗黒時代

2. 十字軍によるイスラムとの闘いの時代、次いで蒙古の脅威の時代

3. 活版印刷の発明により、聖書が一般化し、それが元で?宗教改革が起こった時代

4. イスラム圏との貿易で栄えたヴェネチアなどでイスラム文物として古代ギリシャの文献が手に入ったことで?ルネッサンスの動きが起こった時代

5. イスラム圏から伝来した羅針盤を改良しイスラム圏を回避して貿易をおこなう為に外洋航海に出た大航海時代(概ね16世紀)

6. 大航海時代の海外掠奪を更に巧みに重商主義化した時代(東インド会社

7. 産業革命と相俟って新たな富と新たな植民地支配が確立した時代

8. 商業活動で勃興した新興有産階級による市民革命の時代

ざっくりとこう言う展開だと習うのですが、ここには多くの非常に重要な事実の隠蔽若しくは無視、或いは後の時代の辻褄合わせがあり、とても眞實の歴史ではありません。

ここではこれらについてこれ以上詳しくは触れませんが、一つだけ、覃府が関与したことが間違いないのが宗教改革です。聖書が普及して多くの人が読める様になり、それが原因で宗教改革が起こった、と言うのはどう見ても無理があるような気がします。何故なら、一般化したと言っても当時の文盲率は恐らく欧州では八割にも上り、聖書が実際に読めた人間は二割に満たないエリートであったことでしょうし、更にルター自身、聖アウグスチノ修道会の聖職者であった訳で、聖書の普及による新たな解釈ではあり得ません。寧ろ、聖職者の反乱が起こったわけで、その後ろにはユダヤのカネとイルミナティのような反キリスト教団体、そして王族の支援があったはずなのです。だから聖書の普及により宗教改革のうごきが起きたというのはどう考えても後の時代の辻褄合わせで、眞實は別のところにありそうです。

 

閑話休題バイエルンを追われたヴァイスハウプトは、何故か極刑にされることもなく、イエズス会の聖職者として天寿を全うしています。これもまた、不思議な事ですね。普通、公国と雖も、国家に叛逆した人間は極刑に処せられるのが当然に思われます。それが国外追放処分だけで終わったのには覃府の支援があったから、と見るのは穿ちすぎでしょうか?

 

イルミナティの掟

 上記引用より、イルミナティフリーメーソンの上部団体のような形で成立したと思われますが、読者の皆さんもご存知のようにフリーメーソンは、見かけ上は自由・博愛主義者で、その募集要項にも「啓発(啓蒙)による人格の完成が人間を自由・平等にする」程度のものであったようです。

そのような理想を掲げて置いて入会させ、入会してから本当の恐ろしい目的を明かされるのです。しかし、入会儀式(イニシエーション)を終えていますので、「やっぱり辞めた」と言う訳には行きません。恐らく死を以てしか逃れられない掟なのです。(フリーメーソンでも奥儀は階級がある程度以上昇進した人間にしか教えられない、と言うのを聞いたことがあります)

ここで著者は、アメリカ建国の父の一人、ジェファーソンの手紙を引用しながら説明しています。以下、引用します。

 

<引用始まり>

(「第3章 ディープステートイルミナティ」より)

3.1古い秩序

イルミナティの公式の創立に撰ばれた日付、五月一日は偶然ではない。既に暗示したように五月一日は古代信仰の夏至の最初の日であり、それは何千年もさかのぼる伝統で、古代ギリシャやローマ帝國でも祝われたものである。五月一日はまた、「魔女の日」でもあり、それも今日でもまだ欧州中で、また合衆国ではオカルト主義者と高階級のイルミナティ構成員に個人的に祝われている。更に重要な事は、それが7月4日の丁度66日前の日であることだ。

イルミナティ」の言葉の起源はグノーシス二元論の光と闇の間から来ている。それはまた、我々の独立記念日が関係している様に、古代信仰の夏至(7月4日の66日前)とキリスト教夏至、6月21日(7月4日の13日前)の間の象徴主義をも説明する。

この秘密結社に新しい構成員を迎え入れるために、彼らにははっきりと定まった、より良い、より國際的な世界を追求する、善、人類愛、無害で有益でさえあると思われる目的を持つことは信じられないくらい重要であった:

「人間と社交的な像を刺激する事。悪徳により脅かされ抑圧されるところで美徳を支持する事。人々に価値のある進歩を促進し、教育を奪われたものの利益を涵養する事。」

―アダム・ヴァイスハウプト

 

トーマス・ジェファーソンは、イルミナティの創設者アダム・ヴァイスハウプトの事を「無害な博愛主義者」と呼んだ。アダム・ヴァイスハウプトの売り口上は、イルミナティは単に「無害の秘密結社」と言うインチキな主張をしたときにトーマス・ジェファーソンその人に買われたのであった。この理由については定かではないが、低い階級のイルミニスト(イルミナティ構成員)として、多くの低い階級の構成員が騙されたように、ジェファーソンは故意に騙されたのではないか、と言う可能性が非常に高い。そしてディープステートイルミナティ構成員の真の意図、動機、目的の完全な理解を与えられなかったのではないか。ジェファーソンはヴァイスハウプトに関して次のように述べている:

「ヴァイスハウプトはこの人格の完成を振興することがイエス・キリストの目的であったと信じている。彼の意図は単に自然宗教復権し、そして彼の道徳性の光を拡散することにより、我々に自らを統治することを教えることであった。彼の教えは神の愛と隣人の愛である。そしてその行ないの潔白を教える事により、彼は人類をその自由と平等の自然な状態に置く事を望んだ。彼は、我らが最高の師、ナザレのイエスよりも確かな自由の基礎を築いた者は誰も居ない、と言う。フリーメーソンが元々眞實の原則とキリスト教の目的と、それに大方損なわれたものの未だ伝統により残る部分を持っていたと信じている。彼がこの人間の天性の進歩を果たす為に提案した方法は「人類を啓蒙し、道徳を正して慈善を以って鼓舞する事。我々の成功を確実にし、暴力的動乱を慎むべきである、と言っている。既に予見した事、後世の幸せと、それを非の打ちどころのない手段で用意した事で我々の至福には充分である。我々の良心の平安は破壊や国家・王位の転覆を目的にした非難によって乱されない。ヴァイスハウプトは専制君主と僧侶の暴政の下で生きたので彼は情報や純粋な道徳の原理を広める中でも警告が必要だと知っていた。そこで彼は、この目的を採用し、彼らの組織の目的を科学と美徳の拡散とするようにフリーメーソンを導くことを提案したのである。彼は新しい会員を圧政の衝撃的なことへの怖れの強さの段階に応じて、彼の本体に加入する提案をした。これは、彼の見解に謎の雰囲気をもたらし、彼の追放の根拠となり、メーソン結社の崩壊であり、本当は情報・理性・自然道徳の人類への広がりが騙しを危険に晒すのではないかと懸念するロビンソン[1]、バリュエル[2]、モース[3]の彼に対する大嘘の見せかけであった。この話題は私には新しいものだが、貴方にとっても同様にそうであると思うと、私がその分析を形作ったのを分かることに同じ満足をされるのではないかと想像した。そしてヴァイスハウプトがもしここに書いたなら、人類を賢く美徳にするための我々の試みに秘密など必要はなく、その目的の為に彼が何か極秘の仕組みを考えるはずはなかったと貴方は私と同じように考えると信じている。ゴドウィン[4]もドイツで書いたのなら、多分、秘密と神秘主義は賢明だと思ったことだろうから。私は、最近のフランスの革命については何も言わない。しかしそれは痛切に興味深い事ですが。それが起こった状況と目指すところが更に解れば、その主な機関であるボナパルト[5]について、現在よりは光が当たるやもしれない。私は大いに自尊心を持っている。

親愛なる貴兄へ 愛情深い友人」

トーマス・ジェファーソンよりジェームス・マジソンへ 1800年1月31日

記載されている目的は、新人募集の入会儀式のときの実際の次に記述されている目的とはかけ離れて違っていた。しかしそれはあらゆるイルミナティの儀式が完了するまでは明かされない。

イルミナティの誓い[6]」:(会員を「我等」、会員以外を「余人」で表現している。)

それは余りにも大きく余りにも広大な幻想となり、余人の知覚から逃避する。それを見るものは、狂人と思われるのである。我等は我等の間の繋がりを余人から隠すため、別々の戦線を造らむ。我等は幻想を生かし続けるために繋がりなきが如くに振舞わむ。我等が目標は、我等自身に疑念をもたらさぬよう、一度に一滴ずつ達成されよう。これはまた余人に起きる変化を見ることをも妨げるであろう。

我等は絶対的なるものの秘密を知る故、常に余人の相対的な経験の分野の上に立つであろう。我等は常に共に働き、血と秘密により結ばれ続けるであろう。口外するものには死が来たるであろう。

「我等はその逆(延命、心を強めること)をしているように見せかけながら、余人の命を短く、心を弱く抑えるであろう。」我等は、余人にその起きつつあることを悟られぬよう科学の知識と技術の巧妙なるやり方を用うるだろう。我等は食糧と水、それに空気に軟金属、老化促進剤、鎮静剤を用いるであろう。余人は、至る所で毒に包(くる)まれるであろう。

軟金属は余人をして耄碌を起こすであろう。我等は我等の多くの戦線からその治療を見出す約束をするが、反ってもっと毒を盛るであろう。毒は余人の皮膚と口より吸収される。毒は余人の心と生殖機能を破壊するであろう。これら全てより余人の子供は死産となり、我等はこの情報を隠匿するであろう。

毒は余人の周りのあらゆるもの、余人が飲むもの、食べるもの、呼吸するもの、着るもの全てに隠されるであろう。余人は遠方を見ることが出来るので我等は毒の投与に巧妙であらねばならない。我等は楽しい印象と楽音を以って毒が良い物であると余人に教えるであろう。余人が尊敬するものは助けるであろう。我等は毒を推し進めるために余人を集めるであろう。余人は我等の製品が膜状に使われているのを理解しそしてそれに慣れて行き決してその真の効果を知らないであろう。余人に子供が生まれるときは、我等はその赤子の血に毒を注入し、余人にはそれが助ける為だと説得するだろう。我等は早くから始めるであろう、未だ余人の心が若い時、我等は子供が好きでたまらないもの、甘いものを以って余人の子供を標的にするであろう。彼らの歯が虫歯になれば我等は子供の心を殺し、将来を奪う金属でそれを詰めるであろう。彼らの学ぶ能力がその影響を受ければ我等は更に病気になり、他の病気を誘発する薬を創り、更にその為の薬も創るであろう。我等は余人を我等の力の前に従順でひ弱にするだろう。余人は憂鬱に、緩やかに、肥満に成長し、我等に助けを求めに来れば、我等は余人に更なる毒を与えるであろう。我等は余人が内なる自己と繋がることが無い様に、余人の注意をカネと物質に向けるであろう。我等は余人が決してその一体性を持たぬように余人を淫乱、外面的悦楽とゲームで注意散漫にするであろう。余人の心は我等に属し、余人は我等の言う通りを行なう。余人が拒めば、我等は余人の生活に心変わりする技術を組み入れる方便を見出すであろう。我等は恐怖を武器として用いるだろう。我等は余人の政府を打ち立て、反対勢力もその内部に打ち立てるだろう。我等は両側共に所有するだろう。我等は常にその目的を隠匿するが、その計画を実行するだろう。余人は我等の為に労働を為し、我等は余人の骨折りから繁栄するであろう。

「我等の家系は決して余人と交わらないであろう。我等の血は常に純粋でなければならぬ、それがしきたりである故。」我等は我等に必要な時は余人を互いに殺させるであろう。我等は余人を教理や宗教を通じた一体性から引き離しておくであろう。我等は余人の生活のすべての面を統制し、余人が何をどのように考えるかを指図するであろう。

「我等は、余人を親切に優しく導き、余人が自分たち自身を導いている様に思わせるであろう。」

我等は我等の派閥を通して余人の間に敵意を煽るであろう。余人の間に光が輝くとき、我等はそれを嘲りか死か、何れか我等に最善の方を以って消し去るであろう。我等は余人をして互いの心臓を引き裂かしめ、子供を殺さしめるであろう。我等はこれを憎しみを同盟者として、怒りを友人として成し遂げるであろう。憎しみは余人を完全に盲目にし、我等が余人の統治者として起こす余人の紛争からはそれが決して解らないであろう。

余人はお互いに殺し合うのに忙しいであろう。余人はその血の風呂に浸かり、その隣人を我等が良いと思う限り殺すであろう。我等はこれにより大いに利を得る。何故なら余人は我等を見ず、余人には我等は見えないからである。我等は余人の戦争と余人の死により繁栄し続けるであろう。我等はこれを我等の目標が成し遂げられるまで幾度も幾度も繰り返すのである。我等は余人を印象と音を通じた恐怖と怒りの中で生かしめ続けるであろう。我等はこれを成し遂げねばならず、あらゆる手段を使うであろう。その手段は余人の労働により提供されるであろう。我等は余人をして同士をそしてその隣人を憎しませるであろう。我等は常に余人から我等は一体なりと言う神の真実を隠すであろう。これは余人が決して知ってはならぬ!余人は色が幻想であることを決して知ってはならぬ。余人は常に余人らが平等でないと思わねばならぬ。一滴一滴、我等は最終目標に進むであろう。「我等は余人を完全に統制するために、余人の土地、資源、富を接収するであろう。」我等は余人にその持っている自由を少し掠める法律を受け容れるように欺くであろう。「我等は余人を永久に閉じ込める通貨の仕組みを打ち立て、余人とその子供たちを負債状態に置くであろう。」余人がみんな一緒に追放する時、我等は余人の犯罪を告発し、世界に違う話を提示するであろう。-我等は全ての報道を所有しているからである。我等は我等の報道を用い情報の流れと余人の感傷を我等に都合よく統制するであろう。余人が我等に蜂起すれば我等は虫けらのように余人を打ち砕くであろう。何故なら彼らは虫けら以下だからである。余人は武器もなくどうすることもできないであろう。

我等は我等の計画を実行するために余人の人材を用いるだろう。我等は余人に永遠の命を約束するが、余人は決して永遠の命を得られない。何故なら余人は我等の内ではないからである。採用者は「初歩加入者(initiate)」と呼ばれ、より高い領域への移行の虚偽の儀式を信じることを教え込まれるだろう。この集団の構成員は決して真実を知ることなく、我等と共に一体であると考えるであろう。

余人は決してこの眞實を学んではならぬ。何故なら余人は我等を裏切るからである。余人の功績には地上のものと偉大な肩書を以て報いられるであろうが、決して不死身とはならず我等の仲間にならないし光を受けて星を旅することもない。余人は決してより高い領域に達しないであろう。何故なら余人の類(たぐい)の殺人(つまり余人同士の殺人)は悟りの領域への通路を妨げるからである。これは余人には決してわからぬ。

眞實は余人の顔から隠され、余りにも近すぎて余人には焦点が合わず、気付いた時にはもう遅い。そう、自由の幻想は余りにも壮大で、余人は自らが我等の奴隷であることが分からないであろう。

「すべてが落ち着くと、我等が余人の為に創作した現実が余人を所有するであろう。この現実が余人の監獄となろう。」余人は自己欺瞞の中で生きるであろう。

我等の最終目標が成し遂げられる時、新しい支配の時代が始まるであろう。余人の信念が余人の心を束縛する、我等が太古の昔に打ち立てた信念が。

然し余人が我等と同等であることを万が一見出せばその時、我等は滅亡するであろう。余人はこれを決して知ってはならぬ。余人が一緒になれば我等を征服することが出来る事を万が一余人が見出せば、余人は行動を起こすだろう。余人は決して、我等が為したことを見出してはならない。何故なら、見出せば我等には逃げる場所が無くなる。何故ならば一度仮面が剥がれると我等が誰であるか容易に見えるからで、そうなると余人は我等を追い詰めるであろう。そして我等を庇護する者はいない。

これが我等が残りの人生に於いて、そしてまたこの現実は多くの世代とその寿命を超越するであろうから、未来の人生に於いても、拠って生きる秘密の契約である。血が、我等の血がこの契約を封印する。我等、天より地上に来るもの。この契約は決してその存在を知られてはならない。

この事は決して書かれたり喋られてはならない。何故なら、それが産む意識が造物主の激怒を我等に放つからである。そして我等は我等が来た深淵に投げ込まれ、未来永劫に亙ってそこに留まることになる。

-匿名イルミナティ構成員

 

会員は公言されている知恵の獲得という「無害な秘密結社」の幻想を完全に吹き込まれると宣誓をさせられる。彼らの本当の公言された目的がそこで初めて明かされる。

  1. 全ての政府の根絶(國家の転覆)
  2. 相続の根絶(富と金銭の配分の統制)
  3. 所有権の根絶(ディープステート疑似共産主義
  4. 民族主義愛国主義の根絶(国の解体)
  5. 人口抑制(減産)(新世界精鋭主義の勃興)
  6. 宗教の根絶(悪魔主義
  7. 家族の根絶(世俗文化)
  8. 新世界(統一)政府の樹立(新世界秩序(NWO)又は「ディープステート」)

 

[1]ジョン・ロビンソン John Robinson(スコットランドフリーメイソン

[2] アウグスティン・バリュエル[Augustin Barruel, 1741-1820](フランスのイエズス会の司祭。陰謀論の草分けと言われる。)

[3] ジェディディア・モースReverend Jedidiah Morse(アメリカの地理学者・牧師 )

[4] ウィリアム・ゴドウィン William Godwin (3 March 1756 – 7 April 1836)イギリスの政治評論家・著作家無政府主義の先駆者。妻は女権論者のメアリ・ウルストンクラフト。

[5] シャルル・マリ・ド・ボナパルト(仏: Charles Marie de Bonaparte, 1746年3月29日 - 1785年2月24日)は、コルシカ島のフランス貴族。ナポレオン・ボナパルトの父親。コルシカ語(イタリア語)での名前はカルロ・マリア・ディ・ブオナパルテ。

[6] 会員を「我等」、会員以外を「余人」で表現している。

<引用終わり>

 

如何でしょう?

この誓いの一番恐ろしいところは、そのおどろおどろしい表現や脅しではなく、

1. それが潜入において行われること。

2. それが啓蒙によって、或いは宣伝によって広まること。

3. 啓蒙・宣伝によって洗脳されたものは、入会せずともイルミナティの一員と変わらぬ行動をするであろうこと。

なのではないでしょうか。

 

次回は、アメリカ独立戦争フランス革命についてのお話です。

 (註:ディープステートをこのブログでは、「覃府」と呼ばせていただきます 但し訳文は元のままです
覃は深い・拡がり及ぶ等の意味があり、府は、政府・幕府などの様に国家機関を表します)

ドイツ悪玉論の神話089

チャーチル英米両方での猶太人の力を理解していた。彼も猶太人の支援集団、フォーカスの支援の結果、首相になれたのである。マイケル・J・コーエン教授は、その著書「チャーチルと猶太人」の中で、次の様に書いている。
「(チャーチルは)シオニスト運動が強力な政治的経済的影響を特に米國で及ぼしていると信じていた。1939年の12月の時点で、彼は閣僚に対して米國の資源を英國の戦争遂行に動員するのにシオニストが演じる重要な役割について講義している。彼は、1917年に英政府がバルフォア宣言を公表したのは軽い理由や感傷的な理由からではなく、米國の支持を取り付ける為であった、と言った。1939年、チャーチルは、歴史は繰り返し、シオニストが大西洋を挟んだ彼らの代理人を介して、勝敗に関わる米國の早い時期の参戦の動きを加速するのに、影響力があるはずだと信じていた。」

米國の人々は、頑強に参戦に反対していたけれども、ルーズベルトは、断固として参戦する道を探っていた。1941年8月に公開されたロンドンの戦時内閣閣議の議事録にはチャーチルの報告が含まれている。チャーチルは、「彼(ルーズベルト)は明らかに彼ら(米國)が参戦すべきだと決心している。」また、議事録にはこのようなチャーチルの論評も含まれている。「大統領は、戦争に参加するが宣戦布告はせず、そして、さらに一層挑発的になる。独逸がそれを嫌えば、米國軍を攻撃することも出来る。(中略)全ては、何らかの事変を起こすためのものだ。」しかし独逸は、挑発に乗ることを拒み、また、非常に慎重に、米國の参戦の口実になるような事件を避けたのであった。

1941年7月5日、ワシントンの英國海軍代理、リトル提督は、第一海軍卿パウンド提督に書き送っている。「米國参戦の最も明るい希望はアイスランドへの護衛手配にあり、独逸が彼らを攻撃するのに躊躇しないことを願おう。」リトルは付け加えて、冗談かもしれないし本気かもしれないが「でなければ、我々自身の潜水艦で、護衛に対して(攻撃するの)が好ましいが、(独逸の)攻撃を策動するのが一番だと思う。」と書いている。それに先立つ数週間前、チャーチルは、米國の参戦の機会を探って、独逸戦艦、プリンツ・オイゲンに関してパウンドに次の様に書いている。「例えば、プリンツ・オイゲンが米國の戦艦に捕捉されるというのはより良いだろう。それでオイゲンがその米艦に砲撃する誘惑に負ければ、それで事件が提供でき、米政府は感謝するだろう。」米國が独逸との戦争に近づいて来るに従って北大西洋に於ける事件は、益々頻発するようになった。

1941年の8月9日から12日にかけて、米國が参戦する前、ルーズベルト大統領はカナダ・ニューファンドランドのアルジェンシャ沖に停泊している英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」艦上で会談した。彼らは、共に、戦争と平和の目的について提示した大西洋憲章を下書きした。続いている大西洋の戦いに於ける米海軍の関わりについても話し合われた。米海軍は既に大西洋を横切って英國に送られる軍需物資の船団の護衛に関わっており、これは、國際戦時法によると戦争行為であったが、このニューファンドランド沖会談後は、米海軍は積極的に独逸潜水艦に対決姿勢を始めた。これまでに米國は独逸に対し、既に宣戦布告無き、事実上の戦争状態にあった。それは、独逸がもたらした戦争ではなく、望んだ戦争でもなく、独逸が必死で避けようとした戦争であった。

しかし、ルーズベルトは、完全に対独戦を望んでおり、それには下院の宣戦布告が必要であった。しかしながら、これまでは、独逸はその口実を提供する事を何とか避けていた。独逸は、イタリアと日本と三國同盟を結んでおり、その条項の一つが、三國の何れかが戦争に巻き込まれれば、三國すべてがその戦争に加わる、と言うものだった。ルーズベルトは独逸を戦争に挑発する事に失敗してきたので、彼は日本に注目を変えた。日本との戦争を挑発する事により、彼の望む独逸との戦争になるのであった。ジョゼフ・E・パーシコの「ルーズベルトの秘密戰爭(Roosevelt's Secret War)」、ロバート・B・スティネットの「欺瞞の日(Day of Deceit)」が共に疑いの陰という事を完全に超えて、以前の何十もの多年に亙る機密書類の研究を根拠に、ルーズベルトは、故意に日本にハワイで米艦隊を攻撃するように挑発したことと、更に彼は日本軍がいつどのような規模で攻撃に来るか正確に知っていたにもかかわらず、日本軍の攻撃に備えてハワイの司令官に警告する事を拒否したことを証明している。日本の攻撃後、輿論は戦争に強硬に反対、から強く賛成、へ振れた。下院は、時間を置かず、日本に対する公式の宣戦布告をした。三國同盟は、独逸を米國との戦争に巻き込んだ。チャーチルルーズベルトは遂にその目的を果たしたのであった。

ルーズベルトは、自分が本當に望んだ独逸との戦争を始めるために日本を挑発したのであり、彼は、対日よりも、対独戦が一番の優先事項であると発表した。独逸が打ち負かされたとき、その時我々は、日本を打ちのめす方に注意を転じるであろう、しかし、まずは独逸だ、とルーズベルトは言った。1942年2月15日、チャーチル米國の参戦についてこの様に言った。「これが私が夢見たこと、目的としたこと、取組んできたこと、そして今やそれが叶ったのだ。」遡ること30年、チャーチルは、アスキス卿に、自分の人生の野心は「戦いで偉大な勝利の軍隊を指揮する事だ」と語っていたのであった。

                  ********

独逸とソヴィエト連邦の間の残虐な戦争は、世界がその終末に欧州文明の未来と同様に世界の残りの大部分の未来を決める、終末論的な戦いとして急展開しながら続いていた。ソヴィエト連邦と独逸は、二つの巨大な対立する力、政治的、社会的、経済的、宗教的、文化組織の争いを含む力、そして、いつかは衝突する力、を代表していた。ヒトラーは自分自身を 欧州を席巻し消滅すると脅す強欲な敵に対する、西洋キリスト教文明の守護者と観ていた。彼は、ソヴィエト連邦に先制的に侵攻する前、英國と西側の國との問題を解決する最善を尽くしたが、英米は協力を拒んだ。ソヴィエト連邦侵攻の決断に於いて、ヒトラーは、独逸にとって時間が無くなりつつあることを計算した。ソヴィエト連邦は日々、より強力になっていた。独逸が攻撃を躊躇していたら手遅れかもしれなかった。

しかし我々(アメリカ)は、ソヴィエトロシアに単なる「同盟」以上の事をした。米下院議員ハミルトン・フィッシュの「悲劇的欺瞞:FDR と米國の第二次大戦の関わり(Tragic Deception: FDR & America’s Involvement in World War II)」によると、レンド=リース法の下でFDR は、ロシアに2万機の航空機、40万台のトラック、数千トンの軍需物資、巨大な量の靴用の皮、制服の布、数百マイルの有刺鉄線と電信線、数千両の機関車と自動車、巨大規模の全ての種類の食糧供給、独逸に破壊された工業設備を補完し、新しい工場を設置するための設備などを送ったのであった。この戦時物資の無限の豊饒がなかったならソヴィエト連邦は、戦争に負けていただろう。

振り返ってみれば、英米が、自分たちの兄弟分であるキリスト教徒の独逸に対抗して、猶太人支配の共産主義ロシアと同盟を組むことを選んだことは、殆ど狂気の沙汰であったと見えて来る。しかし、実際に、ルーズベルトチャーチル両方を取り囲み、支配したのも、新聞や情報媒体を そして、それ故に、輿論、両國民の利益と福祉に真っ向から対立する方向であったにも拘らず両國をその方向に推し進めたものを支配していたのも、猶太人であった。猶太人は非常に利口に操り、彼らの大きな競争相手、西洋キリスト教文明を同士討ちの壊滅的な戦争に巻き込み、そしてそれは、最終的には、國際猶太のみを利する事となったのであった。

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ドイツ悪玉論の神話088

1941年6月22日、独逸はバルバロッサ作戦と呼ばれるソヴィエト連邦侵攻を開始した。ヒトラーは、独逸もソヴィエト連邦も遅かれ早かれお互いに戦争は避けられないと理解したと思われるため、それはするかどうかではなく、いつするかの問題であったので、この侵攻を先制攻撃と考えた。ソヴィエト連邦はここ最近、大量の戦車と戦闘機などを含め、軍事力を増強していた。そしてそれは、行く行くは独逸に侵攻する為、以外の理由はなかったであろう。

独逸は、今や二正面を戦っていた。ソヴィエト連邦相手に、と反対側で英國の戦いと。1940年9月14日、ヒトラーの司令部で会議が開かれた。ヒトラーは、英國に対する制空権は未だ確立されていないと結論付け、9月27日または10月8日の英本土上陸の可能性を9月17日に状況を検討する、と約束した。ところが、三日後に独逸空軍が自分たちの英空軍に対する戦果の程度を非常に誇張していた証拠が明白となり、ヒトラーは、このアシカ作戦(Opeartion Sea Lion)を無期限に延期し、ソヴィエト連邦との戦争に集中した。

英國の戦いに勝利した後もなお、ロイド・ジョージハリファックス、それに他の英政府高官は、英國が自國のみでは独逸を打ち負かせないことを理解していた。チャーチルの独逸に対する完全勝利の目的は、特にフランス陥落後、ただ一つの条件においてのみ可能であり、それは、米國英國の味方として戦争に引き出すことが出来る事であった。彼はそれが出来るという強い自信を持っていたに違いない。さもなくば、彼はヒトラーの和平提案を受け入れる以外に選択の余地はなかったはずである。

ルーズベルト大統領は、独逸との戦いに関してはチャーチルと心を一にしていた。そして、彼は喜んで進んで、戦争に引き出された。外交の手順に露骨に違反してルーズベルトチャーチル海軍大臣になるや否や、権限が同じであるチェンバレン首相とではなく、チャーチルと秘密裏に手紙の交換を始めた。この手紙の交換の中でチャーチル米國英國の味方として来るべき独逸との戦争に引きずり込みたいと明言し、その返事としてルーズベルトもまた、彼の目的もそうであると明言した。チャーチルルーズベルトの中に、喜んで加担する共謀者を見出した。両人ともに熱烈に同じこと -独逸との戦争- を欲していたのだった。

ルーズベルトはその言葉と行動で独逸との戦争に意気込んでいることを自分の周りの人間にあからさまにさえしていた。しかし、彼は下院の正式な宣戦布告無しには米國を参戦させることが出来なかったので、それを如何わしい手段ですることを決心した。彼とチャーチルは下院に相談することなく米國を参戦させる策謀を一緒に行った。その時までにルーズベルトは、戦争に反対する者を政権から排除し、それを支持する、中でもハリー・ホプキンスなどを含む者だけを側近にしていた。

1941年1月、ルーズベルトに最も近い顧問の一人でまた問題児、ハリー・ホプキンスは、ロンドンにチャーチルを訪ねた。後日、チャーチルは1941年のホプキンスとの会談について書いている。「輝きのある目と静かな抑制された情熱を以て彼は言った。『大統領は我々が共に戦争に勝利すると決心している。そのことについて誤解してはいけない。大統領は、どの様な犠牲を払っても、そしてどのような手段を使っても貴方を支え続け、やり遂げるだろう、彼に何が起ころうとも、彼に人間としての力が残っている限り彼がしないことは何もない、という事を貴方に伝えるために私をここに送ったのだ。』そこに座っていた彼は、痩せて、弱く、病弱にみえたが、しかし聖なる大義の純粋な含蓄に當に光り輝いていた。それは、他の全ての目的・忠誠心・目標を除外して、ヒトラーの敗北・破壊・殺害の意図を意味していた。」

チャーチル米國を参戦に持って行くために可能な事は全てする、と言う指令を以て、英國代理人、ウィリアム・ステファンソン(スティーヴンソン)、暗号名「Intrepid(恐れを知らない、勇猛な)」を1940年に米國に送った。ステファンソンと300人近くの英國の職員は、ニューヨークのロックフェラーセンターに賃料無料で陣取り、「手紙を盗み見、電報を傍受し、金庫を破り、誘拐し、(中略)噂を流し」、そして、絶え間なく米國の参戦に反対した「孤立主義者」を誹謗した。これは、ルーズベルトは全部知っていたし、ルーズベルトの協力と連邦機関の共同作業した中で続けられた。実際、ステファンソンは、チャーチルルーズベルトの間の直接の連絡係としての役目を果たした。

前章で述べた様に英米両國の猶太人は、反「ナチス」独逸戦争の宣伝工作を総力を挙げて主導し、ステファンソンと「Intrepid作戦」員もこの運動に加わった。米國の参戦と言う彼らの目的に向かう仕事の中でステファンソンとその集団はハリウッドの猶太人も含め、米國の猶太人と手に手を取り合って共に働いたのであった。

ゴア・ヴィダルは、その著書「歴史の映画化(Screening History)1992」(これは米國の自分自身の像がどの様にハリウッドの映画産業により決定され支配されてきたか、についての著書である)の中で、1937年に始まり、米國人は英國の栄光と、その帝國を築いた英雄戦士を称える映画に次から次へと晒されてきた。これらの親英映画すべての制作にかかわった重要人物がハンガリーの猶太人、アレクサンダー・コルダであった。コルダは、第一次大戦前からブダペストで映画会社で働き始めた。共産主義猶太人のベラ・クーンが1919年にハンガリー政府を乗っ取り、猶太人政権を打ち立てた時、彼はコルダを國立ハンガリー映画会社の社長に就かせた。数か月後、クーン政権がホルティ提督によって追放されると、コルダは短期間収監されたが、すぐに釈放された。彼はそれからベルリンに行き、そこで自分自身の映画会社を設立したが。國家社会主義者からの圧力下、結局ロンドンに移住した。ロンドンで、コルダは、郊外の165エーカー(20万2千坪)の屋敷にデンハム映画撮影所を設立し、彼自身の契約俳優の名簿、そこには、レスリー・ハワード、マール・オベロン(後の1939年にコルダの二番目の妻となった)、ウェンディー・バリー、ロバート・ドーナット、モーリス・エヴァンスヴィヴィアン・リーなどが含まれていた)を作った。コルダは、英國の映画産業で指導的な人物となり、デンハム撮影所と同時にロンドン映画の設立者、映画配給会社の英國ライオン映画の所有者となった。(こんなに短期間に無から始めてコルダの様な業界の帝國を築けるのは猶太人しかいない。何故なら、貧乏な非猶太人は彼の様に猶太人資本に近づいて利用する手立てがないからだ。)

前述の様に、チャーチル英國の猶太人とつながりが深かった。戦争の初め、チャーチルは映画撮影所を作るためにコルダをハリウッドに送りこんだ。ステファンソンと同じく、コルダはハリウッドにおけるチャーチル代理人及び宣伝工作員となった。彼の映画撮影所は次々に連続して「小さくても勇敢な英國が悪のナチに立ち向かう」映画を制作し始めた。しかし、ハリウッドではコルダだけが親英・反「ナチ」映画を作っていたのではなかった。これも以前に述べたが、ハリウッドは猶太人に所有され、支配されていたので、コルダの映画と同時に全てのハリウッドの撮影所が次々に連続して、チャーチルの始めたことを抜きにして、親英・反独映画を撮影していたのだった。ハリウッドの猶太人は、他の有力な猶太人と協同して既に総力で反独逸の宣伝工作戦に従事しているのだった。しかしコルダの立場は、彼が殆ど英國政府の代理人であったことや、英國の味方としての米國の参戦が目的の高度に調整・統制された米國内の宣伝工作機関の重要な部分を担っていたことから、他には類がなかった。

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ドイツ悪玉論の神話087

英國には、ウィンザー公(前の國王エドワード7世)、アスター女史、ジェフリー・ドーソン(ロンドンタイムズの編集者)、ロージアン侯爵、マンチェスター公ハミルトン公らも一員の「クリヴデン・セット[1]」として知られる親独エリート主義の集団があった。クリヴデン・セットは、独逸との友好関係を好み、國家社会主義者もこれらの人々と長く交流の絆を維持した。

ルー・キルツァーによると、「チャーチルの欺瞞」の本の中で、ヒトラーの総統代理、ルドルフ・ヘスは、クリヴデン・セットと接触し、1941年5月10日にヒトラーの指令でクリヴデン・セットを通じて英國との和平交渉を試みるために。英國に飛んだ。

[1] 原文はClivenden Set(クリヴェンデン・セット) Cliveden Setの間違いと思われる。
クリーデン(クリヴデン)セットは、英国の第二次世界大戦前に政治的に影響力を持っていた著名人の1930年代の上流階級知識人の仲間。彼らはナンシー・アスターアスター子爵夫人)のクリヴデン(英国バッキンガムシャー)の邸宅における集会に通った仲間であったことからこの呼び名がある。

 

この出来事の公式の宣伝工作では、精神的に狂ったヘスが、彼の独断で1941年5月にメッサーシュミットスコットランドに飛ばし、ハミルトン公に連絡を取ってチャーチルとの和平交渉を設定してもらう、という気まぐれでドン・キホーテの様な使命を決行したことを主張している。彼が、パラシュートでレンフルーシャーの、公爵の屋敷からたった8マイル(13キロ)の地点に降下した時、彼は、農場労働者により、干し草用の三俣で逮捕され、監獄に連行された。報告によると、ヒトラーはヘスの愚かな使命の事を聞いて、激怒し、喚きたて、狂乱の発作を起こし、そしてヘスを止めるために飛行機を緊急発進して撃ち落とそうとまでした、とされている。

キルツァーは、それはそうではなかったと言う。キルツァーによるとヒトラーは、この使命に参加しており、ヘスはこの大胆不敵な平和使節に於ける忠実な代理人だった。1991年のソ連の崩壊の後、28ページからなる、ヘスの長年の副官のカールハインツ・ピンチュ少佐所有の帳面がロシアの公文書の中に見つかり、それは、キルツァーの出来事の説明を支持している。この帳面の中でピンチュはヒトラーが「英國人との合意が成功する事」を願ったと書いている。ピンチュは、ヘスの任務は -独逸のロシア侵攻5週間前であり- 「対ロシアに関して、独逸の英國の軍事同盟が無理なら、英國の中立をもたらす事」と特筆している。

ピンチュは、戦争末期にロシアに捕らえられ、何年も投獄されて、そこで取調べ中に生涯に亙って後遺症が残るような残虐な拷問を受けた。彼は、その後ナイフもフォークも持つことが出来なくなった。ピンチュの取調べ記録がその帳面と同じ公文書の中から見つかったが、それによると、ヒトラーは、ヘスの捕縛の知らせが届いたときにも驚かなかった。(中略)それに、ヘスがしたことに喚きも狂乱もしなかった。そうではなく、ヒトラーは、冷静にヘスの使命の賭けと危険性について論評し、ヘスが離陸前にヒトラーに送った手紙を大きな声で読んだ。ヒトラーがヘスの手紙から読んだ内容は、「そしてもしこの計画が(中略)失敗に終わったら、(中略)貴方はいつでも全ての責任を否定することが出来ます。単に私が気が触れたと言えばよい。」

任務は失敗に終わり、ヒトラーチャーチルもヘスが狂ったと主張した。この使節が失敗したのは、チャーチルがはなから独逸と和平をする意図が微塵もなかったからである。ヘスは、英國の陸軍将校の取り調べを受けた。その段階では、彼は、「ハミルトン公に極秘の重要な伝言を持っている」と言い、公爵に即刻遭わなければならないと言った。公爵はヘスと会い、そして、ヘスとの会話の内容をチャーチルに話した。

ヘスは、それから監獄に急き立てる様に送られ、その後誰と話す事も許されなかった。ヘスの飛行については、5月12日にミュンヘン放送により最初に伝えられたが、彼の目的地についても或いは運命についても伝えられることは無かった。農場労働者によるヘスの捕縛については、英國で広く伝えられたが、彼の任務については説明されなかった。彼は、英独両國から狂人として見捨てられた。

ヘスは、戦争中は常時監視の下、英國の精神病施設で過ごしたが、戦後ニュルンベルク裁判で終身刑を言い渡された。しかし、どの様な罪で?彼は誰も殺していないし、殺す命令もしていない。彼は戦争にすら参加していない。彼もまた、猶太人の復讐、つまりニュルンベルク裁判がそうであったところの猶太人の復讐の悲劇的な犠牲者なのであった。ヘスは、ベルリンのシュパンダウ刑務所で40年間、常時監視下で過ごした後、疑わしい状況下、93歳で死亡した。彼は、生涯誰と語ることも或いは書くことも許されず、一度息子が訪ねてきた時も息子に触れる事すら許されなかった。これは想像を絶する残酷さである。

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ディープステートについての考察01

ディープステートの起源?

 (ディープステートをこのブログでは、「覃府」と呼ばせていただきます 但し訳文は元のままです)

まずは引用します。ジェレミー・ストーン「ディープステートの歴史」より
(文章はそのまま、脚注と太字は翻訳中に私が追加しました)

 

<引用始まり>

(「第6章 バイエルン血統」冒頭より)

ディープステートとその歴史を更によく理解するには、彼らの出自がまったくユダヤ教ではなく、彼らが継承しているバイエルンの血統とは、ユダヤ人とは金輪際関係のない純粋の異教徒のものであることを我々は理解しなければならない。ここでイルミナティの結社の二つ目の(裏の)教えを思い出して欲しい。

これらの意味について詳しくは述べないが、大方の人々はイスラム教とユダヤ教が殆どの部分でお互い完全に反対であることを知っているだろう。イルミナティイスラムの教えの実践はその外見上ユダヤ人であるという見せかけと直接矛盾する。では、一体、実際ユダヤ人でないのに何故ユダヤ人と主張するのか? 今迄でそれが完全にわかっていない人のため、念のために言っておくと、我々は、欺瞞と混乱を使いこなす熟練者を相手にしているのである。更に、これらのイルミナティ結社員によるユダヤ教キリスト教への潜入をより良く理解するために彼らの主要な目的の一つを思い出して欲しい。つまり、宗教の廃止である。人は同時にイスラム教徒、ユダヤ教徒悪魔主義者、無神論者であることは不可能である。ディープステートはこれを余りにもよく理解しているのである。政府を弱体化するためには、先ずその宗教的制度慣習、家族と文化を弱体化しなければならない。ディープステートは政府を裏と表(内と外)から倒すことにより操作する。何故これがそんなに重要なのか、そしてそれがバイエルン血統とどのように関連するのであろうか?

最初に今はドイツの州であるバイエルンから始めよう。一度でもバイエルン公国、或いは今のドイツバイエルン州に行くか、或いはその写真を見たことがあればそこが素晴らしいところだと解るだろう。景色、山々、田舎、城、建築物などで最も美しいもののいくつかがここに見出される。それが実際良すぎると思われるのは、本当に良すぎるからである。こんなに素晴らしい場所がどうしてこんなに後進的で悪魔的なのか? 「私はバイエルンに行ったことがあるが別に誰も悪魔的じゃなかったよ!」と仰る向きには、単にその歴史を理解していないだけである。ディープステート幹部(会長、君主、王様)の圧倒的多数がバイエルン起源であるだけでなく、その一見無害に思われる文化は今や殆ど世界中のあらゆる国民を圧倒している。最高位の構成員が無作為にその名前を名乗るのを止めたりしながら、イルミナティの13の血統全てが1776年に始まったわけではない。そうではなく、彼らは一つの家族にその起源があり、時が経つにつれ、関連する家系と王朝と共に13のバイエルンの家系となった。全部であらかた169のバイエルンのディープステート一家が政治的に散らばり、埋め込まれている可能性があるらしい。

アスター(Astor)血統

バンディ(Bundy)血統

コリンズ(Collins)血統

デュポン(DuPont)血統

フリーマン(Freeman)血統

ケネディ(Kennedy)血統

李(Li)血統

オナシス(Onassis)血統

レイノルズ(Reynolds)血統

ロックフェラー(Rockefeller)血統

ロスチャイルド(Rothschild)血統

ラッセル(Russell)血統

ヴァンダイン(VanDuyn)血統

 

これら169の一家について全てを詳細に説明すれば軽く百科事典ひと揃えを埋め尽くすであろう。イルミナティには13の王朝があり、その一つずつから更に13の家系が出て、合計169家が我々の世界に潜入し征服するバイエルンの一家となるのである。

しかし、何故この様な一家がそもそも存在するのか、そのような恐ろしいことを誰が望んでするであろうか? バイエルンの歴史に戻ると、如何にしてこれが可能となったかが明らかになる。

 

[1] イスラム神秘主義イスラム教の神秘主義哲学である。アラビア語ではタサッウフと呼ばれるが、一般的に担い手であるスーフィー(صوفي)に英語のイズムをつけたスーフィズム、またはイスラム神秘主義という呼称が使われている。ただし、スーフィー達が「神秘」を特に掲げていたという訳ではない。9世紀以降に生じた、イスラム教の世俗化・形式化を批判する改革運動であり、修行によって自我を滅却し、忘我の恍惚の中での神との神秘的合一(ファナー فناء )を究極的な目標とする、一種の内面化運動である。

 

(中略)

(「第6章 バイエルン血統 6.2 舊秩序と新秩序」より)

ローマの帝國の王や政治エリート階級は、その世界帝国が崩壊した後、何處に逃げたのだろうか? ディープステートローマ帝國はバイエルンボヘミア、今は単にドイツのバイエルン州、に行ったのである。5世紀に亙る長い世界征服ローマ帝國は紀元前31年に始まり、紀元476年に終わった。507年もの世界からの略奪をたらふく食って蓄積した富を持ったままその帝國と軍隊は倒れたが、その文化と膨大な富は倒れなかった。ローマ帝國の最初の王はガイウス・オクタウィアヌス・トゥリヌス(アウグストゥス)であったが、ローマ帝国の起源は更にもっと遡り、ロームルス王の紀元前753年がローマの始まりである。

エトルリア人がローマ人よりも更に前に居り、ロームルス王とローマ帝國、これらはみな同じ文化、神々、ギリシャ語とローマ語[1]の書き言葉を持っていた。両方ともギリシャ人・ローマ人に先立つエトルリア人の伝統を共有していた。これはローマ帝國のエリートがギリシャエトルリアアルバニア、イタリア、キプロス、トルコ、エジプトの融合した民族であったことを示唆する。ローマ帝國のエリートは純粋なイタリア人ではなく、これは彼らの彫像、美術、彫刻を検証する中で証明される。これらの全ての人々の間の最も大切な繋がりは、彼らがサトゥルヌスの神[2]を崇拝していたことであった。

神への捧げものや生贄は先に述べた全ての文化のあらゆる状況に見出される。エトルリアの神サトレス、ギリシャの神クロノス(子供を貪る為神格化された)、カルタゴの神バールハモン(同じく子供の生贄が関わる)。ギリシャの神エル「EL」はサトゥルヌスの神の彼ら別名である。(偶然にもエリートと言う言葉は、ギリシャ語の部族と教義を表す接尾辞「ite」をサトゥルヌスの神を意味するエル「EL」に附けてElite、つまりサトゥルヌスの神の崇拝から引き出せる。)全てのバイエルン人とイルミナティ血統は古代ギリシャ起源、もっと具体的に、異教徒ディープステートの後見人、アレクサンダー大王が起源である。

 

[1] 多分ラテン語のことであろう。

[2] 土壌の神。

 

<引用終わり>

この引用部分については、多分そうなんだろうと言う事しか言えません。文中、「1776年に始まったわけではない」と言うのは、ヴァイスハウプトがイルミナティをドイツ・バイエルンインゴルシュタットで創立した日(1776年5月1日)を指しています。

因みに、バイエルンボヘミアについて、正史を調べてもローマの貴族が逃げ込んだ、と言う証拠はありません。しかし、気になることが何点かあります。

1. バイエルンは中世から近世にかけて、魔女狩りが頻繁に行われた土地柄である。

2. バイエルン(1356)もボヘミア王国(1289)も選帝侯であった。

3. 三十年戦争の原因を作った。(以下、wikiより)

1618年プロテスタントの盟主であったプファルツ=ジンメルン家プファルツ選帝侯フリードリヒ5世ボヘミアに推戴されたことが契機となって三十年戦争が勃発する。これに対して、バイエルンマクシミリアン1世神聖ローマ皇帝フェルディナント2世側に就き、カトリック軍の主力として戦った。マクシミリアン1世はその功績を皇帝に認められ、1623年にフリードリヒ5世が有していたプファルツ選帝侯領及び選帝侯位を与えられたが、これは明らかに金印勅書に反するものであり、結果として戦争を激化させた。マクシミリアン1世自身もスウェーデン軍によってミュンヘンを追われた。

1648年ヴェストファーレン条約で、マクシミリアン1世に与えられていたプファルツ領の大部分はフリードリヒ5世の息子カール1世ルートヴィヒに返還されたが、マクシミリアン1世には選帝侯位の保持が認められ、カール1世ルートヴィヒにも新設のものとして選帝侯位が授けられた。以後、マクシミリアン1世の家系は伝来のバイエルン公領を統治するとともに代々選帝侯位を伝え、その所領はバイエルン選帝侯領と称されるようになる。

4. ボヘミアプラハ)は、フス派による宗教改革(1402)の先駆の発生場所である。また、プラハ窓外投擲事件からフス戦争(三十年戦争の縮小版)の発生場所でもある。

5. バイエルンアウグスブルク銀行制度で財を成した土地柄である。(以下、wikiより)

アウグスブルクの都市名はローマ属州時代のアウグスタ・ヴィンデリコルム (Augusta Vindelicorum) に由来し、紀元前15年ローマ皇帝アウグストゥスによって築かれた城にその起源を持つ。このため、アウクスブルクはドイツで最も古い都市の一つに数えられる。また、15世紀から16世紀に、フッガー家ヴェルザー家によって金融都市として繁栄を極めたことから、「フッガーシュタット」(フッガー都市)としばしば称される。

6.  バイエルンバンベルクは第二次大戦で空襲を受けていない。(何故か?)

 これらの「気になること」が示しているのは、ローマ帝國と神聖ローマ帝國に於ける地位、特に選帝侯と言う地位が、ヴァティカンに対する相当な影響力を持っていた、と言う亊と、そのローマカトリックに対する反抗の精神の旺盛さ*です。更に、銀行制度と言う利殖搾取(キリスト教では禁止されていた)による金融制度の活用です。そして最後の6.は正史では偶然に戦災を免れた、とありますが、この偶然が曲者かも知れません。ご存知のようにリンデマン計画では全ての独逸の都市が攻撃目標になって居り、人口わずか3万人程度の町でも空襲を受けたと言われています。それなのに、当時人口が5万人以上であったバンベルクが空襲を免れたのが私には単なる偶然とは思われないのです。

覃府を構成している秘密結社の人間は、極端な合理性とそれとは不釣り合いの迷信深さを併せ持った性格をしています。何かバンベルクにだけは破壊したくない物、或いは属性、があったように感じるのは私だけでしょうか?(引き続き注視したい一件です)

 

*このローマカトリックに対する反抗心に関してE.Michael Jones 博士は興味深い分析をしています。それは、ユダヤ的革命精神(Jewish Revolutionary Spirit:そのまま博士の本の表題)による、と。そしてその起源はカトリック教会が人種に対して非常に寛容であった事と、各地に散在したユダヤ人の改宗後の教化が不充分であった事を挙げて居り、その爲に多くのユダヤ人が名ばかりの洗礼を受けてその儘ユダヤ人の生活を続け、それが宗教改革や銀行制度の始まりに影響した、と。

 キリスト教ユダヤ教・古代信仰・共産主義 - 四極騒乱

そして、著者によると、その血統は遠くアレクサンダー大王まで遡る、と?

ここから考察できることは、その信憑性はともかく、要するに起源になるのは、一神教であるキリスト教に対する、古来の多神教の伝統と叛乱ではないでしょうか? 或いはそれは、同時に、キリストを受け容れなかったユダヤ人のキリスト教に対する復讐の執念も兼ねている要素と相俟っての反キリスト教運動なのでしょう。そして近代に入ってそれは共産主義をも巻き込んで當に四極騒乱の状態となります。ここで、古来の信仰の要素として、フリーメーソンユダヤ人が遺してきた多くの古い信仰(例えばバビロニアの神々)、欧州のキリスト教以前の神々、古代ギリシャ・ローマの神々などを上げることが出来ます。

我々神道の日本に生まれ育った者にとっては、もし、日本文化が新しい地域に拡張する場合、その土地の人間が崇拝している神を神道儀礼に則って神社にお祀りし、それと共に天照大御神さまもお祀りする、と言う至ってシンプルなもので、そこには地元の人との諍いなど生じませんが、多神教を信じていた欧州の殆どの地盤に一神教キリスト教が入り込む事を想像すると、とても神道の様には行かないでしょう。何故ならキリスト教は異教の神を悉く悪魔と見做すからです。ヘレン・ミアーズの「アメリカの鏡・日本」の中にスペインの宣教師がグアムの人々を如何に扱ったかの記述がありますが、日本が南洋群島を統治した1919年から1945年にかけて、この様な悲劇は一切起きていません。それどころか、日本の将兵も或いは一般人も地元の人々と共に働き、喜怒哀楽を共有してそれ以前の統治者(ドイツ人)の様に偉そうに命令する支配者ではない、と言う事で、大いに地元の人々から感謝と親しみを以て受け容れられた、と聞き及びます。ベリリュー島での逸話など、それを如実に示していますし、臺灣の人々もそれを概ね認めてくれています。

私はここで、キリスト教が正しく、古代信仰が間違っていた、などと言うつもりもありませんし、また、逆を言うつもりも毛頭ありません。しかし、これを単なる支配者對被支配者の構図に持って行き、それを利用して絶対的な支配者に成り上がろうとする者達を看過するわけには到底行きません。しかも、その爲に人類の霊長の徴であるところの信仰心を悉く犠牲にして他宗教、いや、宗教その物すら破壊し、よって立つところの至高の力、つまり國家をも破壊し盡そうとする試みは粉砕しなければなりません。

百歩譲って下らない宗教組織を破壊してくれるのは容認しても、その結果、信仰の自由と伝統的な信仰を奪う事は絶対に避けなければなりません。

第一、我々日本人はこれらの諍いや恨みつらみとは本来何の関わりもありません。古代欧州の信仰とキリスト教ユダヤ教、或いは共産主義、どれが正しいか、など、そいつ等だけで決着着けてくれたらよいのではありませんか? その爲に何故、広島・長崎に原爆を落とさなければならなかったのか、私にとっては全く意味不明です。

念のために言及しておきますと、広島・長崎の原爆は戦略的・戦術的に全く意味がありませんでした。広島の爆心地は言われているような軍需工場地帯ではなく、長崎にいたっては三菱重工業株式会社長崎造船所はほとんど無傷だったことが分かっているうえ、爆心地は実際長崎天主堂により近く、こちらが本来の目標であった疑いが非常に濃いとさえ言われています。

 潜入と時限爆弾による内部からの破壊

この秘密結社は、ユダヤ人と共産主義者と同様に他組織への潜入と時限爆弾の仕込みを特徴としています。実際、それは戦争に於ける調略と同じで、あわよくば戦わずして勝利を確実にします。そして、これらの組織の間でもお互いに潜入し合っています。唯一、脆弱なのはそう言う潜入を一切認識しない國家 ― 何を隠そう、情報組織を持っていない日本なのです。恐らく、防衛予算規模から言って日本は世界で唯一の情報組織(スパイ)を持たない國です。そればかりか、最近ではすべてがガラス張りの家のように見えます。そしてそれを認識していないのは日本国民だけです。日本國民はほぼガラス張りの家に住んでいて、誰がどこで何をしているか全て覗かれているのです。

ま、この話はここでは深入りしませんが、兎に角、イルミナティによるメーソンとユダヤへの潜入が指摘されていますが、それと同じことが國家に対しても容赦なく行われています。そして、潜入の結果、洗脳された人間は彼らの操り人形と化してしまうのです。もう直接秘密結社の社員にする必要はありません。潜入したメディアから、スイッチとなる社会現象や有名人の発言、或いはハリウッドスターのライフスタイル、と言う形で全世界に流せば、それが引き金となって、半ば自動的に仕掛け(時限爆弾)が動き出し、彼らの思うままに社会が動かされてしまうのです。

そのような団体を自分は知らないし、筆者のデマだろう!と仰る方の為に、次の回はイルミナティが知られるようになったきっかけとその教えについてお話します。

ドイツ悪玉論の神話086

フランスの陥落

英國軍が居なくなったので独逸はフランスに対する最後の制圧を始めた。6月12日までに独逸の戦車がソンム川沿いの主要前線と強化されたマジノ線を突破し、目的地パリに肉薄していた。この間、英國は如何なる犠牲を払っても抵抗するよう、フランスを精力的に励ました。今や首相となっていたウィンストン・チャーチルすらパリに飛んできて個人的励ましを申し出たが、それでも英國の軍事支援は申し出なかった。

この時までに、フランス陸軍の規模は、およそ半分まで減少してしまい、フランスの指導者も降伏は避けられないと観念してしまった。フランス政府はパリを放棄し、自由都市宣言した。これで独逸は6月14日に無抵抗の内に入城できた。レノー首相以下、フランス政府は南のボルドーに飛び、その後レノーは辞職した。新しい政府は第一次大戦の英雄ペタン元帥を首相として編成された。ペタンの最初の動きは、停戦の依頼であった。6月17日、ペタンはラジオ放送で全ての抵抗の停止を命令し、それからフランス陸軍は独逸軍に降伏した。

 

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1940年6月22日ヒトラーと閣僚・将校-停戦合意の行われる車両の前にて コンピエーニュ近くの森-それは第一次大戦で独逸が停戦合意した同じ場所だった


1940年6月22日、フランスは独逸との停戦合意に署名した。1918年の独逸の敗北以来、フランスが独逸にしてきたことに鑑み、ヒトラーは、仕返しにフランス人を侮辱したい気分だった。彼は、停戦合意の書名は、コンピエーニュの森の列車の中で行なうように主張した。これは、1918年に第一次大戦を終えるために独逸がフランスに降伏した場所であった。1940年の停戦の条件は、フランスを占領地区と非占領地区に確固たる國境線で分けることだった。独逸は、北と西フランスと大西洋岸、全土の三分の二を支配し、一方、残りの部分はヴィシーで、ペタン元帥の下、フランス政府によって統治されることとなった。

他の停戦条項には、10万人の國内治安維持兵力を残してのフランス陸軍の解体を含んでいた。(これは、ヴェルサイユ条約によって独逸に課せられたのと全く同じ条件であった。これは、偶然の一致ではあり得なかった。)独逸の捕虜となった150万人のフランス兵は、戦争捕虜として残ることとなった。フランス政府は、また、フランス軍人が國を去ることを阻止する事にも合意し、市民に対して独逸人に対して戦わない様に指導した。最後にフランスは独逸軍の占領の経費を負担する事を求められた。

6月23日、ヒトラーは、建築家アルベルト・シュペーア、彫刻家アルノ・ブレーカー、建築家ヘルマン・ギースラー他と、占領した街の短い観光旅行にパリに飛んだ。旅程にはエッフェル塔パリオペラ座、凱旋門、そしてナポレオンの墓などが含まれていた。三時間の旅行は、モンマルトルのサクレ・クール教会訪問で終わった。ヒトラーはそれまでパリを訪れた事が無かった。「パリを見ることを許されることは私の人生に於ける夢であった。私は今日その夢が叶ってどんなに幸せか、言い表すことが出来ない。」とヒトラーシュペーアに語った。

 

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フランス陥落後、アドルフ・ヒトラーはパリを訪れた アルベルト・シュペーアヒトラーの左に写っている


 

ヒトラー英國に和平提案をする

フランス陥落後、ヒトラー英國に再び和平提案を行ったが、単に無礼にもチャーチルに拒否されただけだった。チャーチルポーランド戦争の後、ヒトラーとの平和交渉に反して(閣内で)戦ったので、今は首相として、どの様な状況に於いてもヒトラーとの平和交渉の如何なる提案にも頑迷に抵抗するのであった。これは、何にも況して、チャーチルの偉大さの基礎であるはずだった。 -彼は、勇敢にもそして困難をものともせず、ヒトラーに反する姿勢を貫いた- 一見したところ、理屈に合わないが。万策尽きて、英國との和平の試みを再三再四拒絶された後、ヒトラーは、残されたただ一つの事、-それは、英國の侵攻に備える事であった- をした。1940年8月1日、彼は諦めて、英國への海からの侵攻に備えて、独逸空軍に英國空軍を機能不全にするように命令した。

英國の歴史家、ベイジル・リデル=ハートによると、命令を出した後、ヒトラーは、続いてその、英國の戦いとして知られる航空戦には殆ど関わらず、全てを空軍の長であるヘルマン・ゲーリング元帥の手に委ねてしまった。ヒトラーは、人生を通じて英國の熱烈な尊敬者であり、英國との戦争を望まず、英國を屈服させるこの作戦に本気とは到底思われなかった。もしゲーリングがこれを成し遂げてくれれば、それはそれでよいが、彼がそれを「成し遂げない」という現実も「ヒトラーをそんなに悩ませることは無かった。計画全体が彼には不愉快であった。彼の本来の計画は、ソヴィエト連邦への侵攻であった。彼は、英國についてどうすべきか、と言う主題にソヴィエト連邦を始末した後で戻って来たであろう。リデル=ハートの本、「丘の向こう側(The Other Side of the Hill)」(1948)によると、
「その時は、我々は、英國の戦闘に於いて独逸空軍を撃退できたことが英國を救ったと信じていた。それは、説明の一部、最後の部分に過ぎない。もっと深い當初の理由は、ヒトラー英國の征服を望まなかった事だ。彼は侵攻の準備にほとんど興味を示さず、何週間にも亙ってそれを激励するために何もしなかった。そして、短い間、侵攻の衝動があった後、再び、急変し、準備を中断したのだった。彼は、英國ではなく、ロシアへの侵攻の準備をしていた。」

1940年の終わりに歴史家ポール・ジョンソンが書いている。「英國爆撃機は大規模にそして、規模をさらに大きくしつつ、独逸の民間人を独逸本土で脅し、殺す為に用いられている。」チャーチルは、軍事標的の爆撃ではなく、出来る限り多数の民間人を殺し、その住宅を奪うために、独逸の街の中心部と特に人口密集地域の大規模の重爆撃機による爆撃を命令した。

その報復の為に、独逸は遂に1940年9月7日、ロンドンの非軍事標的を爆撃し、それは306人を殺した。その時までヒトラーは、独逸空軍に民間人を標的にしないように命令していたが、度重なる英國に拠るベルリンを含む独逸の町の攻撃により、そうせざるを得なくなった。ヒトラー英國に和平の説得を試みる間、英國の独逸の町への攻撃は増大した。

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