マッカーサー元帥に代りて詫びる ~元駐日米大使 ダグラス・マッカーサー

心ある米国人は、昭和バカ憲法の押しつけを非常に後悔していた。

彼らは、憲法改正ではなく、憲法の破棄、明治憲法の改正を望んでいた。何故なら、昭和バカ憲法は、同時にアメリカの恥でもあるからであった。(燈照隅感想)

 

昭和三十五年二月九日、当時のマッカーサー駐日大使は、汎洋婦人友好会理事長山野千枝子女史ら七名と会見し、アメリカの占領政策の失敗は、一つには日本に「アメリカ流民主主義」を採用したことであり、二つには歴史と伝統を無視した「人間天皇宣言」を行なわしめたことであり、三つには主権在民の「占領憲法」を強制したことであることを説明、日本占領軍司令官であった伯父マッカーサー元帥にかわって、「日本国民に心からお詫びする」といい、さらに「日本はすみやかに改憲に着手すべきである」との勧告をすら切々と訴えたのである。以下はその時の会見に同席した故蜂須賀年子女史の記録手記である。

 

昭和三十五年二月九日のことですが、当時の駐日米国大使マッカーサー氏は、藤沢親男博士*と懇親の間柄であり、ことに同大使館文化部長ハートレット氏は、父君が米国領事として永年神戸に在住されて、神戸で生れ、十二歳まで育った方であって、日本語もよくわかり、日本精神もよく理解されておりましたので、私達「汎洋婦人友好会」の幹部七名が大使館を訪れて、マッカーサー大使らと会見いたしました。

その席上、同大使から、彼の伯父に当るマッカーサー元帥が連合軍司令官として、日本占領政策を指令した当時の事情について、色々説明を聞きましたが、私達を引見した同大使は、まず冒頭の第一声において、次のように申されました。

*藤沢 親雄(ふじさわ ちかお、1893(明治26年)~1962(昭和37年))は、日本の農商官僚、政治学者、国家主義者。エスペランティストベルリン大学哲学博士。
数学者、数学教育者の藤沢利喜太郎の子として東京に生まれる。開成中学校(現・開成中学校・高等学校)を経て、1911年、第一高等学校入学。1917年、東京帝国大学法学部法律学科卒業、農商務省入省。
1919年、ジュネーヴ国際連盟会議に出席し、連盟事務局員を務める。文部省在外研究員としてベルリン大学に学び、1923年に哲学博士を取得する。
帰国後は東京帝国大学講師を経て、1925年より九州帝国大学法文学部教授。1931年に九大を辞職し、北京大学に勤務する。1934年より文部省国民精神文化研究所嘱託として同研究所の運営に当たる。1935年、大東文化協会理事、大東文化学院教授。1938年、日独同志会思想部長としてドイツに行く。1942年大政翼賛会東亜局長。1943年、国民精神文化研究所辞任。陸軍省の委嘱により、北京の燕京大学に赴任する。
戦後、公職追放となり、日本大学国士舘大学で教鞭を執る。1955年、日本大学教授。1958年、日本文化連合会結成。1961年、国士舘大学教授。国家主義者としてファシズム、ナチズムの讃美紹介に努める。また、皇国思想を広めるうちに、契丹古伝、竹内文献ムー大陸などを評価するようになった。

伯父マ元帥に代って詫びる

「個人的には私の伯父にあたるマッカーサー元帥ですが、彼の日本占領政策は根本から間違っておりました。日本国民に対して、まことに申しわけないことをしてしまい、そのために現在、日本国民が心のよりどころを失ってしまったことを、私はここに深くお詫びするものです。

米国は、戦争には勝って日本を占領したが、その占領政策をどうすればよいのかという方針がたたず、また日本の国情に対する認識も不十分でありました。そこで、アメリカ本国では一応成果をあげたアメリカ流の民主主義を、日本においても実施したらよかろうということになったのです。

もとより、アメリカとしては、それが日本においても成功するだろうと考えたからでありまして、いささかの悪意をも持ったわけではありません。ただ米国において成功したのだから、必ず日本においても成功するだろうという善意から出たものでありました。

しかし、今にして思えば、それが日本占領政策のまちがいの第一歩でありまして、アメリカの日本研究が足らなかったからであります。

天皇人間宣言もまちがいだった

そのために、アメリカは「主権在民」を根本原理として、「現人神」であられる天皇陛下に対して、一瞬のあいだに「人間天皇宣言」を行わしめた**のでありますが、これが第二のまちがいでありました。

ところが、アメリ国務省は、日本の天皇は「現人神」であって、日本はすべて天皇中心でなければならぬことを十五年後の今日になって、はっきりと知ったのであります。

主権在民」が根本原理となったために、今まで「すめらみこと」「現人神」として天皇に帰一してきた国民の心が動揺して、国民統合の中心がなくなって、国民は個々にたよるより仕方がなくなってしまいました。

たとえば、全学連などの学生運動の思想の中に、共産主義思想が入りこむ間隙を与えてしまったのでありまして、これはかえすがえすも残念なことであり、まことに申しわけないこととして、アメリカでも大変心配しているのです。

**燈照隅のコメント:
メディアが大々的に宣伝・喧伝するこの「天皇人間宣言」は、1946年の年初に昭和天皇がお下しになられた詔であるが、実際に詔勅の原文を読むと、メディアが言うような「自分は現人神ではなく人間である」と言う文言は全く無く、「(然し乍ら自分は国民と共にあり、いつも国民と利害を共にし、その幸不幸をも分かち合うものである。)その紐帯(結びつき)は、国民との互いの信頼と敬愛に基づくもので、神話や伝説から生じたものではない。そして、天皇を現人神として、且つ(その上)日本国民が他民族に優越し、延いては(それ故に)支配する運命にある、などと言う架空の概念に基づくものではない。」となっており、それを英語に訳す時に誤訳され、その誤訳を見た日本の白痴メディアが「天皇人間宣言した」と言って喜んだに過ぎないことが分かる。
要するに、
天皇を現人神として、且つ日本国民が他民族に優越し、
延いては他民族を支配する運命にある、などと言う架空の概念に基づくものではない」の部分を
天皇が現人神」、「日本民族が他民族に優越する」、「日本民族が他民族を支配する運命にある」がそれぞれ独立に架空の概念で、それに基づくものではないと、言う風に誤訳した。

日本語(漢文)に達者な人が本文を読めばここでの解釈に間違いないことが分かる。

詔書原文:https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056/056tx.html

日本国民団結の中心を失った

第三のまちがいは、主権在民を民主主義原則としてGHQが作成した憲法草案を日本政府に押しつけたことです。そして帰一すべきよりどころを失った日本国民は、困惑の果てに猜疑心に駆られ、自分の信念をも疑うようになり、ついには自分一人のことしか考えない利己主義に走り、自分だけの偏狭な考えを正しいものと信じて押し通して行かなければ、生きて行かれないことになり、国家もなければ、天皇もない、そして他人も信じることのできぬという不安な状態におちいってしまったのです。

実は、民主主義が、日本においてこんな姿になるとは誰も想像しなかったのでありまして、全く驚きのほかありません。アメリカは色々な民族の寄り合い国家でありますから、それらを統一して新しい国を建てるのには民主主義が役立ったからといって、日本のように昔から堅く団結した国民に対しては、逆にその結合をばらばらにしてしまうという不思議な反対現象が起るものであることをはじめて知って驚いたのです。

以上のべたように、第一にはアメリカ流の民主主義の採用、第二には日本の國體を無視した人間天皇の宣言、第三に日本の国柄に合わぬ異質の民主主義憲法の強制が、根本から間違っていたのでありまして、まことに申しわけないことですが、今日ではお詫びをしてももはやどうにもならぬ状態になってしまいました。

それゆえに私が願うことは、日本の皆さんが一日も速やかに現在の占領憲法をとりかえて、日本のかがやかしい伝統のもとに立ちかえって、再出発していただくことです。それが私の何よりの念願なのです。どうか今日お出でいただきました各位が率先されて、一日も早く憲法を日本の歴史と伝統の土台に立ったもとの姿に還元して下さい。お願いいたします。」

速やかに占領憲法改正を望む

マッカーサー大使は一言一句、切々として以上のように話されました。そこで私達は、この真心のこもった大使の言葉に感動して、次のようなお願いをしてみたのです。それは大使のお言葉通りのいきさつで行われた三つの政策がまちがっていたということを、全国民に知らせて、天皇制の復元や、憲法の改正を実現するきっかけとしたいから、アメリカの日本占領政策はまちがっていたという何らかのメッセージをいただけないでしょうか、とお願いしてみたのです。

すると大使は、「日本はすでに独立しているのですから、もしそこまでのことを公けに表明すると、日本への内政干渉として非難されるでしょう。過去のあやまちは認めますが、大使としてそこまでのことはできません。ですから、今日ここにお出でいただきました皆さんや、心ある方々が起ちあがって、どうか一日もはやくGHQの押しつけ憲法を捨てて、日本の歴史と伝統に合った憲法を制定して昔の姿に回復してください。それが何よりの急務だと信じています。(燈照隅強調)

私が今日かく申しあげることが、アメリカの対日政策の過誤を正す意味にもなり、また個人的には伯父マッカーサー元帥のおかしたあやまちのお詫びになろうかと考えて、あえて申しあげた次第ですから、どうかご了解ください。」

と大使は懇切鄭重に申されて、頭をさげられたのであります。  終

難波江通泰「『ラニカイ号』雑感」 ~実は米軍は真珠湾より先に帝国海軍を攻撃していた

ラニカイ号』雑感

             難波江 通泰

昭和三十七年(一九六二年)に、米国海軍少将Kemp Tolly(ケンプ・トーリー)氏が米国海軍学会(United States Naval Institute)の紀要(the proceedings)九月号に「ラニカイ号の異様なる任務」(The strange Assignment of USS LANIKAI)と題する論文を発表した時、それを私どもに紹介せられたのが平泉先生[1]であった(同年「日本」十一月号第五頁「明示は遠くなりにけり」(其十九))。平泉先生はそれと同時に、パトナム海軍少佐の日記、及び其のパトナム少佐が部下の艦載機を率ゐて搭乗した空母エンタープライズに与へられた戦闘命令第一号(Battle Order Number One)など、米国政府、軍部の首脳部が計画した一連の日本に対する重大な謀略の事実を挙げて、大東亜戦争の真相を明かにせられた。詳しくは平泉先生の著書「先哲を仰ぐ」「少年日本史」をご覧いただきたい。

ところが、それより、十一年後の昭和四十八年の秋、アナポリスの海軍研究所から一冊の書物が出版された。書名はCruise of the LANIKAI(ラニカイ号の巡洋航海)。副題はIncitement to War(戦争への挑発)。著者は海軍少将Kenp Tolly (ケンプ・トーリー)氏。定価は12ドル50セント。

出版後、間もない十二月七日、“WASHINGTON STAR-NEWS”紙は、同紙の記者デイヴィット・ブラッテン氏のFDR’S War Bait(ルーズヴェルトの戦争への罠)と題する右著書の紹介記事を掲載してその内容を伝へた。

それを毎日新聞社のワシントン支局長石丸和人氏は直ちに東京本社に報告、同社は九日の朝刊第三頁に掲載してこれを全国に報じた。

しからば、このラニカイ号とは何であったのか?

それは全長33フィート(約25メートル)、最高速力は僅か6ノット、故障の多い無電装置を備へた二本マストの木造船(写真参照)。

ラニカイ号の巡洋航海」の表紙


アメリカ海軍は、大東亜戦争勃発直前の昭和十六年(一九四一年)十二月四日、このラニカイ号をチャーターして、直ちに、その時より四十三年前の米西戦争の際の真鍮製の3ポンドカノン砲一門と、二十五年前の第一次世界大戦当時の30口径機関銃二挺を装備し、翌五日にはこれをアメリカ海軍の艦籍に編入した。かつては貿易船として南海諸島を航行し、また或る時は映画「ハリケーン」で女優のドロシー・ラモーアと共演したこのラニカイ号を、今アメリカ海軍は、最低劣悪なる軍艦に偽造したのであった。

何が故に、かかる偽造軍艦がアメリカ海軍に必要であったのか?

驚く勿れ、この最低劣悪なる偽造軍艦ラニカイ号は、実は大統領ルーズヴェルトの最高極秘(TOP SECRET)の命令(写真・原文参照)で以てチャーターされ、大統領ルーズヴェルト直属(on direct instruction from President Franklin D. Roosevelt)の偽造艦として装備されたのであった。

FDルーズヴェルトの命令伝文(写真)

PRESIDENT DIRECTS THAT THE FOLLOWING BE DONE AS SOON AS POSSIBLE AND WITHIN TWO DAYS IF POSSIBLE AFTER RECEIPT THIS DESPATCH. CHARTER THREE SMALL VESSELS TO FORM A QUOTE DEFENSIVE INFORMATION PATROL UNQUOTE. MINIMUM REQUIREMENTS TO ESTABLISH IDENTITY AS UNITED STATES MEN-OF-WAR ARE COMMAND BY A NAVAL OFFICER AND TO MOUNT A SMALL GUN AND ONE MACHINE GUN WOULD SUFFICE. FILIPINO CREWS MAY BE EMPLOYED WITH MINIMUM NAVAL RATINGS TO ACCOMPLISH PURPOSE WHICH IS TO OBSERVE AND REPORT BY RADIO JAPANESE MOVEMENTS IN THE WEST CHINA SEA AND GULF OF SIAM. ONE VESSEL TO BE STATIONED BETWEEN HAINAN AND HUE ONE VESSEL OFF THE INDO-CHINA COAST BETWEEN CAMRANH BAY AND CAPE ST. JACQUES AND ONE VESSEL OFF POINTE DE CAMAU. USE OF Isabel AUTHORIZED BY PRESIDENT AS ONE OF THREE VESSELS BUT NOT OTHER NAVAL VESSELS. REPORT MEASURES TAKEN TO CARRY OUT PRESIDENTS VIEWS. AT SAME TIME INFORM ME AS TO WHAT RECONNAISSANCE MEASURES ARE BEING REGULARLY PERFORMED AT SEA BY BOTH ARMY AND NAVY WHETHER BY AIR SURFACE VESSELS OR SUBMARINES AND YOUR OPINION AS TO THE EFFECTIVENESS OF THESE LATTER MEASURES. TOP SECRET

           命令の原文


而して大統領ルーズヴェルトは、直属のこの偽造軍艦ラニカイ号の艦長に当時海軍大尉であったケンプ・トーリー氏を任命し、加ふるに、世にも異様、不可思議なる自殺命令を与へた。大統領は彼女(偽造軍艦ラニカイ号)に「日本艦隊に接近して、その情報収集のための偵察を行へ」といふ命令を与へたのである。当然それは自殺自滅を要求した、特攻偵察命令以外の何ものでもなかった。トーリー艦長は、戦時中でもないこの平常の時期に、何が故に特攻命令を受けなければならないのであるか、不可解極まる自殺命令、特攻命令のままに、ラニカイ号をマニラより南支那海を経てマレー半島へと向はしむべく行動を開始した。

昭和十六年十二月七日の夜半、それは、ハワイ(すなはち、真珠湾)では七日の未明であるが、この時間、マニラを出港したラニカイ号は、コレヒドール沖に投錨し、夜明けを待って機雷敷設海域を横切り、マレー半島沖で日本起動艦隊に接近すべく、蒸気機関をフルに作動させ、満帆の風を孕んで死出の船路を急がうとしてゐた。

その時、無線係が「真珠湾が攻撃されてゐる」といふ無電を受信し、これをトーリー艦長に報告した。その途端「帰港せよ」といふ命令が届いた。

ラニカイ号に与へられた命令、真の目的は何であったのか?

大統領の極秘命令で急遽チャーターした木造帆船に、老朽銃砲で最低の急装備を施して、直ちにアメリカ海軍の艦籍に編入して軍艦と偽り、しかもこれを大統領直属のものとして取扱ひ、戦争が起ってもゐないのに下された命令が、死を意味する「偵察命令」であり、その命令に従って行動をとらうとした時に入った無電が「日本海軍航空隊が真珠湾を攻撃中」であり、それと同時に、不思議や、何故か、偵察特攻命令は解除されて「帰港せよ」といふことになったのである。

狐に摘まれた思ひのトーリー大尉は、翌、昭和十七年、少佐に昇進した。当時、ソ連はドイツ軍の猛攻撃を受けて敗退し、首府をクイブイシエフに移してゐたが、トーリー少佐は駐在武官としてクイブイシエフのアメリカ大使館に勤務することになった。ところが、幸か、不幸か、その時の大使ウィリアム・H・スタンドレイ提督は、つい最近まで「ロパーツ『真珠湾事件』調査委員会[2]」の一員として、その調査に当って来たばかりの人であった。そのスタンドレイから「真珠湾の真相、すなはち大東亜戦争の真相」を聞かされて行くうちに、トーリー少佐は、あの『ラニカイ号』の謎について思ひ当る節々を感ぜざるを得なくなって来た。爾来三十年、トーリー氏は、「ラニカイ号の真相」の究明に心血を注いだ。その間に多くの隠された事実が次々と明らかにされて行ったのであるが、驚くべし、ラニカイ号には、すでに、彼女と同じ運命を辿るべく用意された先輩のゐたことも判明した。その名はISABEL号、彼女はラニカイ号より四日前の十二月三日にインドシナ(今のヴェトナム)沖で、幸運にも日本海軍に発見されたが、不幸にも、日本海軍は彼女を攻撃しなかった。その為に目的を達することが出来ずイサベル号はマニラに帰港した。そこでその二番手としてラニカイ号が自殺航海を命ぜられたが、その時、別の地点でその目的が充足(真珠湾が攻撃)されたことにより、彼女は行動半ばにしてその使命を消滅した。しかも彼女には、彼女と同じ目的の下に用意された、彼女の知らないもう一隻の後輩[3]がすでに準備されてゐたのであった。

何が故に、大統領ルーズヴェルトは、かかるお粗末な偽造軍艦を三隻も必要としたのであったらうか?

彼は「日本海軍の攻撃は十二月一日である」と想定して、すでにその前月の十一月二十七日に「日本攻撃命令」を発してゐた。しかるに、待望の十二月一日に日本陸海軍はアメリカを攻撃しなかった。慌てたルーズヴェルトは、即日直ちに「極秘裡に三隻の小型船(three small vessels)をチャーターして最低の武装を施し、一隻を海南島とユエの間に、他の一隻はカムラン湾沖に、また別の一隻はカマウ岬に配置せよ」との最高秘密命令(写真前掲)を発した。それは何を意味するものであったか? 賢明なる読者にその説明は不必要であらう。

しかも、すでに「日本攻撃命令」を受けてゐたアメリカ海軍(駆逐艦ウォード号)は、日本の真珠湾攻撃一時間半前に、公海に於いて日本潜水艦を攻撃してこれを撃沈し、海軍司令部に「日本の潜水艦を撃沈せり」との暗号電報を発してゐた[4]

皮肉にもアメリカ海軍自身が、大統領ルーズヴェルトの苦心にもかかはらず、日本に対する先制奇襲攻撃を行なってしまったのであった。(燈照隅による強調)

この大東亜戦争こそは、日本の好むと好まざるとにかかはらず、執拗なるアメリカの政府及び軍部首脳部の手によって挑発せられ、それが勃発せざるを得ない運命に日本は置かれてゐたのであり、それは、日本にとっては、所詮、避けられない戦争であったのである。しかもその日本とは如何なる国であり、如何なる民族であったか。それは、欧米列強が過去数百年、世界を侵略し尽して、その最後に残ったところの、地球上で唯一つの民族、唯一つの国家ではなかったか。さればこそ、彼等(アメリカ、イギリス、ソ連、フランス、オランダ)更に彼等に隷従してゐた支那国民政府、及び中共がこれに加はって、唯一国「日本」に対して集中攻撃を浴せかけて来たではなかったか。明治以後、百年間の日本の歴史は、常に国際間の陰謀と謀略の下に、欧米列強の侵略の脅威に曝され続けた百年であったと言って過言ではない。

もしそれ、戦前の日本を軍国主義といひ、侵略主義といふのであるならば、先づ、前記の欧米諸国こそが、数百年に亘ってアフリカ全土とアジアの大半を侵略して、残虐行為を恣にした鬼畜に等しい破廉恥も甚だしき侵略主義諸国であり、露骨極まる超弩級軍国主義諸国家であった事実を先に述べるべきであらう。すなはち、インドを亡し、ビルマを亡し、ラオスカンボジアインドシナ、マレー、スマトラ、ジャヴァ、ボルネオ、セレベス、ニューギニア、オーストラリアなどを次々に掠奪、領土化して行った国はどこの国であったのか。また、シベリア大陸を席捲してこれを領有し、バルト三国(リトワニア、ラトビアエストニア)を亡し、ポーランドフィンランドルーマニアを攻撃してその領土を略奪し、満洲帝国を亡し、樺太、千島を強奪した不法悪逆の国はどこの国であったのか。或はまた、メキシコを脅迫攻撃してテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアの広大な地域を領土化し、ハワイを亡し、パナマ運河を奪ひ、グァム島、フィリピン、キューバを強奪した国はどこの国であったのか。すべて、これらの国名とその行為を先に明示すべきであらう。

しかしながら戦後の日本人の大半は、アメリカの占領政策と左翼の策謀に毒せられて「支那事変や満洲事変は日本の侵略戦争だ」と反発をし、すぐに過去の日本を過ちを犯した国だと罪悪視せねばならない錯覚に陥されてゐる。それを『アメ・アカ痴(いか)れ』と呼んだ人があった。

支那事変の陰謀を企てて日本を無理に戦争へと引き入れたのは、実は、ソ連中共であった。また、満洲事変に関しては、当時のロンドンタイムス、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン、ザ・サンフランシスコ・エグザミナーなど外国の報道は、事の真相、真実を公正に伝へてゐた。

しかるに、戦後の日本は、学会も、教育界も、報道界も、すべてが占領政策と左翼の策謀に盲従して、ただひたすら事実を隠蔽し、更には事実を歪曲してやまないのである。

更に言ふならば、日本にはファシズムとか軍閥などといふものも無かった。それを愚かにも軍国主義だといひ、侵略戦争だといひ、軍閥だ、ファシズムだ、過去の日本は過ちを犯した、無謀な戦争をしたのだと言って、いまだに『アメ・アカ痴(いか)れ』の後遺症の悪夢の中をさ迷ってゐる者が多い。しかし事実は違ふのだ。

責任を負ふべき真の戦争責任者。果してそれは何者であったか。我々は事実の照してこれを明確にせねばならない。而して、それ(真の戦争責任者)に該当するものは日本人には一人も居なく、ましてそれが、わが天皇陛下ではあらせられないこと、これまた極めて明白であると言はねばならない。

                                                      (昭和五十年九月十日静夜)

 

[1]平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)~1984年(昭和59年))は、日本の歴史学者。専門は日本中世史。国体護持のための歴史を生涯にわたって説き続けたことから、代表的な皇国史観の歴史家といわれており、彼の歴史研究は「平泉史学」と称されている。福井県大野郡平泉寺村(現在の福井県勝山市)生まれ。東京帝国大学元教授。公職追放される。平泉寺白山神社第4代宮司、名誉宮司。玄成院第二十四世。皇學館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。

[2] Roberts Commission(ロバーツ委員会)は真珠湾攻撃の責任問題を調査する大統領による調査委員会で、1941年と1943年の二回行われ、キンメル提督とショート中将の勤務怠慢を結論付けた。しかし、当初から一部に政府内に攻撃を知っていた者がいると言う陰謀の噂が流れていた。

現在では、米政府が攻撃を知っていたことは通説となっており、またこの二人の将校の名誉は回復している。

[3] Molly Moore号(モーリー・ムーア号)のことである。この船はLanikai号の半分程度の小舟でLanikai号と同時にチャーターされたが、既に真珠湾攻撃で目的を果たしていたため、影が薄くなった。

[4] 特殊潜航艇「甲標的甲型

1941年12月6日(日本時間12/7)、オアフ島南側に接近した伊号潜水艦隊から特殊潜航艇「甲標的」5隻が真珠湾に向けて発進した。これは,完全な戦争開始である。米国海軍駆逐艦「ウォード」による発砲は12月7日06時45分,大東亜戦争の戦死第一号は,甲標的の搭乗員2名(詳細不明 下記の十名の中の英霊二命)だった。駆逐艦「ウォード」は、きっかり3年後の1944年12月7日,フィリピン方面で特攻機により撃沈。 初めて日本軍の「特別攻撃」を防いだ軍艦が,3年後の開戦記念日に日本機の特攻により沈められた。

特別攻撃隊(司令佐々木大佐)の編成 
甲標的(伊22搭載 岩佐直治大尉 佐々木直吉一曹)
甲標的(伊16搭載 横山正治中尉 上田定二曹)
甲標的(伊18搭載 古野繁実中尉 横山薫範一曹)
甲標的(伊20搭載 広尾彰少尉  片山義雄二曹)
甲標的(伊24搭載 (捕虜になった)酒巻和男少尉 稲垣清二曹)  合掌

2002年8月28日、真珠湾口で、特殊潜航艇「甲標的」が発見された。米海軍の旧式駆逐艦「ウォード」USS Ward の乗員が国籍不明の潜水艦を発見し,4インチ砲で攻撃し,司令塔に命中させ撃沈していたことが、61年ぶりに確認された。ただし、この駆逐艦「ウォード」の通報は,ハワイの海軍司令部に無視された*ために,みすみす日本海軍艦載機のハワイ空襲を許すことになった。(詳細は以下のHPをご覧ください)

torikai.starfree.jp


*無視されたのは、最初の一撃が真珠湾奇襲であることを強調したいFDRにとって不都合であったからではないか、いやそうに違いない(燈照隅註)

国際秘密力27(完)

第27章  国際連合

      『・・・わたしはその人たちをあなたたちの長としよう。<13>

 

読者はこれまで忠実に頁を追ってこられて、特定の言葉や問題が除かれているのを不思議に思われたに違いない。これまでは意図的に、国際連盟は簡単に概要を述べただけで済ませ、また国際連合に関しては全く触れてこなかった。これらは、世界をIJCに確実に届けるための輸送機関であり、またすべての事の頂点に位置するものなのである。従って、最終章のここでお話しするのが妥当と思う。すべてはこれらの隠れ蓑の下にある。

ウッドロー・ウィルソン大統領は1919年、パリに国際連合の種を運んだ。その時、彼はパリ講和会議に行き、国際連盟結成のための彼の考えをベルサイユ条約に盛り込ませたのであった。IJCはウィルソンを介して、世界という水の上に国際連盟を浮かべたのであって、それは十分な浮力を有しかけていた。

唯、米国上院の外交委員長ヘンリ・ロッジと小数の先見性のある堅実な上院議員たちだけが、1920年に世界が征服されることを防いだ。この行為は結局時間を稼いだだけに終わってしまったが、今日でも政治的な対応が速やかに行われるならば、日本におけるIJCの侵入を止められるかもしれないと考える上では、極めて大きな業績であったと言えよう。

米国上院と同様に日本の最高指導者たちは、国際連盟の目標が何かということを早くから気づいており、自国を防衛するためにできるだけの手を打った。例えば、第一次世界大戦におけるドイツの太平洋統治地域を掌握した。また、1920年代初めのロンドンとワシントンでの軍縮会議において日本に対して策略が弄されたにも拘らず、できる限りの艦船を建造した。

蒋介石配下の軍隊が動くまでは、その様な日本の活動は表面には出なかった。蒋介石はIJCの生産物、手下、道具であって、IJCに錠をかけられ、財産を所有され、手綱を握られていた。

この辺の事情に関しては、本棚一杯の本の中で完璧に証明されている。例えば、パール・バック女史の小説『すばらしき大地(The Good Earth)』 、中国でのスティルウェル将軍<14> に関するバーバラ・タッチマン*女史の歴史的記述などがある。

*Tachman:タックマン

張学良将軍へのIJCの工作によって追い出されようとした日本関東軍は彼を排除する軍事行動を発動し、これは全支那における軍事行動に拡大した。この日本の応戦は、20世紀初期の満州に進出しようとしたハリマン鉄道を含め、何十年にも亘って積み重ねられてきた中国側からの圧力に対抗するものであった。

この交戦に関して米国大衆には、『中国に対する日本の侵略』という、噛んで含めるような虚偽の情報が与えられている。しかし本当の理由は、メンバーとして米国が抜けてはいたが国際連盟の力を世界に見せ付け、そしてその影響力を及ぼして世界を支配するためであったと、私は常に信じている。

日本は1933年、スイスのジュネーブで開かれた会議で国際連盟を脱退することによって、正しい道を歩んだのである。それは日本に開かれた唯一の道であった。この事件は国際連盟の権力を崩壊させるのに効果的であった。

ここで私たちは、1940年、アルゼンチア湾でのチャーチルルーズベルトの会談に目を転じることにしよう。幾つかの点でこの会談は興味深い。

その一つは大西洋憲章である。これはこの会談で表明されたものであるが、その言し回しは、後の国際連合の『世界人権宣言』に繋がっている。もう一つは、同盟国(Allied Powers)という用語が、この会談と、特に米国参戦の時に広く使われ出して一般的用語になったということである。そしてその少し後、当時のプロパガンダの中で、同盟国(Allied Nations) という用語が連合国(United Nations)<15> という用語に置き換えられ、第二次世界大戦の中ごろから何の疑問もなく使用され始めたのである。

『United Nations(連合国、国際連合)』と『League Of Nations(国際連盟)』とは頭の字が単に置き換わっただけである。この言葉は今や正式な語彙となり、一般の人々の心に特別に焼き付けられてしまった。これを永久的な組織として正式化するために為れたことは、さらっとした告知だけであった。1945年6月26日、カリフォルニア州サンフランシスコにおいて、枢軸国と戦った側の国々が憲章に署名して、国際連合(United Nations)が存在することになった。

その永久的な本拠地がついにニューヨーク市に置かれることになった。この都市は、国際連盟が主催されたスイスや、国際司法裁判所があるハーグの様な真正な中立的雰囲気などは、かって微塵も無かった場所である。

1948年。この年は、次の、そして最後の、記憶しておくべき決定的な年である。この年にIJCは、その一連の最終的行動のための準備を完了させたのである。その建屋こそまだできていなかったが。

エディ・ヤコブソンはカンサス市出身のユダヤ人であり、第一次世界大戦**においてはハリー・トルーマンに張り付いていた。ヤコブソンはトルーマンの商売上のパートナーとなり、後に彼が政界に入った時には腹心の友となった。
**第二次大戦の間違いであろう

この様なユダヤ人の例は多く見られる。例えばセイモア・ワイスは、ヒュー・P・ロングの政治的経歴のごく初期の段階で彼に張り付いていた。ワイスも同様の目的のためであり、ロングの場合は彼を大統領に押し上げるためであったと、私は信じている。

1948年、イスラエル問題は国連が直面した熱い話題であった。米国の立場は明確に示されていた。すなわち、国連による信託統治に賛成、主権国家としてのイスラエルには反対、ネゲブ砂漠が横たわる南部地域の領土化には反対、であった。その南部地域とは、ユダヤ人たちが六千年前に、一日分の水袋も載せないで、現在のサウジアラビアの別の地域に旅立ったという土地であった。

ハイム・ワイツマン<16>シオニストを率いていた元指導者として知られていたが、ワシントンを訪問してトルーマンを説き伏せて、意思を変えさせる役目を要請され、ワシントンに旅立った。ワイツマンの努力に関しては広く世界に宣伝されているが、ヤコブソンの件は余り知られていない。エディ・ヤコブソンは、差し控えるよう何度も指示され、またトルーマンの怒りを招いたにも拘らず、ワイツマンに先立ってワシントンに行き、激しい議論の末トルーマンをワイツマンに会わせたのである。それによってトルーマンは、彼自身、彼の内閣そして彼の国務省の意思を反転させた。

デイビッド・マッカローが、1992年、ニューヨークのサイモン・アンド・シュスター社発行の著書『トルーマン(Truman)』の中で記述している次の文章は、他の何よりも明確に、かつ簡潔にこの事を説明していると思う。

『新しいユダヤ人国家・・・ここ二千年間で初めてのユダヤ人国家・・・は、予定通りエルサレムの深夜、そしてワシントン時間では午後6時に、その誕生を宣言された。その11分後、ホワイトハウスでは、チャーリー・ロスが、イスラエル国(the United State of Israel)<17> の名称で、事実上公式に認める声明を発表した』

1948年5月14日のその日、ワシントンのチャーリー・ロスは大統領の報道官であった。新国家の正式名称は、イスラエル国(The United States of Israel)。 この国家は、誕生するに際して米国から1億ドルを借用した。

米国の国会議事堂は、そしてすべての職員を含む米国国務省は驚愕に包まれた。その中で一人の国連代表だけは、この事を告げられていた。私は、後でお話するもう一人の国連代表もこの事を知っていたに違いないと疑っている。

米国政府のすべてが衝撃状態にある中で、トルーマン大統領だけは正しいカードで勝負をしていた。1948年11月の総選挙では確実な勝者と目されていたデューイを、ユダヤ人たちの投票と惜しみのない貢献によって打ち負かしたのであった。トルーマンは大差で勝利した。世界はIJCの完全なる準備の下に敗北を遂げた。

本題からはやや逸れるが、ここで取り上げておくべきもう一つの問題がある。それはユダヤ人たちに関して存在する国際法上の市民権と特殊性であり、イスラエル国が建国されたことに起因する問題である。

あるユダヤ人が、彼または彼女がユダヤ人であることを示す適当な書類を携えて、世界のどこかのユダヤ人領事館に行ったとする。するとその人に交付されるパスポートは、彼らの宗教と信仰上の理由によりイスラエル国から発行されるだろう。私は彼らの直近の家族に交付されるものも同様と信じている。これは宗教的国家がこの様な方法で市民権を授与できるという単なる例である。

そしてこの様な事態が存在することは、米国および世界の人々には一般に知られていないのである。

(著者註:

市民権についてであるが、例えば日本人が米国市民権を取得しようとすると、まず必要条件にかなった書類を提出しなければならない。それによって初めに永住権が得られ、永住権発行の日から8年以上米国の法的義務(税金等)を遵守すると、市民権申請が可能となる。必要書類を揃えて提出し、許可が下りると集団宣誓式にて承認を得られるようになっている。しかし初めての永住権申請に関しては必ずしも申請が通るとは限らない。
これがユダヤ人の場合には、例えばロシアから移民して来るとして、自分がユダヤ人であることを証明する書類を揃えて提出すれば、それで米国の市民権が得られることになっている。市民権を得れば、当然米国のパスポートが得られる。
さらに、ユダヤ人であることを証明する書類をイスラエル大使館または領事館に提出して認められれば、イスラエルのパスポートが得られる。二つのパスポートを持っているユダヤ人は決して少なくない。米国のみならず、世界中どの国でもそれができるようになっている)

 

国連の前にイスラエルに関する疑問点が提出された時に、反対派が何を知りそれをどう表明しているかの例として、1986年6月16日のダラス・モーニング・ニュース紙の署名入り寄稿欄からの記事を『証拠H』として添付しておく。

        ダラス・モーニング・ニュース紙の読者欄

            (1986年6月16日)

 

世界のテロ行為を、すべてリビアカダフィ<1>のせいにすることはできない。 ―ジョージ・W・オルドリッジ

  (北テキサス州立大学博士課程学生。全米アラブ系アメリカ人協会のフォートワース・ダラス支部の暫定支部長)

5月30日付けの本紙で、ヒューストンに赴任したイスラエルのヨーラム・イータン・エッティンガー総領事はテロ行為の専門家として自惚れているが、これはそれほど驚くには値しない。今日のイスラエルの指導者たちの多くは、建国に際して異常な体験を積んできたのである。

メナシェム・ベギン、イツハク・シャミルたちは、テロ組織であるイルグン<2>、シュテルン<3>、およびハガナ<4> の指導者として、一連のテロ行為を行ってきた。

・1944年、英国の中東担当大臣モイネ卿の暗殺。

・1946年、95人の英国人・アラブ人・ユダヤ人の死者を出した、キング・ディビッド・ホテル爆破事件。

・1948年、スウェーデン人の国連調停官、C.F.ベルナドットの暗殺。

・1940年および1942年、ユダヤ人不法移民団を輸送していた2隻の船の沈没。

・1948年4月9日、デア・ヤシンにおける254人の非武装アラブ住民の無慈悲な虐殺。

これらは、PLO(パレスチナ解放機構)が設立される15年またはそれ以上前に起きた事件であり、歴史的な事実である。イスラエルの初代大統領、ハイム・ワイツマンでさえ、イルグンの戦略を殺人的テロ行為であると非難していた。

エッティンガーは『パレスチナ問題が解決しても、世界のテロ行為は無くならない』と主張しているが、この点だけを取れば彼は正しい。彼は、従属国家分離主義、別名民族国家主義、が今日世界中に広まっている理由には言及せず、イタリアの小さい新ファシストグループから強力なタミール分離主義者<5> たちまでのすべての活動を、古き良きリビアカダフィーに結び付けようとしている。しかしエッティンガーは、リビアの指導者たちが世界的騒乱に関する巨匠(マエストロ)であるとのいかなる証拠も明示してはいない。

パレスチナ解放機構(PLO),

アイルランド共和国軍(IRA)<6>

バスク祖国と自由(ETA)<7>

アフリカ民族会議(ANC)<8>

ケベック解放戦線(FLQ)<9>

そしてクロアチア人(旧ユーゴスラビア)、

クルド人(イラン)、

アルメニア人(旧ソ連)、

コルシカ人(フランス)、

チロル人(オーストリア西部)、

タミール人(インド南部)、

フランダース人(フランス・ベルギー・オランダ)、

ワロン人(ベルギー南東部)他、

のすべての分離主義者たちは、カダフィーの貧弱な暗殺行為が有ろうと無かろうと、戦いを開始していたであろうというのが、真実である。CIAがある厄介な組織(リビアカダフィーを指す)を支援して、1969年の無血クーデターを起こさせる前にも、これらの組織のいくつかは活発に活動していた。

これらの組織が罪の無い人々を殺してきたことに関しては、何の議論もされていない。最近のシーク教徒分離主義者、タミール人分離主義者、PLOの過激派集団らによる非戦闘員の非情な虐殺は決して許されないものである。

しかしこれらの革命組織をエッティンガーのように、マルクス主義イスラム教徒評議会の西側民主主義に対する陰謀の産物であると決めつけるのは、あまりにばかげたことである。これは、北アイルランドイスラエル南アフリカスリランカなどの宗教的国家主義による紛争地は幸福な民主主義の模範である、と言うのに等しい。 

ヨーロッパのマルクス主義者たち、および無政府主義者たち

(赤の旅団(Red Brigades)、西独赤軍(Red Army Faction)、アクション・ディレクト(Action Directe)<10> など)。

ラテン・アメリカの左翼革命運動(ペルーのシャイニング・パス、コロンビアのM-19など)。

これらの戯れ事を除けば、今日のテロ行為の大部分は、多年、あるいは何世紀にも亘る、人種的または宗教的人種差別の産物である。

今日の世界における支配的な集団は、歴史的な健忘症を患っているようである。まさにエッティンガーが、シオニスト過激主義者たちの過去の歴史を、また

アイルランド人、

フランス系カナダ人、

南アフリカの黒人、

アルメニア人、

バスク人

アメリカ原住民、

カタロニア人(スペイン)、

その他の先住者たちが、帝国主義的な征服者たちにいかに悲惨な目に合わされてきたかを、都合良く忘れてしまったかのように。

パレスチナ人、

バスク人

コルシカ人、

アイルランド人、

チェロキー族<11>

アルメニア人、

シーク教

たちに、彼らの思いを尋ねた人がいるだろうか? 

自分たちの民族を根絶やしにされ、自分たちの国土を盗まれ、自分たちの神聖なる古来からの土地を汚され、自分たちの言語や文化をあざけられ、さらに多くの場合は違法扱いにまでされたことについて。

テロ行為に対する長年の差別、政治的投獄、処刑に比べれば、今日、虐待に耐えられなくなった絶望的な男女たちによって実行されるテロ行為は僅かなものである。

イスラエルパレスチナと土地の売買をするであろうか? もししないとしたら、それは何故なのか? ここに分離過激主義者への答えが横たわっている。

さらにエッティンガーが、米国を、『シリア、イラクリビアの全体計略に対する主要な防波堤』であるかのように論じているのはばかげたことである。シリアが長期間、レバノンにおける最重要事項であり続け、イスラエルと米国を騒がすことは殆ど不可能である。イラクイスラム教の隣国であるイランとの消耗戦争に巻き込まれた。

また、カダフィーの大ほら話のために為されたことといえば、リビアがつい最近行った、チャド共和国(アフリカ中部)へ押し入ろうというつまらない試みがその全てであった。

彼らのテロ活動は、『中東における米国権力の存在』を危うくするであろう、などと信じるのはお笑い草である。エッティンガーは、中東における大部分のテロ行為を猛烈な反米主義であると決めつけることによって、過激主義者たちに対抗するために認識しておくべき基本的な事実を無視している。

それは、パレスチナの難民たちは、彼ら自身には何の過ちもないのに、ヨーロッパの反セム主義のためにエスケープゴート(贖罪の山羊)にされてきたという事実である。

 

【訳注】

 <1>  ムアマル・カダフィー(Moammar Gadhafi) :リビアの指導者。1969年に民主主義運動の青年将校を率いて無血クーデターを起こし、王政を廃止して共和国を樹立。革命評議会議長となり、イスラムを柱とする社会主義を掲げる。1977年に直接民主制(ジャマヒリア制)を宣言し、国名を社会主義人民リビア・アラブ国と改称。国連の制裁措置に抗して、独自路線を歩んでいる。

 <2>  イルグン(Irgun Zvai Leumi):パレスチナ国民軍事組織。イスラエル解放支援のためパレスチナで結成された右翼系ユダヤ人の地下軍事組織。後のガハール。ベギン(後の首相)が指導者。公然とテロ行為を実行していた。

 <3>  シュテルン(Stern Gang):イスラエル建国当時に結成された極左ユダヤ人の地下軍事組織。イルグンとしばしば協力。公然とテロ行為を実行していた。

 <4>  ハガナ(Haganah) :イスラエル建国の中心的人物であるベン・グリオンが創設した、ユダヤ労働党系の地下軍事組織。村落の守備が主体。イスラエル国防軍ツァハールの母体。英国将校ウィンゲート大佐が機動作戦を指導。

 <5>  タミール人(Tamil) :インド南部およびセイロン島に住むドラヴィダ族。 

 <6>  アイルランド共和国軍(Irish Republican Army) :英国統治下にある北アイルランド西部を、アイルランド共和国に併合することを目的としてゲリラ戦を行っているグループ。

 <7>  バスク祖国と自由(Euzkadi ta Azktasuna):Basque Homeland and Liberty。バスク地方の分離独立を目指し、スペイン政府に対してテロ活動を行っている過激派民族主義グループ。60年代末からテロ活動を始め、中央政府関係者の暗殺・爆破などを続けている。バスク地方とは、スペイン北部、ピレネー山脈西部のバスク人が多く住む地方。

 <8>  アフリカ民族会議(African National Congress) :南アフリカ原住民族会議として発足。25年に現在の名称に改称。60年4月に非合法化され、亡命政府をザンビアの首都ルサカに置いていた。最高指導者はネルソン・マンデラ。非合法の南アフリカ共産党(SACP)と協力関係を維持して、爆弾テロを主要戦術としている。ネルソン・マンデラは1994年5月に南ア初の黒人大統領に選出された。しかしANCは黒人の中では少数派であり、黒人内部闘争を意図されて表舞台に立たされている可能性が高い。またマンデラは世界支配勢力の飼い犬で、南アの黒人を大量虐殺すべく指令を受けているとも言われている。

 <9>  ケベック解放戦線(Front de Liberation Quebec):カナダのケベック州は17世紀初めにフランスの植民地となり、その後1763年にイギリス領となった。フランス語系住民が82%を占め、しばしば紛争を生じてきた。1995年10月にも2回目のケベック州独立の州民投票が行われたが、反対50.6%、賛成49.4%で否決された。

 <10> アクション・ディレクト(Action Directe):フランスの左翼過激派組織。西独赤軍(Red Army Faction)と1985年1月に連合組織『西ヨーロッパ政治軍事組織(Political Military Front in Western Europe)』を結成。

 <11> チェロキー族(Cherokee):イロクォイ族(アメリカインディアン)の有力な部族で、現在は大部分オクラホマ州に住む。

 【証拠H】 ダラス・モーニング・ニュース紙の読者欄(1986年)

 

この記事は、この本の範囲の終了点である1948年を超えているのであるが、イスラエルの指導者たちがテロ行為によって出現したことを示す内容を含んでいる。この記事はまた、IJCのためにトルーマンが生み出したいま一つの機関を示している。それはCIAであった。CIAは米国の情報機関から『南部の人々』を効果的に抹消し、その代わりにIJCの手下たちをしっかりと植え付けたのである。 

この事の最も強力な証拠は、アレン・ダレスのCIA長官任命であった。ダレスは、OSS(Office of Strategic Services) の名で知られ、前に説明したドノバンに率いられていた米国戦略事務局における実力者であった。ヨーロッパ部局の長としてのダレスと彼のグループは、ソ連スターリンを介した日本の再三の降伏の申し入れを審議していた。

この本のクライマックスを飾るために、最後の一人の人物が温存されていた。エレノア・ルーズベルト大統領夫人である。彼女はエリオット・ルーズベルトの娘として生まれ、フランクリン・ルーズベルトの従兄弟に当たっていた。

ユダヤ人たちに踏襲されている女家長制度を思い出して頂きたい。彼女はフランクリン・ルーズベルトの目であり、耳であり、足であった。足の悪かった彼の生涯を通して、彼女は彼の行けない所には行き、全く従順そうに現れた。

しかし実際の彼女は過度に独断的な妻であり、今日のヒラリー・クリントン大統領夫人とどこか似ていた。ただヒラリーの場合は、イメージはそれほど美化されておらず、ヒラリー自身、彼女を報道するメディアに対してそれほど愛想も良くなく、逆に報道側も彼女に対して同様であることは付け加えておこう。

エレノアが初期のラジオ放送を活用していたことは前に述べたが、彼女は毎日の寄稿欄も執筆していた。その記事は、米国の殆どの主要新聞紙に同時掲載された。それは『私の一日(My Day)』と呼ばれていた。彼女は当時のニュース映画にも頻繁に登場した。また本書の時代記述の中でやっと使用され始めたばかりのテレビにも幾分登場した。一言で言えば、彼女は米国国民に良く知られていて、今は故人となった夫に甲斐甲斐しく尽くしていた謙虚な婦人のように思われて、概して好かれていた。彼女にとって、それまでの仕事はこの様な雰囲気を作る上で最適なものであった。

サンフランシスコで国際連合が正式に発足してからしばらくして、エレノアはハリー・トルーマン大統領により米国の国連代表の一人に任命された。トルーマンは、IJCにより無慈悲に使われて、米国の良識ある機構を破滅させた人物として常に思い出されるであろう。

私が見る限り、IJCが彼女のために国連で用意していた仕事は唯一つで、それは決定的に重要なものであった。それは国連人権委員会の委員長として活動し、世界人権宣言の草案を評決メンバーに答申する仕事であった。そして彼女はこの仕事を実行した。メンバーの国々はこれを圧倒的多数で採用した。私はこの宣言文を『証拠I』として添付する。

【証拠I】 国連の世界人権宣言(1948年)(一部抜粋)

 

投票が行われた後でエレノア・ルーズベルト評議員たちに、今採択された文書は『世界の人々のための大憲章(MAGNA CARTA)』であると告げた。

私は、エレノア・ルーズベルトの伝記をテレビで見ていてこの言葉を聞いた。その時私は、1215年に英国がIJCのために奴隷化されたのと同様に、1948年に同じIJCのために世界を奴隷化する何がこの文書に埋め込まれているのであろうかと、思わざるを得なかった。

そして1995年の今、IJCは警察力を手中に収め、あらゆる主権国家の国内問題に干渉し、世界中から召集した軍隊を送り込んでいると、私は思っている。それらの軍隊には、対象とするその主権国家の宿命的な敵さえ含まれている。そしてさらには、不正に、偽善的に名付けられた日本の『自衛隊』までもが含まれる。この自衛隊の名称は朝鮮戦争のために設けられたものであったが、外国の権力に占領されたと同様の状況の下にさらに下位でこき使われるのである。すべては、IJCの為であり、その目的の為である。

 

これをもって本書を終えることにしよう!

 

 

結 言

つい最近の1995年5月の週末、米国の戦没将兵追悼記念日(メモリアル・デー)の日に、いささか注目すべき事があった。大半の国民が認め意義を持つある地方新聞に、ある記事が掲載されたのである。それは編集者宛の手紙の頁に掲載されていたのだが、その記事は極めて重要な事を記述しており、私が大人になってから米国で初めて見るような攻撃であった。

読者の方には是非自分で読んで頂きたいので『付録』として添付しておく。この本を読み通されて感じた疑問に対して、この記事はその答の始めになるかも知れない。これが米国内での姿勢の変化の前触れとならんことを願う。

     サン・アントニオ・エクスプレス・ニュース紙の読書欄

            (1995年5月28日)

 

     イスラエルの犯罪行為は、彼らに対する支援を危うくする

       サン・アントニオ在住のアラン・パーカー氏より

 

イスラエル人たちは小包爆弾を発明し、それを市民への攻撃に使用した。つい最近のオクラホマ市の惨事で使用された爆弾は、この小包爆弾の改良版であった。

ル-ス・ウェステンハイマー博士は、米国において幅広い賞賛を集めている。しかし彼女は、イスラエルの組織に所属していた時はテロリストであり、英国人子女を殺害するためのダイナマイトを何回も運んだと公言している。英国人殺害の目的は、英国人たちを同情させてテロリスト側に味方させることであった。

ベギン、シャミール、ベン・グリオンら何人かのイスラエル首相もテロリストであったと認めている。彼らの行為はイスラエルの名において正当化されている。

1968年、イスラエルは、片方では米国への愛を唱えながら、米国リバティ号の乗組員34人を殺害した。イスラエルはまた外交官たちも殺害した。イスラエル建国に賛成していたデイビッド・スターリングは、スターン・ギャングまたはツヴァイ・レウミより送られて来た小包爆弾で殺害された。イスラエルの歴史は、最初から終わりまで血生臭い大虐殺で埋めつくされている。

イスラエルナチスの類似性は顕著である。純血人種国の希求。特定人種を絶滅させる企みとその人々の財産の破壊。『レーベンスラウム(生活圏)』の要求と侵略行為。支配人種(選民)、優性人種としての自己主張。他の集団に対する殺人行為の合法化。反抗者を撲滅するための特別殺人集団の育成。大量殺戮兵器の所有と世界に対する虚言。

イスラエル核兵器を所有しており、誰に了解を得ることもなくそれを使用するであろう。)

米国内でのイスラエルに関する自由な討論を破壊すべく、JDL(ユダヤ防衛連盟)は、ナチス党員同様、呪いをかけている。それは今日、米国においてイスラエルに関する真実の議論が殆どなされないことの一つの理由となっている。

私はドイツ駐在の英国軍に任務したことがあり、ホロコーストがあったことは知っている<1>ヒトラーのその行為は恐ろしく悪いとしても、彼はユダヤ人の残酷な性格をおそらく理解していた。

イスラエルの名において行われたすべての残虐行為が明確になっていくのは、自然の成り行きである。米国はイスラエルに毎年三十憶ドルを与えている。我々は、この様な残虐で大量殺戮を行う神政国家への支援を続けるべきではない。この国の法は、または法の欠如は、我々が信じるべきすべてと真っ向から対立している。

英国人たちはイスラエル建国を支援しようとしていたが、その英国人をイスラエルは殺害した。殺された人々の多くは普通の市民であり、買い物や出勤途中で殺害された。それらのすべては、イスラエルの狂気のテロリストによるものであった。前述のウェスタンハイマー博士もそのテロリストの一人であった。

今まで私はユダヤホロコーストに恐怖していたが、最近ではイスラエルに恐怖するように変わってきた。その恐怖感は今までナチスに感じていたものと全く同じである。イスラエルのテロリスト集団が英国人に行った行為と、パレスチナ人たちがイスラエルに行っている行為の間には、何の違いも見い出せない。

 

【訳注】

  <1>  ドイツ駐在の英国軍に任務したことがあり、ホロコーストがあったことは知っている。強制収容所では極めて多数の人々がチフスにより死亡した。占領後、強制収容所内で累々たる死体を発見した英米軍の兵士たちは、病死とは知らず、ドイツによりホロコーストが行なれたと錯覚した。その後今日まで、病死のことは伏せられ、「ガス室」による600万人のホロコーストがあったと宣伝されている。
パーカー氏が「ホロコーストがあったことは知っている」と言っているのは、チフスで死亡した人々のことではないか?

 【付録3】 サン・アントニオ・エクスプレス・ニュース紙の読者欄(1995年)

 

参考文献

本書の参考文献としては、約400冊の本を参照させて頂いた。キーワードとなる事項に関してはその多くを私の書斎にある本に依った。またテキサス州のダラス、フォート・ワース、サン・アントニオの公立図書館および米国公立図書館間の相互貸借制度も利用させて頂いた。この版ではこれらの本のリストは省略させて頂く。

 

第27章【訳注】

 

 <13>  旧約聖書 申命記1.13より。

 <14>  スティルウェル将軍(Joseph Warren Stillwell):(1883~1946六)米国の陸軍大将。第二次世界大戦開始後、中国地上軍参謀長兼在華米軍指令官(中将)。蒋介石とあわず、1944年更送。翌年第10軍指令官。 

 <15>  United Nations:日本語では戦前と戦後で、「連合国」と「国際連合」とに使い分けがされている。しかし、戦後の組織を「国際連合」と訳したのはプロパガンダの一種であり、極めて悪質であると指摘する人が少なくない。

 <16>  ハイム・ワイツマン:(1874~1952) ロシア生まれのイスラエルの化学者。イスラエルの初代大統領(在位1949~1952)。1917年、英国のシオニストグループの指導者として英国のバルフォア宣言を引き出す。

  <17>  The United States of Israel :直訳すれば「イスラエル合衆国」であるが、外務省での公式呼称は「イスラエル国」となっている。

 

 

 南溟の夜 (横山大観作)

 

国際秘密力26

第26章  GHQと幣原喜重郎<10>

            『支配者が偽りの言葉に耳を貸すなら、仕える人は皆、

           逆らう者となる。<11>

 

1945年9月2日、日曜日の午前9時、白色のテントが張られた戦艦ミズーリ号の甲板上は、降伏のための3人の日本代表団を待つ乗組員たちで埋まっていた。連合国側の大部分の国の代表者たちも同乗していた。ミズーリ号は最新の米国海軍戦艦ではなく、その名前はトルーマン大統領の出身州のものであった。最新艦はアイオアであった。当日は曇天で、迫りつつあった日本の屈辱を太陽から隠して希望を持たせるかのようであった。その太陽は日本の神であり、その為に彼らは太平洋戦争を戦ったのであった。

乗組員たちが待ち侘びていたその見せ物を、日本は最も良い、そして日本を象徴するような形で受け止めた。というのは、大勢の乗艦者たちによって心を挫かされるべき代表団として、足の不自由な重光葵外相を含むたった3人を送るという天才的な人選を行い、また遅れて到着して連合国側のスケジュールを崩したのであった。重光外相は乗艦するのに介添えが必要なほど足が悪く、緑色の布の署名用テーブルまで歩いて行くのがやっとであった。世界にとってそれを見、そして同情すべき戦後の日本を象徴していた。

占領政策は極めて速やかに進められた。マッカーサーによりGHQが設置され、他の連合国は完全に占領組織の外に置かれた。特に怒ったのはソ連であったが、原子爆弾を独占的に所有する米国が相手では、できる事は殆ど無かった。原子爆弾の恐ろしさは、世界中の人々の記憶に鮮やかに刻み込まれていた。

日本の占領に際して邪悪な天才が一人いるとすれば、私はチャールズ・ウイロビー将軍*がその咎に該当すると思う。たまたま符合するのであるが、彼はヘンリー・キッシンジャーが後に入るのと同じドイツの高等学校(ギムナジウム)の卒業生で、キッシンジャーはそこでIJCの手先としての後年の任務のために教育された。ウイロビーは大戦中はマッカーサー配下で一貫して諜報機関の長を勤め、戦後はGHQに所属した。
*チャールズ・アンドリュー・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby, 1892~1972)は、アメリカ陸軍の軍人。最終階級は少将。第二次世界大戦下においてはダグラス・マッカーサー大将の情報参謀で、戦後は連合国軍最高司令官総司令部参謀第2部 (G2) 部長として対日謀略や検閲を担当するなど、占領政策遂行のうえで重大な役割を果たした。一方、法の支配を尊重する保守主義者としても知られ、東京裁判に際しては敗戦国の指導者だけを裁くため法の支配を恣意的に歪めるとして不信感を表している。ウィロビーによると、幼少はドイツ人として過ごす。ドイツとフランスで学び、ドイツ語、フランス語、スペイン語を話す[3]。地元ハイデルベルク大学などで学んだあと、1910年にアメリカに渡り[3]、アメリカに帰化、Charles Andrew Willoughbyと母方の家族名に改名したという。もしウィロビーの主張に間違いがあり、Willoughbyが母の家族名でないとすれば、WeidenbachのWeide(やなぎ)をwillowに翻訳して(ドイツ人らしくなく)アメリカ人らしい家族名に改名した可能性がある。(wikiより)

(燈照隅註:扨て、ウィロビーの出生についてはドイツの貴族であるという主張に聊かの矛盾が指摘されている。また、ここに指摘されているように名前を簡単に変える性質を考慮すると、隠れユダヤ人であった可能性も否定できないであろうと思われる。)

この諜報という世界に入った人々は私にこう告げている。『一度入り込むと抜けられない。』 私は今になって思うのだが、彼はコートニー・ホイットニー將軍を操っていた。ホイットニーは民政局長であり、諜報関係者としてダグラス・マッカーサーと一緒に占領政策を実際に実行する立場にいた。しかしホイットニーの役割は、多かれ少なかれ舞台上の小道具に過ぎなかった。

ウィロビーは歴史部門を早々に設立した。この部門の目的は、巷に流される太平洋戦争の話はIJCによる物語唯一つになるようにすることであった。ゴードン・プランジを思い出して頂きたい。日本の人々、そしてまた日本国外の世界に提供されるのは、IJCが考えているものだけであることを確認するために、この部門は出版物の厳重な検閲を行ったのである。
(燈照隅註:ウィロビーについてはwikiに書かれている内容を読む限りでは、統治の制度についてはまともな考えを持っていたと思われる。しかし歴史隠蔽・改竄は当に邪悪そのものである。)

フォウビオン・バワーズは、マッカーサーの補佐をするために日本に滞在していた若い米軍士官であった。1977年に私は朝のCBSテレビニュースの中で、バワーズへのインタビューを聞いた。それは完全なものではなかった。私はこれについて幾度も繰り返してCBSとやりとりしたが、その結果、放映の元となったインダビュー資料は東京にあると確信できた。

私の親しい友人で、私の著書『強要された憲法(The Coerced Constitution)』の一部を翻訳して頂いた幣原道太郎教授<12> にお願いしたところ、彼は東京のCBS支局を訪れ、全く奇跡的に、『放映用』に準備されたフォウビオン・バワーズの非公開インタビューの原稿コピーを入手できた。

この原稿は極めて重要であり、また日本人の知らない事実であるため、幣原教授が受け取った生原稿のままの形で巻末に添付し、初公開することにする。読者には、バワーズは自国および長年の上官であったマッカーサーに忠実にせざるを得なかったことに留意しながらこれを読んで頂きたい。慎重な言葉の裏に隠されてはいるが、インタビューの中で彼の意見ははっきりと滲み出ている。その慎重さと理解し得る忠実さに覆い隠されてはいるが。

 

F.バワーズの非公開インタビュー記録(1977年)

これは1977年の4月のCBSニュースで放映するために、1977年1月に東京で行われたCBS東京支局長ブルース・ダニングによるフォウビオン・バワーズ氏Faubion Bowers)との非公開インタビューの記録である。

この文書は1977年の夏に幣原道太郎氏(幣原元首相の令息)がダニング氏に直接会った結果、僥倖にも入手された。バワーズ氏は占領当時マッカーサー最高司令官の通訳担当副官であった。同氏は戦前日本に滞在していた人物であるが、高度の洞察力を持つ人のように見える。

著者は自宅のTVでこの省略された放映を見てその重要性に気づき、幣原氏に記録の入手を依頼したものである。


     ファウビオン・バワーズとのインタビュー。1977年1月。
     於:東京CBSニュース支局


ダニング: あなたは戦前の日本に滞在されていて、また日本占領とともに再来日されました。最初に日本に戻って来られたお一人で、その後何年も滞在しておられますが、この占領が日本に及ぼした影響をどの様にお考えでしょうか?

バワーズ: そうですね。私は物事を暗く見すぎるのではないかと恐れています。この占領中も、私はずいぶんこれに反対してきました。私は暗い面ばかり見ています。占領軍がしようとしていた事は、すべてを連続的に解体していくことでした。

この占領は妙な出来事でした。何故なら、それは成功であり、しかもまた失敗でもあったからです。日本人は従順でしたから、その点で言えば成功でした。日本人が占領を成功させたのです。米兵たちは驚くべき行動を示しました。彼らは日本人との愛に陥ったのです。彼らを見ることは興味をそそられました。彼らが来日した時には日本人への憎しみに満ちていたのですから。

我々は訓練を施されてきました。あなたもご存知でしょうが。そう・・・4年、いや4年半・・・日本人を憎むように。そして米兵たちは憎しみとともに日本に着いたのです。そして1か月も過ぎると、彼らは単純に日本人の言い成りになっていました。占領軍の大部分の人々はこの日本のようなものに直面したことは初めてでした。・・・私は優れた文明とは言いたくないのですが、しかしそれは高度に磨き上げられた、高度に発達した文明でした。占領が行われたころ、米国の多くの人々は米国より外に出たことは無かったのです。

あなたの質問にもっと直接お答えしなくてはいけませんね。占領軍が実行したすべての事は次第に行われなくなったように、私には思えるのです。私が意味しているのは例えば・・・占領当時、公職追放は大事件でした。しかしすべての首相は元被追放者です。また現外相も元被追放者です。そう、すべて・・・膨大な量の財産没収、膨大な数の悲嘆に眩れた人たち・・・公職から追放された人々、公職を永久に禁止された人々、さらに軍事行動によって刑に服した人々までが、すべて復権したのです。

国土の復活はもう一つの話題です。これは紙面を良く賑わかせています。邪悪な土地所有者の手に巨大な土地を集中させるべきでない、また土地を耕す農夫たちはすべて彼ら自身の土地を所有すべきであると言うのは、理想的に過ぎます。確かに、それは明らかな真実であり、おそらく米国においては適切な事です。しかし日本においては大変適切な事とは言えないのです。私は、日本の農業は土地改革による分断によって大きな被害を被っていると思います。そしてこの事は少しずつ払拭されつつあります。

憲法はまた別の話題です。この憲法は明らかに人工的に注入されたものであるのに、日本がこの憲法を何故こんなに遅くまで廃棄しないでいるのか、私には理解できません。あなたはこの問題がどうなっているのかご存知でしょうか?

ダニング: いえ、知りません。この問題に入りましょうか?

バワーズ: ええ、それは本当に、大変可笑しな事なのです。あなたはマッカーサーが、どちらかと言えば聞き下手だったのをご存知でしょう。それは彼が喋りっ放しであったことの一つの理由でした。そしてそれは不思議に魅力的で、何故なら彼の・・・彼の口からは華麗な古い言い回しの言葉の奔流が休み無く出て来るわけで。それは、彼の注意を引くことが大変難しいほどでした。

しかしある時、占領時代の初めのころ、近衛公爵が、彼は後に自殺しましたが、マッカーサーの所にやって来て、とても流暢な英語で、そう英語で・・・彼は

『戦後の日本はどの様なconstitution(構造、憲法)を持つべきか?』

と尋ねたのです。その問はこの様な意味だったのでしょう・・・戦後の荒廃からどうやって再建していったら良いのか?

マッカーサーは『constitution』という言葉を聞きましたが、彼は、新生日本国家はどの様な枠組みで作っていくべきかという様な意味では理解しませんでした。そして彼はこう言ったのです。

『constitution(憲法)! それはすばらしいアイディアだ。我々は新しいconstitution(憲法)を作ろう』

これが、この新憲法ができた顛末です。私は近衛公爵が自殺した一つの理由はここにあると思います。何故なら、彼はこの占領は単に権力を喪失しただけであると感じていたからです。

あなたがこの占領の基礎となっているポツダム宣言をお読みになればお分かりでしょうが、日本の社会を再構成するなどとはどこにも書いてないのです。最奥の村にまで侵入するような我々の行為や、学校、社会関係等々の構造改革などについてはどこにも書かれていないのです。ポツダム宣言は単純に、日本を末長く、今まで軍国主義者たちに抑圧されていた本来の自由な勢力のための国にしようというものです。そして単に彼らが表面に出て来れるようにしてやり、あとは日本が自ら望む方向に自己形成して行くのに任せるというものなのです。

しかし我々占領軍は次第に権力に完全に酔うようになっていったのです。・・・その権力とは、我々が何を言おうが、それに対して八千万人の人々が必ず『はい』と言うような巨大なものでした。我々はまさにどんどん変革して行くことを望みました。また、さらにさらに深くまで変えようとしました。多くの人々・・・マッカーサーと彼の腹心の部下たちは、占領軍は本当に日本の本質を変えていると感じていました。

日本の土地の上に愛他的な米国人が多数存在し、日本に民主主義の見本を据え付けました。しかしそれについて、日本は自分たちが以前に考えたやり方であれば、もはや考えようとはしません。・・・私が冒頭に申し上げたようにそれは、米国人たちの自惚れの極みだったのです。いや、それは自惚れではなく・・・それは無知でした。

そして、占領軍が日本に施していったと考えていたすべては行われませんでした。そう、財閥はまだ存在しています。軍閥軍国主義者たちは弱体化されましたが、その芽はまだあると、私は思います。

ダニング: しかし、占領軍の影響、または終戦の影響を弱めようという日本の動きは・・・それはそれの頂点にあったのであって、その後は自然に急激な反動が起こったのでは?

バワーズ: そうです。まさにそうです。敗北するというのは、恐ろしい衝撃です。占領軍がいなかったとしても、非常に多くの変化は生じていたのです。単に戦争に敗北しただけで、かなりの変革には十分であったのです。

ダニング: 占領軍が日本に着いた時、占領軍は、そしてその指導者たちは何を認識していたのでしょうか? 彼らが調べ、考えていたことは何だったのでしょうか?

バワーズ: 殆ど何もありませんでした。我々は戦争のために組み込まれた歯車に過ぎませんでした。私が知っている人たちは誰も、日本を占領するなどということをする様になるとは考えてもいませんでした。実際、マッカーサーが非常に早くからそれを考えていたとは思えません。日本に近づいている飛行機の中で、彼が大変幅広い範囲で考え始めたのを私は知っています。彼は言いました。

軍国主義者たち、軍隊、陸軍、海軍、空軍がどれだけの費用を消費していたのか、見つけ出さねばならん。今度はその費用を全て取り上げ、教育に回すのだ。」

彼がその様なことを言うとは、恐ろしく印象的なことでした。しかしあなたも当然知っているように、お金は消えていました。・・・奇妙なことに・・・そして、陸軍、海軍、空軍のための全財源が元々どこから来ていたのか、私は知りません。何故なら、我々がそこに到着した時には、確かにそれは無かったのですから。そして必然的に、教育に財源は回りませんでした。

私は、誰かが非常に早くからある大凡の計画を立てていたとは思っておりません。たとえワシントンの政府でもそうだったと思います。まして、占領軍が実際に行ったようなやり方の計画は確実に有りませんでした。占領軍が行ったことは、私が先程申し上げたように、生活のあらゆる面への干渉でした。

ダニング: 占領軍の人々がここに到着して、司令部組織を発展させていった時、皆さんの認識はどの様に変わっていったのでしょうか?。またその態度はどの様に変わっていったのでしょうか?。それらはすべて新規に考案されたもので、歩きながら計画されていったものなのでしょうか?

バワーズ: そうですね。当時は大変に慌てふためいていましたし、相当に当て推量的にやっていました。私は・・・そのご質問にはどう答えて良いのか、実際良く分かりません。ウーン、私は、我々が非常に明確な計画を持っていたとは思っていません。そのため、我々は大幅に特別委員会(the blue ribbon committees)に依存していました。

占領軍のメンバーは、私を含めて実際にはむしろ下位の人間たちだったのです。為すべき何かを持っていた人たちは直ちに国に帰りました。何故なら為すべき何かを持っていたからです。そのようなものを持っていなかった我々の様な人間は、日本に留まりました。そして、マッカーサーは彼の将軍たちを使わざるを得ませんでした。何故なら彼は・・・結局、彼は長い間戦争を戦ってきて、彼には将軍たちの参謀がいて、それで彼は彼らを様々な部門に配置しました。

それで、経済部門の長は経済について何も知らない(語気を強めて)。政府部門の長は・・・元は交通事故専門の弁護士でした。ウーン、彼らはそれらの部門に配置されたばかりでしたから、明らかに彼らは何をすべきか良く知らなかったのです。しかしこの占領のごく初期段階で、我々は日本にさせるべきことを理解しており、それらは旨くいくであろうと思っていました。

そしてマッカーサーに関して言えば、彼が行った事は驚嘆すべき事の一つでした・・・それは彼が天皇を保持したということです。何故なら彼は知っていたからです。もしあなたが天皇を所有するならば、日本人はすべてあなたの為に行動するであろうことを。そして彼は栄誉を得るであろうことを。これはまさしく見付け出された方法だったのです。

しかしこの方法は私が言うほど、簡単でも、またつまらないものでもなかったのです。実際、マッカーサーは非常に多くの反対に会いました。天皇を・・・絞首刑に掛けたがっていた人は大勢いたのです。英国人、ロシア人が、そしてワシントンでは、アーチボルド・マクリーシュ<1> とディーン・アチソン<2> が天皇を・・・絞首刑にしたがっていました。

それらに対して、マッカーサーは頑強に『NO』(語気を強めて)と言ったのです。彼にこの動機を与えた背景には、彼が大変古風な人間であったことが挙げられます。彼は、血統、伝統、王室に対して、大変深い健全な尊敬の念を抱いていました。こうして彼は、彼の強さを貫いて天皇を保持しました。この事が、占領が大変順調に行われたもう一つの理由でした。

我々の認識がどの様に変わっていったか? これらの米兵たちがどうなったかというと、それは異常な出来事でした。その後突然、日本人をまさに敬慕するようになってしまったのです。彼らはその食事を好きになりました。彼らはその婦人を好きになりました。彼らはその従属性を好きになりました。彼らはその慰安を好きになりました。そして当然ながら、今まで使用人を持ったことなど無かった人々が使用人を持つようになったのです。

ダニング: それであなたは、存在していたかも知れない計画よりも、占領軍が実際に行った方法の方がより効果的であったと思われますか?  非常に多くの計画があったと認識しているのですが。

バワーズ: そうですね。もしあったとしたら、私はそれらには気が付かなかった。当時は、確かにその様な計画があるようには思えなかった。それは・・・計画・・・多くの計画は即興的に作られたように見えました。

ある時、マッカーサーキリスト教について演説したいと思った時のことを、私は覚えています。それは『日本人はお説教を山の上で聞いてきた』という有名なマッカーサーの演説です。それが何を意味するのかは私は知りません。それはともかく、その時彼は、戦前および戦後の日本におけるキリスト教徒の数を知りたがったのです。

それで結局、宗教部門に問い合わせが行って、担当者は戦前には30万人、現在は3万人と言いました。ところが、宗教部門の長は、これでは不十分であると言ったのです。マッカーサーはこれでは満足しないだろう。それで宗教部門の担当者は単純にゼロを二つ付け加えたのです。こうして有名な演説『日本人はお説教を山の上で聞いてきた』の中でマッカーサーは確かにこう言ったのです。『戦前には30万人の、そして現在は300万人のキリスト教徒がおります。』そう、これは占領軍がいかに出鱈目であったか、ということの一例です。

ダニング: 大変異なる二つの文化が衝突したわけですから、実に様々な矛盾や珍しい反応が有ったに違いないと思います。これらの日本人側に及ぼした影響はどうだったのでしょうか。あなたはこれらの反応の多くを知り得る立場におられたと思うのですが。

バワーズ: ええ。日本人は長い間大変苦しんでおり、そして堪え忍んでいました。最初のころに有ったことの一つで、劇場での例ですが、演劇部門の何人かの青年たちが欲したのは天皇を啓発することでした。そこで彼らは日本人に『ザ・ミカド』を演じなければならないと告げました。そして多大な費用を掛けて『ザ・ミカド』は上演されました。衣装は超豪華なものにして、また他の日本の物はもっともらしく模倣して。しかし誰も見たがりませんでした。ごく稀に見に行った日本人は困惑していました。彼らはこう言ったのです。『これは一体何だ?』 これは不発に終わった例です。

再び劇場の例ですが、私たちは仇討ちに関するものはすべて禁止していました。何故なら、もし仇討ちの劇が旨くいくようだと、日本人は我々に復讐するであろうと考えたからでした。そのため、日本人は『ハムレット』を上演する時は非常に慎重に脚色していました。これは大変な成功を収めました。

私はこの話をいつも言って来たのですが、これは冗談のようで、本当は冗談ではないのです。日本人は戦争に勝ったと、私は本当に信じています・・・確かに、彼らは文化的には勝利を収めたのです。何故なら、どこの場所に行っても、禅に圧倒されているのは、また陶器や、詩歌や、着物や、歌舞伎や、日本美術や、日本的生活様式に圧倒されているのは米国人だからです。また今日、日本式庭園や日本式風呂を持っている米国人は信じられないほどの数に上ります。コロンビア大学の近くには、アパートの全室に畳を敷いた気持ちの良い家が有ります。

ダニング: 施行された改革に対する日本人側の反応はいかがでしたか?

バワーズ: 彼らは・・・彼らは・・・その改革が機能しないように、人々を説得していました。高い地位にいた多くの人々が・・・こう言っていました。

『どうせ長続きする訳は無いんだから、そんな事は止めておけ。日本の穀物に関しては特にそうだ。我々はあなたがたの言うことにはすべて従うが、それは結局うまくいかないだろう。』

これに対して我々の中の多くは強情で、『これをやれ!』と言ったのです。そして果たして、長期的に見ればそれは失敗していました。憲法のように。彼らは確かに我々のための憲法を採用しました。しかし日本の公式の伝統的視点は、天皇が降伏を承認したのであるから、我々・・・我々日本人は、・・・天皇の御名においてこれら米国人の言う通りにする、というものです。

ですから、彼らはどんなに馬鹿げた法であっても、それに従うことを馬鹿げているとは感じないのです。一部の人は反撃しましたが、大部分の人々はすぐに『OK』と言いました。大勢の人々が『OK』と言って、それで施行されて、そしてまさに彼らが望んでいた通りになったのです。これはもちろん・・・これはもちろん、最も利口なやり方でした。

ダニング: 振り返って見て、この占領は日本に影響を及ぼしたのでしょうか?

バワーズ: 占領としてはNOでしょう。敗戦国を征服した国家としてもNOです。今や少しも関係ありませんから。衝撃・・・約150万人?の米国人の・・・6年半強力な支配者として通り過ぎた中で・・・米国人と顔を突き合わせて接触するようになった日本人の衝撃・・・私はそれ自体が衝撃だったと思います。(語気を強めて)・・・そのことによって確かに、日本人は以前よりも我々を理解できるようになったのです。それは・・彼らが我々を範として模倣するということではないのです・・・全く・・・

しかし、我々との接触により、彼らは我々と親しくする気分になってきました。そして日本人は、占領軍が凶暴でなかったことに大変感謝しています。何故なら、彼らはソ連満州を占拠した時に何が行われたかを知っていたからです。また彼らは、もし英国に占拠されていたら何が起きたであろうかを知っていたからです。それは実に辛い日々になったことでしょう。

それに対して、米国人は優しく、また紳士的です。彼らは・・・彼らは・・・占領時代にここで権力を握っていた米国人は愚鈍な人々でした。しかし平均的な米国人は、平均的な日本人と同様、極めて紳士的です。それで、日本人は極めて感謝しています。そして、強姦や、強奪行為や、虐待は殆ど無かったので、それに対して、今まで敗北したことが無く、以前には敗北するとは夢にも思っていなかった日本人は大変感謝したのです。

ダニング: 米国における一般的な感覚では、戦後日本は非常に西洋化、アメリカナイズされ、西洋的な食品、服装、生活様式に変わったと思われますが。

バワーズ: それはいつも正しいのです。戦前私がここに滞在していた時ですらそうでした。日本はアジア諸国の中で最も西洋化されていました。日本は、植民地であったインドよりも西洋化されていました。インドは150年間、常に真似るべき英国の主人を持っていたのにです。また、350年間オランダを主人としていたインドネシアよりも。

日本の西洋化は・・・あなたもご存知のように・・・明治維新とともに始まりました。日本は理解していたのです・・・もし1860年の事件が続き、開国させられるならば、日本は植民地になるであろうと。そう、植民地にならないために、日本は白人自身の競技において白人を打ち負かさねばならなかったのです。

そこで彼らは海軍の設立を開始し、また多くの西洋的側面を取り入れたのです。彼らはすべての西洋国家に使節を派遣しました。医療のためにドイツへ、音楽のためにフランスへ、技術的ノウハウのためにアメリカに。中国、フィリピン、インドネシア、インドが不意打ちされて辿って来た道に踏み込まないように。

従って、日本では西洋化は常に図られてきたのです。戦争の遥か前から、あなたは日本でベーコンエッグとトーストの朝食を取ることができました。しかし、日本の西洋化・・・私はこの表現を常に避けてきたのですが、何故ならある意味では日本は西洋かも知れないからです。しかし、この国は西洋化が少しも影響しないほどに深く、日本そのものなのです。

私が言っているのは例えばウェイトレスは『ワンホット』で注文できます・・・これは英語で a cup of coffee  のことです・・・また、バスを『ワンマン』と呼ぶでしょう、つまり one man ですが、これは切符を切る乗員がいないという意味です。あなたは乗車する時に料金を支払うわけです。しかし、私たちが英語として『ベランダ』または『キモノ』という言葉を使う時にアジア的感覚に捉われないのと同様、これらの言葉は日本人には何の影響も与えていないのです。

ダニング: それではあなたは、占領は日本においては分岐点ではなかった、それは発展し続ける上での中間駅に過ぎなかったと、おっしゃられているのでしょうか?

バワーズ: 絶対にそうです。それは、日本の1860年から現在までの堅実な発展過程における単なるセミコロン(;)でしかなかったのです。その日本は、さらに大きな経済的発展、さらに偉大な社会、世界における道徳的な力を目指して常に進んできたのです。占領はそれを急がせることも、妨げることもしなかったと、私は思っています。


【訳注】

 <1>  アーチボルド・マクリーシュ(Archibald MacLeish) :(1892~)米国の詩人・詩劇作家。

 <2>  ディーン・アチソン(Dean Acheson):(1893~1971)米国の法律家・政治家・国務長官(1949~1953)。元モルガンの雇い弁護士。

 

  【付録2】 F.バワーズの非公開インタビュー記録(1977年)

           

ウィロビーは、大和魂に忠実な人々を上から下まで一掃しようとした。また彼は、教育界、政界、政府の全階層、そして意思決定がなされるあらゆる分野でしかるべき地位にあった人々、で独房を満杯にすべく取り計らった。

ここにおいて特に問題であったのは、大和魂にまさに反する人々を日本の中枢機構に配置し、まず彼らをIJCに服従させて行動を束縛したことであった。当然ながら彼らの労働の結実として期待できたのは、米国の複写となった50年後の日本の姿だけであった。また完全な複写とまでは行かなくとも、その独特な島国の人々を彼らに率いられて可能な限り米国の複写に近付けられた日本の姿であった。

国会は粛清され、占領法規の下で明治憲法は廃棄され、新たに

『フィリピン用に作られたメイド・イン・アメリカ憲法

が採用された。この辺のすべての事情に関しては、自著『強要された憲法』の中で大量の証拠類を基に極めて詳細に議論しているので、ここで再度繰り返すことは省かせて頂く。ここでは次の事を言うだけに止めたい。1960年代に私がこの問題に気付いてから、私が話しかけた私心のないすべてのアメリカ人は、下は鉛管工や農夫から上は連邦最高裁長官に至るまで、一様に『日本は何故自分たちの憲法を取り戻そうとしないのか』と言っている。自分たちの憲法とは当然ながら明治憲法のことである。私も全く同感である!

国会の粛清は、派閥まで考えると数え切れないほどの多くの政党を生むことになった。これは引き続いて贈収賄と腐敗の横行を招いた。これらIJCの政治的手先たちには、知っていてIJCに仕えている者と、無知な間抜け者とがいるが、いずれにせよIJCが背後から糸を引き、すべて日本の破壊のために使われているのである。その手先たちの一覧表には戦後の日本の首相の殆どすべてが含まれるであろう。

注目すべき一人の例外は、『マッカーサー憲法』のために長年咎を受けている故幣原喜重郎男爵である。私はここに挿絵的に、彼が死ぬ少し前に書いた偈<1>を添付しておく。この偈は、彼がIJCによっていかに使われていたかということについて、彼の思いを表している。

幣原喜重郎偈】*
*原文通り。最後の行は、「延及四海 四海に延(ひ)き及ぶ」に読めるようであるが…?(燈照隅註)

 

この偈は日本の憲法に関したものであるが、私には、長年の外交官活動が実はIJCの使用人としての活動に他ならなかったという、彼の心底を託したものの如くに見える。これはまた、昭和天皇の下での戦前の日本においてIJCの侵入と深い支配が有ったことを証明している。

このことを言明することは特に警戒されている。そう、これは彼らにとって極秘にしておくべき事項なのであって、誰かがこれについてもっと言明したとしたら、彼および彼の子孫を死の危険に曝すことになったであろう。IJCは、彼らの目的と活動に身を委ねた多くの諜報機関および諜報員の中から誰かを選び、暗殺に従事させるのである。

GHQ占領下での企業経営においては、ある程度『米国企業』と提携しなければ、原料や物資を得ることはできなかった。そしてこれら日本の純真な人々は、その米国の企業や企業人たちが何物で、何を代表しているのか、またそれらは殆ど常にユダヤ人たちがIJCのために所有していたなどということは、殆ど想像もできなかった。無邪気な日本人たちは、そのユダヤ人たちを英国系の真の米国人と考えていたのであった。

私たちはすべての形態の日本のメディアについて既に言及してきたが、今日それらはすべてIJCのために占拠されてしまったか、または人類の心を支配しようという彼らの戦いにおいて殆ど何の影響も及ぼさないほど、深く浸透されてしまった。彼らのその戦いは日本においては、大和魂を持つ世代が年老いて死んでいくことによって今日最終段階に入っている。

1995年の現在、若者たちは、何の窮乏も、飢餓も、そして恐れられたB-29による爆撃の恐怖も知らない。彼らは、若者たちの見る気をそそるような描写しかしないテレビのショー番組で、『良き時代』として映し出されるものしか知らないのである。

そして、若者たちは写真雑誌で見たものの鏡像をまた放映しようとするのである。それはIJCが彼らのために用意した計画だったのであり、娯楽産業が米国および世界に供給してきたのと全く同様に、今日の日本で見事に成功している。

幸運にも日本には『古き世代』がまだ少しは残っており、また小数ではあるが良く教育された若い人たちがいる。おそらく、可能性は大きくないかも知れないが、大和魂の炎を再燃させるには十分な人々がいると思われる。

 

【訳注】

 

 <10>  弊原喜重郎偈:偈とは、経・論などの中に、詩の形で、仏徳を賞賛し教理を述べたもの。幣原喜重郎はこの偈において、「有声の声」には日本国憲法など外国勢力に強要された文書類を、そして「無声の声」には明治憲法教育勅語等を含む地湧の精神を託したと考えられる。

 <11>  旧約聖書 箴言29.12より。

 <12>  弊原道太郎氏:弊原喜重郎元首相の子息。元独協大教授。

 

国際秘密力25

第25章  情報作戦から原子爆弾まで

   『・・・これらの災いで、神の怒りがその極みに達するのである。<6>

 

本章では情報の収集と利用について考察してみよう。情報収集、秘密諜報員、秘密連絡の利用に関する最も古い記録を、私は古代中国の文献『孫子の兵法』の中に見つけた。エジプト人たちも同じくらい早い時期からこれらを完成させていたのは間違いなく、またユダヤの統治者たちもおそらくこれらに没頭していったのであろう。少なくともユダヤ人たちがこれらに通じていたのは確かである。

これらは人類の歴史を通して、戦争の中で常に重要な役割を演じてきた。注目すべき熟達者の例としては、リシュリュー枢機卿<7>第一次世界大戦で英国の諜報機関を指導したホール提督、代表作『黄金虫』の中でその内容を普及させたエドガー・アラン・ポー<8> などがいる。

米国陸海軍の諜報機関は長い間南部諸州出身者の協力を得ていたが、第一次世界大戦において、暗号解読の天才、ウィリアム・フリードマン*が大尉としてフランスに行くまでは依然としてそうであり、またユダヤ人はすべて除外されていた。彼はフランスの暗号について英国情報部と共同で作業を行い、熟達していった。そしてそれ以来、南部諸州生まれの人々にとっては下り坂の、ユダヤ系の人々にとっては上り坂の状勢となった。
*ウィリアム・F・フリードマン(William Frederick Friedman 1891~1969)は、ベッサラビア生まれのユダヤ人。ロシア郵便局で通訳及び言語学者として勤めるブカレスト出身の父と、裕福なワイン商人の娘であった母との間に生まれ、一家は1892年に過酷な反ユダヤ主義のロシアを脱出して米国ピッツバーグに辿り着いた。米陸軍の暗号専門家で、陸軍信号情報局(SIS)を1930年代、その後継局を1950年代に至るまで運営した。1940年には彼の部下がフランク・ローレットに率いられて日本のパープル暗号を解読し、米国の第二次大戦参戦に先駆けて日本の外交機密を開示した。(英語Wikiより燈照隅訳)

ハーバート・ヤードレイ**は1920年代初めのワシントン軍縮会議では確実に、またおそらくロンドン軍縮会議でも、米国国務省のための暗号解読作業を率いていた。艦船建造の全面的制限に関して、彼は日本の『最終見解』をことごとく米国側に暴露し、米国側は少しの懸念もなく日本をそれに追い込むことができた。

**ハーバート・オズボーン・ヤードリー(Herbert Osborne Yardley 1889~1958)は、アメリカ合衆国の暗号学者。インディアナ州ワージング生まれ。その著『ブラック・チェンバー 米国はいかにして外交暗号を盗んだか』(1931年)で知られる。
ヤードリーは陸軍情報部第8課(MI-8)「ブラック・チェンバー」の設立者であり、その長であった。 彼のもとで、ブラック・チェンバーの暗号解読者は日本の外交暗号を解読し、1921年から1922年のワシントン会議アメリカの交渉者を有利な立場に置いた。 のちに中国の国民政府が日本の暗号を解読するのを助け、カナダ政府が暗号部門を設けるのを助けた。

しかし1930年ごろ彼は解雇され、彼の部門は解散となった。そしてその後間もなく、ルーズベルトの下でフリードマンが活動を始めたのであった。その時以来、ユダヤ人たちはこの任務を任されていた。

ヤードレイは1920年代遅くまたは1930年代のごく初めに書いた、『米国の暗号解読部局(The American Black Chamber)』の中で米国の秘密を暴露し、その後日本のための仕事に向かった。しかし日本の軍部は、日本海軍の暗号はすべて明治天皇の下で英国によって始められたこと、そしてある体系に基づいた暗号はその体系を知っている人間によっていとも簡単に破られることを知っていながら、劣悪なる怠慢により自らを防御しなかった。

フリードマンは、日本が使用を開始した新しい暗号機に関する仕事を始めた。それはオランダの機械を基にしたドイツの機械を模倣したもので、1940年までに日本の外交用暗号としていた。その暗号機を解明するのは、フリードマンの天分がすべてではなかった。少なくとも二カ所の日本大使館・領事館への侵入が大きく寄与した。一つはニューヨーク、もう一つは南アメリカと言われている。また、おそらくワシントンの大使館もこの目的で侵入された。

この情報を含む本書の最後の方の章は、数え切れないほどの図書類を参考にしている。私が鮮明に記憶している一人の著者はレディスラス・ファラゴ***で、彼はこの内容について何冊もの大書を著している。私はこの名前がペンネームなのか、それともごく珍しい本名なのかは知らない。

***ラディスラス・ファラーゴ(LadislasFaragóまたはFaragóLászló 1906~1980)は、ハンガリーの軍事歴史家およびジャーナリストであり、特に第二次世界大戦の時代に関して、歴史とスパイ活動に関するベストセラーの本を数多く出版した。

英国は1940年までにドイツの暗号を、そして米国は同年までに日本の暗号を解読していた。1940年6月にフランスが降伏した時、日独伊の枢軸国は情報戦争においては敗戦し、連合国側にとって計画立案は容易になっていたのであった。その連合国側はチャーチルルーズベルトが率いていたのであり、また1941年6月に戦争に引き込まれた時には忍耐を強いられたソ連スターリンによる支援が加わった。

英国の諜報員スティブンソンが1940年6月にルーズベルトに会った時、枢軸国の意図と戦略は筒抜けであった。チャーチルルーズベルトは注意深く計画を立案した。戦場において英国が追い詰められた時、チャーチルは戦艦プリンス・オブ・ウェールズに乗艦してニューファウンドランドのアルゼンチア湾に出かけ、重巡洋艦オーガスタに乗艦したルーズベルトと会見した。

彼らは幕僚らとともに戦略立案を進めたが、その中には米国を参戦させるためにドイツに米国海軍艦艇を攻撃させるということが含まれていた。これは十分に証明された、公知の事実である。そして、米国と同盟して背後からドイツと敵対させるために日本を使って戦争を刺激するということが、この会見の未公表の秘密合意事項中にあったと多くの米国人は、そして私も信じている。

1941年6月にドイツがロシアに侵攻することをスターリンに警告したルーズベルトが次に行ったことは、同年7月遅くの日本への石油輸出禁止と在米日本資産の凍結であった。ハーグ協定および当時存在していたすべての国際法、それらは何世紀にも渡って英国艦艇の大砲により制定・布告されてきたのであったが、それらに鑑れば米国はその時点で日本と戦争状態に入ったと私は主張する。

英国は、日露戦争における日本帝国海軍の旅順港攻撃と同様の奇襲攻撃の可能性をワシントンに警告しており、1935年ごろ米国はそれらの不慮の攻撃に備えた艦艇演習を行っていた。また、ビリー・ミッチェル将軍は1920年代の軍の会議においてこの様な攻撃を警告していた。

これらに加えて諜報機関からも山のような警告の報告があったにも拘らず、J.エドガー・フーバーFBI長官はこれらの情報を軽視し、また重要な地位にいた太平洋海域の米軍高官の中でハワイと真珠湾の指令官たちだけが、紫暗号機(Purple Machine:紫は日本の外務省が使用していた暗号の名称)無しで放置された。

私および大部分の米国人が今日知る限りでは、キンメル提督とショート将軍は、真珠湾での損失の責任を負うように『仕組まれた』のであった。実際、彼らは肝要な航空母艦海上に出しておいて旧式艦艇だけを廃棄したも同然であった。

前著『憲法改悪の強要(Coercion  F-or Constitutional Change)<9>』の中で極めて詳細に述べた様に、それらは意図的に行われたと私は信じている。極めて多数の証拠物件が私の主張を支援している。人々を犠牲にしたことは犯罪である。

ダグラス・マッカッサーはかなり前から警告を受けており、日本への長距離攻撃用爆撃機B-17の使用ができなかったために、第一上陸地としてフィリピンを選んだことは疑いないところである。マッカーサーらはおそらく、日本に最初の攻撃をさせるために日本を刺激し怒らせるという秘密の任務を負ってフィリピンに滞在していたのであろう。

ブレレトン将軍は彼の弁解には関係なく、霧が立ちこめた台湾への攻撃を始めることは許されなかった。その台湾では、日本の航空機隊が霧のために午前10時ごろまでは離陸できないでいた。

また米国の航空機隊はダグラス・マッカッサーの指示により、昼食の間整列状態で陸地に釘付けにされ、そして破壊された。真珠湾攻撃のたった数時間後に、『昼食』のために軍務を一斉に休むなどということは私の理解を超えている。しかし日本の攻撃機が台湾から飛来した時、飛行兵たちは事実、マッカーサーの指令により軍食堂にいたのである。

マッカーサー自身はあっという間に、軍に護衛された専用機バターン号によりマニラ湾口の要塞であるコレヒドール島に退避していた。こうして地下に待機していたことによって彼は彼の軍隊に『慕われ』、そして結果的に『退避壕のダグ(Dugout Doug)』 として永久に知られることになった。

燈照隅註:マッカーサーについては誤解されている部分もあり、拙訳「敗北を拒否した男 ~ダグラス・マッカーサー~ E. マリンズ」には彼の他の面が描かれている。ご興味があれば以下リンクをお読みください。
敗北を拒否した男 ~ダグラス・マッカーサー~ E. マリンズ - 燈照隅のブログ

『共和国の戦いの賛美歌(The Battle Hymn Of The Republic)』 は南北戦争当時に作曲されたものであるが、この歌の無数の替え歌が第二次大戦中の各戦役で歌われた。私が覚えている歌詞が一つある。

『退避壕のダグはぶるぶる震えて岩の上。
奴はずらかるマリタの中へ。
その時部下の兵たちは、敵の弾の中』

コレヒドール島は、軍隊では『岩』の呼び名で知られており、マリタはその島の主要な地下道であった。『弾』はカノン砲からの破裂弾を指している)

マッカーサーが彼の部下とウェーンライト将軍を見捨てたことは当時および戦争中の米国では良く知られており、大部分の軍人たちはマッカーサーの指揮下の地域に配置されないことを望んでいた。その例外は一連のIJCの手下たちであった。彼らは日本の占領があるであろうということ、そして日本において誰が命令するであろうかということを知っており、マッカーサーの指揮下に入ることを望んでいた。

ここに興味深い話がある。第二次世界大戦の1世紀前とまではいかないにしても何十年か前、『アーミー・ジャーナル誌』と呼ばれる定期刊行物があった。この雑誌は、将校たちの異動、死亡、昇進を始め、他の将校や友人にとって興味ある肝要な統計的事項を殆どすべて掲載していた。特に、ここにはすべての氏名の変更が印刷されていた。

今日、殆どのユダヤ人の名前は容易に、かつ確実に判別できる。彼らはツァー時代のロシアから逃避するために、名前をロシア名またはヘブライ名からドイツ名に一度は変更しているからである。発音できないような彼らの名前を笑われて、彼らは美しい物の名前を付けるようになった。

例えばAdler をEagle に、またGelt をGold にというように。『French Stone』を意味するFrankenstein というような名前が付けられ、その家族が米国に着いた時にそれは『Frankstone』に変えられた。また、『Gold』または『Gelt』で終わる名前で、Finegelt を英国風にFinegold としたような例もある。名前の一部分のみが英国風に変えられる例は多い。米国人は父方の姓で先祖を辿ることが多いが、英国風の名前に変えたユダヤ人の場合、その変更を認識しているか、記録を辿れるかでなければそれは難しい。

ここに天がくれた機会があった。駐屯地の変更や赴任指令等の機密を守るため、アーミージャーナル誌の発刊は終戦7年後に再刊されるまで中断されていたのであるが、それが再刊されると、月刊または週刊として毎回4、5冊の膨大な大冊で発行されたのである。それは、内容を解析するだけでも主要プロジェクトが必要なほどの量であった。

これらの大冊に埋もれて、軍に所属中に名前を正式に変更したユダヤ人たちの名前があり、それは彼らの名前の変更情報を容易に入手できる唯一の記録であった。彼らは新しい環境の中で過ごしており、周囲の者にユダヤ人と気づかれないでいた。彼らが日本に赴任して責任ある地位にいた時、日本人たちは彼らがユダヤ人たちであるとは露知らず、米国人であると信じきっていた。

それは米国企業が占拠したビジネスの世界でも全く同様であった。企業の所有者や融資者であった彼らの殆どが純粋なユダヤ人であり、IJCの手先たちであったことは、日本人は誰一人知らなかった。

私はこの情報を、30年組の陸軍士官であった人物から得た。彼は1932年に正規軍に小尉で入隊したが、退役した時はまだ大佐であった。その理由は、国防総省勤務となった彼が、IJCによる軍関係の契約と地位の乗っ取りを全力で防いだからであった。この国防総省に勤務した最後の数年を除けば、彼は軍法務部に全期間所属していた。氏名の変更はすべてこの部局で行われ、マッカーサーの指令下の大西洋海域において、確かに彼らの氏名の変更がなされていたのである。

私が知っていた戦闘部隊の超ベテランによれば、彼らはあらゆる手を尽くして戦闘任務を回避しており、信じられないような勇敢さを示した優秀な例外はあるものの、IJCの人々はまず間違いなく、また一般のユダヤ人たちも大部分は戦闘任務には従事していなかった。

作り話のハリウッド映画では、米軍共同墓地の場面で、十字架の墓石とダビデの星の墓石が6対1位の割合で映し出される。ユダヤ人は殆ど戦闘任務に就いていなかったこと、そして当時のユダヤ人は人口の約3%しかいなかったことは、この様なハリウッド映画がプロパガンダに外ならないことを如実に物語っている。

これらの非戦闘員たち、および特にIJCの指令を受けていた者たちは日本への占領軍の中に食い込めそうな業務に引き付けられていった。私の研究結果では、ヨーロッパではこの様な占領軍になりそうな軍隊へのユダヤ人の異動は起きていなかった。IJCはすでにヨーロッパを所有していたのであり、日本はまだ所有していなかったのである。

ヒュー・P・ロングを議論した時にお話した様に、1941年12月の真珠湾攻撃のごく直近までは、米国は強い孤立主義者であった。しかし真珠湾攻撃は参戦への反対意見を吹き飛ばしてしまい、ルーズベルトは完全に支配力を握った。その様な背景により議会においては、反逆人または反逆行為と呼ばれるのを恐れて、ルーズベルトが提案したいかなる法案にも反対することは恐れられた。

私が子供のころ、議会で一人の勇敢な議員がおり、ルーズベルトの対日宣戦布告に反対していたことをおぼろげながら覚えている。その放送はご丁寧にも日本語で吹き替えられていたので覚えていたのだが、それはその議員が日系人の票を必要としていたからであった。しかしこの忠実な日系米国人たちを砂漠の強制収容所に追い払ってしまうと、彼はすぐに『ジャップ』呼ばわりを始めた。

すべては彼の思惑通りであった。プロパガンダマシンはハリウッドやニューヨークで順調に稼働しており、すべてはルーズベルト万歳を叫んでいた。真珠湾攻撃の知らせを聞いた時にチャーチルが思わず言った言葉

『私は仰向けになって、戦争以来初めての安眠と熟睡を得た』

が、何よりも良くすべてを語っている。その言葉はまた

『私はベッドに行き、救われし者の安堵感と感謝の念を持って眠りについた』

であるともされてきた。

この戦争および両側のすべての軍隊の勇敢さを書くために、何百枚と言わず、山のような大量の紙が各国で消費された。多くの著名な作家たちが詳細に渡って見事に語ってきた物語を改めて記述するのは、私の目的ではない。ゴードン・プランジやリーダーズ・ダイジェスト誌までが、彼らの物語を日本の指導者たちが話すように仕向けた。但し日本の中だけで。彼らの物語について、検閲を経ていない言葉は外の世界には届かなかった。

英雄的な赤軍ヒトラーを押さえ込んだ。これをもってIJCはスターリンを使うことを終了させたと私は考えている。ヤルタ会談ではヨーロッパを獲得しようと背後を『利用』したスターリンではあったが。模範的な勇敢さと大胆さをもって、同様に勇敢で大胆な米国に対抗した日本ではあったが、日本に勝機は無かった。だが大和魂は表面上征服されたように見えたが、深く潜行したのであった。今日、大和魂の復活と最終的な勝利の徴候は存在する。

原始爆弾の開発の物語についても、何度となく語られてきた。1930年代にドイツで行われた核分裂反応と、フランクリン・ルーズベルト原子爆弾の開発を嘆願したアルバート・アインシュタインの手紙は誰しもが知っているところである。

日本人はポツダム宣言を知っており、また受諾された時の宣言文には、交渉後の条件付き降伏であることを明確に示す言葉が含まれていたことを知っている。しかし米国の人々の大部分はそれを知らない。トルーマン大統領が第二次大戦の戦勝記念日に、日本は『無条件降伏』をしたと演説し、メディアはそれだけを高々と吹聴したからである。ポツダム宣言と日本の受諾書を記載したものの中で、大学での政治と歴史に関する科目の専門的教科書よりひどいものを、私は今日まで見たことがない。

米国がこの恐ろしい原子兵器を広島と長崎で使用したことは、世界中の人々が知っている。また、日本は降伏のための最善の努力を継続中で、暗号解読能力を有していたすべての主要連合国はその事実を知っており、その時その場所でこの爆弾を使用する必要は無かったことも世界の人々は知っている。

エドワード・テラー****は原子爆弾の開発に従事し、さらに恐ろしい水素爆弾の発明で栄誉を受けている人物であるが、この本を書いている1995年の春分の日の数日前に彼が認めたように、日本の二つの都市を原爆により破壊し尽くした真の理由は、ロシア人に対する示威、強迫、脅嚇であった。勝利にも拘らず、IJCは人間の尊厳を侮る行動を自制することはできなかった。東京とマニラで彼らが裁くという、これほど恐ろしい戦争犯罪はかって企てられたことは無い。

****エドワード・テラー(Edward Teller、 もとのハンガリー名ではテッレル・エデ(Teller Ede)、 1908年~ 2003)は、ハンガリー生まれでアメリカ合衆国に亡命したユダヤ理論物理学者である。アメリカ合衆国の「水爆の父」として知られる。ローレンス・リバモア国立研究所は彼の提案によって設立された。

 

【訳注】

 

 <6>  新約聖書 ヨハネの黙示録15.1より。

 <7>  リシュリュー:(1585~1642)フランスの枢機卿・政治家。ルイ十三世の宰相で事実上のフランスの支配者。

 <8>  エドガー・アラン・ポー:(1809~1849)米国の詩人、短編小説家、批評家。推理小説の元祖とも言われる。  

  <9>  著書「憲法改悪の強要」:J.L.ウェスト博士他著、佐伯宣親編・訳、嵯峨野書院刊。(1980.11.7)

 

国際秘密力24

第24章  第二次世界大戦到来

             『神に逆らう者の道は闇に閉ざされ・・・<1>

  

1920年代の数年に亘る外国干渉を経て、ロシアは今やソ連と呼ばれるようになったが、この1920年代を締めくくる事件が、ソ連において起こった。レーニンが死に、ジョセフ・スターリンが権力を掌握したのである。スターリンの登場は、IJCにとってはたいへんな驚きであった。私は文書の形で提出すべき何の証拠も持っておらず、また他の人が同じ考えを表明したのを聞いたことも無いが、スターリンは反ユダヤかつ反IJCであったと強く確信している。

私が持っている一つの証拠は、1930年代中ごろにスターリンが、あたかもロシア皇帝(ツァー)の時代のようにユダヤ人たちの虐殺を開始し、IJC要員で軍上層部を汚染していると思われる人物を大量に粛清したことである。

もう一つの証拠は、レーニン統治時代のソ連では西洋のIJC側各団体が利権を求めて徘徊していたのに対し、スターリンが権力を握っている間は彼らは諦めて利権を求めようとはしなかった、という事実である。

最後の証拠はスターリンの毒殺であり、この事件はゴルバチョフエリツィンにまで続く継承権を介して、ロシアをIJCに贈呈する結果となった<2>

スターリンがアーマンド・ハマー*(Armand Hammer) などの人物を介して、IJCと公然とした商売上の連携を保持していたのは本当である。ハマー自身が名声を得たのはオクシデンタル石油会社によってであったが、彼の父はロシア系ユダヤ人で、1900年ごろに米国に社会労働党を創立した人物であった。

*アーマンド・ハマー(Armand Hammer、1898~1990)はアメリカの大富豪で1957年から晩年まで石油会社オクシデンタルを経営し、美術品収集家、社会事業家、親ロシアの財界人である。ドクター・ハマーの愛称で知られた。ニューヨーク州マンハッタンのロシア系ユダヤ人の家に生まれ、父ジュリアス・ハマーは熱烈な共産主義者で、アメリ共産党の元となった社会主義労働党 (SLP) の創設者である。1924年コロンビア大学の医学部を卒業し、医師の資格を持つ事から、以降「ドクター・ハマー」と呼ばれるようになる。

その父は、ハンマー(hammer)を握った腕を党のシンボルマークにした。このマークは、登録商標としてハマーの重曹製品の入った箱にも付けられた。また、彼の息子が生まれた時、息子はアーム・アンド・ハマー(Arm And Hammer)と名付けられた。非IJCの専門家たちは、米国の社会労働党は当時もそして党が存在する限り、レーニン配下のボルシェビキ支部であると考えていたことを付け加えておきたい。

本書の範囲を越えて先に飛んでしまうのだが、私はまた、毛沢東版の共産主義は過去、そして現在でも引き続き反IJCの仕掛けとして使われていると信じている。周恩来がIJCを理解していたかどうかは定かではないが、もし国を清めようとするならすべての外国人を排除する必要があったことを、彼は間違いなく理解していた。そしてそれは実行された。問題は、現在の彼らは入り口の扉のすぐ後に立っており、速やかに歩調を変えて自分たちの前進を抑えないと、IJCに侵入され支配されるのは確実だということである。

メキシコでは1910年に、IJCとその配下の会社をポルフィリオ・ディアス大統領とともに国外退去させる活動が始まり、1930年代までにそれは達成された。1930年代の初めにはラサロ・カルデナス大統領の下で、真のメキシコに向けての最大の進展が図られた。しかしIJCは、1928年のポ-テス・ギル大統領選出の時から少しずつ再侵入を開始していた。そして1946年、ミゲル・アレマンの大統領就任によりすべては完全にIJCの手中に戻ってしまった。

1995年の今日、メキシコでは反IJCグループの復活が見受けられるが、彼ら『反逆人たち』に対する支援・補給は現在殆ど無く、その成果は不確かである。彼らは、モレロス州からの自主独立における英雄であったエミリアーノ・サパタ<3> にちなんでサパタ主義者と名乗っている。サパタは殆ど完全な文盲で、権力取得時には自分の内閣に翻弄されていた。彼らの乏しい財政状態と補給状況は殆ど改善の兆しが見えていないと、私は感じている。政府にとって彼らを鎮圧するのは容易であろうが、確かではない。

1929年は、10月のウォール街株式市場大暴落に端を発して、世界が甚大な影響を被った年であった。それは株の『信用取引』の極端な不振から始まり、その結果として株価の下落が一旦発生すると、株価は下値の底が割れた状態となった。そして米国に続いて世界中が金融大恐慌に突入して行った。私はこの暴落について、IJCが仕組んだものかどうかの考察はしないでおこう。但し、IJCの関係者たちは株価大暴落の前に自株を売り払い、続いて起こった大恐慌でも彼らとしては何の問題も生じなかったことだけは述べておく。

この議論に反対する説明として、抜け目のない投資家なら誰でもその大暴落の到来を見通して防衛上株を売ることはできたはずであり、いやしくもIJCの関係者たちは抜け目がない投資家たちであった、というのはたいへんもっともらしくはあるが。1933年までの米国銀行破産の最中に、彼らが苦境に陥らないようにいかに処置したかはまた別の話である。これについて私はまだ調査していないが、十分研究に値することであろう。

大恐慌、反ユダヤ的人々のベルサイユ条約に対する憎悪、そして全ユダヤ人によるワイマール憲法への署名の結果として、ドイツにおいてヒトラーが権力の座に登場した。彼は国家を武装化し、戦争の準備をした。

ヒトラーが実行したもう一つの事は、ドイツ全土の大学でユダヤ人たち、そして私がIJCと呼んでいるものについて強烈な研究を始めたことであった。このことについて、私はまだ最終的な見解を持てないでいる。第二次世界大戦が終了した時、連合国側の軍隊はこれらの場所を訪れすべての書類を押収した。それらは秘密裏に分類され、そして米国軍隊の監視下でベルリン市内に保管され、学者を始めとして誰も利用できない状態に置かれた。今日東西ドイツは再統合し、占領していたすべての外国の軍隊は退去させられたと考えられている。

ここにおいて、私を悩ましているのは次の問題である。ヒトラー時代のユダヤ研究に関する文書類はどうなったのか? 

1932年の選挙と1933年の大統領就任に伴い、フランクリン・ルーズベルトは米国の大恐慌に対して過酷な治療法を開始した。政府は生活のあらゆる領域に押し入り、その活動や管理はことごとく猛烈なものであった。それは今日に至るまで続くある世情の始まりであった。

今日におけるその世情を象徴するような逸話を紹介しておきたい。1995年の2月、新しく下院議長となった共和党ニュート・ギングリッチは、フランクリン・ルーズベルトに似たタイプの現職の民主党女性議員を指して、『フェティッシュを支配している<4> 』と言ったのである。私も私の友人も、これはサド・マゾ的な異常性愛を意味する言葉として使われたものだと理解した。ギングリッチはこの女性議員を同性愛者であると思っていて、おそらくそのことを彼女に暗示したかったのである。

フランクリン・ルーズベルトは今日描かれているほど人気があったわけでは決してなかった。1936年の選挙の前には、ルイジアナ州出身の上院議員を大統領に選出するための活動が始められていた。その名前はヒュ-・ピアス・ロング。1893年ルイジアナ州ウィンフィールドに生まれ、人民党員として立ち上がってきた。彼は貧民層にとって期待のすべてであった。彼は、同じ州の牢固とした政治家たち、および電力会社、石油会社、保険業界などのIJC関連事業に対抗し、多くの敵を作りながら活動を進めていた。

彼が作った敵の一人はルーズベルトであり、米国人の多くは、州会議事堂で起きたロングの暗殺事件はルーズベルトに責任があると考えていた。この建物は1935年、当時州知事をしていたロングがルイジアナ州バトン・ルージュに建てたものであった。ロングは一人の狙撃者に攻撃されたのだが、彼の身体から出てきた弾丸は彼のボディーガードの一人が所有していたものであった、と多くの情報源は語っている。偶然であろうか? 私はそうは思わない。

ヒュ-・ロングは大統領選挙に勝利する真の好機を作り出し、特に第三党による指名を確実なものとしていた。彼が作り上げたその党は、米国中に散在するクラブ的性格のもので、各々の地方で『我々の富を共有化する団体(Share Our Wealth Society)』の名で呼ばれていた。彼は、米国の99%の富は1%の人々の手中にあることを正しく明言していた。その事は、当時のドイツとイタリアと同様に、国民社会主義への力強い議論を盛り上げていた。

ここで読者には、英国にエドワード八世がいたことを思い出して頂きたい。彼は英国皇太子として、非常に早くから国王としての職務に就いていたことで良く知られている。彼は強い反IJC派であると見なされていたが、彼の退位もまた1936年に起こったのであった。それはチャーチルがある事件に関して国王に忠告した結果であった。その事件は、君主および国教会の教主としては確かに醜聞的なものではあったが、それはIJCの計略に違いなかった。

これを見て私は、後鳥羽上皇および流罪にされた後醍醐天皇の時代の日本を考えざるを得ない。国王も天皇もともにその帝位を奪取されたのだが、日本の場合は両天皇とも醜聞のかけらも無かった。英国と日本では、血筋、規範、道徳心が異なっていた。

読者にはまた、戦争のごく初期にエドワード八世を王位に復活させようという、ドイツの計画があり、彼は1939年遅くまたは1940年に会見と会議のためにスペインに出向きさえしたことを思い出して頂きたい。その様な兆しが見えたため、英国は彼をスペインから追い出した。そして、すでに彼をウィンザー公爵としていた彼らは、彼をバハマ諸島の統治者に任命して追い払った。邪魔にならず、旅行もできないようにして、実質的な自宅監禁状態に置いたのである。

本題から少し脱線してこれらの細かい事件を話している今が、ケネディ大統領の暗殺についてお話する良い機会かも知れない。『銃殺執行部隊』によるケネディ暗殺事件は、おそらくIJCの狡猾な仕業であろうと私は信じている。彼、および彼の父ジョセフ・P・ケネディの多くの反IJC的考え方、発言、行動が原因であろう。1937年から1940年11月まで米国の英国大使を勤めた彼の父は、ルーズベルトチャーチルから、ヒトラー賛成派、または少なくとも親ファシスト派と見られていた。後に暗殺されたボビー・ケネディ**、およびケネディ家の人々もそのように考えていたと信じられている。
**ロバート・ケネディ上院議員のこと

私はさらに、IJCはロックフェラー家と同様に、ケネディ家にある任務を割り付け、今日ケネディ家全員はその任務に就いたと信じている。両家とも生き続けるために服従を強いられたのである。

ある時間帯だけ消去された『ニクソンウォーターゲート・テープ』については、IJCとケネディ暗殺との関係を論議していたことを隠すために、ニクソンと彼の部下がテープを消したということが、長い間噂されている。ニクソンは、このテープを公表して彼自身の殺害に立ち会うより、テープを消去して辞職する方を選んだと私は思う。

この『ニューディール政策』は政府による仕事を与えることにより、大恐慌の最悪の被害を緩和することにはなったが、それはヒトラーがヨーロッパに戦争を起こすまでは続かなかった。米国の大恐慌を終息させ始めたのは、実はこの戦争であった。兵器関係の注文が続々と流れ込んできたからである。

英国海軍大臣に再び就任したチャーチルが、戦争事態に供えて艦隊を注文した後で実質最初に行ったことは、ウィリアム・スティブンソン<5> という一人の諜報員をニューヨークに送り込むことであった。チャーチルが英国で指導力を発揮し、またスティブンソンが活動していた時、米国は圧倒的な孤立主義者で、『ヨーロッパの紛糾に関与せず』を願っていたことを、チャーチルは知っていた。建国の父たちの時代より、米国の歴史の中ではこの言葉が何度となく使われてきたのである。

英国のための諜報機関の長としてスティブンソンの重要な任務は、米国を参戦させることであった。スティブンソンと、CIAの前身を指導していたドノバンとの関係は良く知られているが、1940年6月の早い時期に彼がルーズベルトと会っていたことはそれほど知られていない。

以下は私の論点である。

(1)スティブンソンの働きにより、チャーチルルーズベルト第一次世界大戦の時と同様、英国海軍省の秘密電信を利用した直接的な文書連絡を始めた。

(2)元海軍軍人であったルーズベルトが1945年に死ぬまでの全通信文書に記載されたチャーチルの署名は、これまで公開されたものも、今だに秘匿されているものも、確実で直接的な証明書である。それらは、彼らがルシタニア号に関する共謀を首尾良く成し遂げている時代に遡って証明している。

(3)第一次世界大戦においても、チャーチルルーズベルトの協同作業によって、米国は戦争に引きずり込まれた。

(4)かなり以前からであったと私は思っているが、遅くとも1940年6月までにチャーチルルーズベルトは、人間性の法則に反するある手段によって米国を第二次世界大戦に参入させることを計画し、実践した。それはIJCのためであり、またヒトラーに敵対して行われたものであった。IJCに関する知識を持っていたヒトラーは、IJCに関する文献類を徹底して収集したが、このヒトラーこそIJCにとって、約二千年前にユダヤ人たちがローマ人たちの奴隷とされて以来初めての真の脅威であった!。

 

【訳注】

 <1>  旧約聖書 箴言1.19より。

 <2>  スターリンユダヤ
(1)1930年代に入って、スターリンユダヤの関係は風雲急を告げて行った模様である。1932年にスターリンの愛妻、ナジェージュダ・アリルエワが謎の死を遂げ、スターリンはその後カガノビッチ(ユダヤ人)の妹を後妻にした。これはユダヤが仕掛けたものであろうと推測されている。
 また、1934年にスターリンは、「腐敗したコスモポリタンに対する闘争」を宣言。コスモポリタンとは、ユダヤフリーメーソンボルシェビキシオニストユダヤ等を指すと考えられる。
そして同年11月には、スターリンの懐刀で排ユダヤ運動の指導者をしていたキーロフ・レニングラード総督が暗殺された。

(2)1952年1月12日、ハンガリーのブタペストでユダヤの緊急ヨーロッパ・ラビ評議会が開催され、エマニュエル・ラビノヴィッチが重大な演説をした。
その骨子は次の様なものであった。
  ・ユダヤの世界征服計画の全面勝利の日は近い。
  ・5年以内にユダヤ第三次世界大戦を開始。
  ・10年以内にすべてのユダヤ人は王に、そしてすべての非ユダヤ人は奴隷となる。
この演説の秘密記録はスターリンの手元に渡り、激怒したスターリンは直ちにソ連国内でのユダヤの謀略を弾圧する指令を発した。このスターリンの処置により、ユダヤ側の計画は大幅修正を余儀なくされ、特に武力による第三次世界大戦の計画は、「沈黙の兵器(コンピュータ等)による静かなる戦争(Quiet Wars by Silent Weapons)に変更されたという。
  そして1年後の1953年3月、スターリンは何者かに暗殺された。
                                        (『ユダヤの日本占領計画(荒地出版社)1994』他)

  <3>  エミリアーノ・サパタ:(1877(?)~1919) メキシコ革命における農民軍指揮者。モレロス州の小農出身。1911年、ディアス体制打倒を唱えるフランシスコ・マデロの呼びかけに応じて、インディオ農民を率いて蜂起した。ディアスはパリに亡命し、1919年11月マデロが大統領に就任するが、サパタはマデロ政権にも満足せず、徹底した土地改革と共有地(エヒード)復活を要求した。1919年4月カランサ政権により暗殺される。

 <4>  フェティッシュ(Fetish):フェティシスト(拝物性愛者、淫物性愛者)の性欲の対象物。
盲目的崇拝物。呪物。病的執着。

 <5>  サー・ウィリアム・スティーブンソン:英国軍事情報部第6課(MI6)の高級幹部。三百人委員会のメンバー。英国情報部が常駐しているニューヨークのRCAビルを本拠地として暗躍した。
モサドの設立にも深く関与し、1951年に三つの部隊を統合して現在のモサドとし、イスラエルと英国外務省政治部の実行部隊に仕立て上げた。ケネディ暗殺の陰の指揮者とも言われている。      (『三百人委員会徳間書店)1994』)

 

国際秘密力23

第23章  教育

      『・・・あなたは唇に慎みを守り知識を保つことができる。<13>

 

私には早い時代の東洋の教育方式についての知見が無く、読者はそれを知っておられると思うので、話を西洋の教育方式に限定することにしよう。

古代のペルシャギリシャでは、教育はその道の権威者(masters) またはマエストロ(巨匠)によって為されていた。今日でもスペインでは教師たちをマエストロと呼んでいる。そして各教師たちは非公式の講座を持ち、生徒たちはその講座に集まるのであった。学問を普及させるための公的な協会や学級などは無かった。どこまで到達できるかは各自次第であり、また各自は自分が学びたい方向に片寄っていた。いくつかの美しい例は、ギリシャヘロドトス<14>や、何世紀も後のローマにおける大プリニウス、小プリニウス<15> などが著わした歴史物語を通して私たちに残されている。

当時西洋社会では、ユダヤのラビ養成学校を除けば公的教育と呼ばれるものは殆ど知られていなかったが、アラブ人たちが権力を得た時、彼らは芸術に関する様々な学習科目を定め、ある程度公式化した。それは、南北戦争前の古き時代の米国南部の状況に良く似ていた。当時の農園経営者たちは、ギリシャやローマでの教育に関する彼らの古典的な知識を引き出して子供たちを教育していた。それは良質で周到な学習システムを復活させ磨き上げたもので、高度に完成されていた。

全般的な知識に関する、そして宗教に強く関係していない大学は、13世紀にパリで始めて設立された。同じころ、ユダヤ人たちが英国のオックスフォードの町に大挙して押し寄せて来きていた。そしてかって彼らが所有していた土地は、またもやいくつかの奇妙な符合により、今日オックスフォード大学の敷地の多くを占めるに至っている。英国の貴族たちは子供たちを学ばせるためにその大学に送り、子供たちはそこで訓練を施された。

後にオックスフォード大学となった学校がその設立当初において、表面的にかつ一部分であろうとも、ユダヤ人により所有、統治、または支配されていたなどと言明することは、今日全く非常識なことになっている。私たちが知っているオックスフォード大学では、関係するいかなる地位もユダヤ人には占められておらず、また彼らがその地位を占めていたのは何世紀も前だからである。

彼らが遂行してきたのは、自分たちの歴史を旧約聖書に、またキリスト教に関する自分たちの経験を新約聖書に、各々書き留めるという実習訓練であった。それは彼らの歴史の中で何世紀にも亘って繰り返し実行されてきたことであり、その活動の事実は闇の中に隠されてきた。彼らはそれら改竄された聖書が、彼ら自身の利益のためにいかに使われ得るかということを、良く知っていた。

この事は、ジョン国王のマグナ・カルタ(大憲章)制定の時期と、まだ若かった彼の継承者の一人で、ユダヤ人の金貸しに大きな負債があった人物の下で、オックスフォードに王立大学が創立された時期とが符合していることから私が推定した結果である。この事に関して、私は他の情報源を持っていない。

ユダヤ人のこの面での活動について、私自身はかなりの個人的経験を持つが、ここは伝記を書く場ではないので詳細は省かせて頂く。この件に関する私の意見は、後に起こった事件によって強固なものになっている。

神学生を養成するためにボストン近郊に設立された新世界ハーバード大学(the New World Harvard College)においても、教育のシステムは殆ど変更されなかった。その設立年は1636年である。この大学は、人々の要求と植民者たちに奉仕する必要性により、他の分野にも直ちに拡張され、過去も今日も米国における最高の名門校であり続けている。この大学は厳格な男子校であり、反ユダヤ的であった。

この両方の性格は、1890年代にラドクリフ大学が女子のために設立されるまでは保持された。そして前の章で記載した様に、1890年代遅く、J.P.モルガンは警告を発した。ここにおけるユダヤ人の侵入は素早く、モルガンにはそれが確信できたのであった。そしてそのことはモルガンを最も愛されない男の一人にしてしまうことになった。

今日これらの学校は、米国における殆どすべての総合大学および単科大学と同様、そして短期大学のレベルに至るまで、ユダヤ人たちが支配または管理している。そのやり方は、世界におけるメディアシステムの支配の場合と酷似している。

この点に関する証拠の一つは本書の初めの方で示されている。読者は、マホメットの死後しばらくして起きたイスラム教の分派に関する説明の処で、私が『カリフ』について言及したのを覚えておられると思う。私はこの情報をこの数年に亘って、オックスフォードとケンブリッジの両大学の学者たちが著述し、まさに決定版であると評価されている『決定的研究』全巻から得た。

19世紀の後半、これらの学者たちの幹部グループは読者がおそらく名前を知っているどの目的地に行こうとも、いつも英国から船出をして行った。彼らは情報を収集して発表するために各地に送られたのである。この様なプロジェクトを人間の好奇心だけのために設立する必要性は、今の私には全くと言って良いほど感じられない。私はこの事をIJCの偵察活動の証拠と捉えている。

このプロジェクトに含まれていた人々は自分たちが行っていた事の真の目的を全く知らなかった、と私は強く確信している。また彼らは、誰が彼らの事実上の主人であるかについても、何も知らなかったと私は信じている。極めて多数の博学なる教授たちが全世界の各大学に分散している今日でも似たようなもので、彼らは相変わらず同じ主人のために、研究と教育の両面において昔と同様の仕事をしている。そして今日の彼らもまた、彼らの真の主人と彼らの真の存在価値については、何も知らないのである。

万が一その事に気づいた場合、彼らはそれを隠し通す必要がある。何故なら、本書の様に率直にまた無遠慮に自らの意見を表明したとすれば、彼らは、彼らが所属する共同体から、学術的にも社会的にも直ちに放逐されるであろうからである。

低学年の教育に話を移そう。世界における低学年教育に関しては、私は高等教育に比べるとより少ない知見しか持っていない。私は、米国の先駆的な団体が、国中の風景を小学1年から8年用の赤い(そのペンキは安物であるが、持ちが良い)校舎で点々と染めながら、自由教育をじわじわと発展させていることを知っている。

西部開拓地では、教科書はマガフィー読本<16> であり、また書取用紙としてはチョーク付きのスレート板が当てがわれていた。マガフィー読本には各学年に応じたものがあり、それの『三R』、すなわち『読み・書き・算術(Readin',Rritin',and 'Rithmatic)』は非常に高度で複雑な題材までを段階的に含んでいた。そこでの教育によって子供たちが到達したレベルは非常に高く、8学年においては、現在の大学2年生レベルよりも進んでいた。

しかしそれは、ジョン・デューイ方式に占拠されるまでであった<17>。 20世紀に入り、デューイが米国の子供たちの所に、そして特に教師を指導する者たちの所にやって来ると、米国の学習レベルは低下し、無教育な者が増加していった。

私は1947年、テキサス州オースチンテキサス大学2学年の時に、教師免許取得の目的もあって教育過程の初級クラスを選択した時のことを決して忘れないであろう。その科目は1922年ごろから学部長を勤めていた人物が教えていたが、彼は最初の授業の時、上着もネクタイも付けないスポーツシャツ姿で15分遅れて入って来た。

(私は教科書の第1章をすでに読み、また指定された問題集の最初も済ませており、1時間授業を受けるために完璧な準備をしていた)

彼は机にもたれかかり無頓着に腕を組んで、話し始めた。

『この科目で君たちが学ぶべきことは一つだけしかない。
君たちは、教えるべき教科内容については何も知る必要はない。
君たちが知る必要があるのは如何に教えるかだ。
君たちはそれを君たちの教育科目の中で学んでいくことになる』

そして彼は、クラスの学生たちに教科書の第1章を読んで問題集の1頁を練習するように告げると、『解散』と言ったのである。私はできるだけ早く気を取り直して立ち上がると、急いで大学の学科登録事務所に行き、この科目の登録を削除して、その年の選択科目として人類学を追加登録した。

私が今まで聞いてきた中で、彼のこの一件ほどデューイ方式を良く表しているものは無かった。デューイ方式が米国の教育現場に、そしてまたGHQにより日本にも持ち込まれて何を為したかを考える時、私は座して涙せざるを得ない。

マガフィー読本の下での米国の教育制度や、コモドール・ペリーが来日するまでは独自に存在していた、その者の程度に合わせて個々に教えるという日本の教育制度は素晴らしいものであった。どの様な刑罰を持ってしても、これらの素晴らしい制度を破壊した犯罪者たちを適切に罰することはできない。

公立、私立を問わず、幼稚園から大学までの完全なる日本の教育体系の優秀さを考察すると、私は、この体系がIJCおよびその手下であったGHQのためのものに他ならないであろうことに気づく。私を本当に悲痛な気持ちにさせるのはこの事である。

 

【訳注】

  <13>  旧約聖書 箴言5.2より。  

  <14>  ヘロドトス:(BC484(?)~BC425(?))小アジアのハリカルナッソス生まれのギリシャの歴史家。「歴史の父」と呼ばれている。物語風の歴史である「ヒストリアイ」を著した。

  <15>  大プリニウス:(23~79)ローマの将軍、政治家、著述家、百科辞典編集者。大著「博物誌」を著した。プリニウス:(62(?)~113)ローマの政治家、著述家。大プリニウスの甥かつ養子。「書簡集」を著した。

 <16>  マガフィ(William Holmes McGuffey) :(1800~1873)米国の教育家。小学校の教科書マガフィー読本(McGuffey's Readers)の編著者として、19世紀初期の初等教育に大きな影響を与えた。

 <17>  ジョン・デューイ(John Dewey):(1859~1952) 米国の哲学者・教育学者。プラグマチズム(実利主義)の継承・大成者。